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ロストテクノロジーは誰のためにあるのか  作者: 維岡 真
第2章 絵札戦 第1節 西風のバットマン

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帰り道

その日の研究所は、いつもより少しだけ静かだった。

誰もが手を動かしている。 会話もある。 いつも通りに見える。

けれど、その底には黒い霧の噂が薄く沈んでいた。

意識しないようにしていても、完全には消えない。 そういう種類の不安だった。


白神教授は午前から別室にこもり、過去の霊気干渉事例を洗い直していた。

冷花は研究員と一緒に、被害者に共通する霊気の乱れ方を簡易式に落とし込もうとしている。

志乃はその補助として記録の分類を手伝い、コウは端末の前で事件発生地点と霊気反応の分布を見比べていた。 ヤスはそんな研究所の中を、今日も自然に動き回っていた。


「それ、こっちに置けばいい?」


ヤスが箱を抱えたまま訊く。


「そっちは試料棚だからだめ。こっちの空きスペース」


冷花が手元を見たまま答える。


「了解」


言われた通りに箱を置き、ヤスはすぐ次の雑務へ向かう。 動きに無駄がない。

人に呼ばれる前に足りないものへ気づく。 そういう細かいところが、本当に妙だった。


コウは再びヤスを見ていた。

理由にならない程度の違和感が、今日までずっと消えていないのだ。


「そこまで気になるなら、教授にちゃんと言えばいいのに」


「言ってる。急ぐなって言われてるだけだ」


「それもそうだけど」


志乃は視線だけヤスへ向ける。 明るくて。 馴染みが早くて。 人当たりがいい。

そのどれもが、研究所の中ではむしろ好意的に働いていた。


「……でも、今日はちょっと早めに上がろうって冷花が言ってたし。帰り、みんなで帰ればいいんじゃない?」


「それはそうするつもり」


コウは短く答え、また画面に目を戻した。 東都の地図上に散る事件地点。

線で結べば、何か見えるかもしれないと思っていた。

けれど今のところは、ばらついているようでいて妙に偏っている、としか言えない。

第三区。 第六区。 その周辺。

生活圏と裏路地の境目ばかりだ。 誰かが狙って選んでいる。 その感触だけはある。


夕方になると、冷花が手を止めた。


「今日はここまで。教授にも伝えてある」


研究員たちの間に、わずかな安堵が流れる。 近頃は夜が深くなる前に解散する日が増えていた。

研究所に閉じこもっていれば安全という話でもない。

けれど、遅く出歩く理由をわざわざ増やす必要もない。


「志乃。帰る準備して」


「うん」


「コウも」


「ああ」


ヤスもそのやり取りを聞いて、机の上を片づけ始めた。


「じゃあ俺もこの辺で上がります。今日はみんな一緒?」


「その予定」


志乃が答える。 冷花も特に異論はなさそうだった。

研究所を出る時は、なるべく単独を避ける。 今はそれが当たり前になりつつある。


外へ出ると、東都の空はすでに夕暮れを越えかけていた。 群青が街の輪郭へゆっくり降りてきている。

ビルの窓には人工の灯りがともり始め、地上はまだ人の流れで埋まっている。 夜というには早い。

だが安全だと油断するには遅い。 そんな時間帯だった。


四人で歩く。 前に志乃と冷花。 少し後ろにコウとヤス。 最初は他愛のない会話だけが続いていた。


「研究所って、夕方くらいが一番静かだよね」


志乃が言う。


「みんな疲れて口数減るだけじゃない?」


冷花が返す。


「それを静かって言うんだよ」


「違うわよ」


「いや同じじゃん」


そのやり取りに、ヤスが後ろから笑う。


「仲いいね」


「そう見える?」


志乃が振り返る。


「見える見える」


「錯覚だよ。冷花、普通に冷たいし」


「あなたが雑なの」


「ひど」


軽口が流れる。 その間もコウは、横を歩くヤスの気配を意識していた。

