まだ、正体は見えない
東都の空気は、目に見えないまま張りつめ続けていた。
白塔の一件が終わって、街は表向きの平穏を取り戻したはずだった。
けれど今は、その平穏そのものが薄い膜みたいに思える。
少し指先を立てれば、すぐに破れてしまいそうだった。
白神研究所でも、その感覚は日に日に濃くなっていた。
誰も騒がない。 誰も取り乱さない。
それでも、机の上に積まれた記録の束や、深夜まで消えない端末の灯りが、いま東都で何かが確実に進んでいることを物語っていた。
朝。
志乃は研究所の廊下を歩きながら、昨夜ほとんど眠れなかった頭を無理やり切り替えていた。
第三区の火種は消えていない。
黒い霧の襲撃も止まっていない。
そして何より、ヤスを巡る警戒は、もう自分の中でも誤魔化しきれなくなっている。
研究室の扉を開けると、冷花がすでに端末へ向かっていた。
背筋を伸ばしたまま、淡々と情報を整理している。
その姿勢はいつも通りだった。
だからこそ、逆に緊張が際立つ。
「おはよう」
と、志乃が声をかける。
「おはよう」
冷花は短く返した。
「学連から夜間報告が来てる。黒い霧の目撃、昨夜も二件」
志乃の表情が曇る。
「また。被害は?」
「重傷一名、もう一件は未遂。吾妻さんたちが先に押さえたみたい」
吾妻たち学連も限界に近い。
第三区の監視。 夜間巡回。 黒い霧の追跡。
ひとつだけでも負担が大きいのに、今は全部が同時進行している。
東都全体が、少しずつ削られていた。
部屋の奥では、コウが窓際の席に座っていた。
昨夜と変わらない静かな顔で、端末の画面を見ている。
だが志乃には分かる。
もう彼の中では、次の行動が決まっている。
その少しあと、水島桃李が中央図書館帰りらしい紙袋を片手に入ってきた。
くたびれたジャケットの襟を軽く直しながら、机へ資料を置く。
「寝不足みたいな顔してるな。まあ、こっちも人のこと言えないけど」
「そっちも寝てないのか?」
と、白神が言う。
「寝てるよ。短く、浅く、嫌な夢つきでな」
冗談とも本音ともつかない調子だった。
水島は椅子へ腰を下ろし、紙袋から古びた記録ファイルを取り出す。
「新都側の古い研究記録を少し洗った。完全な公開資料じゃないから断片だけだが、黒い霧に近い発想自体はある。不完全な霊気干渉体を末端化して流すって考え方だ」
志乃が息を呑む。
「じゃあ、やっぱり」
「やっぱり、とはまだ言えない」
と、水島は遮る。
「似てるだけだ。似てるってだけで断定すると、足をすくわれる」
コウがそこで口を開いた。
「でも、似すぎてる」
水島はそちらを見た。
コウの声は静かだったが、揺れがない。
「黒い霧の残滓。第三区の攪拌。ヤスの周りの歪み。全部、同じ線に乗ってる」
「感覚としてはな」
と、水島が返す。
「だから共有はしてる。俺も、志乃も、冷花も。ヤスに警戒を向けること自体は、もう躊躇しない」
その言葉に、志乃はゆっくり頷いた。
痛みはあった。
けれどそこから目を逸らす方が、今はもっと危うい。
午前のあいだ、研究所は奇妙なくらい普通に動いていた。
記録の整理。 被害地点の照合。 学連との情報共有。
使徒再生に関連する断片研究。
机と端末の間を人が行き来し、紙がめくられ、会話が交わされる。
外から見れば、なんでもない研究所の一日だ。
そして、その“普通”の中へ、ヤスもまた当然みたいに入ってきた。
「おはようございまーす。今日、コーヒー多めにもらってきましたよ」
明るい声。
人懐っこい笑顔。
ポリ袋を軽く揺らしてみせる仕草まで、いつも通りだった。
志乃の胸が、少しだけ冷える。
もう知っている。
この自然さこそが不気味なのだと。
「ありがとう」
と、志乃は言う。
それ以上の感情は出さないようにした。
ヤスは机の上へ缶コーヒーを並べながら、何でもない風に室内を見回す。
