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ロストテクノロジーは誰のためにあるのか  作者: 維岡 真
第2章 絵札戦 第2節 もう一人の男

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面白いゲーム

その日の研究所は、妙に人の出入りが多かった。

学連から回ってくる第三区の報告。

公安特東部の介入。

黒い霧の新しい目撃情報。

机の上に積まれる紙も、端末に流れる文字も、どれも落ち着かないものばかりだった。


志乃は資料の整理をしながら、何度も息をついていた。

冷花は表情を変えずに情報を仕分けている。

白神教授も外面こそいつも通りだったが、目の動きだけは普段より鋭い。

研究所の空気そのものが、薄く張りつめている。


コウは端末の前に座っていたが、内容は頭に入ってこなかった。

第三区。 公安。 ネズミ。 TEBES。 ヤス。 黒い霧。

ひとつひとつが別々に見えて、その実どこかで一本につながっている気がする。

だが、その線の全体像はまだ見えない。


見えないまま、嫌な予感だけが積み上がっていく。


コウは小さく息を吐くと、席を立った。


「どこ行くの?」


と、志乃が顔を上げる。


「少し外」


それだけ言って、コウは研究所を出た。

志乃は追わなかった。

今の彼には、少し一人になる時間が必要だと分かっていたからだった。


研究所から少し離れた河原は、東都のざわめきが薄くなる場所だった。

街の音が完全に消えるわけではない。

遠くで車が走る音もする。

橋の上を渡る風の気配もある。

けれどここまで来ると、それらはもう背景の一部でしかなかった。


ネコヤナギの下。

白塔の一件が終わってから、コウがときどき足を運ぶようになった場所だった。

何かが解決するわけじゃない。

考えがまとまるわけでもない。

ただ、ここにいる時だけは、頭の中で無数に鳴っているものが少し遠のく。


コウは土手の斜面に腰を下ろした。

春を過ぎた風が、川面を撫でていく。

ネコヤナギの細い枝が、かすかに揺れた。


白塔の時もそうだった。

すべてが終わったわけじゃないと分かっていても、その場では戦うしかなかった。

今も似ている。

黒い霧の正体は見えていない。

ヤスのことも断じきれない。

学連も公安も、それぞれの理屈で動いている。

その全部の外側から、もっと大きな何かが盤面を揺らしている気がする。


使徒再生の後から、ときどきそういう感覚がある。

出来事の奥に、別の流れがある。

人の意志だけでは説明のつかない、不自然な連なり。

最近はそれが、妙にはっきりしてきていた。


コウはネコヤナギの幹へ背を預けた。

目を閉じる。

考えようとしていたはずなのに、思考は途中で途切れていく。

風が気持ちよかった。

水音が一定で。 研究所の人工的な音より、よほど眠気を誘う。


気づけば、そのまま浅く眠っていた。


どれくらい経ったのか分からない。

意識が浮いて、コウはゆっくり目を開けた。


すぐ隣に、人がいた。


コウの目が一気に冴える。

身体は反射的に半歩引こうとした。

だが、実際に動くより先に、その相手が笑った。


「おはよう。よく寝てたね」


相模だった。


まるで最初からそこにいたみたいに、ネコヤナギの下へ腰かけていた。

風景に溶け込むように自然なのに、いること自体はひどく不自然だった。


コウはすぐには声を出さなかった。

相模はそんな反応さえ面白いものとして受け取ったらしく、目を細める。


「そんなに警戒しなくてもいいのに。取って食いやしないよ」


「……何しに来た」


寝起きの鈍さはもう消えていた。

声だけが低く落ちる。

相模は肩をすくめる。


「偶然通りかかった……って言ったら信じる?」


「信じるわけないだろ」


「だよね」


くすくすと笑う。

相変わらず掴みどころがない。

年齢も。 立場も。

どこまで本気で、どこから遊んでいるのかも分からない。


コウは河原の空気ごと観察するみたいに相模を見た。

気配が薄いわけではない。

むしろ妙に存在感がある。

なのに、輪郭だけが曖昧だ。

見ているのに掴めない。

そんな感じだった。


「用件はなんだ?」


と、コウが言う。


相模は川の方を見た。

流れる水面に陽が反射している。

その光を眺めながら、独り言みたいに呟く。


「東都は楽しくなってきたね。黒い霧、第三区、外から来たお役人さんたち。みんな、せっせと盤面を動かしてる」


コウの眉が寄る。


「盤面?」


「うん」


相模は軽く頷いた。


「でも、あれ全部まだ前座だよ。準備運動みたいなもの。本番はこれから」


風が吹く。

ネコヤナギの細枝が揺れて、かすかな影がコウの頬を横切った。


「何を知ってる」


と、コウが訊く。


「全部だよ。これから起こること全部」


相模は楽しそうだった。

挑発しているというより、本当にこの状況そのものを面白がっているように見える。


「君たち、今はまだ“事件が起きてる”って思ってるでしょ。黒い霧が出て、第三区が荒れて、誰かが入り込んできてそれを止めなきゃって。


相模は楽しそうに続ける。


「それらは間違ってないよ。けど、そこが本質ではない」


コウは黙って聞いていた。


相模の言葉は、最初から答えを渡す気がない。

いつだってそうだ。

何かを教えるふりをして、肝心なところは自分で拾えと言う。

だから腹が立つ。

だが、完全な嘘も混ぜていない。


「本質」 と、コウが繰り返す。


「そう。事件が起きてるんじゃない。起こされてるんだよ。もっと言えば、配置されてる。どこで誰がぶつ

かると、どんな音が鳴るか。試してる人たちがいる」


「TEBESか」


TEBES。

その名が、コウの中で浮いた。

白塔の後も、完全には消えなかった影。

裏側でずっと動いている気配だけがある組織。


相模はそれを見透かしたみたいに笑う。


「いい顔だ。ちゃんとそこへ行き着くんだね」


相模はすぐには答えなかった。

代わりに、地面の小石をひとつ拾って川へ投げた。

小さな音を立てて、水面が輪を広げる。


「名前はどうでもいいよ。呼び方なんて、あとからいくらでもつけられる。大事なのは、誰かがもう次の手を打ち始めてるってこと。君もヤスも学連も公安も。みんな、思ってるよりずっと近いところに置かれてる」


