疑念
黒い霧の噂が東都の夜へ根を張り始めてから、研究所の空気は目に見えて少し変わった。
誰も露骨に怯えているわけではない。 だが、帰宅時間を気にするようになった。
施錠の確認が増えた。 窓の外を見る回数も増えた。
そういう小さな変化が、場の緊張を静かに物語っていた。
白神教授も、以前より人の動きに目を配るようになっていた。
冷花は夜に外へ出る者がいないかをさりげなく確認している。
研究員たちも雑談のついでみたいな顔で「今日は誰と帰るんだ」と訊くようになった。
平穏はまだ壊れていない。 だが、壊れる前の空気はもう漂っている。
その中で、ヤスだけは相変わらずだった。 明るくて。 軽くて。 よく動く。
変に緊張した様子もない。
それが頼もしく見える瞬間もあったし、逆にコウにはそこが引っかかった。
「ヤス、その箱はこっち。中身、試料だから傾けないで」
冷花が言う。
「了解。これ、見た目よりだいぶ危ないやつ?」
「危なくないなら私が言わない」
「ですよね」
そんな調子で返しながら、ヤスは言われた通りに箱を置く。
その手つきは雑ではない。
見学に来たばかりの人間にしては、妙に扱いが落ち着いている。
コウはその様子を少し離れた位置から見ていた。
志乃がそんなコウの横顔に気づく。
「また見てる。最近ずっとそれ」
「最近ずっと気になるから」
コウは端末から顔を上げずに言う。 志乃は小さく息を吐いた。
「そんなに?」
「ああ」
短い返答だった。 だが、その声音に迷いはなかった。
志乃ももう、コウの違和感を完全に軽くは扱えなくなっていた。
理由はまだ薄い。 けれど、薄いまま積もっていくものはある。
「何がそんなに引っかかるの」
「全部」
「全部はずるいよ」
「じゃあ、細かいところ。噂への反応が薄い。研究所の中の覚え方が早い。何を見ればいいか最初から分かってるみたいに動く。あと……」
コウはそこで少し言葉を切る。
自分でも曖昧なものを無理に掴もうとしているようだった。
「あと、変に詳しい時がある」
「詳しい?」
志乃が聞き返す。
「黒い霧の件とか。能力者狙いの話を、最初から“そういうもの”として受け取ってる感じがする。驚き方が、たまに浅い」
それを聞いて、志乃も少し考え込んだ。
たしかにヤスは、噂話を必要以上に怖がらない。
達観しているとも言える。 でも、それだけだと言われればそうとも思える。
決定打にはならない。 ならないのに、ひっかかる。
「……気にしすぎ、かもしれないけど」
志乃が言う。
「かもしれないな。けど、見過ごしたくない」
コウの言葉は低かった。 相模の件が、今も彼の中に生きているのだと分かる。
表に見えていた顔だけで相手を判断してしまったこと。 その結果、何が起きたか。
だからこそ、今回は最初のざらつきを捨てたくないのだろう。
その日の午後、研究所内は比較的静かだった。 各自の作業が進み、会話も少ない。
そんな中、ヤスは白神教授から簡単な記録整理を任されていた。
教授の机の脇。 許可された範囲の資料だけを相手に、几帳面に記号を拾っていく。
「意外と向いてるかもしれないです、こういうの」
ヤスが笑いながら言う。
「意外、とは失礼だな」
白神教授が返す。
「だって俺、見た目どう見ても研究所向きじゃないじゃないですか」
「見た目で判断するなら、うちにはもっと向いていない者が何人もいる」
「ひどい言い方」
志乃が横から突っ込むと、教授は意に介さない顔をした。
「事実だ」
「それ言い切るんだ」
その軽いやり取りの中で、ヤスはふと資料の一枚に目を止めた。 ほんの一瞬だった。
だがコウには、その止まり方が少し気になった。
「気になるのか?」
コウが不意に声をかける。 ヤスは顔を上げる。
「ん? いや、ちょっと」
「何が気になる?」
「記録の並び方っていうか、これ、同じ形式に見えて、途中で微妙に分類変わってるでしょ」
コウは黙った。 その指摘は正しかった。
しかも、見学に来て間もなく簡単に口にするには少し早い気もした。
もちろん観察力が高いだけかもしれない。 だが、“見えるべき場所を自然に見抜く”感じがある。
「よく分かったね」
志乃が先に言う。 ヤスは肩をすくめた。
「なんとなく。並びが綺麗すぎると、崩れてるところ目立つし」
白神教授はそのやり取りを黙って見ていた。 何も言わない。
だが、見ている。 それだけは分かった。
夕方になり、研究所の端末へまた新しい情報が流れた。 黒い霧に関する通報。
今度は未遂。 感応持ちの学生が帰宅途中に何かへ追われ、路地を飛び出したところを周囲に保護されたらしい。 相手の姿は見えなかった。 ただ、背後に黒いものがまとわりつく感覚だけがあったという。
「また」
志乃が小さく言う。 冷花が端末を見ながら眉を寄せた。
「間隔が短い。学連が動いてるのに、減るどころか増えてる」