「なんかまた、みんな難しい顔してますね。事件、まだ動いてる感じですか」
「動いてる」
と、冷花が短く返す。
「止まってない」
「そっか。早く片づくといいですね」
軽い。 だが軽すぎる。
この街で人が傷つき続けている今、その軽さはもはや無邪気では済まない。
コウは席を立たず、ただヤスを見ていた。
ヤスもそれに気づき、少し笑う。
「コウさん、相変わらずっすね。俺の顔になんかついてます」
「別に」
それだけだった。
だが、そのそっけなさの中に、もう隠す気のない警戒がある。
ヤスも、それを感じ取っているはずだった。
水島が缶コーヒーを一本取り上げ、開けもせずに机へ置いた。
「ヤスくん。最近、研究所と家の往復以外でどこか寄ってるかい?」
あまりにも何気ない聞き方だった。
だからこそ、志乃は一瞬息を止めた。
ヤスは目を丸くする。
「え? どうしたんですか急に。寄り道くらいはしますけど」
「どこへ」
と、水島が続ける。
「コンビニとか、バッセンとか。あと、たまにブラブラ歩いたり」
「第三区は」
ほんの一拍。
それだけだった。
けれどヤスの返事は、わずかに遅れた。
「……この前、通ったくらいですが、なんかありました?」
「別に」
と、水島は言う。
「確認しただけだ」
ヤスはすぐに笑った。
「なんだ、びっくりした。職質みたい」
その空気を、志乃は苦しく思った。
問い詰めているわけではない。
だが、もう以前みたいに何も知らない顔では接せられない。
研究所の中にいる全員が、その薄い膜の上に立っている。
昼過ぎ。
教授は外部との打ち合わせで不在だった。
そのあいだも研究所は静かに動き続ける。
ヤスは資料運びや雑務を自然にこなし、時折誰かへ軽口を飛ばす。
それだけ見れば、本当にただの明るい青年だ。 だからこそ、志乃の心は揺れる。
見えているものが嘘なのか。
それとも、疑っている自分たちの方が歪み始めているのか。
だが、コウだけは揺れなかった。
夕方。
研究所の窓が、東都の薄暗い空を映し始めた頃だった。
ヤスが「ちょっと飲み物補充してきます」と言って席を外す。
足取りは軽い。
いつも通りの、気安い歩き方だった。
その背中が廊下の角を曲がった瞬間、コウが立ち上がる。
志乃が顔を上げた。
「コウ」
「行く」
短い。 もう決めていた声だった。
水島は椅子にもたれたまま、コウを見た。
「今ここで尾けるのは早い。そう言いたいところだが、たぶんお前は止まらないな」
「止まらない」
「だろうな」
水島は小さく息を吐いた。 止めない。 それがもう答えだった。
「深追いはするな。見失ってもいい。ただ、どこへ繋がるかだけ見ろ」
「分かった」
志乃も立ち上がる。
「私も行く」
コウは一瞬だけ彼女を見る。
断らない。
それだけで十分だった。
二人は研究所の廊下へ出た。
人気は少ない。
ヤスの姿はすでに先へ進んでいる。
距離を取りながら、その背を追う。
白神研究所の中ではなく、その外まで。
夕暮れの東都。
人の流れ。 車の光。 雑踏の音。
その中へ、ヤスはあまりにも自然に紛れていく。
まるで最初から、追われることも見越しているみたいに。
「……気づいてるかな」
と、志乃が小さく言う。
「気づいててもおかしくない」
と、コウが返す。
「でも行く」
それ以上の言葉はなかった。
ヤスは駅前通りを抜け、ひとけの少ない脇道へ入る。
第三区ではない。
だが、そちらへ近づく方向だった。
志乃の胸が強く鳴る。
角をひとつ曲がる。
もうひとつ。
そして、次の瞬間。
ヤスの姿が消えた。
「……え」
志乃の足が止まる。
一本道だった。
左右に逃げる路地もない。
人混みに紛れたわけでもない。
なのに、ほんの一瞬前まで見えていた背中が、嘘みたいに消えている。
コウはすぐに周囲へ視線を走らせた。
