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ロストテクノロジーは誰のためにあるのか  作者: 維岡 真
第1章 ”零を探せ” 第1節 白塔

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外の夜

零。


その二文字だけが、綾崎志乃の頭の中に重く沈んでいた。


意味はわからない。


人の名前なのか、何かの符号なのか、それともこの街では誰もが知っているはずの言葉なのか。男の声音からは、そのどれも読み取れなかった。ただ、それが説明ではなく命令として渡されたのだということだけが、嫌になるほどはっきりしていた。


「……零?」


掠れた声で訊き返す。


だが男はそれ以上、何も答えなかった。


寝台の女へ視線を戻し、志乃の存在そのものを半ば意識の外へ追いやってしまったような静けさを纏う。


その背中が、これ以上の問答を完全に拒んでいた。


「待って」


志乃は反射的に一歩だけ踏み出した。


喉の奥に残る冷たい異物感が、すぐに脈打つ。


胸の裏側へ巻きついた見えない輪が、言葉を選べと警告してくるようだった。


「あたし、そんなの言われても」


そこで言葉が止まる。


どうしたらいいのかわからない。


逃げたい。


ここから一刻も早く離れたい。


なのに、寝台の女の弱い気配が、まだ自分へ細く伸びているのを感じてしまう。放っていけばいいと割り切れない程度には、その呼びかけは生々しかった。


男はようやく、わずかにだけ顔をこちらへ向けた。


「行け」


短く、それだけ言った。


命令口調だった。


だがさっきまでの冷たい圧とは違い、今度のそれは“ここに残るな”という切迫に近かった。


志乃は唇を引き結ぶ。


言い返したい気持ちはあった。


けれど、この部屋の中では、もう自分に選べることなど残っていないのだとも理解していた。


男の意識は完全に寝台の女へ戻っている。


それは、今なら逃げられるという意味でもあった。


志乃は後ずさる。


視線だけは男から外せないまま、一歩、また一歩と入口へ近づく。厚い扉の前まで戻ったところで、ようやく背中で冷たい金属の感触を確かめ、細く息を吐いた。


そのとき、寝台のほうから、ほんのかすかにあの声が触れた。


「……さがして」


志乃ははっと顔を上げる。


だが女の身体は動いていない。


閉じた瞼も、青白い唇も、何ひとつ変わらないままだ。


男だけが、その一瞬に何かを感じ取ったように肩をわずかに強張らせた。


次の瞬間には、志乃はもう扉の外へ出ていた。


厚い扉を押し戻し、暗い通路へ転がるように逃れる。


背後で重い金属音がして、部屋は再び閉ざされた。


それだけで、膝が折れそうになる。


だが立ち止まってはいられなかった。


あの男が追ってくる気配はない。


それでも、この塔の中にいる限り、まだ安全ではない気がした。足元がふらつくのも構わず、志乃は来た道を半ば駆けるように戻り始める。


下りの通路を逆に上がる。


狭い階段を一段飛ばしで駆け上がる。


呼吸は乱れ、喉は痛み、胸の裏では見えない棘が動くたびに軋んだ。それでも、外へ出たいという一心だけで身体は動いた。


途中、何度か壁へ手をついた。


照明の明滅が視界を揺らすたびに、白い通路の輪郭がぼやける。霊気力に似たざらつきはまだ建物全体に残っていたが、さっきまでよりも遠く、薄くなっている気がした。


あるいは、志乃自身の感覚が恐怖で鈍っているだけかもしれない。


分岐を曲がる。


古い機材の並ぶ区画を抜ける。


最初に入ってきた通路へ戻ったとき、ようやく前方に白い扉の輪郭が見えた。


閉じている。


やはり継ぎ目も見えない。


けれど近づいた瞬間、志乃の存在に反応したみたいに、扉は音もなく内側から開いた。


外の空気が流れ込んでくる。


夜だった。


白塔の足元へ踏み出した志乃は、その場でしばらく動けなかった。


たった今まで、あの異様な通路と部屋の中にいたはずなのに、外の東都は何事もなかったみたいにいつもの夜を始めている。歩道脇の照明は規則正しく灯り、少し離れた通りでは自動車両が静かに通り過ぎていく。遠くでは誰かの笑い声まで聞こえた。