「ヤス」


その名に、相模の目が少しだけ笑う。


「気になるよね。分かるよ。だって、あれは分かりにくい。すごく人間っぽいのに、ちょっとだけずれてる。そういうのって、一番厄介だ」


コウの視線が鋭くなる。


「知ってるのか」


「知ってることもある。知らないこともある。でも、全部知ってる人なんてたぶんいないよ。ゲームってそういうものだから。ただし……」


相模はありったけの笑顔を浮かべる。


「ゲームマスター以外はね」


ゲーム。

人が傷ついている。

東都は確実に荒れ始めている。

それをそんな言葉で括ること自体が、コウには気に入らなかった。


「ふざけるな」 と、コウが低く言う。


相模は怒らない。

むしろ少し嬉しそうに笑った。


「うん、その反応の方が君らしい。でも、ふざけてるわけじゃないよ。盤上で動いてる人間にとっては現実でも並べてる側にとっては、だいたいゲームだ」


その言葉は、ひどく冷たかった。

冷たいのに、妙に真実味がある。

だからなおさら不快だった。


コウは相模を睨んだ。

目の前にいるこいつ自身が、どちら側なのか分からない。

動いている駒なのか。

並べている側なのか。

あるいは、そのどちらでもないのか。


「お前は何なんだ」


相模は少しだけ首を傾げた。


「難しいこと聞くなあ。観客、進行役、あるいは、少しだけ先を知ってる親切な人」


「どれも違う」


「たぶんね」


笑う。

答える気は最初からない。

ただ、こちらが苛立つのを見て楽しんでいる。

それすら本心の全部ではないのだろうと思うと、なおさら質が悪い。


しばらく沈黙が落ちた。

川の音だけが続く。

東都から少し離れたはずのこの場所でさえ、いまは休める場所ではなくなっている。


やがて相模が立ち上がった。

服の裾を軽く払う。

その仕草ひとつまで、妙に気配が薄い。


「じゃあ、そろそろ行くよ」


「待て」


コウの声に、相模は振り返る。


「これから何が起きる?」


質問は短かった。

相模は少しだけ考えるふりをして、それから笑った。


「面白いゲームが始まる」


それだけだった。


黒い霧のことも。

第三区のことも。

公安のことも。

TEBESのことも。

全部ひっくるめて、その先にまだ何かあるのだと告げる言い方だった。


「君はたぶん、もう盤面の外には戻れない。でも大丈夫。退屈しないから」


最後まで、人を食ったような口調だった。


相模はそのまま土手を上がっていく。

引き止めようと思えばできたかもしれない。

だがコウは動かなかった。

動けなかったという方が近い。

追っても、捕まえられる気がしなかった。

それだけじゃない。

今の言葉の意味を、少しでも頭の中で整理する方が先だった。


相模の姿が見えなくなる。

河原に残ったのは、水音と風だけだった。


コウはしばらくその場に立ち尽くしていた。

盤面。 配置。 ゲーム。

不快な言葉ばかりだった。

だが否定しきれない。

黒い霧も、第三区も、公安の突然の介入も、全部があまりに出来すぎている。

偶然ではなく、誰かが順番に置いていると考えた方が自然なくらいだった。


そして、その中心にTEBESがいる。

確証はまだない。

だが、もう気配の話では済まないところまで来ている。


コウはゆっくりと研究所への道を引き返した。


夕方の研究所は、昼より少し静かになっていた。

それでも机の上には資料が積まれ、端末の灯りは消えていない。

志乃と冷花は別室にいるらしく、今この部屋にいたのは水島桃李だけだった。


水島はくたびれたジャケットのまま椅子に腰を下ろし、何かの古い記録を読んでいた。

中央図書館帰りなのか、紙の匂いがしそうな顔をしている。

扉の気配に気づくと、目だけを上げた。


「戻ったか。ずいぶん静かな顔してるな」


コウは水島の前まで来て、短く言った。


「TEBESが動く」


水島の手が止まる。

紙をめくる音も消えた。


「……誰に聞いた」


「相模」


その名に、水島の目が細くなる。

軽く冗談で返す空気ではなかった。


「厄介なのに会ったな」 と、水島が低く言う。


「ああ」 コウは頷く。


「黒い霧も第三区も外から来た連中も。まだ前座だって」


水島はしばらく黙っていた。

やがて椅子の背にもたれ、小さく息を吐く。


「最悪だな。最悪だが、筋は通るのがまた最悪だ」


コウは何も言わなかった。

水島も、それ以上すぐには続けない。


研究所の窓の外では、東都の空がゆっくり夜へ沈み始めていた。

平穏そうに見える街並みの裏側で、見えない手が盤を整えている。

その実感だけが、じわじわと重く広がっていく。


ゲームが始まる。

いや、もう始まっているのかもしれない。


コウは窓の向こうを見ながら、胸の奥に沈む不穏をはっきりと知った。


自分たちはもう、誰かの用意した盤上に立たされている。

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