月砂の隠れ拠点
第三区の外れにあるその建物は、表から見る限り、ただの使われなくなった雑居ビルにしか見えなかった。
看板は外され、窓のいくつかは内側から板で塞がれている。
夜の気配が濃くなる中で、その建物だけが妙に音を吸っているようだった。
池面真一郎はスポーツカーを少し離れた場所へ停めると、片手を上げて建物の方を示した。
「たぶんここ。月砂の連中が一時的に使ってる拠点だ」
その言い方は相変わらず軽かった。
だが、ここまで来ると、その軽さ自体が逆に不気味だった。
冷花は建物を見上げたまま言う。
「確認だけ。少しでも妙なら即撤退」
「分かってる」
と、志乃が答える。
コウも黙って頷いた。
ヤスはバットを肩に担いだまま、「了解っす」といつもの調子で笑う。
朝葉陸だけは建物の暗い窓を見つめたまま、小さく目を細めていた。
中へ入ると、空気はひどく淀んでいた。
埃っぽい。
古いコンクリートと湿気の匂いが混じっている。
廊下の蛍光灯はところどころ死んでいて、点いているものも弱々しく明滅していた。
足音だけが、妙に遠くまで響く。
人気はないようだった。
少なくとも、表面上は。
物音も。
話し声も。
気配らしい気配もない。
それがかえって不自然だった。
「静かすぎるね」
と、志乃が小声で言う。
「使ってるなら、もう少し生活の痕があるはずだ」
冷花は壁際へ視線を走らせながら答えた。
「誰かがいた場所というより、待ってる場所に近い」
池面は少し先を歩きながら、肩越しに振り返った。
「月砂っていうより、舞台装置っぽいよな」
「自分で連れてきといて言う?」
と、志乃が刺す。
「こわいなあ。いやでも、そう見えるって話」
池面は軽く手を振った。
その背中を見ていると、本当にこいつが案内役なのか、それとも最初からこちらを運ぶための誘導役だったのか、ますます分からなくなる。
二階へ上がる階段の手前で、冷花が全員を止めた。
札を一枚抜き、床へ滑らせる。
淡い術光が、薄暗い廊下を一瞬だけなぞった。
だが、反応は曖昧だった。
何かがいる。
けれど散っている。
しかもわざと痕跡を薄くしたような、嫌な残り方だった。
「……いる」
冷花が低く言う。
「でも近いのか遠いのか、分かりにくい」
朝葉がそれを見て、静かに口を開いた。
「誘導されてますね」
「たぶん」
と、コウが短く返す。
その瞬間だった。
先頭を歩いていたはずの池面の姿が、ふっと消えた。
「……え?」
志乃の声が止まる。
つい数歩先にいたはずだった。
暗がりに紛れたとか、曲がり角へ入ったとか、そういう距離ではない。
目を離した一瞬で、そこだけきれいに空白になっていた。
「池面!」
と、冷花が呼ぶ。
返事はない。
「やっぱり……!」
志乃が息を呑む。
罠だ。
そう思った瞬間、廊下の奥と、横の部屋の扉と、階段上から、同時に気配が噴き出した。
霊気力者。
数は五、いや六。
黒っぽい装いに身を包んだ連中が、最初からそこにいたみたいに現れる。
隠れていたというより、待ち伏せていた。
いや、それだけではない。
こちらが池面の消失へ意識を向けた、その隙だけを狙って出てきた。
「散って!」
冷花の声と同時に、札が飛ぶ。
術光が廊下を裂き、最前列の一人の足元を弾いた。
だが相手も早い。
正面からは来ない。
左右へ散って、こちらの隊列を崩しにくる。
コウは一歩前へ出た。
向かってきた男の拳をかわし、肘で脇腹へ叩き込む。
鈍い手応え。
普通の喧嘩慣れではない。
霊気の流し方まで訓練されている。
ヤスが横からバットを振り抜いた。
「危ないっすよ!」
その一撃が相手の肩を掠め、壁際へ叩き飛ばす。
志乃も後退しながら術式を組み、足止めの霊符を投げた。
朝葉は戦い慣れていないように見えたが、動き自体は無駄がなかった。
真正面からぶつからず、位置取りで相手の進路をずらす。
