保護という名の管理
白神研究所の応接室には、朝から妙に乾いた緊張が満ちていた。
窓の外はいつも通りの東都なのに、その部屋の中だけ別の論理が持ち込まれている。
そんな感じがした。
長机を挟んで、向かい合うように座っているのは学連側の人間だった。
吾妻。
そして鷹取シズク。
公安特東部が表へ出てきたことで、学連もまた黙っていられなくなったのだろう。
それは志乃にも分かった。
白神教授は机の奥の席に腰掛け、いつも通り気だるげな顔をしていた。
だが、その目だけは完全に起きている。
冷花は教授の少し後ろに立ち、無言のまま場を見ていた。
水島桃李は椅子に浅く座り、くたびれたジャケットの襟を指で整えながら、いかにも面倒そうな顔をしている。
コウは部屋の端にいた。
当事者であるはずなのに、まるで少し外側からこの場を眺めているような静けさだった。
志乃はその隣に立ちながら、胸の奥に薄い嫌さが広がっていくのを感じていた。
話の内容は、もう来る前からだいたい分かっている。
それでも、実際に口にされた時の重さは別だ。
最初に切り出したのは吾妻だった。
「単刀直入に言う。虚西コウくんの身柄を、一定期間学連の保護下に置きたい」
その言葉に、部屋の空気がさらに一段、硬くなる。
志乃は思わずコウを見た。
コウは表情を変えない。
だが、その目だけがわずかに細くなった。
白神教授はすぐには返事をしなかった。
湯気の立たないコーヒーカップを指先で軽く回し、それから吾妻を見る。
「理由を聞こう」
「いくつもある」
と、吾妻は言う。
「白塔の件、使徒再生、黒い霧事件での断片読み、そしてTEBESだ。今のコウくんは、どう見ても狙われる側だ。同時に、何かを引き出せる“鍵”にもなっている」
鷹取がその言葉を引き取る。
「研究所にいるのが危険だと言いたいわけじゃありません。ただ、守るための体制としては脆い。学連なら人員も動かせます。夜間警備も、移動経路の管理も、対外遮断もできる。狙われる可能性が高いなら、今のうちに囲うべきです」
囲う。
その言い方に、志乃の眉がわずかに寄った。
吾妻もその響きに気づいたのか、言い直すように続ける。
「保護だ。拘束じゃない。だが現実問題として、行動には一定の制限が必要になる」
「それを管理と言うんだよ」
と、水島が横から言った。
場の空気に似合わない、力の抜けた声だった。
けれど、その一言で話の芯が露わになる。
吾妻は視線だけを水島へ向ける。
「言葉遊びをする気はない。守るために必要な枠組みだ」
「そういうのを一番きれいに言うのが、だいたい一番危ないんだ」
と、水島は言う。
「管理される側からすれば、保護も拘束もそんなに綺麗に分かれない」
「危険が目前にあるなら、分けて考える余裕はないだろ」
と、吾妻が返す。
志乃はそのやり取りを聞きながら、喉の奥が少し詰まるのを感じた。
吾妻の言い分は分かる。
合理的だ。
むしろ筋が通っている。
黒い霧の件だけでも、コウが普通の立場にいないことは明らかだった。
そこへTEBESの影まで重なっている。
学連が危機感を抱くのは当然だ。
それでも。 それでも何かが違うと感じる。
白神教授がようやく口を開いた。
「私は反対だ」
はっきりした声だった。
曖昧に濁す余地のない言い方だった。
吾妻の表情がわずかに動く。
鷹取も言葉を挟みかけたが、教授はそれより先に続けた。
「先に言っておくが、これは研究所の利を守るためじゃない。研究対象だから手放さない、という話でもない。コウを一個人として扱うなら、外部が勝手に囲うべきではない。それだけだ」
「白神教授」
と、鷹取が身を乗り出す。
「感情論では済まない段階です。相手がTEBESなら、研究所一つで抱え切れる話じゃない」
「感情論ではない」
と、教授は淡々と返す。
「むしろ逆だ。危険だから囲う。守るためだから制限する。その理屈は、だいたい一人の人間を“物”として扱う時に一番滑らかに機能する」
言葉が静かな分だけ、重かった。
吾妻が低く言う。
「物扱いするつもりはない」
「つもりの話はしていない。構造の話をしている。お前たちは東都を守る立場から合理を言っている。それ自体は分かる。だがその合理は、本人の自由を削る方向にしか働いていない」
部屋の中が静まる。
誰もすぐには言い返せなかった。
志乃は胸の奥で、少しだけ救われるような気持ちになった。
教授の言葉は冷たい時もある。
突き放して聞こえることも多い。
けれど今のそれは、たしかにコウを“もの”として扱っていなかった。
吾妻は数秒黙ったあと、コウへ直接視線を向けた。
「君自身はどう思ってる」
コウはしばらく何も言わなかった。
その沈黙が長くなりすぎる前に、志乃は自分の指先が少し強く握られていることに気づく。
やがてコウが答えた。
「あんたらが言っていることもわかる」
吾妻の目がわずかに和らぐ。 だがコウはそのまま続けた。
「けど俺は囲われたくない。気ままなのがいいからな」
