黒い霧の尾
白神研究所の空気は、この数日で目に見えて変わっていた。
表向きはこれまで通りに研究と記録整理が進んでいる。
けれど誰もが、何かひとつ見えないものを気にしながら動いていた。
東都で続く黒い霧の事件。
霊気力者ばかりを狙う不可解な襲撃。
そして、その霧が現れるたびに胸の奥へ引っかかる、説明のつかないざらつき。
コウにとってはもう、どれも切り離して考えられるものではなかった。
志乃は研究室の長机に並べられた資料の束を前に、被害記録を一枚ずつめくっていた。
負傷者の発見場所。 発見時刻。 霊気流の乱れ方。
どれも単独では曖昧なのに、並べると奇妙な偏りが見えてくる。
その向かいでは、水島桃李が端末を操作していた。
中央図書館にいることの多い彼が研究所へ顔を出している時点で、今回の件への関心の強さは明らかだった。
白衣ではなく、くたびれたジャケット姿のままなのもいつも通りだった。
椅子に深く腰掛けた姿はどこか気怠げなのに、画面を追う目だけは妙に鋭い。
「黒い霧が自然霊障なら、ここまで出現位置が揃うのはおかしい。被害地点が、霊気の濃い場所をなぞるように移動してる」
水島は続ける。
「しかも、襲われた人間の反応が似すぎてるんだよ」
低く落ち着いた声だった。
若者のように勢いで押すことはしない。
だが言葉の端々に、長く記録と向き合ってきた人間の重みがあった。
志乃が顔を上げる。
「似すぎてるって、霊気を吸われたとか、乱されたとか、そういうことですか?」
「それもある。でももっと手前だ。みんな、襲われる直前に“近づいてきた感じがしなかった”って言ってる」
その一言で、部屋が少し静かになった。
冷花は壁際の机で記録紙をまとめていた手を止め、目だけを向けた。
コウも端末から視線を上げる。
「近づいてきた感じがしない。普通、霊体でも怪異でも、ある程度は気配が走る。でも今回のそれは、気づいた時にはもう目の前にいる。まるで霧そのものが、最初からそこに紛れていたみたいに」
「擬態、ってことか」 と、コウが低く言った。
水島は小さく鼻で息を抜いた。
「そうかもしれないし、もっと雑に、人為的に散布されてるだけかもしれない。どっちにしても、“生きた怪異”っていうより、“作られた干渉”に近い」
志乃はその言葉を反芻した。
作られた干渉。
自然に生まれた霊障ではなく、誰かの意図で組み上げられたもの。
そう考えると、あの異様な統一感にも説明がつく。
だが同時に、もっと嫌な方向へ話が進む。 誰が。 何のために。 どうやって。
その問いの先に、どうしてもヤスの顔がちらつく。
研究室の扉が軽く開き、当の本人が顔をのぞかせた。
「お疲れさまでーす。なんか今日、空気固くないですか」
明るい。 軽い。 いつも通りの、妙に場へ馴染む声音だった。
志乃は一拍遅れて「おかえり」と返す。
冷花は短く会釈だけする。
コウは無言でヤスを見る。
視線を受けたヤスは、気にした様子もなく笑った。
「うわ、またコウさんが怖い顔してる。俺、なんかしました」
「してないならいい。今はな」
冗談めいた逃げ場を与えない言い方だった。
志乃が少しだけ眉をひそめる。
けれど水島は、その空気にわざわざ介入しなかった。
むしろ黙ってヤスを観察していた。
ヤスは部屋の中を見回して、机の資料の束に目を留める。
「黒い霧の件ですか。まだ追ってるんですね」
「まだも何も、被害が止まってないから」 と、志乃が答える。
「そっか、大変ですね」
その返しは自然だった。
だが自然すぎた。
まるで他人事みたいだと、志乃は思った。
その感覚に自分で驚く。
少し前までは、こういう気さくさに救われていたはずなのに。
コウが椅子から立ち上がった。
「水島さん、現場、今日も行くのか」
「行く。三件分、まだ見直したい場所がある。来るかい?」
「行く」
短く答えたあと、コウは志乃を見る。
志乃は数秒迷ってから、頷いた。
「私も行きます」
ヤスが少し目を丸くした。
「え、現場行くんですか? 危なくないですか?」
「危ないから行くんだよ」 と、水島が平坦に返す。
「危なくないなら、調べる意味がない」
その物言いに、ヤスは苦笑した。
「水島さん、結構容赦ないっすね」
「よく言われる」
水島は本当に何も気にしていない顔で端末を閉じた。
そのまま資料をひとまとめにし、席を立つ。
「ヤスくんは今日は研究所に残っててくれ。教授からも、出歩きすぎるなって言われてるだろ」
「えー、俺、荷物持ちくらいならできますよ」
「そういう問題じゃない。今回は見学なしだ」
断り方に隙がなかった。
ヤスは表情を崩さずに「了解です」と引いたが、その引き際が逆に綺麗すぎて、コウの違和感はまた一段強くなる。
研究所を出た三人は、午後の東都を横切るように移動した。
白塔の一件以来、街の景色は元に戻ったようでいて、どこか薄い緊張が残っている。
行き交う人の数は多い。 車も走っている。
看板も音も日常のままなのに、その下を見えない不穏が流れているようだった。
