朝葉陸
夕刻の白神研究所は、昼よりも静かなぶんだけ緊張が濃くなる。
端末の駆動音も、紙をめくる音も、どこか神経質に聞こえた。
第三区ではまた小さな衝突が起きたらしい。
黒い霧の目撃も続いている。
学連と公安は互いを牽制しながら動き、研究所にはその報告と痕跡の断片だけが流れ込んでくる。
街そのものが、少しずつ一つの大きな異変へ寄せられているようだった。
志乃は机に広げた記録を閉じ、肩を軽く回した。
目が疲れている。
頭も重い。
けれど気を抜くと、ヤスのことと黒い霧のことと、最近増えた外側のざらつきが一度に押し寄せてきそうだった。
冷花は向かいの席で、霊気波形の照合を続けている。
白神教授は少し離れた机で資料を読んでいた。
水島桃李は窓際の椅子に浅く座り、古い記録と新しい報告を見比べながら、時々嫌そうに眉を寄せている。 コウだけは窓の外を見たまま、長いこと黙っていた。
「今日は早いですね」
と、志乃が言う。
「ヤスが来てない」
「買い出しに出た」
と、冷花が短く答える。
「たぶんもう戻る」
志乃は小さく頷いた。
安心したわけではない。
むしろ、そうやって自然にヤスの予定が共有されること自体が、今は少しだけ落ち着かなかった。
その時だった。
研究所の入口側で、小さく電子音が鳴る。
来客を知らせるインターホンだった。
この時間の来訪は珍しい。
志乃が顔を上げる。
冷花も端末から目を離した。
白神教授だけがすぐには動かず、資料を閉じてからゆっくり立ち上がる。
「志乃、出てくれ」
「はい」
志乃は廊下へ出て、入口のモニターを覗き込んだ。
画面に映っていたのは、見覚えのない青年だった。
年はコウたちとそう変わらないように見える。
若い。
だが、学生らしい落ち着かなさがない。
柔らかい色のシャツに薄手の上着。
地味で、目立つ格好ではない。
それでも、視線を向けた瞬間に妙に印象へ残る静けさがあった。
敵意があるようには見えない。
かといって、ただ道を尋ねに来た人間にも見えない。
志乃は通話を開いた。
「どちらさまですか?」
青年は少しだけ目を上げた。
モニター越しでも、その眼差しが驚くほど静かなのが分かる。
「朝葉陸といいます。白神教授にお会いしたくて来ました」
声音まで穏やかだった。
無理に礼儀正しくしている感じではない。
最初からそういう温度で話す人間なのだと分かる声だった。
志乃は一拍置く。
「失礼ですが、お約束はございますか?」
「ありません。ただ、話せば分かると思います」
その言い方に、説明できない引っかかりがあった。
自信家の押しの強さとも違う。
無遠慮でもない。
むしろ静かすぎるくらいなのに、なぜか断りづらい。
「少し待ってください」
通話を切って、志乃はすぐに部屋へ戻った。
「知らない人です。朝葉陸って名乗ってて、教授に会いたいって」
白神教授の目がわずかに細くなる。
「朝葉陸」
その反応は、知っているようにも、知らないようにも見えた。
水島が椅子の背にもたれたまま訊く。
「心当たりある顔ですか」
「名前だけなら、なくはない」
と、教授は言う。
「だが確信はない」
「余計に嫌な言い方ですね」
と、志乃が呟く。
コウがそこで初めて窓から視線を外した。
「入れるのか?」
「会う」
と、白神教授は短く言った。
「ただし全員ここにいろ」
その一言で、部屋の空気が切り替わる。
冷花がさりげなく席をずらし、入口の見える位置を取った。
水島は面倒そうな顔のままだが、目だけはもう完全に起きている。
コウは無言で立ち上がり、志乃の少し後ろへ移動した。
志乃はもう一度入口へ向かい、解錠した。
しばらくして、廊下の向こうから足音が近づいてくる。
その歩き方まで静かだった。
忍ばせているわけではない。
けれど妙に音が立たない。
研究所の無機質な床と壁に、足音だけが淡く反射している。
現れた青年は、モニター越しよりもさらに印象が薄かった。
薄いのに、見失えない。
そういう奇妙な存在感だった。
「どうぞ」
と、志乃が言う。
「ありがとうございます」
朝葉陸は軽く頭を下げて、室内へ入った。
礼儀に不自然さはない。
視線を必要以上に泳がせることもない。
誰かを露骨に警戒する様子もない。
その代わり、部屋の中の全員を一度で正確に見たような気がした。
