休日のピクニック
休日の朝。
白神研究所にしては、妙にのんびりした空気が流れていた。
白神教授が珍しく自分から「外へ行くか」と言い出したのが発端だった。
研究の息抜き。 気分転換。 あるいは単なる思いつき。
理由はどうあれ、研究所の面々は半ば押し切られる形で郊外のピクニック場へ連れ出されることになった。
志乃は駅前で待ち合わせた時点で、まだ少し信じられない気分だった。
白神教授。 冷花。 コウ。 ヤス。 そして自分。
白塔の一件からこうして同じ場所に集まること自体はもう珍しくなくなっていたが、研究室を離れて休日を一緒に過ごすとなると話は別だった。
「ほんとにピクニックなんですね」
と、志乃は思わず言った。
白神教授は片手に荷物を提げたまま、気のない顔で返す。
「そう言っただろう。研究所に閉じこもってばかりいると、思考が湿る」
「教授がそういうこと言うの、ちょっと意外です」
「私を何だと思ってる」
「年中コーヒー飲みながら資料に埋まってる人」
と、冷花が淡々と言った。
白神教授は眉をわずかに上げた。
「否定はしない」
ヤスがそこで吹き出す。
「ひどいっすねえ。でも、なんか安心しました。教授もちゃんと人間なんだなって」
「今のは感心なのか失礼なのか判断に困るな」
と、白神教授が言う。
そのやり取りに、志乃は少しだけ肩の力が抜けた。
こういう軽いやり取りが、いつの間にか自然になっている。
白塔のあと、失ったものはあまりに大きかった。
けれど、その先で得たものも確かにあるのだと、こういう時に思う。
郊外のピクニック場は、想像していたより広かった。
緩やかな芝生の斜面。 低い木立。 遠くに小川。
子ども連れの家族や、敷物を広げて昼を楽しむ人たちの姿が、点々と見える。
東都のざらついた空気から少し離れただけで、世界はこんなにも穏やかに見える。
そのことが、かえって不思議だった。
白神教授は日陰になっている場所を適当に選び、荷物を下ろした。
「ここでいい。各自、好きにしろ」
「引率の先生の言い方じゃないですよ、それ」
と、志乃が言う。
「引率なんて柄じゃない。私は座る」
言ったそばから、白神教授は敷物の端へ腰を下ろした。
本当に座るだけで終わるつもりらしい。
冷花は慣れた顔で荷物を整理し始める。
志乃も手伝いながら、紙袋の中身を並べていった。
ヤスは買ってきた飲み物を芝生の上へ置きながら、ぐるりと辺りを見回した。
「こういうとこ、久しぶりだなあ。東都って、なんだかんだ空が狭いじゃないですか」
「新都は違うの?」
と、志乃が訊く。
「どうだろ。広いとこは広いっすけど、結局どこも人工的ですよ。こういう“ちゃんと休むための場所”って、意外と少ないかも」
ヤスはそう言って笑った。
明るくて。 人懐っこくて。
その横顔だけを見ていると、研究所でずっと積み上がっていた違和感が、少しだけ現実味を失う。
だがコウは、その様子を少し離れた場所から黙って見ていた。
芝生の上に座っていても、どこか完全には馴染まない空気がある。
周囲から一歩引いたまま、景色と人を同じ温度で見ているような目だった。
志乃が缶を一本差し出す。
「コウ。はい、これ」
「ん」
短く返して受け取る。
それだけだが、以前よりはずっと柔らかい。
白塔の後から比べれば、コウは確かに落ち着いていた。
使徒再生を経てなお、その内側に消えないものはあるのだろうけれど。
少なくとも今、こうして同じ時間を過ごしている。
昼に近づくにつれて、場の空気は少しずつ緩んでいった。
白神教授は珍しく持ち出した本を読み始め、冷花はそれを横目に見ながら簡単な食事の準備を整える。
志乃は敷物の上でサンドイッチの包みを開き、ヤスは勝手に手伝いながら、要るものと要らないものを軽口混じりに仕分けていく。