短い。 けれど、はっきりしていた。
鷹取が息をつく。
「感情で決めていい話じゃないよ」
「感情じゃない」
と、コウは返す。
「学連に入ったら、見えなくなる」
「何がだ」
「いろいろ」
曖昧な返答だった。
だが、それはコウなりの本音なのだと志乃には分かった。
守られる側の枠に入った瞬間、見えるものが変わる。
近づけなくなるものがある。
コウが追っているのは、ただの安全ではない。
黒い霧の正体。 TEBESの影。 ヤスの違和感。 その全部だ。
志乃は一歩だけ前へ出た。
「私も、反対です」
吾妻が志乃を見る。
責めるような目ではない。
だが、軽くは受け取っていない目だった。
「理由は?」
「コウを守りたいっていう気持ちは、学連とたぶん同じです。でも、だからって勝手に管理していいとは思わない。危ないから自由を減らすのは、正しいように見えて、たぶんすごく危ういです」
言いながら、自分でもどこまでうまく伝わっているか分からなかった。
それでも止まれなかった。
「白塔の時も、私たちは何が正しいのか分からないまま動いた。だからこそ、今度は“正しそうだから”で全部決めたくないんです」
鷹取が静かに言う。
「志乃さんは甘い」
「そうかもしれません」
志乃は頷いた。
「でも、守るって名目で本人の意思を飛ばすのは、もっと嫌です」
冷花がそこで初めて口を開く。
「私も教授と同意見です。警備強化や連携は必要、でも管理下に置くのは別問題。学連にも公安にも、全面的には預けられない」
その声音はいつも通り平坦だった。
だが言葉の切れ味は鋭い。
吾妻が視線を巡らせる。
教授。 志乃。 冷花。 そして水島。
「水島さんは」
と、吾妻が問う。
水島は少し肩をすくめた。
「俺か。俺はもともと、誰かを丸ごとどこかへ預けるって発想が嫌いなんだ。学連にも渡さない。公安なんてもってのほか。白神研究所だって、本人の意思抜きに囲うなら同じように反対する」
「徹底してるな」
と、吾妻が言う。
「中年は面倒くさいんだよ」
と、水島は気の抜けた調子で返す。
「大義名分ってやつが、どこで人間を潰し始めるか、若い頃よりよく見えるからな」
その言葉に、部屋の空気が少しだけ沈む。
誰も笑わなかった。
吾妻は腕を組み、しばらく考え込んでいた。
彼も頭ごなしに押し通そうとしているわけではない。
そのことも志乃には分かった。
分かった上で、なお学連の理屈は強い。
東都全体を守る立場にいる者の言葉だからだ。
だからこそ厄介だった。
「分かった」
と、吾妻が言った。
「現時点で強制はしない」
鷹取が驚いたようにそちらを見る。
だが吾妻は手で制した。
「ただし、提案は取り下げない。コウくんが狙われる可能性は高い。それは変わらない。少なくとも移動の連絡、夜間行動の制限、接触者の記録、このあたりは今まで以上に共有してもらう」
「共有はする」
と、白神教授が答える。
「合理的な範囲でならな」
「その“合理的”が問題なんだが」
と、水島がぼやく。
「お前が言うな」
と、教授が返した。
そのやり取りに、ほんのわずかだけ空気が緩む。
けれど本質的には何も解決していなかった。
学連の危機感も。
研究所側の拒絶も。
どちらも本物だ。
吾妻は最後にもう一度コウを見た。
「君はもう、自分一人の問題じゃない。それだけは忘れるな」
「分かってる」
と、コウは言う。
その返事に偽りはなかった。
だからこそ重かった。
学連側が席を立つ。
鷹取はまだ何か言いたげだったが、最後には口を閉じた。
扉が開いて、廊下の空気が少しだけ流れ込む。
その時だった。
志乃は部屋の入口の近くに、いつからいたのか分からない人影を見つけた。
ヤスだった。
壁にもたれかかるでもなく。
扉を開けたまま入ってくるでもなく。
ただ静かに、その場に立っていた。
さっきまでのやり取りを、どこから聞いていたのかは分からない。
けれど少なくとも途中からは、全部耳に入っていたはずだった。
「ヤス」 と、志乃が思わず名前を呼ぶ。
ヤスはいつものようにすぐ笑わなかった。
明るい顔も。 軽い調子も。 人懐っこい空気もない。
ただ妙に静かな顔で、部屋の中を見ていた。
その表情は長くは続かなかった。
次の瞬間には、いつもの調子へ戻っている。
だが、志乃にははっきり見えてしまった。
一瞬だけ覗いた、あの無音みたいな顔を。
「……なんか、すごい話してましたね」
と、ヤスが言う。
「入るタイミング、完全に間違えた気がする」
軽い声だった。
いつもの調子だった。
けれど今の志乃には、その自然さが逆に怖かった。
コウもまた、ヤスをじっと見ていた。
何も言わない。
だが、その沈黙の中で何かがまた一つ積み上がったのが分かった。
保護。 管理。 自由。 大義。
その全部の議論が終わったあとで、最後に残ったのは別の不穏だった。
東都を巡る思惑は、もう学連と研究所だけのものではない。
そして研究所の内側にいるこの男もまた、まだ正体の見えないまま、そこに立っていた。