視線までは向けない。

向けると、こちらの警戒がそのまま伝わる気がした。 ただ、耳だけをそちらへ向けている。


「コウ、黙ってるね」


不意にヤスが言った。


「別に」


「今日は特に静か」


「考えごとしてるだけ」


「黒い霧のこと?」


コウはそこで初めてヤスを見た。 問い方が自然すぎた。 だからこそ少しだけ早く感じた。


「……まあ」


「そりゃ気になるよね。能力者狙いって、普通にいやだし」


「そうだな」


「俺もさすがに、最近はちょっと周り気にするようになった。見えない相手が一番困る」


その言葉はもっともだった。 なのに、コウの中ではまたざらつきが増える。

見えない相手を、“見えない相手として知っている”言い方。

そう感じるのは考えすぎだろうか。 自分でも判断がつかない。


第三区寄りの歩道橋へ差しかかったところで、冷花が足を止めた。


「……待って」


声が低い。 志乃もすぐ振り向いた。


「どうしたの?」


「静かすぎる」


冷花の視線は、歩道橋の下の暗がりへ向いていた。 車道の騒音はある。 人の気配も遠くにはある。

だが、この周辺だけ妙に薄い。 空白があるみたいだった。


コウの背筋に、ぞわりとしたものが走る。


「ヤスは?」


そう口にした瞬間、自分でも驚いた。 さっきまで横にいたはずだった。

ほんの数秒。 会話が切れた、その隙に。 気配がない。


「え」


志乃が周囲を見回す。 たしかにいない。 歩道橋の上にも。 階段の陰にも。 視界の届く範囲に、ヤスの姿だけが消えていた。


「なんで……」


志乃が息を呑む。 冷花の目が細まる。


「来る」


その一言と同時に、暗がりが揺れた。


最初は影に見えた。 街灯の届かない場所が、ただ濃く見えているだけのように。

だが違う。 それは動いていた。 じわりと。

黒い煙の塊みたいなものが、地面を這うように形を持ち始める。


「なに、あれ……」


志乃の声が掠れる。


人影にも見える。 霧にも見える。 輪郭があるのに定まらない。

黒い何かが、こちらへ向かって伸びてくる。 生き物みたいに。

あるいは、空腹そのものが形を持ったみたいに。


コウは反射的に志乃の前へ出た。 同時に、冷花の手がすでに印を切っている。


「下がって」


冷花の足元から淡い術光が広がる。 瞬間、黒い霧が速度を上げた。 走る、というより滑る。 空気を裂くように一直線に。


「くっ……!」


コウが横へ身を捻る。 霧の先端が腕をかすめた。 触れた、と思った瞬間、肌ではなくもっと内側を冷たいものが撫でたような感覚が走る。 霊気を直接掴まれるような、不快な感触だった。


「コウ!」


志乃が叫ぶ。 冷花はその前に術を打ち込んでいた。


「氷色陣・拘束」


足元の光が一気に立ち上がる。 淡い青白い紋が路面へ走り、霧の進路を包み込む。

次の瞬間、黒いものの周囲に薄氷の檻みたいなものが生まれた。


だが、完全には止まらない。 黒い霧は檻の中でぐにゃりと形を変え、氷の内側を這い回る。 固まらない。 砕けもしない。 ただ、押し広げるみたいに揺れている。


「なによ、これ……!」


冷花が珍しく苛立ちを滲ませる。 通常の霊的干渉体とは違う。 術式に対する反応が異質すぎる。 凍るわけでも。 弾けるわけでもなく。 ただ、存在の密度を変えるみたいに拘束を逃れようとしている。


コウは腕を押さえながら、目の前のそれを睨んだ。 この感じ。 見え方は初めてなのに、嫌な意味で納得がある。 “黒い霧”という噂は誇張じゃない。 本当にこういうものがいたのだ。


「志乃、下がって!」


「でも――」


「いいから!」


次の瞬間、霧が檻の一角を押し破った。 氷が砕け散る。 冷花が舌打ちし、すぐに第二式へ繋げる。


「退けッ」


今度は扇状に術光が走る。 黒い霧へ真正面から叩きつけられたそれは、さすがに効果があった。 霧全体が揺らぎ、後ろへ押し戻される。 輪郭が崩れる。 人の上半身みたいだったものが、一度ばらけた。


