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ロストテクノロジーは誰のためにあるのか  作者: 維岡 真
第2章 絵札戦 第2節 もう一人の男

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ネズミが入った

第三区の空気は、このところずっと悪かった。

表向きはいつも通り、人も車も流れている。

店は開き、ネオンは光り、夜になれば酔客の声も上がる。

だが、その下に流れているものが違う。

少し前までなら睨み合いで済んでいたはずの熱が、今は最初から火のついたまま街の隅に置かれているようだった。


学連本部でも、そのざらつきは共有されていた。


夜前の作戦室。

壁際の端末には第三区周辺の簡易地図と監視記録が並び、机の上には巡回班の配置表が広げられている。 ここ数日の小競り合い。 黒い霧の目撃地点。

紅叉と月砂の構成員の移動傾向。

一つ一つはまだ小さい。

だが、まとめて見れば明らかにおかしかった。


吾妻は資料へ目を落としたまま、低く言った。


「南側の路地裏に紅叉が寄ってる。月砂もそれを見て数を増やしてる。正面からぶつかる前に挟む。今日は絶対に火をつけるな」


周囲の隊員たちが短く応じる。

緊張はある。

だが混乱はない。

この数日で、学連の側も嫌というほど空気に慣らされていた。


鷹取シズクが別の端末から顔を上げる。


「第三区だけじゃなく、西側の境でも人の出入りが増えてます。流しの術者だけじゃないです。見慣れない顔が、少しずつ入ってきてる」


「数は?」 と、吾妻が問う。


「詳細はまだ。けど、点じゃなくて線です。誰かが通してる感じがします」


吾妻は小さく息を吐いた。

嫌な話だった。

東都はもともと、外から人も情報も流れ込む街だ。

それ自体は珍しくない。

だが今の出入りには、偶然では済まない偏りがある。


その時、後方の扉が開いた。

伝令役の隊員がやや急いだ足取りで入ってくる。


「総隊長、外から情報です」


「言え」


「第三区の件とは別口で、“ネズミが入った”との情報が。まだ表では動いていませんが、受け渡し役が東都側にいる可能性が高いそうです」


部屋の空気が、一段階冷えた。


ネズミ。

それは東都の内側で使う隠語だった。

ただの潜入者ではない。

街へ入り込み、情報を流し、必要なら火種をばらまき、騒ぎが大きくなる前に姿をくらます者。

組織の先触れであり、侵食の最初の歯でもある。


鷹取が眉を寄せる。


「第三区と同時ですか」


「同時じゃない」


と、吾妻が言った。


「合わせてきてる」


誰かが、いくつもの問題を並べている。

黒い霧。 第三区の軋み。 外から入るネズミ。

別件に見せかけて、街の均衡を細かく削るように。


吾妻は配置表の上に手を置いたまま、数秒だけ考える。

すぐに顔を上げた。


「第三区は予定通り抑える。ただし、二班は途中で切り離す。西側境界の確認に回せ。動きが見えたら追うな。足取りだけ拾え」


「了解」


「シズク、お前は俺と来い」


「はい」


命令が飛ぶ。

隊員たちが散る。

机の上の資料はそのままなのに、部屋の空気だけが一気に実戦のそれへ切り替わる。


吾妻は上着を取った。

羽織りながら、端末の画面を一瞥する。

第三区。 紅叉。 月砂。 黒い霧。

そして、外から入るネズミ。


一つだけでも面倒だ。

それが今は、噛み合わせるように同時に来ている。


「面倒事はまとめて来るな……」


小さく吐き捨てて、吾妻は作戦室を出た。


本部の廊下は、夜前特有の忙しなさに満ちていた。

連絡が飛び交い、装備班が動き、外回りの隊員が足早に行き来する。

その中心を抜けながら、吾妻はずっと思考を回していた。


ネズミが入った。

それが事実なら、東都はもう内輪の不和だけで揺れている段階ではない。

外から手が伸びている。

しかも、かなり前から準備されていた形跡がある。


黒い霧の件も頭をよぎる。

研究所側が追っているあの異常。

自然発生に見えない干渉体。

もしあれと、今回の潜入が同じ線上にあるなら。

