ネズミが入った
第三区の空気は、このところずっと悪かった。
表向きはいつも通り、人も車も流れている。
店は開き、ネオンは光り、夜になれば酔客の声も上がる。
だが、その下に流れているものが違う。
少し前までなら睨み合いで済んでいたはずの熱が、今は最初から火のついたまま街の隅に置かれているようだった。
学連本部でも、そのざらつきは共有されていた。
夜前の作戦室。
壁際の端末には第三区周辺の簡易地図と監視記録が並び、机の上には巡回班の配置表が広げられている。 ここ数日の小競り合い。 黒い霧の目撃地点。
紅叉と月砂の構成員の移動傾向。
一つ一つはまだ小さい。
だが、まとめて見れば明らかにおかしかった。
吾妻は資料へ目を落としたまま、低く言った。
「南側の路地裏に紅叉が寄ってる。月砂もそれを見て数を増やしてる。正面からぶつかる前に挟む。今日は絶対に火をつけるな」
周囲の隊員たちが短く応じる。
緊張はある。
だが混乱はない。
この数日で、学連の側も嫌というほど空気に慣らされていた。
鷹取シズクが別の端末から顔を上げる。
「第三区だけじゃなく、西側の境でも人の出入りが増えてます。流しの術者だけじゃないです。見慣れない顔が、少しずつ入ってきてる」
「数は?」 と、吾妻が問う。
「詳細はまだ。けど、点じゃなくて線です。誰かが通してる感じがします」
吾妻は小さく息を吐いた。
嫌な話だった。
東都はもともと、外から人も情報も流れ込む街だ。
それ自体は珍しくない。
だが今の出入りには、偶然では済まない偏りがある。
その時、後方の扉が開いた。
伝令役の隊員がやや急いだ足取りで入ってくる。
「総隊長、外から情報です」
「言え」
「第三区の件とは別口で、“ネズミが入った”との情報が。まだ表では動いていませんが、受け渡し役が東都側にいる可能性が高いそうです」
部屋の空気が、一段階冷えた。
ネズミ。
それは東都の内側で使う隠語だった。
ただの潜入者ではない。
街へ入り込み、情報を流し、必要なら火種をばらまき、騒ぎが大きくなる前に姿をくらます者。
組織の先触れであり、侵食の最初の歯でもある。
鷹取が眉を寄せる。
「第三区と同時ですか」
「同時じゃない」
と、吾妻が言った。
「合わせてきてる」
誰かが、いくつもの問題を並べている。
黒い霧。 第三区の軋み。 外から入るネズミ。
別件に見せかけて、街の均衡を細かく削るように。
吾妻は配置表の上に手を置いたまま、数秒だけ考える。
すぐに顔を上げた。
「第三区は予定通り抑える。ただし、二班は途中で切り離す。西側境界の確認に回せ。動きが見えたら追うな。足取りだけ拾え」
「了解」
「シズク、お前は俺と来い」
「はい」
命令が飛ぶ。
隊員たちが散る。
机の上の資料はそのままなのに、部屋の空気だけが一気に実戦のそれへ切り替わる。
吾妻は上着を取った。
羽織りながら、端末の画面を一瞥する。
第三区。 紅叉。 月砂。 黒い霧。
そして、外から入るネズミ。
一つだけでも面倒だ。
それが今は、噛み合わせるように同時に来ている。
「面倒事はまとめて来るな……」
小さく吐き捨てて、吾妻は作戦室を出た。
本部の廊下は、夜前特有の忙しなさに満ちていた。
連絡が飛び交い、装備班が動き、外回りの隊員が足早に行き来する。
その中心を抜けながら、吾妻はずっと思考を回していた。
ネズミが入った。
それが事実なら、東都はもう内輪の不和だけで揺れている段階ではない。
外から手が伸びている。
しかも、かなり前から準備されていた形跡がある。
黒い霧の件も頭をよぎる。
研究所側が追っているあの異常。
自然発生に見えない干渉体。
もしあれと、今回の潜入が同じ線上にあるなら。
東都はすでに盤面の上へ置かれている。
本部の自動扉が開く。
夜の空気が流れ込んだ。
その瞬間、吾妻は足を止めた。