「追われただけで済んだのは運が良かったな」
白神教授が言う。
「狙いが雑になってるのか、あるいは焦ってるのか」
その一言に、コウは微かに反応した。 焦っている。
その可能性を、ヤスはどう受け取るだろう。
そう思って、無意識にそちらを見る。
ヤスは端末画面を覗き込みながら、少しだけ口元を引き結んでいた。
明るい表情ではない。 だが、怯えているというより、考えている顔だった。
「ヤス?」
志乃が呼ぶ。
ヤスははっとして顔を上げた。
「ん、ああ、ごめん。ちょっと嫌な感じだなって思って」
「嫌な感じって?」
「狙われてる側からしたら、どこで来るか分からないって一番きついでしょ」
その返答は正しい。 正しすぎた。 コウはまた胸の奥がざらつく。
被害者側の感覚へ寄り添った言い方。 もちろん、それだけなら普通の反応だ。
だがヤスの口から出ると、どうしてもどこか別の角度が混じっているように聞こえる。
「コウ」
小さく志乃が呼ぶ。
その視線で、また顔に出ていたことを悟る。
コウは何でもないように首を振った。
その日の帰り道。 志乃とコウは研究所を出て、並んで歩いていた。
ヤスは少し遅れて玄関を出たはずだったが、途中の横断歩道で自然に追いついてきた。
「一緒でいい?」
「うん」
志乃が答える。 三人で歩く。
夕方を越えた東都の街は、どこも明るい。
だが明るさが増すほど、影の輪郭も濃く見える気がした。
「学連、まだ捕まえられてないんだよね」
ヤスが言う。
「うん。吾妻さんたちも夜通しずっと動いてるみたいだけど」
志乃が返す。
「そっか。大変だな」
何気ない一言。 だがコウには、その言い方がまた引っかかった。
大変だな、で終わるのか。 普通なら、怖いとか、早く捕まってほしいとか、もう少し感情が先に出てもおかしくない。
ヤスはそういう熱の出し方をしない。
いつも一歩引いた位置で、分かっているような返しをする。
「お前って、あんまり驚かないよな」
気づけば、コウはそう言っていた。
志乃が横で一瞬だけ目を見開く。
ヤスは少しだけ首を傾げた。
「そう?」
「黒い霧の話とか。能力者狙いの事件とか。わりと平気そうに聞くから」
空気が少しだけ止まる。 責める言い方ではなかった。
だが試すような響きはあった。 ヤスは数秒、コウを見ていた。 それから小さく笑う。
「平気なわけじゃないよ。ただ、騒いでもしょうがないと思ってるだけ。怖がり方って、人それぞれでしょ」
返答としては自然だった。
角がない。 だからこそ、やはり隙もない。
「そっか」
コウはそれ以上は言わなかった。 言えなかった。
まだ決めつけるには早い。 だが、今の受け答え一つでむしろ違和感は増した。
滑らかすぎる。 崩れない。 問いに対して常にちょうどいい温度で返してくる。
それが人当たりの良さなのか、計算なのか。 今はまだ分からない。
その夜。 コウは一人、自室の机に向かっていた。
研究所から持ち帰った簡易記録。 黒い霧の通報時間。 被害者の属性。 発生地点。
断片を並べても、まだ線にはならない。 だが見ているうちに、別のものが重なってくる。
ヤスの反応。 視線。 言葉。 歩き方。 何が問題なのか説明できないまま、違和感だけが先に残る。
「……証拠がない」
小さく呟く。 それが一番厄介だった。 証拠があれば話は早い。 だが今は何もない。
あるのは勘に近いものだけ。 それでも、コウはその勘を捨てきれなかった。
相模の時もそうだった。 違和感はあったのかもしれない。
ただ、自分たちがそれを拾えなかっただけで。
なら今度は、少しでも引っかかったものを見落としたくない。
翌日。 研究所へ向かう途中、コウは校舎脇の通路で立ち止まった。
向こう側からヤスが歩いてくるのが見えた。 いつもの笑顔。
肩に掛けたバットケース。 気楽そうな足取り。
「おはよう、コウ」
先にそう言ってきたのはヤスの方だった。
「……おはよう」
短く返す。 その一瞬、ヤスの視線がほんの少しだけ鋭くなった気がした。
気がしただけかもしれない。 次の瞬間にはもう、いつもの柔らかい笑顔に戻っていた。
「なんか寝不足っぽいね」
「そう見えるか?」
「ちょっとね。考えごと?」
コウは答えなかった。 ヤスも無理には聞かない。
そのまま自然に並んで歩き出す。 何でもない朝の風景。 何でもない会話。
そのはずなのに、コウにはその何でもなさが逆に不気味だった。
疑念は、まだ形を持たない。 形を持たないまま、少しずつ重くなっていく。
黒い霧の正体も。 東都の夜に潜む何かも。 そして、鑢谷朋大という青年の底も。
まだ何一つ見えていない。 だからこそ、見誤るのが一番怖かった。
コウは隣を歩くヤスを見ないまま、ただ静かに思った。
こいつは本当に、何も知らない側の人間なのか。 その疑問だけが、昨日よりも確かに深く沈んでいた。