世界は変わっていない。


変わってしまったのは、自分だけだ。


その感覚が、ひどく気持ち悪かった。


志乃はゆっくりと振り返る。


白塔はただそこに立っている。


外から見れば、さっきと何も変わらない白いランドマークだ。あの中に古い施設があり、眠ったままの女がいて、異様な男がいて、自分の喉へ呪いを刻んだなどと、誰も想像しないだろう。


端末が震えた。


画面を見ると、アリサからの着信だった。


その下にはメッセージも増えている。


『遅れるって何』


『もう帰ってる?』


『返事しなさい』


いつもの調子の短文なのに、今の志乃にはそれが妙に遠く、眩しく見えた。


電話はまだ鳴っている。


出るべきか、一瞬迷う。


けれど無視すれば、もっと心配をかけるだろう。


志乃は震える指で通話を取った。


「もしもし?」


すぐにアリサの声が飛び込んできた。


「やっと出た」


その声を聞いた瞬間、志乃の胸の奥で何かがほどけそうになった。


知っている声だ。


いつもの日常に属する、ちゃんとした温度のある声だ。


「どこいるの?」


アリサは怒っているというより、明らかに心配していた。


「もう暗いんだけど。まさかまだ寄り道してる?」


志乃は口を開く。


大丈夫だと言えばいい。


もう帰ると言えばいい。


そう思ったのに、喉のすぐ手前まで別の言葉がせり上がってきた。


言わなければ。


白塔で起きたことを。


あの女のことを。


このまま黙っていたら、本当に誰にも届かなくなる気がした。


「アリサ、あたし」


そこで息が詰まる。


胸の奥の冷たい輪が、ぴたりと締まった。


「白塔で――」


言いかけた瞬間だった。


喉の内側を、見えない手で一気に握り潰されたような激痛が走る。


「っ、ぁ……!」


声にならない。


肺がうまく開かない。


心臓のまわりへ打ち込まれた細い棘が、一斉に食い込んでくる。膝が抜け、志乃はその場にしゃがみ込んだ。端末を落としかけ、どうにか片手で支える。


「志乃?」


通話の向こうで、アリサの声が急に鋭くなる。


「ちょっと、どうしたの」


返事をしようとしても、息しか出ない。


白塔、という単語を口にしただけでこれだ。


男の言葉は本当だった。


脅しではない。


話した瞬間に、身体の内側から殺しにくる。


志乃は喉を押さえ、必死に呼吸を整えた。


数秒。


あるいはもっと長かったのかもしれない。


ようやく痛みが少し引いたところで、志乃は震える唇を動かす。


「……ごめん」


それだけ言うので精一杯だった。


「あとで、連絡する」


白塔のことを言わなければ、痛みはそれ以上強まらない。


逆に言えば、そこへ触れた瞬間に終わる。


アリサはまだ何か言おうとしていた。


「待って、本当に大丈夫なの」


その問いに、志乃はすぐには答えられなかった。


大丈夫なわけがない。


けれど本当のことは、もう言えない。


「……平気」


嘘をつくときの声は、自分でも嫌になるほど弱かった。


「ほんとに、あとで」


それだけ言って通話を切る。


切った直後、志乃は端末を握ったまま、夜の歩道へうずくまった。


喉はまだ焼けるように痛み、胸の奥には冷たい楔が残っている。誰かに助けを求めることも、起きたことを説明することもできない。試した瞬間に、あの男の呪いが身体を内側から締め上げる。


白塔を見上げる。


塔はやはり何も知らない顔で、静かに夜空へ立っていた。


志乃はそこで初めて、本当に理解した。


自分はもう、誰にも話せないのだと。

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