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ロストテクノロジーは誰のためにあるのか  作者: 維岡 真
第2章 絵札戦 第2節 もう一人の男

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朝葉陸

夕刻の白神研究所は、昼よりも静かなぶんだけ緊張が濃くなる。

端末の駆動音も、紙をめくる音も、どこか神経質に聞こえた。


第三区ではまた小さな衝突が起きたらしい。

黒い霧の目撃も続いている。

学連と公安は互いを牽制しながら動き、研究所にはその報告と痕跡の断片だけが流れ込んでくる。

街そのものが、少しずつ一つの大きな異変へ寄せられているようだった。


志乃は机に広げた記録を閉じ、肩を軽く回した。

目が疲れている。

頭も重い。

けれど気を抜くと、ヤスのことと黒い霧のことと、最近増えた外側のざらつきが一度に押し寄せてきそうだった。


冷花は向かいの席で、霊気波形の照合を続けている。

白神教授は少し離れた机で資料を読んでいた。

水島桃李は窓際の椅子に浅く座り、古い記録と新しい報告を見比べながら、時々嫌そうに眉を寄せている。 コウだけは窓の外を見たまま、長いこと黙っていた。


「今日は早いですね」


と、志乃が言う。


「ヤスが来てない」


「買い出しに出た」


と、冷花が短く答える。


「たぶんもう戻る」


志乃は小さく頷いた。

安心したわけではない。

むしろ、そうやって自然にヤスの予定が共有されること自体が、今は少しだけ落ち着かなかった。


その時だった。

研究所の入口側で、小さく電子音が鳴る。

来客を知らせるインターホンだった。


この時間の来訪は珍しい。

志乃が顔を上げる。

冷花も端末から目を離した。

白神教授だけがすぐには動かず、資料を閉じてからゆっくり立ち上がる。


「志乃、出てくれ」


「はい」


志乃は廊下へ出て、入口のモニターを覗き込んだ。

画面に映っていたのは、見覚えのない青年だった。


年はコウたちとそう変わらないように見える。

若い。

だが、学生らしい落ち着かなさがない。

柔らかい色のシャツに薄手の上着。

地味で、目立つ格好ではない。

それでも、視線を向けた瞬間に妙に印象へ残る静けさがあった。


敵意があるようには見えない。

かといって、ただ道を尋ねに来た人間にも見えない。


志乃は通話を開いた。


「どちらさまですか?」


青年は少しだけ目を上げた。

モニター越しでも、その眼差しが驚くほど静かなのが分かる。


「朝葉陸といいます。白神教授にお会いしたくて来ました」


声音まで穏やかだった。

無理に礼儀正しくしている感じではない。

最初からそういう温度で話す人間なのだと分かる声だった。


志乃は一拍置く。


「失礼ですが、お約束はございますか?」


「ありません。ただ、話せば分かると思います」


その言い方に、説明できない引っかかりがあった。

自信家の押しの強さとも違う。

無遠慮でもない。

むしろ静かすぎるくらいなのに、なぜか断りづらい。


「少し待ってください」


通話を切って、志乃はすぐに部屋へ戻った。


「知らない人です。朝葉陸って名乗ってて、教授に会いたいって」


白神教授の目がわずかに細くなる。


「朝葉陸」


その反応は、知っているようにも、知らないようにも見えた。

水島が椅子の背にもたれたまま訊く。


「心当たりある顔ですか」


「名前だけなら、なくはない」


と、教授は言う。


「だが確信はない」


「余計に嫌な言い方ですね」


と、志乃が呟く。


コウがそこで初めて窓から視線を外した。


「入れるのか?」


「会う」


と、白神教授は短く言った。


「ただし全員ここにいろ」


その一言で、部屋の空気が切り替わる。

冷花がさりげなく席をずらし、入口の見える位置を取った。

水島は面倒そうな顔のままだが、目だけはもう完全に起きている。

コウは無言で立ち上がり、志乃の少し後ろへ移動した。


志乃はもう一度入口へ向かい、解錠した。

しばらくして、廊下の向こうから足音が近づいてくる。


その歩き方まで静かだった。

忍ばせているわけではない。

けれど妙に音が立たない。

研究所の無機質な床と壁に、足音だけが淡く反射している。


現れた青年は、モニター越しよりもさらに印象が薄かった。

薄いのに、見失えない。

そういう奇妙な存在感だった。


「どうぞ」


と、志乃が言う。


「ありがとうございます」


朝葉陸は軽く頭を下げて、室内へ入った。

礼儀に不自然さはない。

視線を必要以上に泳がせることもない。

