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ロストテクノロジーは誰のためにあるのか  作者: 維岡 真
第2章 絵札戦 第1節 西風のバットマン

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まだ、正体は見えない

東都の空気は、目に見えないまま張りつめ続けていた。

白塔の一件が終わって、街は表向きの平穏を取り戻したはずだった。

けれど今は、その平穏そのものが薄い膜みたいに思える。

少し指先を立てれば、すぐに破れてしまいそうだった。


白神研究所でも、その感覚は日に日に濃くなっていた。

誰も騒がない。 誰も取り乱さない。

それでも、机の上に積まれた記録の束や、深夜まで消えない端末の灯りが、いま東都で何かが確実に進んでいることを物語っていた。


朝。

志乃は研究所の廊下を歩きながら、昨夜ほとんど眠れなかった頭を無理やり切り替えていた。

第三区の火種は消えていない。

黒い霧の襲撃も止まっていない。

そして何より、ヤスを巡る警戒は、もう自分の中でも誤魔化しきれなくなっている。


研究室の扉を開けると、冷花がすでに端末へ向かっていた。

背筋を伸ばしたまま、淡々と情報を整理している。

その姿勢はいつも通りだった。

だからこそ、逆に緊張が際立つ。


「おはよう」


と、志乃が声をかける。


「おはよう」


冷花は短く返した。


「学連から夜間報告が来てる。黒い霧の目撃、昨夜も二件」


志乃の表情が曇る。


「また。被害は?」


「重傷一名、もう一件は未遂。吾妻さんたちが先に押さえたみたい」


吾妻たち学連も限界に近い。

第三区の監視。 夜間巡回。 黒い霧の追跡。

ひとつだけでも負担が大きいのに、今は全部が同時進行している。

東都全体が、少しずつ削られていた。


部屋の奥では、コウが窓際の席に座っていた。

昨夜と変わらない静かな顔で、端末の画面を見ている。

だが志乃には分かる。

もう彼の中では、次の行動が決まっている。


その少しあと、水島桃李が中央図書館帰りらしい紙袋を片手に入ってきた。

くたびれたジャケットの襟を軽く直しながら、机へ資料を置く。


「寝不足みたいな顔してるな。まあ、こっちも人のこと言えないけど」


「そっちも寝てないのか?」


と、白神が言う。


「寝てるよ。短く、浅く、嫌な夢つきでな」


冗談とも本音ともつかない調子だった。

水島は椅子へ腰を下ろし、紙袋から古びた記録ファイルを取り出す。


「新都側の古い研究記録を少し洗った。完全な公開資料じゃないから断片だけだが、黒い霧に近い発想自体はある。不完全な霊気干渉体を末端化して流すって考え方だ」


志乃が息を呑む。


「じゃあ、やっぱり」


「やっぱり、とはまだ言えない」


と、水島は遮る。


「似てるだけだ。似てるってだけで断定すると、足をすくわれる」


コウがそこで口を開いた。


「でも、似すぎてる」


水島はそちらを見た。

コウの声は静かだったが、揺れがない。


「黒い霧の残滓。第三区の攪拌。ヤスの周りの歪み。全部、同じ線に乗ってる」


「感覚としてはな」

と、水島が返す。


「だから共有はしてる。俺も、志乃も、冷花も。ヤスに警戒を向けること自体は、もう躊躇しない」


その言葉に、志乃はゆっくり頷いた。

痛みはあった。

けれどそこから目を逸らす方が、今はもっと危うい。


午前のあいだ、研究所は奇妙なくらい普通に動いていた。

記録の整理。 被害地点の照合。 学連との情報共有。

使徒再生に関連する断片研究。

机と端末の間を人が行き来し、紙がめくられ、会話が交わされる。

外から見れば、なんでもない研究所の一日だ。


そして、その“普通”の中へ、ヤスもまた当然みたいに入ってきた。


「おはようございまーす。今日、コーヒー多めにもらってきましたよ」


明るい声。

人懐っこい笑顔。

ポリ袋を軽く揺らしてみせる仕草まで、いつも通りだった。


志乃の胸が、少しだけ冷える。

もう知っている。

この自然さこそが不気味なのだと。


