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ロストテクノロジーは誰のためにあるのか  作者: 維岡 真
第2章 絵札戦 第3節 魔獣箱

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急報

朝葉陸が白神研究所へ現れてから、数日ほどは奇妙な静けさが続いていた。

黒い霧は消えていない。

第三区の緊張も解けていない。

ヤスへの違和感も、朝葉の不透明さも、そのまま研究所の中へ残っていた。

それでも、どれも決定的な一手にはならず、不穏だけが薄く日常へ張りついていた。

研究所の中では、そうした不安と折り合いをつけるみたいに時間が流れていた。

志乃は記録整理を手伝い、冷花は観測波形と術式の照合を進め、コウは断片的なざらつきを拾い続けていた。

ヤスは相変わらず自然に雑務をこなし、朝葉はときおり研究所へ顔を出しては、白神教授の話を静かに聞いていた。

落ち着いた日々と言えば、たしかにそうだった。

だがそれは平穏ではない。

嵐の前にだけある、不自然な静けさだった。


その日の夕方も、最初はそんな一日になるはずだった。

白神教授は昼過ぎから外へ出ていた。

古い知り合いに会うと言っていたが、詳しい行き先までは明かしていない。

冷花はそれを気にしていない顔をしていたが、教授が帰りの時間をぼかしたことだけは覚えていた。


研究所の空気が少し緩み始めた頃だった。

外から、場違いなくらい派手なエンジン音が響いてきた。

志乃が顔を上げる。

冷花も端末から目を離した。

コウが窓の外を見る。

研究所の前に停まったのは、明らかにこの場所には似合わない低いスポーツカーだった。

やたら目立つくせに、妙に手入れだけは行き届いている。


「うわ」

と、志乃が小さく言う。

「嫌な予感しかしない」


ヤスが窓の方を見ながら、少しだけ笑う。

「研究所の客じゃないっすね、あれは」


朝葉は無言のまま外を見ていた。

次の瞬間、インターホンが鳴った。


冷花が立ち上がる。

「私が出る」


志乃もその後ろへついていく。

モニターに映ったのは、三十代後半くらいの男だった。

髪型も服装もいちいち気取っている。

ジャケットの着こなしも、立ち方も、妙に様になっていた。

だが決まりすぎていて、逆に軽薄だった。

いかにも女慣れしていそうな、チャラい男だった。


「はい」

と、冷花が低く言う。


男は画面越しに、妙に馴れ馴れしい笑みを浮かべた。

「こんばんは、お嬢さん方。いや、こんな入り方で印象最悪なのは分かってるんだけどさ」

「ちょっと急ぎだ」

「白神教授が月砂に攫われた」


その一言で、空気が一気に冷えた。

志乃の肩が強張る。

冷花の目が細くなる。

だが男の方は、深刻さに反して妙に落ち着いていた。

落ち着いているというより、場慣れしている。

緊急事態を告げているのに、どこか軽さを崩さない。


「名前は?」

と、冷花が問う。


男は軽く肩をすくめた。

「池面真一郎。名前負けしてるとか言わないでくれよ」

「白神とは昔からの知り合いだ」

「できれば中で話したい」

「立ち話で済ませるには、ちょっと洒落にならない」


志乃は思わず眉をひそめる。

この温度感はおかしい。

白神教授が本当に攫われたのなら、こんな軽さで喋れるはずがない。

だが、完全な芝居とも言い切れない。

冷花は数秒だけ黙って相手を見て、それから解錠した。


池面真一郎は研究所へ入ってきても、空気に呑まれなかった。

いや、むしろこの張りつめた場に、自分の軽さをわざと持ち込んでいるみたいだった。

室内を見回しながら、薄く笑う。


「へえ、思ったより普通の研究所なんだな」

「もっとこう、紙束と怨念と寝不足の巣窟みたいなの想像してた」


「用件だけ」

と、冷花が切る。


池面は「こわ」と小さく笑ってから、すぐに本題へ戻った。

「白神が外で接触した相手は、月砂の息がかかった連中だ」

「俺が現場を真正面から全部見たわけじゃない」

「でも追ってた流れの先で、白神が消えた」

「そのあと、月砂側の拠点に人が入った」

「流れとしては、まあ十分怪しい」


「十分じゃない」

と、コウが言う。

「確認が足りない」


池面はコウを見た。

「君がコウくんか。噂より静かだな」

「白神が面倒見たがるの、ちょっと分かる」


「質問に答えて」

と、志乃が遮る。


池面は片手を上げた。

「はいはい。月砂が白神を欲しがる理由はある」

「知識だよ」

「古い情報も、今の東都の流れも、あいつは抱えてる」

「脅しでも利用でも、攫う価値はある」


「場所は」

と、冷花が言う。


「第三区寄りの外れ」

「月砂が仮で使ってる隠れ家がある」

「たぶんそこ」


「たぶん」

と、志乃が繰り返す。

「随分ふわっとしてるね」


「だって全部見たわけじゃないし」

と、池面は悪びれずに言う。

「でもゼロじゃない」

