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ロストテクノロジーは誰のためにあるのか  作者: 維岡 真
第2章 絵札戦 第1節 西風のバットマン

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信じるか疑うか

黒い霧と遭遇した翌日。

白神研究所の空気は、これまでとははっきり違っていた。

昨日まで漂っていたのは、あくまで噂に対する警戒だった。

けれど今は違う。

研究所の側の人間が実際に遭遇した。

しかも冷花の術式をもってしても、完全な拘束には至らなかった。

その事実が、場の温度を一段低くしていた。


白神教授は朝から報告をまとめていた。

冷花は昨夜の術式記録を洗い直している。

研究員たちも表面上は平静を装っていたが、誰もがいつもより声を抑えていた。

研究所の中にまで、夜の気配が持ち込まれたみたいだった。


志乃は窓際の机に腰を下ろしながら、何度目か分からないため息を吐いた。

眠れていないわけではない。

けれど頭の中は、昨夜のことで埋まりっぱなしだった。

歩道橋の下の暗がり。

人影とも霧ともつかない黒いもの。

冷花の術を押し返し、散るように逃げた気配。

そして何より、その直前にヤスが消えていたこと。


「……考えすぎかな」


小さく呟いた声に、すぐ近くから返事が来る。


「考えすぎじゃない」


コウだった。

机を挟んだ向かいで、端末も開かないまま座っている。

その横顔は昨日からずっと硬い。


「でも、まだ断定はできないでしょ。タイミングが悪かっただけかもしれないし」


志乃がそう言うと、コウは低く返した。


「悪すぎる。消えた直後に出た」


コウは続ける。


「戻ってきた時には消えてた。それで何も関係ないって考える方が無理だ」


声に熱はない。

その分、決めている感じが強かった。

志乃は言葉を探す。 コウがここまで強く言うのは珍しい。

疑っているというより、見誤りたくないのだ。

相模の件が尾を引いているのは、もう疑いようがなかった。


「私は、変だとは思ったよ。思ったけど……」


志乃はまっすぐにコウを見た。


「それでも、決めつけるのは怖い」


正直な気持ちだった。

また誰かを疑うこと。

また近くにいた相手を、裏がある前提で見ること。

それは簡単じゃない。

もし違ったらどうするのか。

その時、自分は何を壊すのか。

白塔の一件を経た今だからこそ、その重さが分かってしまう。


コウは少しだけ目を伏せた。

怒っているわけではない。

けれど、譲れないものがある顔だった。


「違ったら、その時は謝ればいい。でも、もし本当に関わってたのに見逃したら、今度はそれじゃ済まない」


その言葉に、志乃は返せなかった。

正しい。 きっと正しい。 だからこそ苦しかった。


そこへ、研究室の奥から冷花の声が飛んだ。


「二人とも。少しいい?」


志乃とコウは顔を見合わせ、立ち上がる。

冷花の机の上には昨夜の術式記録と、黒い霧に触れた時の簡易波形が並んでいた。

白神教授もそばにいる。


「昨夜の件、改めて整理する。まず、あれは通常の霊体じゃない」


そしてタブレットをいじりながら冷花は続ける。


「霊気の塊ではあるけど、形の保ち方が不自然すぎる。術式に対する崩れ方も変だ。単純な呪術生成物でもない」


冷花が淡々と言う。

その口調はいつもと変わらない。

だが説明の順序がきっちりしすぎている時の冷花は、逆に相当警戒している時だと志乃も分かってきていた。


「人為的ってことですか」


コウが訊く。

白神教授が腕を組んだまま答える。


「可能性は高い。自然発生でああいう挙動になるなら、もう少し別の痕跡が出る。現状は、何者かが意図して作るか操作していると見る方が自然だ」


その言葉の重さに、研究室の空気がさらに静かになる。

誰かが意図している。

それはつまり、襲撃もまた偶発ではないということだ。


志乃は少し躊躇ってから口を開いた。


「……ヤスのこと、どう思ってるんですか」


白神教授はすぐには答えなかった。

冷花も視線を上げない。

沈黙のあと、教授が低く言う。


「疑う理由はある。断定する理由はまだない」


「でも、あまりに出来すぎてます」


コウが言う。 教授は頷いた。


「そうだな。だから切り捨てず、泳がせもする。今の段階で正面から詰めれば、もし関与していた場合、逆に痕跡を消される可能性がある」


その判断は冷静だった。

そして冷静であるがゆえに、コウには歯がゆくもあった。


「じゃあ、何もしないんですか」


「何もしないとは言っていない」


白神教授の目が細くなる。


「行動の癖を見る。出入りの時間を記録する。何に反応するかを把握する。そして必要なら、証拠を取りに行く」


