東都の外の倫理
第三区へ向かう車内は、静かだった。
学連の車両が先行し、その後ろを公安特東部の車がついてくる。
同じ現場へ向かっているはずなのに、背後に別の街の論理がぴたりと張りついているようで、ひどく気分が悪い。
助手席で端末を確認していた鷹取シズクが、画面から目を離さずに言う。
「紅叉と月砂、まだ完全にはぶつかってません。でも、南側の通りでまた人が集まり始めてます。煽りも入ってるみたいです」
「黒い霧は?」
と、吾妻が訊く。
「目撃は今のところないみたいです。ただ、過去事例から推察するにこういう諍いが起きている時ほど出る気がします」
「だろうな」
短く返しながらも、吾妻の意識は後方の車へ向いていた。
公安特東部。 前島辰典。 蒲村姫菜。 藤原。 一ノ瀬護。
一番面倒なのは、あいつらがただの口出し役ではないことだ。
東都に詳しくない人間が正論だけを振りかざすなら、まだ扱いようがある。
だがあの連中は、現場に立つ気でいる。
だからこそ厄介だった。
「総隊長」
と、シズクが小さく呼ぶ。
「本当に奴らと一緒に現場に入るんですか?」
「入れるしかない。ここで弾いても、おそらく何かしら別ルートを使ってくるだろう。だったら目の届く場所にいた方がまだましだ」
「そうですか……納得はしてないですよね?」
「してるように見えるか?」
シズクは小さく息をついた。
見えるはずがない。
吾妻の声音は、普段より一段低かった。
第三区へ着く頃には、空は完全に夜へ沈んでいた。
歓楽街のネオン。 路地の影。 湿った空気。
人の多い街なのに、どこか呼吸が浅い。
何か起きる前の街特有の張りつめ方だった。
車両を降りると、後続の公安側もすぐに出てくる。
前島はネクタイを少し緩め、周囲を見回した。
「ほんとに嫌な空気してるな、ここ」
「観光案内じゃないからな」
と、吾妻が言う。
「分かってるって。だから来たんだろ」
軽い調子だった。
だがその目は、もう現場の目をしている。
気の抜けた中年男の皮を一枚剥ぐと、そこにいるのは経験で立っている警察官だった。
蒲村は通りの先を見ながら、低く呟く。
「勢力の境目が近すぎる。しかも人の流れが自然じゃない。誰か、わざとぶつかる導線作ってるわね」
「こっちも同じ見立てだ」
と、シズクが答える。
一ノ瀬は何も言わず、地面や建物の配置、人の流れを順に見ていた。
霊気力者ではないはずなのに、空間全体の危険を測る目だけは異様に鋭い。
吾妻はそれが気に入らなかった。
隊員たちが先行して展開していく。
南側の通り。
紅叉と月砂が接触しやすい位置。
騒ぎが起きれば一気に連鎖する。
吾妻は歩きながら言う。
「先に聞いておくが、さっきの話、本気で言ってるのか?」
「さっきの話って?」
「惚けるな。東都の主導権を公安へ寄せろってやつだ」
前島が肩をすくめた。
「まぁ一応本気ってことになるわな。冗談だったらこんな風に面倒な同行はしない」
「そうか……」
吾妻は前を向いたまま言う。
「東都は外から眺めて分かる街じゃない。学連が積み上げてきた均衡の上で成り立ってる」
吾妻は続ける。
「勢力同士の距離感も、住んでる人間の呼吸も、全部込みだ。外部の正論だけで踏み込めば、火種は増える」
「甘いな」
と、すかさず一ノ瀬が口を挟んだ。
その一言で空気が変わる。
吾妻が足を止める。
一ノ瀬も止まる。
雑踏の音はある。
ネオンも光っている。
なのにその一角だけ、妙に静かだった。
「どういう意味だ?」
と、吾妻が低く返す。
一ノ瀬の声は平坦なままだった。
「ぬるいって意味だ。均衡は大事だ。自治も分かる。でも、外から食われ始めてる時点で、その理屈は一段遅い。守ってきたことと、守り切れることは別だ」
「知ったような口を利くな。東都を回してきたのはこっちだ。外から来た連中に、街の呼吸まで分かるはずがない」
「分からないから、壊れかけてるのを見てる」
と、一ノ瀬は返す。
「内側にいる人間ほど、“まだ保ってる”って言いたがる。それが一番危ない」
シズクが口を挟もうとしたが、前島が手で制した。
止めない。
止めるつもりがない。
むしろここでぶつからせて、何かを測る気でいる。
吾妻は一ノ瀬を真正面から見た。
「だったら何だ? 国家の看板があれば全部うまくいくのか? 上から秩序を被せれば、この街の火種は消えるのか?」
「わからない」
一ノ瀬は即答した。
「だが、切る順番は変えられる。燃え広がる前に潰す。それが外の論理だ」
「だからお前らは嫌われる」
「嫌われて済むなら安い」
その言葉に、吾妻の中で何かが切り替わった。
視線がぶつかる。
言葉の押し引きではない。
互いの立ち位置そのものが、ここで食い違っていた。
前島がため息混じりに言う。
「やるなら短くしてくれよ。今は現場の途中なんだから」
蒲村は呆れたように額へ手を当てた。
「本当に男ってこういう時すぐ始める」
藤原だけが、何も言わず二人を見ていた。
