知識を集める男
「遅かったですね。もう少し早く来るべきだった」
その一言で、白神研究所の夕方の空気は完全に変わった。
朝葉陸という見知らぬ青年は、脅すでもなく、焦らせるでもなく、ただ事実を確認するみたいにそう言った。
それがかえって不気味だった。
白神教授は表情を動かさないまま、朝葉を見た。
冷花は入口側へ半歩だけ重心を寄せる。
水島桃李は椅子に座ったまま、目だけを細めていた。
志乃は息を整えながら、その青年の立ち方を見ていた。
柔らかい。 静かだ。
それなのに、部屋の中の誰よりも場の温度を奪っている気がした。
「何が遅かった」
と、白神教授が言う。
朝葉はすぐに答えた。
「ここへ来るのがです。東都の流れが変わり始めている。だから、もっと早く見ておくべきだった」
「見ておくべきだった」
と、水島が繰り返す。
「見物人みたいな言い方だな」
「半分はそうです」
と、朝葉は言った。
「僕はもともと、霊気力に関する知識を集めるのが趣味なので」
その答えは拍子抜けするくらいあっさりしていた。
だが、あっさりしているからこそ余計に引っかかる。
「趣味」
と、志乃が思わず言う。
「はい」
朝葉は志乃を見た。
「昔から、そういうものに惹かれるんです。術式そのものより、それがどう伝わって、どこで歪んで、誰に使われるのか。そういう流れを見るのが好きで」
「好きで済ませるには、うちに辿り着きすぎてる」
と、冷花が言う。
朝葉は少しだけ頷いた。
「それはそうですね。普通の興味本位なら、ここまでは来ません」
コウは黙って朝葉を見ていた。
この男はヤスと違う。
人の輪の中へするりと入り込む感じはない。
むしろ一歩引いたまま、最初からこちらの輪郭だけを把握しているみたいだった。
危うさの質が違う。
嫌な感じはある。
だがそれは敵意というより、こちらの中身を勝手に観察されているような不快さだった。
「どこから来た?」
と、コウが言う。
朝葉の視線がそちらへ移る。
「東京です。東都とは別のところで、断片的に情報を拾っていました」
「誰から」
と、白神教授が問う。
「いろいろです。表に出ている記録もあれば、消えた研究者の残したメモもある。古書店に流れた報告書の切れ端とか、昔の観測記録とか。人づてにしか回らない噂もありました」
「ずいぶん丁寧に拾ってるな」
と、水島が言う。
「趣味にしちゃ執念がある」
「趣味って、だいたい執念でできてるでしょう」
朝葉は静かに返した。
その言い方に、志乃は少しだけぞくりとした。
軽口ではない。
本気でそう思っている人間の言い方だった。
白神教授が腕を組む。
「それで、お前は何を知っている?」
朝葉は少しだけ視線を落とした。
考えるというより、どこまで話すか順番を整えているような間だった。
「白塔の件は東京でも完全には隠しきれていません。もちろん、そのままの形では伝わっていないです。事故だとか、大規模霊障だとか、いろいろ言い換えられてました。でも、異常な情報統制が入った時点で、逆に気づく人は気づく。そこから辿ると、東都の白神研究所に行き着く」
「それだけでコウの名前まで知ったの?」
と、冷花が言う。
「普通は無理です。でも、記録は完全には消えていない。断片だけなら残っている。それに、白塔以後の東都で、明らかに“見る側”へ回っている人間が一人いる。だったら候補は絞れます」
部屋の空気が少し沈んだ。
消したつもりの痕跡。
隠したつもりの記録。
そういうものが、どこかで誰かの手に渡っている。
朝葉の存在は、その事実そのものでもあった。
「要するに、勝手に嗅ぎ回ってきたわけね」
と、志乃が言う。
「そうなります」
朝葉は否定しなかった。
「失礼なのは分かっています。でも、知りたかった」
「何を?」
と、コウが言う。
朝葉はまっすぐコウを見た。
その目には妙な熱がない。
だからこそ、余計に本気に見えた。
「あなたの見ているものをです。白塔の事件を受けた人間が、何を読み取れるのか。それが術式の延長なのか、別の何かなのか。あと、白神研究所がそこへどう手を伸ばしているのか」
志乃は眉をひそめた。
敵意があるわけではない。
むしろ知識欲としては筋が通っている。
だがそれを本人の前で、ほとんど躊躇なく言ってしまうところが普通ではない。
「ずいぶん率直だな」
と、水島が言う。
「隠しても仕方がないので」
と、朝葉は返した。
「協力を申し出るにしても、最初にそこを濁すと信用されないでしょう」
「協力?」
と、白神教授が目を細める。
「はい」
朝葉は頷く。
「研究員になりたいとか、今すぐ中へ入れてほしいとか、そういう話ではないです。ただ、僕の持っている断片と、そちらが見ているものを照らせば、分かることがあるかもしれない。特に最近の東都は、怪異一件の話じゃ済まなくなっているので」