一件目の現場は、高架下の細い歩道だった。
今は規制線も解かれているが、壁際にはまだ術式の焼け跡が残っている。
冷花は持参した札を取り出し、足元へ数枚打った。
薄い光が地面をなぞる。
「反応は弱いけど、残滓はある。霊体の残り方じゃない。もっと細かく裂けたような痕」
水島がそれを見下ろしながら、端末に記録する。
「分散してるな。ひとつの核があって動いたんじゃなくて、最初から薄く広がってる。やっぱり“霧”って呼び方は、見た目以上に本質かもしれない」
コウは目を閉じた。
使徒再生を受けてから、ときどきこうして痕跡へ意識を寄せることができる。
それは記憶を見るのとは違う。
もっと曖昧で、断片的で、触れたものの履歴の輪郭をなぞるような感覚だった。
焼け跡に残る微かな霊気のざらつき。
滲んだ恨みでも、死霊の執着でもない。
誰かに組まれた経路だけが、空っぽのまま残っている。
コウの眉がわずかに寄る。
「……これ、生き物じゃない」
志乃が息をひそめる。
「分かるの」
「断定まではいかない。でも、意思があるって感じじゃない。命令だけが残ってるみたいだ」
水島がすぐに言葉を継いだ。
「不完全な霊気干渉体。仮にそう呼ぶなら、辻褄は合う。術者がいて、霧はその末端。だから気配が薄いし、消える時も散る」
志乃の喉が小さく鳴った。
黒い霧の正体に一歩近づいた実感があった。
だが近づいた分だけ、その背後にいる“誰か”の存在が濃くなる。
二件目の現場は、人気の少ない小公園の脇だった。
ここでも結果は似ていた。
霊気の残り方が奇妙に均質で、自然発生とは思えない。
冷花の術式も、水島の照合も、同じ方向を示す。
三件目は川沿いの遊歩道だった。
日が傾き始め、足元の影が長く伸びている。
そこでコウは、不意に足を止めた。
「……新都」
「え」 と、志乃が振り返る。
コウは地面の方を見たまま、ゆっくりと続ける。
「わずかだけど、混じってる。霊気の癖が、東都のものと違う。白塔の時に見た流れとも違う。もっと人工的で、均された感じだ」
水島の目が細くなる。
「新都の研究式に近いってことか」
「断言はできない。でも、ヤスの周りで感じる違和感に似てる」
その名前が出た瞬間、志乃は黙った。
否定したい気持ちはまだ残っている。
でも、ここまで来て無視はできない。
ヤスは第五研究都市――新都から来た。
そして今、黒い霧の残滓に、その出自と触れ合うような歪みがある。
水島が静かに息を吐く。
「つながりは見えてきたな。でも、まだ弱い。この程度じゃ、本人を問い詰めても逃げられる」
「証拠がいる」 と、コウが言う。
「そうだな。持ち物でも、行動でも、現場と本人を直接結ぶものが必要だ」
夕方。
三人が最後の現場を離れようとした時だった。
志乃の足が、何か硬いものに触れた。
小さな音がして、遊歩道脇の植え込みから細長いものが転がり出る。
志乃はしゃがみ込んだ。
拾い上げた瞬間、表情が止まる。
「……これ」
水島も覗き込んだ。
黒いバッティンググローブの片方だった。
擦れた革の甲に、白い糸で簡単な補修が入っている。 見覚えがあった。
研究所でヤスが荷物を運ぶ時、よく雑にポケットへ突っ込んでいたものと同じだった。
志乃の指先がわずかに震える。
「うそ……」
コウは何も言わず、そのグローブを見た。
驚きより先に、冷たい納得が落ちてくる。
やはり、という思いと。
まだ決めつけるな、という理性がぶつかる。
水島は感情を表に出さず、すぐに端末を構えた。
「触った位置、そのままで。記録を取る。冷花さん、残留霊気は拾えるか」
「やってみる」 と、冷花は短く答え、札を抜いた。
薄い術光がグローブの表面をなぞる。
その瞬間、ごく微弱な反応が浮く。
東都のものと、新都の癖を帯びた歪み。
そして、三件の現場で追ってきた黒い霧の残滓と、よく似たざらつき。
志乃は息を詰めた。 もう偶然では片づけにくい。
それでも、まだ決定打ではない。
落としただけかもしれない。 誰かが置いたのかもしれない。
そう思おうとする自分が、ひどく苦しくなる。
コウが低く言う。
「尻尾が見えた」
水島は頷いた。
「そうだな。でも、まだ掴みきれてない。だから次は、もっと近くで見るしかない」
川面を渡る風が冷たかった。
日暮れの東都は、昼間よりもずっと本音を隠さない。
遠くでサイレンが鳴る。
誰かの生活音が橋の向こうに流れていく。
その全部の裏側で、見えないものが少しずつ輪郭を持ち始めていた。
研究所へ戻れば、きっとヤスはいつもの顔でいる。
明るくて。 人懐っこくて。 何も知らないふりをしたまま。
その二重性が、今はもうただ不気味だった。
志乃はグローブを見下ろしたまま、唇を引き結ぶ。
信じたい気持ちはまだ消えていない。
けれど、疑わなければならない場所まで来てしまったことも、もう分かっていた。
東都の空は、紫から群青へ沈みかけている。
黒い霧はまだ正体を明かさない。
だがその尾は、確かに誰かの足元へつながっていた。