「ヤス、妙に慣れてるね」
と、志乃が言う。
「こういう雑用得意なんすよ。研究そのものはからきしでも、動くのは好きなんで」
「自分で言うんだ」
「言いますよ。できることとできないこと、分けといた方が楽ですし」
その答えは、いかにもヤスらしかった。
飾り気がなくて。
変に背伸びもしない。 人の懐に入るのが上手いのに、それをあざとく見せない。
白神教授が本から目を離さずに言う。
「お前はそういう要領だけで案外どこでも生き延びそうだな」
「それって、褒めてます? 雑に見積もってるだけでは?」
「教授、それほぼ悪口ですって」
笑いが起きる。
冷花は大きく笑いはしないが、口元だけ少し緩んでいた。
志乃もつられて笑う。
こういう時間があること自体、少し前の自分なら想像できなかった。
その時だった。
少し離れた木立の方から、か細い泣き声が聞こえてきた。
最初に気づいたのは志乃だった。
振り返ると、遊歩道の脇で、小さな男の子が一人うずくまっていた。
周囲に親らしい姿は見えない。 迷子なのだろうか。
「え」
と、志乃が立ち上がる。
「どうしよう」
冷花もそちらを見る。
白神教授は本を閉じたが、すぐに動くというより状況を見る目をしていた。
コウも立ち上がりかけた。
だが、その前にヤスが自然に歩き出していた。
迷いのない動きだった。
走って行くでもなく、気負うでもなく。
ただ、ごく当たり前みたいに男の子の前まで行くと、少し離れた位置でしゃがみ込む。
「どうした? 痛いのか?」
男の子は涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、首を横に振った。
泣き声が大きくなる。
ヤスは困ったように頭をかいた。
「そっか、じゃあ、痛くはないのか。それはちょっと安心だな」
無理に泣き止ませようとはしなかった。
大丈夫だと急かすこともしない。
ただ子どもの目線まで身体を落として、相手が息を整えるのを待つ。
「お父さんか、お母さんと離れたのか?」
「うん」
「名前、言えるか?」
男の子はしゃくりあげながら、自分の名前を答えた。
「よし、言えるなら大丈夫だ。じゃあ、一緒に探しに行こう」
その声は驚くほど自然だった。
優しいことを言おうとしている感じがない。
慰めようと気負ってもいない。
ただ、泣いている子どもの隣にしゃがんで、当たり前に道筋を作っている。
志乃は少し離れたところで、その様子を見ていた。
胸の奥が、わずかに揺れる。
ヤスは男の子の手を無理に取らず、代わりに「歩けるか」と尋ねた。
男の子がこくんと頷くと、「えらい」と軽く笑う。
それから周囲を見回し、少し先の案内所の方へ視線を向けた。
「たぶんあっちだな。迷子のアナウンスとかあるし。行くか」
男の子が不安そうに足を止めると、ヤスは肩をすくめた。
「じゃあ、俺も一緒に緊張しとく。一人だけ怖いのはやだよな」
男の子が少しだけ泣きやんだ。
しゃくりあげながらも、ヤスの方を見る。
その表情に、ほんの少しだけ安心が戻る。
白神教授が小さく言った。
「……上手いな」
「ですね」
と、冷花が返す。
「慣れてる感じがある」
コウは何も言わない。
ただ、ヤスの背中を見ていた。
志乃はあとを追うように数歩進んだが、結局その場で止まった。
ヤス一人で十分だった。
むしろ今、余計に人が増える方が男の子を緊張させる気がした。
しばらくして、案内所の近くで慌てた様子の女性が見えた。
職員と一緒に辺りを探していたらしい。
男の子がその姿を見つけた途端、駆け寄っていく。
「お母さん」
女性は膝をついて男の子を抱きしめた。
何度も名前を呼んで、無事を確かめている。
ヤスはそこへ必要以上に入り込まず、少し離れた位置で立ち止まっていた。