東都はすでに盤面の上へ置かれている。


本部の自動扉が開く。

夜の空気が流れ込んだ。


その瞬間、吾妻は足を止めた。


本部前の車寄せに、見慣れない車両が停まっていた。

公用車だ。

だが学連のものではない。

車体に派手な表示はない。

それでも、漂う空気が違う。

妙に整いすぎている。

余計なものを全部削ぎ落としたような、乾いた緊張があった。


車のそばに、数人の人影が立っている。


一人は四十代半ばほどの男だった。

スーツの着こなしはややくたびれて見える。

立ち姿も、どこか気の抜けたような雰囲気がある。

だが、その目だけは眠そうに見えて眠っていない。

場の空気を全部測ってから、わざと力を抜いている人間の目だった。


その脇には、鋭い顔立ちの女がいる。

三十代前半ほど。

姿勢に無駄がなく、こちらを見返す視線にも一切の遠慮がない。

現場慣れしているのが、一目で分かった。


さらに少し後ろ。

落ち着いた様子の男が一人。

目立つタイプではない。

だが、いるだけで場の輪郭が整うような静けさがある。


そして、もう一人。


若い男だった。

吾妻とそう年は離れていないように見える。

細身。 無駄のない立ち方。 霊気力者特有の圧は感じない。

なのに、妙に目が離せない。

こちらの呼吸や重心まで見られているような、そんな居心地の悪さがあった。


鷹取が小さく声を落とす。


「……誰ですか」


「分からん」


と、吾妻は短く答えた。


「だが、面倒なのは分かる」


その予感は当たっていた。


くたびれた印象の男が、一歩前へ出る。

柔らかく手を上げる仕草は人懐っこくすら見えるのに、距離の詰め方だけは妙に正確だった。


「どうもどうも、お忙しいところ悪いねえ。学連の総隊長さんで合ってるかな」


軽い。

軽いが、それは侮っていい軽さではなかった。


吾妻は表情を崩さない。


「ああ、そうだ。用件は?」


男は笑った。

疲れた会社員みたいな笑い方だった。


「いやぁ、せっかちだな。でも助かる。こっちも挨拶だけで済むほど暇じゃない」


そこで男は胸元から手帳を取り出した。

開いて見せる動作に無駄がない。


「公安庁特別東都対策部。前島辰典。一応、部長をやってる」


公安。

その言葉に、鷹取の気配がわずかに張った。


前島の後ろで、鋭い目の女が腕を組む。


「蒲村姫菜。駄話をしに来たわけじゃないから、手短に済ませるわ」


落ち着いた男も一礼する。


「藤原です。急な訪問ですみません」


最後に、若い男が一歩だけ前へ出た。

表情らしい表情はほとんどない。

だが、その静けさが妙に目立つ。


「一ノ瀬護。警部です」


短い。

それだけだった。

にもかかわらず、四人の中で一番輪郭が鋭く見える。


吾妻は名乗りを聞き終えても、道を開けなかった。


「公安が何の用だ。事前連絡もなく学連本部の前に立つ趣味でもあるのか」


前島が「はは」と乾いた笑いを漏らす。


「できれば、もっと穏やかに来たかったんだけどね。そうも言ってられなくなった。東都にネズミが入ってる」


吾妻の目が細くなる。

鷹取も息を止めた。


「……その話なら、こっちも掴んでる」


「だろうね」


と、前島は頷く。


「問題は数と質だ。ちょろっと入り込んだ、って程度じゃない。着々と潜ってる。しかも、ただのならず者じゃない」


そこで蒲村が言葉を引き取った。


「TEBESよ。東都に、あいつらの人員が入ってる。このままだと、ここが内側から食われるのも時間の問題」


夜気が、さらに冷たく感じられた。


TEBES。

その名は、白塔の件以降、完全に消えたわけではなかった。

だが今こうして公安の口から改めて出ると、単なる噂では済まない重さを持つ。


吾妻は即座には返さない。

一拍だけ置いて、言った。


「証拠は?」


一ノ瀬が初めて明確に口を開く。


「あるから来てる。ただし、全部はまだ出せない。捜査線上の情報も混じってる」


声は平坦だった。

抑揚が薄い。

なのに、言葉の端が妙に硬い。

それが吾妻には気に入らなかった。


「出せない情報で、こっちに何を飲ませるつもりだ」


