第三区の火種
その夜の東都は、妙にざわついていた。
黒い霧の事件が水面下で広がっているだけではない。
街そのものの空気が、目に見えない棘を含み始めている。
そんな感覚が、巡回に出ていた学連の隊員たちの間でも共有されつつあった。
第三区。
東都の中でも、いくつかの勢力が曖昧に縄張りを重ねている場所。
歓楽街と雑居ビルと古い商店が不格好に継ぎ合わされたこの一帯は、平時でさえ火薬の匂いが消えない。 そこへ今夜、月砂と紅叉の構成員がそれぞれ動いているという報が入った。
吾妻は交差点脇の高架下で端末を閉じた。
制服の上から羽織った上着の裾が、夜風にわずかに揺れる。
その表情に焦りはない。
だが目だけは、いつも以上に鋭かった。
「第三区南側、二手に分かれる。正面衝突させるな。接触した時点で割って入れ。余計な挑発には乗るなよ」
短い指示が飛ぶ。
周囲の隊員たちはすぐに散った。
統率は取れている。
けれどそれでも、今夜の現場が簡単に収まらないことくらい、全員が分かっていた。
鷹取シズクが吾妻の隣へ並ぶ。
夜目にも分かるくらい、彼女の顔には疲労が滲んでいた。
ここ数日の夜警で、まともに休めていないのだろう。
それでも声音は崩れない。
「紅叉側、想定より人数が多いです。月砂も引いてません。誰かが煽ってる感じがします」
「だろうな」 と、吾妻は即答した。
「自然発生の小競り合いにしちゃ、タイミングが良すぎる」
シズクは小さく頷く。
黒い霧の連続事件が続く中で、今度は第三区の勢力同士がぶつかる。
偶然が重なっているにしては、あまりにも出来すぎていた。
現場へ近づくにつれ、夜の喧騒の質が変わっていく。
酔客の笑い声。 店先の呼び込み。 車の走行音。
そうした日常的な音の下に、張りつめた殺気が混じっている。
路地を一本曲がった先で、すでに両者は向かい合っていた。
紅叉側は赤を基調にした装いの男たちが数人。
統一感はないが、逆にそれが荒っぽい結束を感じさせる。
対する月砂側は、人数こそ少ないが、その分だけ空気が静かだった。
静かなのに退かない。 その沈黙自体が挑発になっている。
「おいおい、学連のお出ましかよ」
紅叉側の一人が舌打ち混じりに言う。
「まだ何もしてねえだろ」
「だから来たんだ」
と、吾妻は平坦に返す。
「何かしてからじゃ遅い」
「そっちが勝手に張ってるだけだろ」
月砂側の女が冷ややかに言い返した。
「こっちは話をしに来ただけ」
「話ねえ」
紅叉の男が鼻で笑う。
「その人数でか」
一触即発だった。
互いに決定打を打つ気配はない。
だが、きっかけさえあれば一瞬で崩れる距離感だった。
吾妻は両者の間に立ち、視線だけで隊員たちへ合図を送る。
左右から包むように配置を取らせる。
ここで下手に威圧すれば火がつく。
かといって甘く見せれば押し切られる。
面倒な均衡だった。
「今日は解散しろ。用件があるなら、学連通して正式に持ってこい。路上で面子張り合っていい時期じゃない」
「へえ」
紅叉の男が肩を回す。
「そりゃ、黒い霧が怖いからか」
その言葉に、周囲の空気がわずかに変わった。
吾妻の目が細くなる。 月砂側の面々も反応した。
こんな場で軽く出していい名前ではない。
それをわざわざ口にするということは、相手を煽っているか、あるいは別の意図がある。
「知ってることがあるなら聞こうか」
吾妻が言う。
「別に」
男はにやついた。
「最近この辺り、妙に人が消耗してるって噂だろ。だったら夜道で固まって歩くしかねえよな」
軽口だった。
だが、その軽口の裏に本物の不安が混ざっていることも読み取れた。
第三区ではもう、黒い霧の噂が他人事ではなくなっている。
その時だった。
遠く。 通りを挟んださらに奥。 短い悲鳴が上がった。
全員の意識が一斉にそちらへ向く。
「散開」
吾妻の声が即座に飛ぶ。
「シズクは右から回れ。二班、紅叉と月砂をここで抑えろ。残りは俺と来い」
言い終わるより先に、吾妻は駆け出していた。
悲鳴のした先は、飲食店街の裏手へ続く細い通路だった。
ネオンの光が届ききらず、湿った壁とゴミ袋の影が不快に沈んでいる。
地面には一人、青年が倒れていた。 まだ息はある。
だが霊気の流れがひどく乱れている。
皮膚の下を何かに掻き回されたような、不自然な損傷だった。
「おい、しっかりしろ」
隊員の一人が膝をつく。
だが吾妻は、その青年ではなく、奥を見ていた。
通路の先。 空気の暗がりが、ひどく濃い。
夜の影とは違う黒。
輪郭が曖昧で、なのにそこに“いる”と分かる何か。
煙とも霧ともつかないそれが、壁際にまとわりつくように揺れていた。
「……出たか」
吾妻の声は低かった。
苛立ちより先に、確認の響きがある。
何度も報告を読んできた。
現場にも駆けつけた。
それでも実物を見るのは、これが初めてだった。
黒い霧は、人の形をしていない。
だが完全に無秩序でもない。
視線を向けると、向こうもこちらを認識したように揺らぐ。