コウはその言葉にわずかに反応した。
最近の東都。
黒い霧。 第三区。 公安。 学連。
相模の言った盤面。
それらをこの朝葉もまた、別の場所から見てここへ来たのだろうか。
「黒い霧のことも知ってるの」
と、志乃が訊く。
「詳しくはないです。でも、流れは見えます。怪異が主役じゃない時の広がり方をしている。誰かが街全体の継ぎ目を使ってる。それくらいなら」
その見立ては、研究所の中でたどり着いていた仮説と大きくは違わなかった。
だからこそ、簡単に無視もできない。
白神教授はしばらく朝葉を見ていたが、やがて低く言った。
「話は分かった。だが、だからといって信用はしない」
「それで構いません」
と、朝葉は言う。
「初対面の人間に信用を求めるほど、こちらも鈍くはないので」
「随分、自分の立ち位置が分かってるんだね」
と、水島が言う。
「分からないと、こういう場所には来ません」
落ち着いている。
若いのに、妙に落ち着きすぎている。
ヤスの軽さとは真逆だった。
だが、どちらも別の意味で輪郭が掴みにくい。
その時だった。
廊下の向こうで、やや軽い足音が近づいてきた。
次の瞬間、扉が開く。
「戻りましたー」
というヤスの声が、部屋の緊張を一瞬だけ外から切った。
ヤスは紙袋を片手に入ってきて、室内の空気にすぐ気づいたらしい。
足を止める。
その視線が朝葉に向く。
「……あれ、お客さんですか?」
「そうだ」
と、白神教授が答える。
「朝葉陸。東京から来たらしい」
ヤスは一瞬だけ目を細めた。
ほんの一瞬だった。
だがコウは見逃さなかった。
「へえ、どうも」
ヤスはいつもの調子で笑う。
「鑢谷朋大です。ヤスって呼ばれてます」
「朝葉陸です」
と、朝葉も言った。
「はじめまして」
二人の間に流れた空気は、表面上は穏やかだった。
だが志乃には、まるで種類の違う異物が同じ部屋へ置かれたように感じられた。
ヤスは人の温度へ寄せて入ってくる。
朝葉は距離を保ったまま、その外側から入ってくる。
どちらも普通ではない。
だが違う。
違いすぎて、並んだことで余計に不穏だった。
ヤスが紙袋を持ち上げる。
「なんか、タイミング悪かったですか。飲み物だけ置いといた方がいい感じですかね?」
「置いといて」
と、冷花が短く言う。
「了解です」
ヤスはそれ以上踏み込まず、奥の机へ紙袋を置いた。
その引き際の自然さも、相変わらず上手い。
朝葉はそんなヤスを静かに見ていた。
値踏みしているようにも見えない。
ただ、記憶しているような視線だった。
コウはその二人を順に見た。
ヤス。 朝葉。
片方は自然すぎる好青年。
片方は静かすぎる知識の蒐集者。
どちらもまだ正体は見えない。
だが、どちらもこの研究所の外に置いておける感じがしなかった。
「今日は帰れ」
と、白神教授が朝葉に言った。
「連絡先だけ置いていけ。必要ならこちらから呼ぶ」
「分かりました」
朝葉は素直に頷いた。
「来た意味はあったので、それで十分です」
「何が十分なんだ」
と、水島が言う。
朝葉は少しだけ目を細めた。
それは笑みというほど明確ではなかった。
「ちゃんと中心に近かったからです」
その言葉を最後に、朝葉は連絡先を書き残し、研究所を出ていった。
足音は来た時と同じように静かだった。
扉が閉まる。
夕刻の研究所に、少し遅れて張りつめた沈黙が落ちた。
志乃が最初に息を吐く。
「……なに、あれ」
「知識欲の塊だな」
と、水島が言う。
「しかも遠慮がない。敵意が薄いぶん、余計に扱いづらい」
「でも嘘は少なそうだった」
と、冷花が言う。
「少なくとも、目的の軸はぶれてない」
ヤスが少し首を傾げる。
「なんか面白い人ですね。ちょっと変わってるけど」
その軽い感想に、志乃は思わずヤスを見る。
ヤスは本当にそう思っているのか。
それとも、いつも通りの顔を置いているだけなのか。
もう簡単には読めない。
コウは扉の方を見たまま、低く言った。
「ヤスとは違う」
志乃が振り向く。
「違うって」
「危ない感じの種類」
コウは短く答える。
「でも、どっちも分からない」
その言葉が、この部屋の今を一番正確に表していた。
白神研究所には、すでにヤスという読み切れない新参者がいる。
そこへさらに朝葉陸という、別種の正体不明が辿り着いた。
しかも彼は東京から独自のルートでここまで来て、コウの能力と研究所の研究へ明確な興味を向けている。
東都の外側と内側が、またひとつ噛み合った。
そんな感覚があった。
窓の外では、東都の夕暮れがゆっくりと夜へ沈んでいく。
黒い霧も。 第三区の火種も。 学連と公安の軋みも。
その全部のただ中へ、また新しい男が足を踏み入れた。
そしてコウは、もうひとつだけはっきり理解していた。
この街の盤面は、まだ増える。