そこで冷花が端末を閉じた。


「今の問題は、疑うかどうかじゃない。証拠がないこと。だから感情でぶつかるのは一番悪手よ」


志乃は冷花を見る。

冷たいようでいて、たぶんこれが今できる一番まともな整理なのだろう。


「……分かった」


コウは短く答えた。

納得したというより、飲み込んだという方が近い。

それでも完全には引いていないのが、声で分かった。


その日の昼過ぎ。

ヤスはいつも通り研究所に現れた。

それがかえって不気味だった。

昨夜のことを知っているはずなのに、顔色一つ変えず、自然に扉を開けて入ってくる。


「おはようございます……って、もう昼か」


いつもの調子でそう言って笑う。

研究員の何人かが軽く応じる。

それもまたいつも通りだった。 少なくとも表面上は。


「昨日、あの後大丈夫だった?」


コウは机越しにヤスを見たまま、何も言わない。


「コウ?」


ヤスが視線を向ける。


「昨日、腕やられたんだろ。平気か?」


心配している口調だった。

それでもコウの中では警戒が緩まない。

むしろ、そこまで自然に振る舞えること自体が引っかかる。


「平気だ」


短く返す。

ヤスはそれ以上踏み込まなかった。

空気を読んだのか。 最初から読み切っていたのか。

今のコウには、どちらにも思えた。


そのあとも、研究所の時間は一見いつも通り流れた。

ヤスは手伝いをし、志乃は資料をまとめる。

コウは記録を追う。

冷花と教授は裏で情報を整理する。

だが、昨日までと違うのは、誰もがヤスを一度は見てしまうことだった。

視界の端で。 会話の合間で。 さりげなく。 そこにいることを確認するみたいに。


夕方前。

志乃は研究所の裏手にある小さな搬入口で、一人になったところをコウに呼び止められた。


「志乃」


振り返ると、コウは真っ直ぐこちらを見ていた。

迷っている顔ではなかった。

もうある程度、決めている顔だった。


「俺、ヤスをもう少し直接見る」


「直接って?」


「帰り道とか、研究所の外での動きとか。研究所の中だけ見てても分からない気がする」


志乃は眉をひそめる。


「危なくない? もし本当に関わってたら」


「だからこそ見る。中途半端に疑ったまま放っておく方が危ない」


その考えは分かる。

けれど、一人で背負わせたくはなかった。


「私も行く」


すぐにそう言うと、コウは首を振る。


「いや。まずは俺が――」


「だめ。また勝手に一人で決めないで」


少し強く言ってしまってから、志乃は息を吐いた。

怒っているわけではない。

でも、あの白塔の時のことが頭をよぎる。

一人で抱え込んで。 一人で決めて。 その結果、どうなったかを知っている。


コウもそれは分かっているらしかった。

一瞬だけ視線を逸らし、それから小さく頷く。


「……分かった。でも無茶はするな」


「それはこっちの台詞」


そのやり取りに、ほんの少しだけ張りつめていた糸が緩む。

けれど、不安が消えたわけではなかった。


信じたい気持ちはまだある。

疑うことへのためらいも消えない。

それでも、もう何も見ないふりではいられなかった。


白神研究所の廊下の向こうで、ヤスの笑い声が聞こえる。

研究員の誰かと話しているらしい。

その声は、相変わらず明るかった。 場に溶け込んでいて。

そこにいて当たり前みたいに聞こえる。


だからこそ不気味だった。


信じるか。 疑うか。

その二択のはずなのに、実際はもっと曖昧で残酷だ。

信じたいまま疑い。

疑いながらも決めきれない。

その中途半端さごと抱えたまま、前に進むしかない。


そしてその夜。

志乃は自室のベッドに腰を下ろしながら、昼間のコウの言葉を思い返していた。

ヤスを直接見る。 研究所の外での動きまで追う。

そこまでしなければ見えない何かがあるかもしれない。

そう思う時点で、もう自分たちはヤスをただの仲間候補として見ていない。


窓の外では、東都の光が瞬いている。 平穏そうな夜だった。

けれどその下で、黒い霧はまだどこかを這っているのかもしれない。

そしてもし、その霧とヤスが本当に繋がっているのだとしたら。


志乃は唇を引き結ぶ。 まだ証拠はない。 まだ何も言えない。

けれど、昨日までとは違う。 疑念はもう、胸の底に沈んだままではなかった。

次に動くべき時を待つみたいに、静かに形を持ち始めている。


それはきっと、コウも同じだった。 もう後戻りはできない。

見ると決めた以上、最後まで見なければならない。


ヤスが何者なのか。 黒い霧とどう繋がっているのか。

その答えへ近づくための一歩が、もう始まりかけていた。

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