「ありがとう」

と、志乃は言う。

それ以上の感情は出さないようにした。


ヤスは机の上へ缶コーヒーを並べながら、何でもない風に室内を見回す。


「なんかまた、みんな難しい顔してますね。事件、まだ動いてる感じですか」


「動いてる」


と、冷花が短く返す。


「止まってない」


「そっか。早く片づくといいですね」


軽い。 だが軽すぎる。

この街で人が傷つき続けている今、その軽さはもはや無邪気では済まない。


コウは席を立たず、ただヤスを見ていた。

ヤスもそれに気づき、少し笑う。


「コウさん、相変わらずっすね。俺の顔になんかついてます」


「別に」


それだけだった。

だが、そのそっけなさの中に、もう隠す気のない警戒がある。

ヤスも、それを感じ取っているはずだった。


水島が缶コーヒーを一本取り上げ、開けもせずに机へ置いた。


「ヤスくん。最近、研究所と家の往復以外でどこか寄ってるかい?」


あまりにも何気ない聞き方だった。

だからこそ、志乃は一瞬息を止めた。


ヤスは目を丸くする。


「え? どうしたんですか急に。寄り道くらいはしますけど」


「どこへ」

と、水島が続ける。


「コンビニとか、バッセンとか。あと、たまにブラブラ歩いたり」


「第三区は」


ほんの一拍。

それだけだった。

けれどヤスの返事は、わずかに遅れた。


「……この前、通ったくらいですが、なんかありました?」


「別に」

と、水島は言う。

「確認しただけだ」


ヤスはすぐに笑った。


「なんだ、びっくりした。職質みたい」


その空気を、志乃は苦しく思った。

問い詰めているわけではない。

だが、もう以前みたいに何も知らない顔では接せられない。

研究所の中にいる全員が、その薄い膜の上に立っている。


昼過ぎ。

教授は外部との打ち合わせで不在だった。

そのあいだも研究所は静かに動き続ける。

ヤスは資料運びや雑務を自然にこなし、時折誰かへ軽口を飛ばす。

それだけ見れば、本当にただの明るい青年だ。 だからこそ、志乃の心は揺れる。


見えているものが嘘なのか。

それとも、疑っている自分たちの方が歪み始めているのか。


だが、コウだけは揺れなかった。


夕方。

研究所の窓が、東都の薄暗い空を映し始めた頃だった。

ヤスが「ちょっと飲み物補充してきます」と言って席を外す。

足取りは軽い。

いつも通りの、気安い歩き方だった。


その背中が廊下の角を曲がった瞬間、コウが立ち上がる。


志乃が顔を上げた。


「コウ」


「行く」


短い。 もう決めていた声だった。


水島は椅子にもたれたまま、コウを見た。


「今ここで尾けるのは早い。そう言いたいところだが、たぶんお前は止まらないな」


「止まらない」


「だろうな」


水島は小さく息を吐いた。 止めない。 それがもう答えだった。


「深追いはするな。見失ってもいい。ただ、どこへ繋がるかだけ見ろ」


「分かった」


志乃も立ち上がる。


「私も行く」


コウは一瞬だけ彼女を見る。

断らない。

それだけで十分だった。


二人は研究所の廊下へ出た。

人気は少ない。

ヤスの姿はすでに先へ進んでいる。

距離を取りながら、その背を追う。

白神研究所の中ではなく、その外まで。


夕暮れの東都。

人の流れ。 車の光。 雑踏の音。

その中へ、ヤスはあまりにも自然に紛れていく。

まるで最初から、追われることも見越しているみたいに。


「……気づいてるかな」

と、志乃が小さく言う。


「気づいててもおかしくない」

と、コウが返す。

「でも行く」


それ以上の言葉はなかった。


ヤスは駅前通りを抜け、ひとけの少ない脇道へ入る。

第三区ではない。

だが、そちらへ近づく方向だった。

志乃の胸が強く鳴る。


角をひとつ曲がる。

もうひとつ。

そして、次の瞬間。


ヤスの姿が消えた。


「……え」

志乃の足が止まる。


一本道だった。

左右に逃げる路地もない。

人混みに紛れたわけでもない。

なのに、ほんの一瞬前まで見えていた背中が、嘘みたいに消えている。