「警戒と協力だ」


と、一ノ瀬は言う。


「本当はそれじゃ足りないけどな。東都の治安権限そのものを、特東部へ寄せてもらいたいくらいだ」


鷹取の視線が鋭くなる。

吾妻の口元から、わずかに温度が消えた。


「ずいぶん踏み込むな」


「踏み込まなきゃ手遅れになる」


と、蒲村が言った。


「学連がこの街を回してきたことは知ってる。でも今は、内輪の均衡でどうにかなる段階を越えつつあるの。TEBESが根を張り始めたら、自治区気分じゃ済まない」


「自治区気分、か」


吾妻は低く繰り返す。


「言ってくれる」


藤原が間へ入るように口を開いた。


「敵対したいわけではありません。ただ、外から見れば今の東都は脆い。黒い霧の連続事件、第三区の不穏、そこへ外部浸透です。偶然が重なりすぎている」


「だから主導権を寄こせと」


と、吾妻が返す。


前島が肩をすくめた。


「端的に言えば、そういうことになるかなぁ。もちろん、明日にでも全部寄こせって話じゃない。でも、もう“学連だけで何とかします”って顔してる段階じゃない」


その言い方は柔らかい。

だが内容は真っ向から喧嘩だった。


本部前の空気がぴんと張る。

出入り口の近くにいた隊員たちも、さすがにただならぬ空気を感じたのか、視線だけをこちらへ向けている。


吾妻は四人を順に見た。

前島。 蒲村。 藤原。 一ノ瀬。


どいつも曲者だ。

その中でも、一ノ瀬の存在だけが妙に引っかかる。

霊気力を持たない。

それは気配で分かる。

なのに、場に立った時の圧が妙に深い。

武装しているわけでもないのに、素手の方が危険だと直感する類の人間だった。


一ノ瀬もまた、吾妻を見ていた。

視線がぶつかる。

静かなまま、互いに少しも引かない。


前島がわざとらしく咳払いをした。


「ま、今ここで全部決める必要はない。でも話はしたい。君らが抱えてる案件、たぶんもう東都の中だけで閉じる話じゃないから」


吾妻はしばらく黙っていた。

第三区へ向かわなければならない。

ネズミの件も動いている。

こんなところで足を止めている時間はない。

それでも、この連中を無視して出るには、相手が重すぎた。


「……今から現場だ」


と、吾妻は言う。


「続きは戻ってからにしろ」


蒲村が眉を上げる。


「現場って、第三区? ちょうどいいじゃない。私たちもついて行くわ」


「勝手に決めるな」


と、鷹取が鋭く返す。


だが前島は困ったように笑うだけだった。


「いやぁ、ほんと若い子は元気だねえ。でも現場を見るのは大事だろ。口だけで介入する気はない。どれだけ荒れてるか、自分たちの目でも確かめる」


吾妻はその笑顔の奥を見た。

柔らかく見せているが、引く気はない。

今ここで断っても、別の形で食い下がってくる。

そういう種類の連中だ。


そして何より、TEBESの名を出してきた以上、無視はできない。


「好きにしろ」


と、吾妻は言った。


「ただし、ここはまだ学連の街だ。現場で余計なことはするな」


一ノ瀬が、ごくわずかに口元を動かした。

笑ったのかどうかも分からない程度の変化だった。


「了解。今は、な」


その一言だけで、鷹取の眉がぴくりと動く。

吾妻は何も言わず、踵を返した。


第三区へ向かう車列が動き出す。

学連の車両。

その後ろへ、公安の車両がぴたりと続く。


夜の東都が、フロントガラスの向こうに伸びていた。

ネオン。 信号。 雑踏。 見慣れた街だ。

だが今夜から、その景色の見え方は少し変わる。


第三区で燻る火種。

東都へ入り込んだネズミ。

再びちらつき始めたTEBES。

そして、本来なら外にいるはずの国家権力が、ついに本部前まで来た。


東都の均衡は、もう内側だけの問題ではなくなり始めていた。


吾妻は窓の外を見たまま、低く呟く。


「……面倒なのが来たな」


それは公安のことでもあり。

TEBESのことでもあり。

そして、これから東都へ押し寄せるもの全部に向けた言葉でもあった。

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