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ロストテクノロジーは誰のためにあるのか  作者: 維岡 真
第2章 絵札戦 第2節 もう一人の男

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好青年の影

ピクニックから戻って数日が過ぎても、志乃の中ではヤスの印象が定まらないままだった。

研究所で資料を運んでいる時の気安さも。

誰かの手が足りなければ自然に動く軽さも。

あの日、泣いていた子どもの前にしゃがみこんだ時の、あの不自然さのない優しさも。

どれも作りものだと言い切るには、あまりにも自然だった。


だからこそ、逆に分からなくなる。

分からないまま、黒い霧の事件だけは止まらない。

第三区の軋みも消えない。

TEBESの影も、外から来た公安の圧も、東都の空気を少しずつ固くしていた。


白神研究所の朝は、表面上はいつも通りだった。

端末の起動音。 紙をめくる音。

冷花が記録を整理する乾いた手つき。

白神教授が無言でコーヒーを口に運ぶ仕草。

その中へヤスも自然に混ざっている。

それが余計に、志乃の胸をざらつかせた。


「志乃さん、この資料、どっちの棚でしたっけ?」


振り向くと、ヤスがファイルの束を抱えて立っていた。

相変わらず明るい顔だった。

少し困ったように笑う時の表情まで、もう見慣れている。


「そっちの奥、黒いラベルの並びの、右から二番目」


「了解です。助かります」


軽く返して、すぐ動く。

頼まれたことを面倒そうにもしない。

気配りもできる。

場に馴染むのも上手い。

それだけ見れば、本当にただの好青年だった。


志乃はその背中を見送りながら、小さく息をついた。


冷花が端末から目を離さないまま言う。


「まだ迷ってるの」


「……うん」


と、志乃は正直に答えた。


「怪しいって思う時もある。でも、違うかもしれないって思う時もある」


「自然な反応」


と、冷花は言った。


「決めつける方が簡単だけど、簡単なだけで正しいとは限らない」


「冷花はヤスのこと、どう見てる?」


冷花は少しだけ考えてから答える。


「不自然。でも、悪意が表に出てるタイプじゃない。そこが面倒」


まさにその通りだった。

悪人なら、まだ分かりやすい。

敵だと切ってしまえるなら、こんなふうには迷わない。

だがヤスは違う。

人の中へ入る時の温度が、あまりに自然すぎる。


部屋の隅では、コウが窓際の席に座っていた。

端末に視線を落としているが、読んでいるというより考えている顔だった。

志乃は少し迷ってから、そちらへ歩いた。


「コウ、今、いい?」


「いいよ」


短い返事だった。

けれど、拒む感じはない。


志乃は隣の机へ軽く寄りかかった。


「この前のことまだ考えてる?」


「ヤスのことか」


「うん」


コウは少しだけ視線を上げた。

その目は、感情を見せないいつもの静けさの奥で、ずっと止まっていない。


「切り捨てる気はない」


と、コウが言う。


「黒だって決めてるわけでもない」


志乃は少しだけほっとして、でもすぐに次の言葉を待った。


「でも」


コウはそこで一拍置いた。


「何者か分からないから危ない」


それは以前よりも、少し形になった言い方だった。


「怪しいからじゃない。悪意が見えるからでもない。分からない。本人が何を知ってるのか、何を隠してるのか。そもそも隠してるのかどうかも。そこが読めない」


志乃は黙って聞く。

その言葉は、今の自分の中にもそのまま当てはまっていた。


「黒い霧の件と、ヤスの違和感は似てる」


と、コウは続けた。


「でも、同じだからって本人が使ってるとは限らない。近い場所にいるだけかもしれない。巻き込まれてるだけかもしれない。利用されてるだけかもしれない」


「それでも危ない」


「うん」


コウの返事は淡々としていた。

その平坦さの中に、迷いまできちんと含まれている。

だからこそ重かった。


昼前、水島桃李が中央図書館帰りらしい紙袋を抱えて研究所へ入ってきた。

くたびれたジャケット姿のまま、いかにも面倒そうに机へ腰を下ろす。

紙袋から古い記録束を取り出す手つきだけは丁寧だった。


「相変わらず重たい空気だな」


と、水島が言う。


「若いのが多い職場って、もう少しこう、どうでもいい雑談とか増えないのか」


「増えてますよ」


と、志乃が言う。


「増えてこれです」


「それはそれで嫌だな」


水島はそう言ってから、コウの顔を見た。

少し目を細める。


「で、そっちはどう整理した」


コウは短く答える。


「ヤス本人が黒とはまだ言えない。でも、危ない」


「理由は」


「分からないから」


水島はそこで、小さく鼻で笑った。

馬鹿にする感じではない。

むしろ、その答えに納得した時の笑い方だった。


「そうだな。分からないやつが一番厄介だ。善人でも悪人でも、輪郭が見えてるならまだ扱える。でも、正体が曖昧なやつは違う。味方か敵かじゃなく、“どこに立ってるか”が読めない」


志乃が言う。


「黒い霧が霊気干渉体だとして、それをヤスが使ってる可能性もある。でも、別の誰かが使ってて、ヤスは関わってるだけかもしれない。あるいは、本人も巻き込まれてるだけかもしれない。そういうことですよね」