コウはすぐに周囲へ視線を走らせた。

空気が、変わっていた。

さっきまであった生活音の膜が、急に薄くなる。

静かすぎる。 嫌な静けさだった。


次の瞬間。

路地の奥。

壁と壁の隙間みたいな暗がりで、黒が揺れた。


霧だった。


夜の影より濃い。

輪郭が曖昧なのに、そこにあると分かる黒。

呼吸するみたいに膨らみ、縮み、路面すれすれを這うように広がる。


志乃が息を呑む。


「……来る」


コウは一歩前へ出る。

その目は、もう迷っていなかった。


だが、霧は二人へ襲いかかる前に、ゆっくりと形を変えた。

まるで威嚇でも、確認でもするみたいに。

そしてその奥。 一瞬だけ、人の輪郭に近い影が見えた気がした。


ヤスか。

違う誰かか。

それすら判別がつかないほど、すぐに黒は崩れる。


「逃げるな」

と、コウが低く言う。


踏み込もうとした、その時だった。

霧は散った。 裂けるように。

最初からただの空気だったみたいに、夜の暗がりへ溶けて消える。


残ったのは、微かなざらつきだけだった。

人工的で。 空っぽで。

それでいて、生き物の気配に似せた嫌な残り方。


志乃は強く息を吐く。


「今の……見てたよね、私たちのこと」


「ああ」

コウは短く答える。

「追わせた」


「え」


「さっきの消え方は偶然じゃない。こっちを誘った」


その言葉に、志乃の背筋が冷えた。

尾けていたつもりが、逆にこちらが誘導されていたかもしれない。

その可能性に気づいた瞬間、東都の夜が急に底知れなく見える。


二人はそれ以上追わなかった。

追えるものではなかった。

見える尻尾は、またしても寸前で煙みたいにほどけていく。


研究所へ戻る道すがら、志乃は何度も振り返りそうになるのを堪えていた。

コウは無言だった。

だがその沈黙は、諦めではない。

むしろ逆だった。


研究所へ戻ると、水島と冷花が待っていた。

二人の顔を見ただけで、水島はだいたいの答えを読んだらしい。


「消えたか」


「消えた」

と、コウが言う。

「けど、黒い霧は出た」


「ヤスは」


「見失った。たぶん、最初からそのつもりだった」


水島は目を細める。

驚きはしない。

想定の範囲内だとでもいうように、静かに頷いた。


「やっぱり、まだ正体は見せる気がないか」


冷花が志乃を見る。


「怪我は」


「ない。でも、あれ……ただ逃げた感じじゃなかった」


水島が低く言う。


「だろうな。相手はたぶん、尻尾を出しきらないことで主導権を握ってる。疑わせる、追わせる、でも、決定打には届かせない。いちばん厄介なやり方だ」


志乃は唇を噛んだ。

ここまで来ても、まだ“確実”には届かない。

けれど、それは白ではないという意味でもある。


研究所の窓の外では、東都の夜景が静かに光っている。

遠くでは学連が動き。

第三区では火種が燻り。

黒い霧は人を襲い続ける。

その全部の裏で、何者かが少しずつ人と組織をぶつけ始めている。


ヤスは今日も、最後まで好青年の顔を崩さなかった。

だからこそ不気味だった。

正体が見えないのではない。

見せないのだ。 意図して。

こちらの手の届く寸前で、必ず輪郭を曖昧にする。


コウは窓際へ歩き、夜の東都を見た。


「次は、もっと近くまで行く」


その声は静かだった。

静かなまま、もう戻る気のない響きを持っていた。


志乃もその横に立つ。

怖さは消えていない。

けれど、もう立ち止まることはできない。


水島は椅子へ深く腰掛け直し、くたびれたジャケットの襟を指で整えた。


「でもまあ、こういう時の方が、尻尾はよく見える」


軽口めいているのに、目は笑っていない。


東都の空気は、もう完全に変わっていた。

平穏の顔をしたまま、裏側だけが戦いの準備を進めている。

黒い霧。 第三区の軋み。

研究所へ入り込んだ異物。

それらはまだ一本の答えにはならない。


だが、確実に次へ繋がっている。


まだ、正体は見えない。

だからこそ、追うしかなかった。

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