「で、本当だった場合、のんびり悩んでる時間もない」


その口ぶりは軽い。

軽いのに、言っている内容だけは筋が通っていた。

それがまた不気味だった。


ヤスが壁際から口を開く。

「行った方がいいと思います」


その声に、全員の視線が向く。

ヤスはいつもの調子を少し抑えた顔で続けた。

「罠っぽいのは分かるっす」

「でも、本当に教授が向こうにいるなら時間で悪くなる」

「確認だけでも早い方がいい」


朝葉も静かに言った。

「僕も同意です」

「教授が押さえられたのが事実なら、研究所だけの問題では済まない」

「見に行く価値はある」


志乃は二人を見た。

読み切れない二人が、揃って同じ方向を向いている。

そのこと自体が、ひどく落ち着かなかった。


「簡単に言わないで」

と、志乃が言う。

「罠なら、向こうの土俵に自分から入ることになる」


「そうですね」

と、朝葉は頷く。

「でも本当だった時に動かない方が、あとで取り返しがつかない」

「優先順位の話です」


ヤスも頷いた。

「助けに行くっていうより、まず確認っすね」

「危なかったら逃げる」

「それでいいなら、俺も行きます」


冷花はしばらく黙っていた。

池面の話を信じるには危うい。

だが、白神教授が本当に月砂に押さえられたなら、放置はできない。

白神は研究所の責任者というだけじゃない。

今の東都を巡る情報と知識の核でもある。


「行く」

と、冷花が言った。


志乃が息を止める。

冷花は視線を全員に巡らせた。

「ただし条件がある」

「救出作戦じゃない」

「最優先は確認」

「教授が本当にそこにいるか、それだけを見る」

「少しでもおかしいと判断したら、すぐ逃げる」

「追わない」

「粘らない」

「全員で戻る」


池面が口元を緩めた。

「堅実だねえ。そういうの嫌いじゃない」


「あなたを信用してないだけ」

と、冷花が返す。


「そりゃそうだ」

と、池面は軽く笑った。

「初対面で信用されるほど、俺も善人顔じゃないし」

「でもまあ、疑うのは正解」


「私も行く」

と、志乃が言う。


コウもすぐに続いた。

「俺も」


冷花は二人を見て、小さく頷いた。

それからヤスと朝葉へ目を向ける。

「二人も来るなら条件は同じ」

「少しでも変だと思ったら即撤退」

「勝手な行動はしない」


「できます」

と、朝葉が答える。


「もちろんっす」

と、ヤスも言う。


その返事は対照的だった。

朝葉は静かで。

ヤスは軽い。

けれど、どちらも引く気はないらしかった。


池面が親指で外を指す。

「車、出せるよ」

「まあ全員乗るにはちょい狭いけど、雰囲気はある」


「そんなものいらない」

と、冷花が言う。

「必要なら別で動く」


「はは、硬いなあ」

池面は肩をすくめた。

「でもそういうの、嫌いじゃない」


その軽薄さが演技なのか素なのか、やはり分からない。

ただ、こういう男だからこそ、逆に切羽詰まった顔を見せないのかもしれないとも思えた。


その時だった。

ヤスがふと朝葉を見る。

朝葉も同じように視線を返す。

ほんの一瞬。

言葉のないやり取りだった。

だが、二人とも相手を見定めている気配だけはあった。


志乃はそれを見て、胸の奥に新しいざらつきが生まれるのを感じた。

ヤスも。

朝葉も。

今は同じ方向を向いている。

けれど、それが安心にはつながらない。

むしろ逆だった。


「本当に行くんだね」

と、志乃は小さく言う。


コウが低く返す。

「教授がいないなら、行くしかない」


冷花はすでに札と最低限の装備をまとめ始めていた。

その手つきには迷いがない。

だがそれは、相手を信じたからではない。

信じないまま最悪へ備える人間の動きだった。


白神研究所の空気が、また別の局面へ切り替わっていく。

黒い霧。

第三区。

ヤスの不審。

朝葉陸という新参者。

そこへ今度は、白神教授の失踪。

落ち着いた日々だと思っていたものが、実は次の事件の手前で止まっていただけだったのだと、誰もが理解していた。


研究所の外では、スポーツカーのエンジンがもう一度低く唸った。

急げと催促するみたいな音だった。


冷花は最後に全員を見回した。

「確認する」

「危なければ逃げる」

「教授がいても、状況が悪ければ一度引く」

「全員まとめて潰されるのが一番最悪」

「そこだけは忘れないで」


誰も反論しなかった。

池面真一郎が先に踵を返す。

チャラくて。

軽くて。

信用ならない。

それでも今は、その不確かな案内役に乗るしかなかった。


コウは出口へ向かいながら、胸の奥のざらつきを確かめていた。

これはただの救出じゃない。

誰かがまた、盤面を動かした。

そんな感覚が消えない。

そしてその盤上には今、ヤスも。

陸も。

自分たちも。

まとめて乗せられようとしていた。

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