本部前の車寄せに、見慣れない車両が停まっていた。
公用車だ。
だが学連のものではない。
車体に派手な表示はない。
それでも、漂う空気が違う。
妙に整いすぎている。
余計なものを全部削ぎ落としたような、乾いた緊張があった。
車のそばに、数人の人影が立っている。
一人は四十代半ばほどの男だった。
スーツの着こなしはややくたびれて見える。
立ち姿も、どこか気の抜けたような雰囲気がある。
だが、その目だけは眠そうに見えて眠っていない。
場の空気を全部測ってから、わざと力を抜いている人間の目だった。
その脇には、鋭い顔立ちの女がいる。
三十代前半ほど。
姿勢に無駄がなく、こちらを見返す視線にも一切の遠慮がない。
現場慣れしているのが、一目で分かった。
さらに少し後ろ。
落ち着いた様子の男が一人。
目立つタイプではない。
だが、いるだけで場の輪郭が整うような静けさがある。
そして、もう一人。
若い男だった。
吾妻とそう年は離れていないように見える。
細身。 無駄のない立ち方。 霊気力者特有の圧は感じない。
なのに、妙に目が離せない。
こちらの呼吸や重心まで見られているような、そんな居心地の悪さがあった。
鷹取が小さく声を落とす。
「……誰ですか」
「分からん」
と、吾妻は短く答えた。
「だが、面倒なのは分かる」
その予感は当たっていた。
くたびれた印象の男が、一歩前へ出る。
柔らかく手を上げる仕草は人懐っこくすら見えるのに、距離の詰め方だけは妙に正確だった。
「どうもどうも、お忙しいところ悪いねえ。学連の総隊長さんで合ってるかな」
軽い。
軽いが、それは侮っていい軽さではなかった。
吾妻は表情を崩さない。
「ああ、そうだ。用件は?」
男は笑った。
疲れた会社員みたいな笑い方だった。
「いやぁ、せっかちだな。でも助かる。こっちも挨拶だけで済むほど暇じゃない」
そこで男は胸元から手帳を取り出した。
開いて見せる動作に無駄がない。
「公安庁特別東都対策部。前島辰典。一応、部長をやってる」
公安。
その言葉に、鷹取の気配がわずかに張った。
前島の後ろで、鋭い目の女が腕を組む。
「蒲村姫菜。駄話をしに来たわけじゃないから、手短に済ませるわ」
落ち着いた男も一礼する。
「藤原です。急な訪問ですみません」
最後に、若い男が一歩だけ前へ出た。
表情らしい表情はほとんどない。
だが、その静けさが妙に目立つ。
「一ノ瀬護。警部です」
短い。
それだけだった。
にもかかわらず、四人の中で一番輪郭が鋭く見える。
吾妻は名乗りを聞き終えても、道を開けなかった。
「公安が何の用だ。事前連絡もなく学連本部の前に立つ趣味でもあるのか」
前島が「はは」と乾いた笑いを漏らす。
「できれば、もっと穏やかに来たかったんだけどね。そうも言ってられなくなった。東都にネズミが入ってる」
吾妻の目が細くなる。
鷹取も息を止めた。
「……その話なら、こっちも掴んでる」
「だろうね」
と、前島は頷く。
「問題は数と質だ。ちょろっと入り込んだ、って程度じゃない。着々と潜ってる。しかも、ただのならず者じゃない」
そこで蒲村が言葉を引き取った。
「TEBESよ。東都に、あいつらの人員が入ってる。このままだと、ここが内側から食われるのも時間の問題」
夜気が、さらに冷たく感じられた。
TEBES。
その名は、白塔の件以降、完全に消えたわけではなかった。
だが今こうして公安の口から改めて出ると、単なる噂では済まない重さを持つ。
吾妻は即座には返さない。
一拍だけ置いて、言った。
「証拠は?」
一ノ瀬が初めて明確に口を開く。
「あるから来てる。ただし、全部はまだ出せない。捜査線上の情報も混じってる」
声は平坦だった。
抑揚が薄い。
なのに、言葉の端が妙に硬い。
それが吾妻には気に入らなかった。
「出せない情報で、こっちに何を飲ませるつもりだ」
「警戒と協力だ」