白神教授が正面から口を開く。
「私が白神だ。用件は何かね?」
朝葉は少しだけ教授を見て、それからその横にいるコウへ視線を移した。
「あなたがコウさんですね」
部屋の空気が止まった。
志乃の肩がわずかに強張る。
冷花の目が細くなる。
水島は何も言わない。
だが、その沈黙は見逃していないという沈黙だった。
コウは朝葉を見返した。
その瞬間だった。
志乃は、コウの気配がほんの少しだけ変わるのを感じた。
ヤスに向ける時の警戒とは違う。
もっと本能的な、種類の違う危うさに触れた時の反応だった。
「……あんた誰だ?」
と、コウが言う。
朝葉は穏やかな顔のまま答える。
「朝葉陸です。さっきも名乗りました」
「そういう意味じゃない」
コウの声は低い。
「なんで俺の名前を知ってる」
朝葉はすぐには答えなかった。
その間の取り方にも妙な静けさがある。
迷っているのではなく、答える量を測っているような沈黙だった。
「知っていて当然だからです」
と、朝葉は言った。
曖昧だった。
曖昧なのに、冗談に聞こえない。
そこが嫌だった。
志乃は朝葉を見ながら、胸の奥に新しいざらつきが生まれるのを感じていた。
ヤスの時とは違う。
ヤスは人の中へ自然に入り込んでくる不気味さだった。
けれどこの朝葉という青年は、最初から人の輪の外にいながら、そのまま内側まで見通しているような気配がある。
「当然、ね」
と、水島が口を開く。
「その当然を、こっちにも分かるように言ってくれないか」
朝葉は水島へ視線を向けた。
その一瞥には敵意も苛立ちもない。
ただ、観察の静けさだけがあった。
「水島桃李さん、中央図書館からよく記録を持ち出している。研究所の外にいる時間の方が長い人ですね」
今度は水島の目が細くなる番だった。
「……よく調べてる」
「必要なことは」
と、朝葉は言う。
志乃の指先に力が入る。
必要なこと。 その言い方が、ひどく引っかかった。
白神教授が低く言う。
「話を整理しろ。お前は何者で、何をしに来た」
朝葉はその問いにも動じなかった。
むしろ、ようやくそこへ辿り着いたという顔すらしない。
「何者かを先に言うと、たぶん警戒されるので。順番を変えたいんです」
「もう十分警戒してる」
と、冷花が言う。
「そうですね」
朝葉は小さく頷いた。
その肯定の仕方が、妙に自然だった。
警戒されることを不快に思っていない。
むしろ当然の反応として受け止めている。
それがさらに不気味だった。
コウは黙って朝葉を見ていた。
この男はヤスと違う。
人間らしい温度で距離を詰めてくるわけではない。
けれど、その静けさの奥にあるものはもっと読みにくい。
何かを隠しているというより、そもそも見せるつもりの層が少なすぎる。
「用件だけ言って」
と、志乃が口を挟んだ。
「教授に会いに来たんでしょ」
朝葉はようやく志乃を見た。
その眼差しも静かだった。
人を値踏みする冷たさではない。
だが、安心させる温度もない。
「はい、白神教授に会いに来ました。でも、コウさんがいるなら都合がいい」
「都合」
と、コウが繰り返す。
「ええ」
朝葉は少しだけ首を傾けた。
「たぶん、あなたももう気づいているから」
その言葉に、部屋の空気がさらに張る。
コウの中で、何かが小さく軋んだ。
気づいている。
何に。 黒い霧か。 TEBESか。
あるいは、もっと別の何かか。
朝葉の声は穏やかなままだった。
「東都はもう、少し遅れてます。学連も公安も研究所も思っているより、ずっと」
「何の話だ」
と、白神教授が問う。
朝葉はその問いにすぐには答えず、ひと息だけ置いた。
その沈黙が、なぜかひどく長く感じられる。
廊下の向こうで、遠く扉の開く音がした。
たぶんヤスが戻ったのだろう。
だが今この部屋にいる誰も、そちらを気にする余裕はなかった。
朝葉は、ようやく口を開いた。
「遅かったですね。もう少し早く来るべきだった」
その第一声は、挨拶でも名乗り直しでもなかった。
警告のようで。
確認のようで。
あるいは、すでに何かが始まっていることを知る者の言葉みたいでもあった。
夕刻の白神研究所に、新しい異物が立っている。
ヤスとは別の。
だが同じくらい、あるいはそれ以上に読み切れない、もう一人の男が。




