↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ロストテクノロジーは誰のためにあるのか  作者: 維岡 真
第2章 絵札戦 第1節 西風のバットマン

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
135/155

疑念

黒い霧の噂が東都の夜へ根を張り始めてから、研究所の空気は目に見えて少し変わった。

誰も露骨に怯えているわけではない。 だが、帰宅時間を気にするようになった。

施錠の確認が増えた。 窓の外を見る回数も増えた。

そういう小さな変化が、場の緊張を静かに物語っていた。


白神教授も、以前より人の動きに目を配るようになっていた。

冷花は夜に外へ出る者がいないかをさりげなく確認している。

研究員たちも雑談のついでみたいな顔で「今日は誰と帰るんだ」と訊くようになった。

平穏はまだ壊れていない。 だが、壊れる前の空気はもう漂っている。


その中で、ヤスだけは相変わらずだった。 明るくて。 軽くて。 よく動く。

変に緊張した様子もない。

それが頼もしく見える瞬間もあったし、逆にコウにはそこが引っかかった。


「ヤス、その箱はこっち。中身、試料だから傾けないで」


冷花が言う。


「了解。これ、見た目よりだいぶ危ないやつ?」


「危なくないなら私が言わない」


「ですよね」


そんな調子で返しながら、ヤスは言われた通りに箱を置く。

その手つきは雑ではない。

見学に来たばかりの人間にしては、妙に扱いが落ち着いている。

コウはその様子を少し離れた位置から見ていた。


志乃がそんなコウの横顔に気づく。


「また見てる。最近ずっとそれ」


「最近ずっと気になるから」


コウは端末から顔を上げずに言う。 志乃は小さく息を吐いた。


「そんなに?」


「ああ」


短い返答だった。 だが、その声音に迷いはなかった。

志乃ももう、コウの違和感を完全に軽くは扱えなくなっていた。

理由はまだ薄い。 けれど、薄いまま積もっていくものはある。


「何がそんなに引っかかるの」


「全部」


「全部はずるいよ」


「じゃあ、細かいところ。噂への反応が薄い。研究所の中の覚え方が早い。何を見ればいいか最初から分かってるみたいに動く。あと……」


コウはそこで少し言葉を切る。

自分でも曖昧なものを無理に掴もうとしているようだった。


「あと、変に詳しい時がある」


「詳しい?」


志乃が聞き返す。


「黒い霧の件とか。能力者狙いの話を、最初から“そういうもの”として受け取ってる感じがする。驚き方が、たまに浅い」


それを聞いて、志乃も少し考え込んだ。

たしかにヤスは、噂話を必要以上に怖がらない。

達観しているとも言える。 でも、それだけだと言われればそうとも思える。

決定打にはならない。 ならないのに、ひっかかる。


「……気にしすぎ、かもしれないけど」


志乃が言う。


「かもしれないな。けど、見過ごしたくない」


コウの言葉は低かった。 相模の件が、今も彼の中に生きているのだと分かる。

表に見えていた顔だけで相手を判断してしまったこと。 その結果、何が起きたか。

だからこそ、今回は最初のざらつきを捨てたくないのだろう。


その日の午後、研究所内は比較的静かだった。 各自の作業が進み、会話も少ない。

そんな中、ヤスは白神教授から簡単な記録整理を任されていた。

教授の机の脇。 許可された範囲の資料だけを相手に、几帳面に記号を拾っていく。


「意外と向いてるかもしれないです、こういうの」


ヤスが笑いながら言う。


「意外、とは失礼だな」


白神教授が返す。


「だって俺、見た目どう見ても研究所向きじゃないじゃないですか」


「見た目で判断するなら、うちにはもっと向いていない者が何人もいる」


「ひどい言い方」


志乃が横から突っ込むと、教授は意に介さない顔をした。


「事実だ」


「それ言い切るんだ」


その軽いやり取りの中で、ヤスはふと資料の一枚に目を止めた。 ほんの一瞬だった。

だがコウには、その止まり方が少し気になった。


「気になるのか?」


