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ロストテクノロジーは誰のためにあるのか  作者: 維岡 真
第2章 絵札戦 第1節 西風のバットマン

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黒い霧の尾

白神研究所の空気は、この数日で目に見えて変わっていた。

表向きはこれまで通りに研究と記録整理が進んでいる。

けれど誰もが、何かひとつ見えないものを気にしながら動いていた。


東都で続く黒い霧の事件。

霊気力者ばかりを狙う不可解な襲撃。

そして、その霧が現れるたびに胸の奥へ引っかかる、説明のつかないざらつき。

コウにとってはもう、どれも切り離して考えられるものではなかった。


志乃は研究室の長机に並べられた資料の束を前に、被害記録を一枚ずつめくっていた。

負傷者の発見場所。 発見時刻。 霊気流の乱れ方。

どれも単独では曖昧なのに、並べると奇妙な偏りが見えてくる。


その向かいでは、水島桃李が端末を操作していた。

中央図書館にいることの多い彼が研究所へ顔を出している時点で、今回の件への関心の強さは明らかだった。

白衣ではなく、くたびれたジャケット姿のままなのもいつも通りだった。

椅子に深く腰掛けた姿はどこか気怠げなのに、画面を追う目だけは妙に鋭い。


「黒い霧が自然霊障なら、ここまで出現位置が揃うのはおかしい。被害地点が、霊気の濃い場所をなぞるように移動してる」


水島は続ける。


「しかも、襲われた人間の反応が似すぎてるんだよ」


低く落ち着いた声だった。

若者のように勢いで押すことはしない。

だが言葉の端々に、長く記録と向き合ってきた人間の重みがあった。


志乃が顔を上げる。


「似すぎてるって、霊気を吸われたとか、乱されたとか、そういうことですか?」


「それもある。でももっと手前だ。みんな、襲われる直前に“近づいてきた感じがしなかった”って言ってる」


その一言で、部屋が少し静かになった。


冷花は壁際の机で記録紙をまとめていた手を止め、目だけを向けた。

コウも端末から視線を上げる。


「近づいてきた感じがしない。普通、霊体でも怪異でも、ある程度は気配が走る。でも今回のそれは、気づいた時にはもう目の前にいる。まるで霧そのものが、最初からそこに紛れていたみたいに」