誰かを露骨に警戒する様子もない。

その代わり、部屋の中の全員を一度で正確に見たような気がした。


白神教授が正面から口を開く。


「私が白神だ。用件は何かね?」


朝葉は少しだけ教授を見て、それからその横にいるコウへ視線を移した。


「あなたがコウさんですね」


部屋の空気が止まった。


志乃の肩がわずかに強張る。

冷花の目が細くなる。

水島は何も言わない。

だが、その沈黙は見逃していないという沈黙だった。


コウは朝葉を見返した。

その瞬間だった。

志乃は、コウの気配がほんの少しだけ変わるのを感じた。


ヤスに向ける時の警戒とは違う。

もっと本能的な、種類の違う危うさに触れた時の反応だった。


「……あんた誰だ?」


と、コウが言う。


朝葉は穏やかな顔のまま答える。


「朝葉陸です。さっきも名乗りました」


「そういう意味じゃない」


コウの声は低い。


「なんで俺の名前を知ってる」


朝葉はすぐには答えなかった。

その間の取り方にも妙な静けさがある。

迷っているのではなく、答える量を測っているような沈黙だった。


「知っていて当然だからです」


と、朝葉は言った。


曖昧だった。

曖昧なのに、冗談に聞こえない。

そこが嫌だった。


志乃は朝葉を見ながら、胸の奥に新しいざらつきが生まれるのを感じていた。

ヤスの時とは違う。

ヤスは人の中へ自然に入り込んでくる不気味さだった。

けれどこの朝葉という青年は、最初から人の輪の外にいながら、そのまま内側まで見通しているような気配がある。


「当然、ね」


と、水島が口を開く。


「その当然を、こっちにも分かるように言ってくれないか」


朝葉は水島へ視線を向けた。

その一瞥には敵意も苛立ちもない。

ただ、観察の静けさだけがあった。


「水島桃李さん、中央図書館からよく記録を持ち出している。研究所の外にいる時間の方が長い人ですね」


今度は水島の目が細くなる番だった。


「……よく調べてる」


「必要なことは」


と、朝葉は言う。


志乃の指先に力が入る。

必要なこと。 その言い方が、ひどく引っかかった。


白神教授が低く言う。


「話を整理しろ。お前は何者で、何をしに来た」


朝葉はその問いにも動じなかった。

むしろ、ようやくそこへ辿り着いたという顔すらしない。


「何者かを先に言うと、たぶん警戒されるので。順番を変えたいんです」


「もう十分警戒してる」


と、冷花が言う。


「そうですね」


朝葉は小さく頷いた。


その肯定の仕方が、妙に自然だった。

警戒されることを不快に思っていない。

むしろ当然の反応として受け止めている。

それがさらに不気味だった。


コウは黙って朝葉を見ていた。

この男はヤスと違う。

人間らしい温度で距離を詰めてくるわけではない。

けれど、その静けさの奥にあるものはもっと読みにくい。

何かを隠しているというより、そもそも見せるつもりの層が少なすぎる。


「用件だけ言って」


と、志乃が口を挟んだ。


「教授に会いに来たんでしょ」


朝葉はようやく志乃を見た。

その眼差しも静かだった。

人を値踏みする冷たさではない。

だが、安心させる温度もない。


「はい、白神教授に会いに来ました。でも、コウさんがいるなら都合がいい」


「都合」


と、コウが繰り返す。


「ええ」


朝葉は少しだけ首を傾けた。


「たぶん、あなたももう気づいているから」


その言葉に、部屋の空気がさらに張る。


コウの中で、何かが小さく軋んだ。

気づいている。

何に。 黒い霧か。 TEBESか。

あるいは、もっと別の何かか。


朝葉の声は穏やかなままだった。


「東都はもう、少し遅れてます。学連も公安も研究所も思っているより、ずっと」


「何の話だ」


と、白神教授が問う。


朝葉はその問いにすぐには答えず、ひと息だけ置いた。

その沈黙が、なぜかひどく長く感じられる。


廊下の向こうで、遠く扉の開く音がした。

たぶんヤスが戻ったのだろう。

だが今この部屋にいる誰も、そちらを気にする余裕はなかった。


朝葉は、ようやく口を開いた。


「遅かったですね。もう少し早く来るべきだった」


その第一声は、挨拶でも名乗り直しでもなかった。

警告のようで。

確認のようで。

あるいは、すでに何かが始まっていることを知る者の言葉みたいでもあった。


夕刻の白神研究所に、新しい異物が立っている。

ヤスとは別の。

だが同じくらい、あるいはそれ以上に読み切れない、もう一人の男が。

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