その気配の薄さが、逆にぞっとする。 近づいてきた感触がない。 気づけば、もうそこにいる。
「囲め」
吾妻が言う。
「逃がすな」
隊員たちが左右へ展開する。
術式が起動し、淡い光が通路を走る。
逃走経路を塞ぐ結界。
本来なら、並の霊障ならそれで足止めできる。
だが黒い霧は、まるで最初からそこに隙間があるのを知っているように揺れた。
一歩、ではない。
一呼吸、でもない。
輪郭そのものが崩れ、細かく散りながら移動する。
「ちっ」
吾妻が踏み込む。
掌底とともに叩き込んだ霊気が、霧の表層を大きく歪ませた。
手応えはあった。
だが浅い。
殴ったというより、濃い煙を裂いた感触に近い。
その内側に核が見えない。
霧が一瞬だけ跳ねるように膨らみ、隊員の一人へ襲いかかった。
シズクが横合いから札を切る。
鋭い術光が霧を裂き、その進路をねじ曲げた。
「総隊長。核がないです。これ、固定されてません」
「分かってる」
苛立ちが混じる。
捕まえられる形をしていない。
それでも、ここで逃がせばまた次が出る。
吾妻は通路の床を蹴り、霧との距離を一気に詰めた。
右手に集めた霊気を圧縮し、壁ごと押し潰すつもりで打ち込む。
轟音。 壁面がひび割れ、粉塵が舞う。
だがその直前、黒い霧は裂けるように散った。
通路の上。 配管の影。 排気口の隙間。
ありえない場所へ、最初からそこに染み込んでいたみたいに広がっていく。
「逃がすか」
シズクが追撃の術式を放つ。
数枚の札が夜気を切り、霧の一部を焼いた。
焼かれた黒が、耳障りな軋みを残す。
痛覚があるのかどうかも分からない。
けれど確かに、反応はした。
それでも次の瞬間には、霧はさらに細かく裂けていた。
路地の暗がりへ。 建物の隙間へ。 東都の夜そのものへ溶けるみたいに。
静寂が落ちる。
残ったのは、倒れた被害者の荒い呼吸と、術式の焦げた匂いだけだった。
吾妻は舌打ちを飲み込んだ。
飲み込んだが、消えたわけではない。
隊員たちの前で感情を荒げることはしない。
その代わり、目の奥にだけ硬い熱が残る。
「被害者を運べ。生存優先だ。霊気汚染の測定も急げ」
「はい」
動き出した隊員たちの中で、シズクが吾妻へ近づく。
「今の、見ましたか。人じゃない。少なくとも、普通の術者の動きじゃないです」
吾妻はすぐには答えなかった。
通路の暗がりを睨んだまま、数秒置いてから口を開く。
「……人じゃない、で片づけるのは簡単だ。でも、あれは“作られてる”。自然物じゃない」
シズクが目を細める。
彼女も同じ感触を掴んでいたのだろう。
「誰かが操作してるってことですか」
「そこまではまだ言わない。だが、勝手に湧いた怪異じゃない。こんなタイミングで第三区まで荒れてるのも、偶然にしちゃできすぎてる」
騒ぎを抑えに来たはずの月砂と紅叉。
その最中に起きた黒い霧の襲撃。
出来すぎている。
まるで、どちらへ転んでも東都の均衡が削れるように仕組まれているみたいだった。
通路の入口の方では、まだ紅叉と月砂の連中が隊員に抑えられている。
どちらも苛立っているが、先ほどまでの衝突寸前の熱は少し引いていた。
代わりに、得体の知れないものを目撃したことへの警戒が広がっている。
「月砂も紅叉も、今夜の件で余計に疑い合うでしょうね」
シズクが小さく言う。
「放っておけば、次はもっと大きくなります」
「分かってる」
吾妻は短く返した。
「だから先に潰す。黒い霧も、火種を撒いてる奴も」
言葉は硬い。
決意というより、確認に近かった。
やるしかないからやる。 それが今の立場だ。
応援の隊が到着し、現場の封鎖が始まる。
サイレンの光が壁を赤く染める。
その色が、なぜか紅叉の名を連想させた。
一方で月砂の静かな敵意も、まだ消えてはいない。
今夜は抑えた。 だが、火は消えていない。
灰の下で、むしろ酸素を与えられたみたいに燻っている。
吾妻は現場を見渡した。
被害者。 逃げた黒い霧。 睨み合う勢力。 疲弊した学連。
すべてが別々の問題に見えて、その実どこか一本の糸で引かれている。
誰かが東都を意図的に荒らしている。
その感覚が、ようやく形になった。
夜空は曇っていた。
白塔の問題が消えたあとも、東都は平穏を取り戻したわけではない。
ただ次の混乱の準備期間があっただけなのかもしれない。
吾妻は通路の奥に残る黒い染みを見つめた。
逃げた霧の残滓は、もうほとんど消えている。
だが、その薄さが逆に厄介さを物語っていた。
見えないものが動いている。
しかもそれは、人と組織のぶつかる場所を正確になぞるように現れる。
なら狙いは最初から一つだ。 東都の均衡を崩すこと。
「……面倒なことしてくれる」
吐き捨てるように言って、吾妻は踵を返した。
今夜の始末だけでは終わらない。
黒い霧を追うこと。
第三区の火種を抑えること。
その両方を同時にやらなければならない。
東都の夜は、まだ荒れ始めたばかりだった。