「擬態、ってことか」 と、コウが低く言った。


水島は小さく鼻で息を抜いた。


「そうかもしれないし、もっと雑に、人為的に散布されてるだけかもしれない。どっちにしても、“生きた怪異”っていうより、“作られた干渉”に近い」


志乃はその言葉を反芻した。

作られた干渉。

自然に生まれた霊障ではなく、誰かの意図で組み上げられたもの。

そう考えると、あの異様な統一感にも説明がつく。


だが同時に、もっと嫌な方向へ話が進む。 誰が。 何のために。 どうやって。


その問いの先に、どうしてもヤスの顔がちらつく。


研究室の扉が軽く開き、当の本人が顔をのぞかせた。


「お疲れさまでーす。なんか今日、空気固くないですか」


明るい。 軽い。 いつも通りの、妙に場へ馴染む声音だった。


志乃は一拍遅れて「おかえり」と返す。

冷花は短く会釈だけする。

コウは無言でヤスを見る。

視線を受けたヤスは、気にした様子もなく笑った。


「うわ、またコウさんが怖い顔してる。俺、なんかしました」


「してないならいい。今はな」


冗談めいた逃げ場を与えない言い方だった。

志乃が少しだけ眉をひそめる。

けれど水島は、その空気にわざわざ介入しなかった。

むしろ黙ってヤスを観察していた。


ヤスは部屋の中を見回して、机の資料の束に目を留める。


「黒い霧の件ですか。まだ追ってるんですね」


「まだも何も、被害が止まってないから」 と、志乃が答える。


「そっか、大変ですね」


その返しは自然だった。

だが自然すぎた。

まるで他人事みたいだと、志乃は思った。

その感覚に自分で驚く。

少し前までは、こういう気さくさに救われていたはずなのに。


コウが椅子から立ち上がった。


「水島さん、現場、今日も行くのか」


「行く。三件分、まだ見直したい場所がある。来るかい?」


「行く」


短く答えたあと、コウは志乃を見る。

志乃は数秒迷ってから、頷いた。


「私も行きます」


ヤスが少し目を丸くした。


「え、現場行くんですか? 危なくないですか?」


「危ないから行くんだよ」 と、水島が平坦に返す。

「危なくないなら、調べる意味がない」


その物言いに、ヤスは苦笑した。


「水島さん、結構容赦ないっすね」


「よく言われる」


水島は本当に何も気にしていない顔で端末を閉じた。

そのまま資料をひとまとめにし、席を立つ。


「ヤスくんは今日は研究所に残っててくれ。教授からも、出歩きすぎるなって言われてるだろ」


「えー、俺、荷物持ちくらいならできますよ」


「そういう問題じゃない。今回は見学なしだ」


断り方に隙がなかった。

ヤスは表情を崩さずに「了解です」と引いたが、その引き際が逆に綺麗すぎて、コウの違和感はまた一段強くなる。


研究所を出た三人は、午後の東都を横切るように移動した。

白塔の一件以来、街の景色は元に戻ったようでいて、どこか薄い緊張が残っている。

行き交う人の数は多い。 車も走っている。

看板も音も日常のままなのに、その下を見えない不穏が流れているようだった。


一件目の現場は、高架下の細い歩道だった。

今は規制線も解かれているが、壁際にはまだ術式の焼け跡が残っている。


冷花は持参した札を取り出し、足元へ数枚打った。

薄い光が地面をなぞる。


「反応は弱いけど、残滓はある。霊体の残り方じゃない。もっと細かく裂けたような痕」


水島がそれを見下ろしながら、端末に記録する。


「分散してるな。ひとつの核があって動いたんじゃなくて、最初から薄く広がってる。やっぱり“霧”って呼び方は、見た目以上に本質かもしれない」


コウは目を閉じた。

使徒再生を受けてから、ときどきこうして痕跡へ意識を寄せることができる。

それは記憶を見るのとは違う。

もっと曖昧で、断片的で、触れたものの履歴の輪郭をなぞるような感覚だった。


焼け跡に残る微かな霊気のざらつき。

滲んだ恨みでも、死霊の執着でもない。

誰かに組まれた経路だけが、空っぽのまま残っている。


コウの眉がわずかに寄る。


「……これ、生き物じゃない」


志乃が息をひそめる。


「分かるの」


「断定まではいかない。でも、意思があるって感じじゃない。命令だけが残ってるみたいだ」


水島がすぐに言葉を継いだ。


「不完全な霊気干渉体。仮にそう呼ぶなら、辻褄は合う。術者がいて、霧はその末端。だから気配が薄いし、消える時も散る」


志乃の喉が小さく鳴った。

黒い霧の正体に一歩近づいた実感があった。

だが近づいた分だけ、その背後にいる“誰か”の存在が濃くなる。


二件目の現場は、人気の少ない小公園の脇だった。

ここでも結果は似ていた。

霊気の残り方が奇妙に均質で、自然発生とは思えない。

冷花の術式も、水島の照合も、同じ方向を示す。


三件目は川沿いの遊歩道だった。

日が傾き始め、足元の影が長く伸びている。


そこでコウは、不意に足を止めた。


「……新都」


「え」 と、志乃が振り返る。


コウは地面の方を見たまま、ゆっくりと続ける。


「わずかだけど、混じってる。霊気の癖が、東都のものと違う。白塔の時に見た流れとも違う。もっと人工的で、均された感じだ」


水島の目が細くなる。


「新都の研究式に近いってことか」


「断言はできない。でも、ヤスの周りで感じる違和感に似てる」


その名前が出た瞬間、志乃は黙った。

否定したい気持ちはまだ残っている。

でも、ここまで来て無視はできない。

ヤスは第五研究都市――新都から来た。

そして今、黒い霧の残滓に、その出自と触れ合うような歪みがある。


水島が静かに息を吐く。


「つながりは見えてきたな。でも、まだ弱い。この程度じゃ、本人を問い詰めても逃げられる」


「証拠がいる」 と、コウが言う。


「そうだな。持ち物でも、行動でも、現場と本人を直接結ぶものが必要だ」


夕方。

三人が最後の現場を離れようとした時だった。

志乃の足が、何か硬いものに触れた。


小さな音がして、遊歩道脇の植え込みから細長いものが転がり出る。


志乃はしゃがみ込んだ。

拾い上げた瞬間、表情が止まる。


「……これ」


水島も覗き込んだ。

黒いバッティンググローブの片方だった。

擦れた革の甲に、白い糸で簡単な補修が入っている。 見覚えがあった。

研究所でヤスが荷物を運ぶ時、よく雑にポケットへ突っ込んでいたものと同じだった。


志乃の指先がわずかに震える。


「うそ……」


コウは何も言わず、そのグローブを見た。

驚きより先に、冷たい納得が落ちてくる。

やはり、という思いと。

まだ決めつけるな、という理性がぶつかる。


水島は感情を表に出さず、すぐに端末を構えた。


「触った位置、そのままで。記録を取る。冷花さん、残留霊気は拾えるか」


「やってみる」 と、冷花は短く答え、札を抜いた。


薄い術光がグローブの表面をなぞる。

その瞬間、ごく微弱な反応が浮く。

東都のものと、新都の癖を帯びた歪み。

そして、三件の現場で追ってきた黒い霧の残滓と、よく似たざらつき。


志乃は息を詰めた。 もう偶然では片づけにくい。

それでも、まだ決定打ではない。

落としただけかもしれない。 誰かが置いたのかもしれない。

そう思おうとする自分が、ひどく苦しくなる。


コウが低く言う。


「尻尾が見えた」


水島は頷いた。


「そうだな。でも、まだ掴みきれてない。だから次は、もっと近くで見るしかない」


川面を渡る風が冷たかった。

日暮れの東都は、昼間よりもずっと本音を隠さない。

遠くでサイレンが鳴る。

誰かの生活音が橋の向こうに流れていく。

その全部の裏側で、見えないものが少しずつ輪郭を持ち始めていた。


研究所へ戻れば、きっとヤスはいつもの顔でいる。

明るくて。 人懐っこくて。 何も知らないふりをしたまま。


その二重性が、今はもうただ不気味だった。


志乃はグローブを見下ろしたまま、唇を引き結ぶ。

信じたい気持ちはまだ消えていない。

けれど、疑わなければならない場所まで来てしまったことも、もう分かっていた。


東都の空は、紫から群青へ沈みかけている。

黒い霧はまだ正体を明かさない。

だがその尾は、確かに誰かの足元へつながっていた。

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