「今!」


冷花が叫ぶ。 コウは一歩踏み出しかける。 だが、その瞬間。 霧がふっと軽くなった。 霊気の密度が、一気に散る。


「逃げる……!」


志乃が言うより早く、それは歩道橋の下の闇へ溶けるように引いた。 追うには遅い。 そもそも、追ったところでどこまで届くかも分からない。 数秒後には、そこに残っていたのはわずかな冷気と、まとわりつくような嫌な残滓だけだった。


静寂が落ちる。 遠くの車音だけがやけに大きく聞こえた。


「……終わった?」


志乃が小さく言う。 冷花はまだ術式を解かないまま、暗がりを睨んでいた。


「まだ近くにいる感じはない。でも、完全に消えたとは限らない」


コウは腕を押さえたまま、荒い息を吐く。 ひどい傷ではない。 皮膚も大きく裂けてはいない。 なのに、触れられたところだけ霊気の流れがざらついている。 嫌な接触だった。


「コウ、大丈夫!?」


志乃が駆け寄る。 コウは短く頷いた。


「平気だ……だが」


その言葉の続きを、冷花が拾うように言う。


「普通じゃない。術式の通り方が変だった。霊体でもないし、単なる呪術生成物でもない」


冷花の声は低かった。 そこへ、足音が近づいてくる。


「うわ、何その空気」


ヤスだった。


歩道橋の反対側の階段から、何事もなかったみたいな顔で現れる。

その姿を見た瞬間、コウの中で何かがはっきり音を立てた。


「……どこ行ってた」


思わず声が冷える。 ヤスは少し目を丸くした。


「え? いや、自販機だけど。ちょっと喉乾いて」


手には確かに缶がある。 買ってきたのだろう。

見た目だけなら、不自然ではない。 不自然ではないのに。 タイミングが、あまりにも出来すぎていた。


「こんな時に?」


志乃も動揺を隠せない。 ヤスは周囲を見回し、壊れた路面の氷痕や冷花の術の残りを見て顔を曇らせた。


「……もしかして、出た?」


その言い方すら、コウには引っかかった。 もしかして。 まるで予感があったみたいな響き。


「黒い霧が出た。お前が消えた直後にな」


コウが真正面から言う。 志乃が「コウ」と小さく制する。 だが、もう止まらなかった。


ヤスは数秒黙った。 それから、困ったように笑う。


「それ、疑ってる?」


「疑うだろ」


「タイミングが悪いのは認める。でも、さすがにそれだけで俺だってなるのは乱暴じゃない?」


返しは滑らかだった。 否定の仕方ももっともだ。 だが、コウの中ではむしろ確信に近いものが強くなる。 違うなら、もっと違う揺れ方をする気がした。

今のヤスは、あまりにも“疑われた時の受け答え”が上手すぎる。


冷花が間に入るように口を開いた。


「今はここを離れる。議論は後よ。また来ても面倒だし」


それは正しい判断だった。 志乃も頷く。 コウはまだヤスを見ていたが、やがて視線を切った。 ここで何を言っても決定打はない。 だが、もう偶然では済ませられなかった。


四人はその場を離れる。 歩き出しても、空気はさっきまでとまるで違った。 志乃は何度もヤスの方を見そうになるのを堪えていた。 信じたい気持ちと。 今の出来事が残した不気味さと。 その両方が胸の中でぶつかっている。


ヤスはそれ以上弁解しなかった。 黙って歩いている。 その静けさもまた、妙だった。


研究所へ連絡を入れ、簡単な報告を済ませたあと。 帰宅して一人になった部屋の中で、コウはようやく深く息を吐いた。


黒い霧は実在した。 冷花の術でも完全には止められなかった。 そして何より。 ヤスが消えた直後に現れ、ヤスが戻ってきた時には消えていた。


偶然で片づけるには、出来すぎている。


証拠はまだない。 ないが、もう疑念は勘の段階を越えていた。


「やっぱり、あいつが関わってる」


小さく口にする。 その声は、自分でも驚くほど硬かった。


ヤスは何者なのか。 黒い霧とどう繋がっているのか。 まだ見えていない。 だが少なくとも一つだけ、もうはっきりしていることがある。


鑢谷朋大は、ただ研究所に馴染んだ好青年なんかじゃない。


その確信だけが、夜の底で静かに輪郭を持ち始めていた。

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