「そういうこと」


と、水島は頷く。


「しかも、そのどれでも筋が通りうる。だから怖い。曖昧さってのは、放っておくと勝手に膨らむからな」


白神教授が資料から目を上げずに言う。


「断定を急ぐな。だが観察は怠るな。それだけだ」


「いつも通りですね、教授」


と、水島が返す。


「いつも通りで済むうちに済ませたいだけだ」


その言葉に、部屋が少しだけ静かになった。

今はまだ、研究所の中で会話ができている。

まだ、疑いは疑いのままだ。

だが東都の外側では、もう少しずつ歯車が噛み始めている。

その感覚は、誰の中にもあった。


午後になると、ヤスはいつも通りに研究所の雑務を手伝っていた。

伝票の整理。 備品の移動。

冷花に頼まれた簡単な買い出し。

どれも手際がいい。

研究員ではないのに、研究所の動線へ入り込むのがうまい。


「ヤスくん」


と、水島が何気ない調子で声をかけた。


「お前、こういう雑務ほんと慣れてるな」


「慣れっていうか、性分ですよ」


と、ヤスは笑う。


「じっと座ってるより動いてる方が楽なんで。研究所って、頭使う人ばっかじゃないですか。だからこういうとこ埋める方が向いてるかなって」


「便利な人材だ」


と、水島が言う。


「褒めてます?」


「半分な」


そのやり取りに、志乃はまた少しだけ胸が揺れた。

こういう時のヤスは、本当に自然だ。

自分の立ち位置を分かっていて、その中で無理なく動く。

気を遣わせない距離感も上手い。

それが全部演技だとは、どうしても思い切れない。


だがその一方で、コウはずっとヤスから目を離さなかった。

露骨に睨んでいるわけではない。

けれど、何かひとつでも見落とすまいとする視線だった。


夕方前。

研究所の中の空気が少しだけ緩んだ頃だった。

志乃は別室へ資料を届けに行き、冷花は教授と一緒に簡易術式の確認をしていた。

水島は端末で記録の照合を続けている。

コウは廊下側の自販機へ飲み物を取りに出た。


白神研究所の廊下は、夕方になると少し暗い。

窓から差す光が細長く床へ伸びて、人の気配がない分だけ静かさが際立つ。

コウは缶を一本手に取って、戻ろうとした。


その時だった。


廊下の曲がり角の向こうに、ヤスの姿が見えた。


一人だった。

誰かと話しているわけでもない。

手に何かを持っているわけでもない。

ただ、窓際に立っていた。


コウは足を止めた。


ヤスは窓の外を見ていた。

いつもの笑顔はない。

人懐っこい柔らかさもない。

そこにあったのは、ひどく平坦な横顔だった。


無表情だった。


感情が消えている、というより何もかもを一度切り離したみたいな顔だった。

研究所で見せる明るさも。

雑談の時の軽さも。

子どもをあやした時の自然さも。

その全部を引いたあとに残る、空白に近い表情。


ほんの一瞬だった。


ヤスがこちらの気配に気づいたのか、ゆっくりと振り返る。

その次の瞬間には、もういつもの顔へ戻っていた。


「あれ、コウさん、こんなとこで珍しいですね」


何事もなかったみたいな口調だった。

コウは数秒、答えなかった。


「……別に」


と、ようやく返す。


「飲み物ですか? 俺もなんか買おうかな」


そう言ってヤスは歩き出す。

すれ違う時の気配は、さっきまでと何も変わらない。

けれどコウの中では、確かなものがひとつ増えていた。


見間違いじゃない。

今、こいつは素の顔を出した。


ほんの一瞬だけ。

けれど、それで十分だった。


ヤスは自販機の前で「どれにしよう」とでも言いたげに首を傾げている。

その姿だけ見れば、やはりただの気安い青年にしか見えない。


だからこそ、さっきの無表情が消えない。


コウは缶を握ったまま、静かにその場を離れた。


研究室へ戻ると、水島が顔を上げる。


「遅かったな」


コウは席に戻りながら、短く言った。


「ヤス。やっぱり、見えてない部分がある」


水島の目が細くなる。


「今さらそこを疑わないほど、こっちも鈍くない。で、何を見た」


コウは少しだけ黙った。

あの一瞬の顔を、うまく言葉にできる気がしなかった。


「無表情。何もないみたいな顔」


水島はそれを聞いて、冗談を挟まなかった。


「そうか」 とだけ言う。


志乃がちょうど部屋へ戻ってきて、二人の空気に気づいたように立ち止まる。

けれどコウは今すぐ全部を言う気にはなれなかった。

まだ確証には遠い。

だが、違和感はまた一つ、形を持って積み上がった。


好青年。 気のいい新都の青年。 研究所へ自然に馴染んだ、明るい男。


その影の奥にあるものは、まだ見えない。


見えないまま。

けれど確かに、そこに何かがある。


東都の夕暮れは、窓の外でゆっくりと色を落としていた。

平穏に見える景色の裏で、黒い霧も、第三区の火種も、TEBESの影も、静かに動き続けている。


そして研究所の内側でもまた、もう一つの不穏が、確かに息を潜めていた。

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