急報
朝葉陸が白神研究所へ現れてから、数日ほどは奇妙な静けさが続いていた。
黒い霧は消えていない。
第三区の緊張も解けていない。
ヤスへの違和感も、朝葉の不透明さも、そのまま研究所の中へ残っていた。
それでも、どれも決定的な一手にはならず、不穏だけが薄く日常へ張りついていた。
研究所の中では、そうした不安と折り合いをつけるみたいに時間が流れていた。
志乃は記録整理を手伝い、冷花は観測波形と術式の照合を進め、コウは断片的なざらつきを拾い続けていた。
ヤスは相変わらず自然に雑務をこなし、朝葉はときおり研究所へ顔を出しては、白神教授の話を静かに聞いていた。
落ち着いた日々と言えば、たしかにそうだった。
だがそれは平穏ではない。
嵐の前にだけある、不自然な静けさだった。
その日の夕方も、最初はそんな一日になるはずだった。
白神教授は昼過ぎから外へ出ていた。
古い知り合いに会うと言っていたが、詳しい行き先までは明かしていない。
冷花はそれを気にしていない顔をしていたが、教授が帰りの時間をぼかしたことだけは覚えていた。
研究所の空気が少し緩み始めた頃だった。
外から、場違いなくらい派手なエンジン音が響いてきた。
志乃が顔を上げる。
冷花も端末から目を離した。
コウが窓の外を見る。
研究所の前に停まったのは、明らかにこの場所には似合わない低いスポーツカーだった。
やたら目立つくせに、妙に手入れだけは行き届いている。
「うわ」
と、志乃が小さく言う。
「嫌な予感しかしない」
ヤスが窓の方を見ながら、少しだけ笑う。
「研究所の客じゃないっすね、あれは」
朝葉は無言のまま外を見ていた。
次の瞬間、インターホンが鳴った。
冷花が立ち上がる。
「私が出る」
志乃もその後ろへついていく。
モニターに映ったのは、三十代後半くらいの男だった。
髪型も服装もいちいち気取っている。
ジャケットの着こなしも、立ち方も、妙に様になっていた。
だが決まりすぎていて、逆に軽薄だった。
いかにも女慣れしていそうな、チャラい男だった。
「はい」
と、冷花が低く言う。
男は画面越しに、妙に馴れ馴れしい笑みを浮かべた。
「こんばんは、お嬢さん方。いや、こんな入り方で印象最悪なのは分かってるんだけどさ」
「ちょっと急ぎだ」
「白神教授が月砂に攫われた」
その一言で、空気が一気に冷えた。
志乃の肩が強張る。
冷花の目が細くなる。
だが男の方は、深刻さに反して妙に落ち着いていた。
落ち着いているというより、場慣れしている。
緊急事態を告げているのに、どこか軽さを崩さない。
「名前は?」
と、冷花が問う。
男は軽く肩をすくめた。
「池面真一郎。名前負けしてるとか言わないでくれよ」
「白神とは昔からの知り合いだ」
「できれば中で話したい」
「立ち話で済ませるには、ちょっと洒落にならない」
志乃は思わず眉をひそめる。
この温度感はおかしい。
白神教授が本当に攫われたのなら、こんな軽さで喋れるはずがない。
だが、完全な芝居とも言い切れない。
冷花は数秒だけ黙って相手を見て、それから解錠した。
池面真一郎は研究所へ入ってきても、空気に呑まれなかった。
いや、むしろこの張りつめた場に、自分の軽さをわざと持ち込んでいるみたいだった。
室内を見回しながら、薄く笑う。
「へえ、思ったより普通の研究所なんだな」
「もっとこう、紙束と怨念と寝不足の巣窟みたいなの想像してた」
「用件だけ」
と、冷花が切る。
池面は「こわ」と小さく笑ってから、すぐに本題へ戻った。
「白神が外で接触した相手は、月砂の息がかかった連中だ」
「俺が現場を真正面から全部見たわけじゃない」
「でも追ってた流れの先で、白神が消えた」
「そのあと、月砂側の拠点に人が入った」
「流れとしては、まあ十分怪しい」
「十分じゃない」
と、コウが言う。
「確認が足りない」
池面はコウを見た。
「君がコウくんか。噂より静かだな」
「白神が面倒見たがるの、ちょっと分かる」
「質問に答えて」
と、志乃が遮る。
池面は片手を上げた。
「はいはい。月砂が白神を欲しがる理由はある」
「知識だよ」
「古い情報も、今の東都の流れも、あいつは抱えてる」
「脅しでも利用でも、攫う価値はある」
「場所は」
と、冷花が言う。
「第三区寄りの外れ」
「月砂が仮で使ってる隠れ家がある」
「たぶんそこ」
「たぶん」
と、志乃が繰り返す。
「随分ふわっとしてるね」
「だって全部見たわけじゃないし」
と、池面は悪びれずに言う。
「でもゼロじゃない」
「で、本当だった場合、のんびり悩んでる時間もない」
その口ぶりは軽い。