吾妻は一歩踏み出した。
「霊気力もないのに、よくそこまで言えるな」
「関係ない」
と、一ノ瀬が答える。
「殴るのに必要なのは、別にそれだけじゃない」
次の瞬間だった。
吾妻が先に動いた。
速い。
呼吸を潰す前の踏み込みとしては、ほとんど迷いがない。
真正面からではない。
相手の視線をずらす角度で一気に間合いへ入る。
だが、一ノ瀬はそこで慌てなかった。
受けるでも、かわすでもない。
立った位置のまま、身体の軸だけを滑らせる。
まるで水の流れに乗るみたいに、最小限の動きで吾妻の踏み込みを横へ流した。
吾妻の眉がわずかに動く。
その一瞬のずれへ、一ノ瀬の手が入る。
叩くようでも、押すようでもない。
肩口へ触れるだけの動き。
だがその接触で、吾妻の上体がわずかに浮いた。
呼吸が崩れる。
「っ……」
吾妻はすぐに足を引き直し、反撃へ入る。
肘。 膝。
霊気を乗せた近距離の連撃。
どれも軽い打ち合いで終えるつもりの動きではない。
力量を測るための、本気に近い圧だった。
それでも一ノ瀬は崩れない。
真正面から受けない。
相手の打点を外す。
重心の流れへ、自分の身体を差し込む。
呼吸と間を一拍ずつずらし、吾妻のリズムそのものを壊していく。
システマ。
だが教本通りのものではない。
もっと削ぎ落として、実戦に合わせて歪めたような体術だった。
シズクが息を呑む。
「総隊長が……押されてる」
吾妻は押し切ろうと踏み込む。
霊気力者としての強さなら、自分が上だ。
それは事実だった。
一発でもまともに入れば、主導権は奪い返せる。
だが、その“一発”の位置に、一ノ瀬がいない。
詰めたと思った距離が、半歩ずれている。
刺したはずの間合いが、息を吸うだけで空転する。
攻めているのに、なぜか自分の呼吸ばかりが削られていく。
一ノ瀬が吾妻の手首へ軽く触れた。
引かない。 押さない。
ただ、軸を読むみたいに指を添える。
次の瞬間、吾妻の体勢がわずかに泳いだ。
そこへ、一ノ瀬の肩が入る。
大きな動きではなかった。
派手さもない。
なのに、吾妻の身体は半歩、確かに押し戻されていた。
空気が止まる。
学連の隊員たちも。
公安の面々も。
その短いやり取りの意味を、全員が理解していた。
霊気力を持たない男が、吾妻の間合いを読んで押し返した。
吾妻はすぐに踏みとどまる。
膝を割らない。
姿勢も崩さない。
だが、押し込まれたという事実だけは消えなかった。
一ノ瀬が一歩引く。
「こういうことだ。厄介な現実っていうのは」
吾妻の目が鋭く細まる。
「……言いたいことは」
「東都の外には、お前らが慣れてない相手がいる。霊気力だけじゃ計れない連中もいる」
一ノ瀬は続ける。
「TEBESが本格的に入ってるなら、なおさらだ。今の均衡に頼ってるだけじゃ、いずれ食い破られる」
吾妻は息を整えた。
悔しさはある。
だがそれを表に出すほど浅くはない。
むしろ今ので、目の前の男が本物だと分かった。
だからこそ、余計に退けなかった。
「それでもだ」
と、吾妻は言う。
「東都を外へ明け渡す気はない」
その声は、先ほどまでより低く、硬かった。
「ここは実験場でも演習場でもない。住んでる人間がいる。積み重ねた関係がある。それを“遅れてるから”で切り捨てるなら、外の論理の方がお断りだ」
一ノ瀬は数秒、黙って吾妻を見た。
その無表情の奥で、何かを測っているようだった。
「感情論だな」
「上等だ」
吾妻は即座に返す。
「街を守るのに、感情を抜いて回せると思うな」
二人の間に、再び緊張が張る。
今度はさっきより静かで、もっと深い。
そこへ、前島が歩み出た。
さっきまでの、気の抜けたような中年男の顔ではなかった。
口元の軽さが消えている。
目だけがまっすぐ吾妻を見る。
「もういい」
と、前島が言う。
誰も口を挟まない。
前島は吾妻に向き直ったまま、低く続けた。
「言い分は分かる。学連がここを守ってきたこともな。でも、もう時間がない」
それだけだった。
軽薄そうな態度は、完全に消えていた。
その一言の重さだけで、場の温度が変わる。
吾妻は前島を見る。
冗談でも、脅しでもない。
現場をいくつも見てきた人間の声だった。
その直後。
隊員の一人が通りの向こうから駆けてきた。
「総隊長、南側で接触です。紅叉と月砂、やり合い始めました」
現実が、また彼らを引き戻す。
吾妻は短く息を吐いた。
公安への苛立ちも。
一ノ瀬に押し返された感触も。
前島の言葉の重さも。
全部まとめて胸の奥へ押し込み、前を向く。
「行くぞ」
と、吾妻が言う。
シズクがすぐに動く。
隊員たちも駆ける。
公安の面々も続いた。
第三区のネオンが、夜の奥で不穏に滲んでいる。
東都の外の論理と、東都の内側の均衡。
そのどちらが正しいかは、まだ決まっていない。
だが少なくともひとつだけ、はっきりしたことがある。
もう、猶予はない。
火種は、すでに街の中でいくつも口を開けていた。