と、一ノ瀬は言う。
「本当はそれじゃ足りないけどな。東都の治安権限そのものを、特東部へ寄せてもらいたいくらいだ」
鷹取の視線が鋭くなる。
吾妻の口元から、わずかに温度が消えた。
「ずいぶん踏み込むな」
「踏み込まなきゃ手遅れになる」
と、蒲村が言った。
「学連がこの街を回してきたことは知ってる。でも今は、内輪の均衡でどうにかなる段階を越えつつあるの。TEBESが根を張り始めたら、自治区気分じゃ済まない」
「自治区気分、か」
吾妻は低く繰り返す。
「言ってくれる」
藤原が間へ入るように口を開いた。
「敵対したいわけではありません。ただ、外から見れば今の東都は脆い。黒い霧の連続事件、第三区の不穏、そこへ外部浸透です。偶然が重なりすぎている」
「だから主導権を寄こせと」
と、吾妻が返す。
前島が肩をすくめた。
「端的に言えば、そういうことになるかなぁ。もちろん、明日にでも全部寄こせって話じゃない。でも、もう“学連だけで何とかします”って顔してる段階じゃない」
その言い方は柔らかい。
だが内容は真っ向から喧嘩だった。
本部前の空気がぴんと張る。
出入り口の近くにいた隊員たちも、さすがにただならぬ空気を感じたのか、視線だけをこちらへ向けている。
吾妻は四人を順に見た。
前島。 蒲村。 藤原。 一ノ瀬。
どいつも曲者だ。
その中でも、一ノ瀬の存在だけが妙に引っかかる。
霊気力を持たない。
それは気配で分かる。
なのに、場に立った時の圧が妙に深い。
武装しているわけでもないのに、素手の方が危険だと直感する類の人間だった。
一ノ瀬もまた、吾妻を見ていた。
視線がぶつかる。
静かなまま、互いに少しも引かない。
前島がわざとらしく咳払いをした。
「ま、今ここで全部決める必要はない。でも話はしたい。君らが抱えてる案件、たぶんもう東都の中だけで閉じる話じゃないから」
吾妻はしばらく黙っていた。
第三区へ向かわなければならない。
ネズミの件も動いている。
こんなところで足を止めている時間はない。
それでも、この連中を無視して出るには、相手が重すぎた。
「……今から現場だ」
と、吾妻は言う。
「続きは戻ってからにしろ」
蒲村が眉を上げる。
「現場って、第三区? ちょうどいいじゃない。私たちもついて行くわ」
「勝手に決めるな」
と、鷹取が鋭く返す。
だが前島は困ったように笑うだけだった。
「いやぁ、ほんと若い子は元気だねえ。でも現場を見るのは大事だろ。口だけで介入する気はない。どれだけ荒れてるか、自分たちの目でも確かめる」
吾妻はその笑顔の奥を見た。
柔らかく見せているが、引く気はない。
今ここで断っても、別の形で食い下がってくる。
そういう種類の連中だ。
そして何より、TEBESの名を出してきた以上、無視はできない。
「好きにしろ」
と、吾妻は言った。
「ただし、ここはまだ学連の街だ。現場で余計なことはするな」
一ノ瀬が、ごくわずかに口元を動かした。
笑ったのかどうかも分からない程度の変化だった。
「了解。今は、な」
その一言だけで、鷹取の眉がぴくりと動く。
吾妻は何も言わず、踵を返した。
第三区へ向かう車列が動き出す。
学連の車両。
その後ろへ、公安の車両がぴたりと続く。
夜の東都が、フロントガラスの向こうに伸びていた。
ネオン。 信号。 雑踏。 見慣れた街だ。
だが今夜から、その景色の見え方は少し変わる。
第三区で燻る火種。
東都へ入り込んだネズミ。
再びちらつき始めたTEBES。
そして、本来なら外にいるはずの国家権力が、ついに本部前まで来た。
東都の均衡は、もう内側だけの問題ではなくなり始めていた。
吾妻は窓の外を見たまま、低く呟く。
「……面倒なのが来たな」
それは公安のことでもあり。
TEBESのことでもあり。
そして、これから東都へ押し寄せるもの全部に向けた言葉でもあった。