軽いのに、言っている内容だけは筋が通っていた。
それがまた不気味だった。
ヤスが壁際から口を開く。
「行った方がいいと思います」
その声に、全員の視線が向く。
ヤスはいつもの調子を少し抑えた顔で続けた。
「罠っぽいのは分かるっす」
「でも、本当に教授が向こうにいるなら時間で悪くなる」
「確認だけでも早い方がいい」
朝葉も静かに言った。
「僕も同意です」
「教授が押さえられたのが事実なら、研究所だけの問題では済まない」
「見に行く価値はある」
志乃は二人を見た。
読み切れない二人が、揃って同じ方向を向いている。
そのこと自体が、ひどく落ち着かなかった。
「簡単に言わないで」
と、志乃が言う。
「罠なら、向こうの土俵に自分から入ることになる」
「そうですね」
と、朝葉は頷く。
「でも本当だった時に動かない方が、あとで取り返しがつかない」
「優先順位の話です」
ヤスも頷いた。
「助けに行くっていうより、まず確認っすね」
「危なかったら逃げる」
「それでいいなら、俺も行きます」
冷花はしばらく黙っていた。
池面の話を信じるには危うい。
だが、白神教授が本当に月砂に押さえられたなら、放置はできない。
白神は研究所の責任者というだけじゃない。
今の東都を巡る情報と知識の核でもある。
「行く」
と、冷花が言った。
志乃が息を止める。
冷花は視線を全員に巡らせた。
「ただし条件がある」
「救出作戦じゃない」
「最優先は確認」
「教授が本当にそこにいるか、それだけを見る」
「少しでもおかしいと判断したら、すぐ逃げる」
「追わない」
「粘らない」
「全員で戻る」
池面が口元を緩めた。
「堅実だねえ。そういうの嫌いじゃない」
「あなたを信用してないだけ」
と、冷花が返す。
「そりゃそうだ」
と、池面は軽く笑った。
「初対面で信用されるほど、俺も善人顔じゃないし」
「でもまあ、疑うのは正解」
「私も行く」
と、志乃が言う。
コウもすぐに続いた。
「俺も」
冷花は二人を見て、小さく頷いた。
それからヤスと朝葉へ目を向ける。
「二人も来るなら条件は同じ」
「少しでも変だと思ったら即撤退」
「勝手な行動はしない」
「できます」
と、朝葉が答える。
「もちろんっす」
と、ヤスも言う。
その返事は対照的だった。
朝葉は静かで。
ヤスは軽い。
けれど、どちらも引く気はないらしかった。
池面が親指で外を指す。
「車、出せるよ」
「まあ全員乗るにはちょい狭いけど、雰囲気はある」
「そんなものいらない」
と、冷花が言う。
「必要なら別で動く」
「はは、硬いなあ」
池面は肩をすくめた。
「でもそういうの、嫌いじゃない」
その軽薄さが演技なのか素なのか、やはり分からない。
ただ、こういう男だからこそ、逆に切羽詰まった顔を見せないのかもしれないとも思えた。
その時だった。
ヤスがふと朝葉を見る。
朝葉も同じように視線を返す。
ほんの一瞬。
言葉のないやり取りだった。
だが、二人とも相手を見定めている気配だけはあった。
志乃はそれを見て、胸の奥に新しいざらつきが生まれるのを感じた。
ヤスも。
朝葉も。
今は同じ方向を向いている。
けれど、それが安心にはつながらない。
むしろ逆だった。
「本当に行くんだね」
と、志乃は小さく言う。
コウが低く返す。
「教授がいないなら、行くしかない」
冷花はすでに札と最低限の装備をまとめ始めていた。
その手つきには迷いがない。
だがそれは、相手を信じたからではない。
信じないまま最悪へ備える人間の動きだった。
白神研究所の空気が、また別の局面へ切り替わっていく。
黒い霧。
第三区。
ヤスの不審。
朝葉陸という新参者。
そこへ今度は、白神教授の失踪。
落ち着いた日々だと思っていたものが、実は次の事件の手前で止まっていただけだったのだと、誰もが理解していた。
研究所の外では、スポーツカーのエンジンがもう一度低く唸った。
急げと催促するみたいな音だった。
冷花は最後に全員を見回した。
「確認する」
「危なければ逃げる」
「教授がいても、状況が悪ければ一度引く」
「全員まとめて潰されるのが一番最悪」
「そこだけは忘れないで」
誰も反論しなかった。
池面真一郎が先に踵を返す。
チャラくて。
軽くて。
信用ならない。
それでも今は、その不確かな案内役に乗るしかなかった。
コウは出口へ向かいながら、胸の奥のざらつきを確かめていた。
これはただの救出じゃない。
誰かがまた、盤面を動かした。
そんな感覚が消えない。
そしてその盤上には今、ヤスも。
陸も。
自分たちも。
まとめて乗せられようとしていた。