女性が何度も頭を下げる。
「ありがとうございました。本当に、すみません。目を離した隙にいなくなって」
「いえいえ」 ヤスは手を軽く振った。
「見つかってよかったです。次からはちゃんと手つないどいてくださいね」
責めるでもなく。
恩着せがましくもなく。
最後まで軽い調子だった。
その軽さが、相手の気負いをうまくほどいている。
男の子は母親の腕の中から振り返り、小さく手を振った。
ヤスも同じように振り返す。
それだけのことなのに、志乃の胸には妙に残った。
戻ってきたヤスは、少し照れくさそうに笑った。
「いや、泣かれると困るっすね。何言えばいいのか、一瞬分かんなかった」
「充分すぎるくらい分かってたと思うけど」
と、志乃が言う。
「そうですかね。まあ、見つかってよかったっす」
その反応も、わざとらしくなかった。
褒められたことに乗るでもなく、謙遜を演出するでもなく。
本当にただ、終わったこととして受け流している。
白神教授がヤスを見る。
「少なくとも、子ども相手に不自然な人間ではないらしい」
「教授、それ、褒め方が独特すぎません」
「事実確認だ。悪く取るな」
「いや、まあ悪くは取ってないですけど」
冷花が飲み物を一本投げるように渡した。
ヤスはそれを受け取り、「どうも」と笑う。
その場の空気は、さっきまでより少し柔らかくなっていた。
だが、コウだけは相変わらず静かだった。
昼食を終えたあと、皆がそれぞれ少し散って過ごす時間になった。
白神教授は木陰でうとうとし始め、冷花は少し離れた場所で端末を見ている。
志乃は小川の近くまで歩き、涼しい風に当たりながら、さっきのことを思い返していた。
悪い人には見えない。
少なくとも、ああいう場面で自然に動ける人間が、単純な悪であるようには思えなかった。
けれど。 それでも。 黒い霧の事件。 新都の気配。
現場に落ちていた持ち物。 コウが感じ取る、あのざらつき。
何ひとつ消えてはいない。
背後から足音がして、振り返るとコウが来ていた。
「なんだ珍しく静かだな」 と、コウが言う。
「ちょっと考えたくて」
と、志乃は答える。
「コウも……まぁそれはいつものことか」
「まあ」
二人で並んで川の流れを見る。
水音だけが静かに続いていた。
しばらくして、志乃がぽつりとこぼす。
「……悪い人には見えないね」
コウはすぐには答えなかった。
少しだけ視線を落とし、それから短く言う。
「見えない」
「だよね」
「けど」 コウはそこで言葉を切る。 「分からない」
志乃が横を見る。
コウの表情はいつも通り薄い。
けれど、その声には迷いがあった。
「怪しいとか、そういう話じゃない。読めない。何考えてるのか、どこまで本物なのか分からない」
志乃は胸の奥をぎゅっと掴まれるような気がした。
それはきっと、今の自分も同じだったからだ。
信じたい。
けれど信じ切れない。
疑いたくない。
けれど疑わないわけにもいかない。
ヤスは人を安心させる。
自然に場へ馴染む。
子どもを慰めて、親のもとへ届けることができる。
その姿だけを見れば、決して悪い男には見えない。
だからこそ、分からない。
遠くでヤスの笑い声がした。
白神教授が何かを言い返し、冷花が短く返事をする。
穏やかな休日の音だった。
本来なら、それだけでよかったはずの時間だった。
コウは川面から目を離さないまま、もう一度だけ呟く。
「……分からないな」
その言葉は、疑いよりもずっと厄介だった。
東都の空は高く晴れていた。
けれど、その青さの下で見えないものは確かに動き続けている。
穏やかな休日の輪郭の中でさえ、それは消えない。
そしてヤスという男は今、怪しい存在ではなく。
もっと曖昧で、もっと厄介な存在として、コウたちの前に立っていた。