それが逆に不気味だった。
だが、敵の狙いは最初からこちらを倒すことではないらしかった。
切る。
分ける。
離す。
その意図があまりにもはっきりしていた。
階段上から術式が降る。
廊下の床が一瞬だけ光り、壁際の仕切りが弾けた。
粉塵が舞う。
視界が切れる。
次の瞬間には、互いの位置がずれていた。
「志乃!」
コウが叫ぶ。
返事は聞こえた。
だが遠い。
すぐ横ではない。
冷花が何かを叫んでいる。
ヤスのバットが何かを打つ音もする。
その全部が、粉塵と薄暗さの向こうへ散っていく。
コウは咄嗟に前へ出た。
粉の中を抜ける。
狭い通路。
半分崩れた壁。
そして、気づいた時には周囲の音が一段静かになっていた。
さっきまでの乱戦の気配が遠い。
すぐ近くにいるのは、一人だけだった。
「……ヤス」
薄暗い廊下の先で、ヤスが立っていた。
バットを肩に乗せたまま、こちらを見ている。
その顔には、さっきまでの緊張も焦りもない。
いや。
もっと正確に言えば、最初からそこにあった何かが、ようやく隠されなくなった顔だった。
「他は」
と、コウが低く訊く。
「さあ」
ヤスは肩をすくめた。
「上手く散ったんじゃないですか」
その言い方に、コウの中で何かが確信へ変わる。
ざらつき。
違和感。
研究所で何度も感じてきた、あの読めなさ。
それが今、ようやく輪郭を持った。
次の瞬間だった。
ヤスの姿が沈むように低くなった。
踏み込み。
迷いのない急襲。
バットの先端が、コウの側頭部を正確に狙って跳ね上がる。
コウは反射で身を引いた。
風圧が頬を裂くように掠める。
遅れて冷や汗が噴いた。
今のは牽制じゃない。
最初から、殺すか、動けなくするための一撃だった。
「……っ」
後ろへ飛び退いたコウを見て、ヤスは笑った。
いつもの人懐っこい笑顔じゃない。
もっと乾いていて。
ずっと奥に仕込んでいた本性が、ようやく空気へ触れたみたいな笑い方だった。
「避けるか」 と、ヤスが言う。
「やっぱ白神の見立て、当たってたんだな」
コウは息を整えながら、ヤスを睨んだ。
バットを持つ手。
重心。
目線。
全部が変わっている。
気安い好青年の皮は、もういらないと言わんばかりだった。
「もらうぜその能力」
ヤスはそう言って、バットを両手で構え直した。
その姿は妙にしっくりきていた。
研究所で見せていた雑さではない。
人を殴ることにも、間合いを詰めることにも、ためらいがない構えだった。
コウは一歩引き、低く身構える。
胸の奥では、恐怖と、ひどく冷えた納得が同時に走っていた。
やっとだ。
ずっと掴めなかったものが、いま目の前で形を持った。
「やっと素顔を見せやがったな」
コウの声は低かった。
だが、口元にはわずかに笑みが浮かんでいた。
冷や汗は流れている。
心臓も速い。
それでも、その笑みだけははっきりしていた。
ヤスが黒だと、ようやく分かった。
ヤスはその表情を見て、少しだけ目を細めた。
「そういう顔、できるんだな」
「普段もっと死んでるかと思ってた」
「お前に言われたくない」
短く返したその瞬間、ヤスが再び床を蹴る。
今度は横薙ぎ。
コウは身を沈めてかわし、そのまま懐へ入ろうとする。
だがヤスはそこで無理に振り切らず、途中で軌道を変えた。
慣れている。
本当に、戦い慣れている。
打ち合いの火花が、薄暗い通路の中へ散る。
遠くではまだ、志乃たちの戦う音がしていた。
だが今のコウには、それがひどく遠い世界のことみたいに思えた。
月砂の隠れ拠点。
池面の消失。
待ち伏せ。
分断。
全部がこの瞬間へ繋がっていたのだとしたら。
この場所は、教授を攫うためだけの舞台じゃない。
コウとヤスを切り離すための舞台でもあったのかもしれない。
ヤスのバットが、再び鋭く唸る。
コウはそれを見据えながら、胸の奥で静かに理解していた。