空気が、変わっていた。
さっきまであった生活音の膜が、急に薄くなる。
静かすぎる。 嫌な静けさだった。
次の瞬間。
路地の奥。
壁と壁の隙間みたいな暗がりで、黒が揺れた。
霧だった。
夜の影より濃い。
輪郭が曖昧なのに、そこにあると分かる黒。
呼吸するみたいに膨らみ、縮み、路面すれすれを這うように広がる。
志乃が息を呑む。
「……来る」
コウは一歩前へ出る。
その目は、もう迷っていなかった。
だが、霧は二人へ襲いかかる前に、ゆっくりと形を変えた。
まるで威嚇でも、確認でもするみたいに。
そしてその奥。 一瞬だけ、人の輪郭に近い影が見えた気がした。
ヤスか。
違う誰かか。
それすら判別がつかないほど、すぐに黒は崩れる。
「逃げるな」
と、コウが低く言う。
踏み込もうとした、その時だった。
霧は散った。 裂けるように。
最初からただの空気だったみたいに、夜の暗がりへ溶けて消える。
残ったのは、微かなざらつきだけだった。
人工的で。 空っぽで。
それでいて、生き物の気配に似せた嫌な残り方。
志乃は強く息を吐く。
「今の……見てたよね、私たちのこと」
「ああ」
コウは短く答える。
「追わせた」
「え」
「さっきの消え方は偶然じゃない。こっちを誘った」
その言葉に、志乃の背筋が冷えた。
尾けていたつもりが、逆にこちらが誘導されていたかもしれない。
その可能性に気づいた瞬間、東都の夜が急に底知れなく見える。
二人はそれ以上追わなかった。
追えるものではなかった。
見える尻尾は、またしても寸前で煙みたいにほどけていく。
研究所へ戻る道すがら、志乃は何度も振り返りそうになるのを堪えていた。
コウは無言だった。
だがその沈黙は、諦めではない。
むしろ逆だった。
研究所へ戻ると、水島と冷花が待っていた。
二人の顔を見ただけで、水島はだいたいの答えを読んだらしい。
「消えたか」
「消えた」
と、コウが言う。
「けど、黒い霧は出た」
「ヤスは」
「見失った。たぶん、最初からそのつもりだった」
水島は目を細める。
驚きはしない。
想定の範囲内だとでもいうように、静かに頷いた。
「やっぱり、まだ正体は見せる気がないか」
冷花が志乃を見る。
「怪我は」
「ない。でも、あれ……ただ逃げた感じじゃなかった」
水島が低く言う。
「だろうな。相手はたぶん、尻尾を出しきらないことで主導権を握ってる。疑わせる、追わせる、でも、決定打には届かせない。いちばん厄介なやり方だ」
志乃は唇を噛んだ。
ここまで来ても、まだ“確実”には届かない。
けれど、それは白ではないという意味でもある。
研究所の窓の外では、東都の夜景が静かに光っている。
遠くでは学連が動き。
第三区では火種が燻り。
黒い霧は人を襲い続ける。
その全部の裏で、何者かが少しずつ人と組織をぶつけ始めている。
ヤスは今日も、最後まで好青年の顔を崩さなかった。
だからこそ不気味だった。
正体が見えないのではない。
見せないのだ。 意図して。
こちらの手の届く寸前で、必ず輪郭を曖昧にする。
コウは窓際へ歩き、夜の東都を見た。
「次は、もっと近くまで行く」
その声は静かだった。
静かなまま、もう戻る気のない響きを持っていた。
志乃もその横に立つ。
怖さは消えていない。
けれど、もう立ち止まることはできない。
水島は椅子へ深く腰掛け直し、くたびれたジャケットの襟を指で整えた。
「でもまあ、こういう時の方が、尻尾はよく見える」
軽口めいているのに、目は笑っていない。
東都の空気は、もう完全に変わっていた。
平穏の顔をしたまま、裏側だけが戦いの準備を進めている。
黒い霧。 第三区の軋み。
研究所へ入り込んだ異物。
それらはまだ一本の答えにはならない。
だが、確実に次へ繋がっている。
まだ、正体は見えない。
だからこそ、追うしかなかった。