コウが不意に声をかける。 ヤスは顔を上げる。


「ん? いや、ちょっと」


「何が気になる?」


「記録の並び方っていうか、これ、同じ形式に見えて、途中で微妙に分類変わってるでしょ」


コウは黙った。 その指摘は正しかった。

しかも、見学に来て間もなく簡単に口にするには少し早い気もした。

もちろん観察力が高いだけかもしれない。 だが、“見えるべき場所を自然に見抜く”感じがある。


「よく分かったね」


志乃が先に言う。 ヤスは肩をすくめた。


「なんとなく。並びが綺麗すぎると、崩れてるところ目立つし」


白神教授はそのやり取りを黙って見ていた。 何も言わない。

だが、見ている。 それだけは分かった。


夕方になり、研究所の端末へまた新しい情報が流れた。 黒い霧に関する通報。

今度は未遂。 感応持ちの学生が帰宅途中に何かへ追われ、路地を飛び出したところを周囲に保護されたらしい。 相手の姿は見えなかった。 ただ、背後に黒いものがまとわりつく感覚だけがあったという。


「また」


志乃が小さく言う。 冷花が端末を見ながら眉を寄せた。


「間隔が短い。学連が動いてるのに、減るどころか増えてる」


「追われただけで済んだのは運が良かったな」


白神教授が言う。


「狙いが雑になってるのか、あるいは焦ってるのか」


その一言に、コウは微かに反応した。 焦っている。

その可能性を、ヤスはどう受け取るだろう。

そう思って、無意識にそちらを見る。


ヤスは端末画面を覗き込みながら、少しだけ口元を引き結んでいた。

明るい表情ではない。 だが、怯えているというより、考えている顔だった。


「ヤス?」


志乃が呼ぶ。

ヤスははっとして顔を上げた。


「ん、ああ、ごめん。ちょっと嫌な感じだなって思って」


「嫌な感じって?」


「狙われてる側からしたら、どこで来るか分からないって一番きついでしょ」


その返答は正しい。 正しすぎた。 コウはまた胸の奥がざらつく。

被害者側の感覚へ寄り添った言い方。 もちろん、それだけなら普通の反応だ。

だがヤスの口から出ると、どうしてもどこか別の角度が混じっているように聞こえる。


「コウ」


小さく志乃が呼ぶ。

その視線で、また顔に出ていたことを悟る。

コウは何でもないように首を振った。


その日の帰り道。 志乃とコウは研究所を出て、並んで歩いていた。

ヤスは少し遅れて玄関を出たはずだったが、途中の横断歩道で自然に追いついてきた。


「一緒でいい?」


「うん」


志乃が答える。 三人で歩く。

夕方を越えた東都の街は、どこも明るい。

だが明るさが増すほど、影の輪郭も濃く見える気がした。


「学連、まだ捕まえられてないんだよね」


ヤスが言う。


「うん。吾妻さんたちも夜通しずっと動いてるみたいだけど」


志乃が返す。


「そっか。大変だな」


何気ない一言。 だがコウには、その言い方がまた引っかかった。

大変だな、で終わるのか。 普通なら、怖いとか、早く捕まってほしいとか、もう少し感情が先に出てもおかしくない。

ヤスはそういう熱の出し方をしない。

いつも一歩引いた位置で、分かっているような返しをする。


「お前って、あんまり驚かないよな」


気づけば、コウはそう言っていた。

志乃が横で一瞬だけ目を見開く。

ヤスは少しだけ首を傾げた。


「そう?」


「黒い霧の話とか。能力者狙いの事件とか。わりと平気そうに聞くから」


空気が少しだけ止まる。 責める言い方ではなかった。

だが試すような響きはあった。 ヤスは数秒、コウを見ていた。 それから小さく笑う。


「平気なわけじゃないよ。ただ、騒いでもしょうがないと思ってるだけ。怖がり方って、人それぞれでしょ」


返答としては自然だった。

角がない。 だからこそ、やはり隙もない。


「そっか」


コウはそれ以上は言わなかった。 言えなかった。

まだ決めつけるには早い。 だが、今の受け答え一つでむしろ違和感は増した。

滑らかすぎる。 崩れない。 問いに対して常にちょうどいい温度で返してくる。

それが人当たりの良さなのか、計算なのか。 今はまだ分からない。


その夜。 コウは一人、自室の机に向かっていた。

研究所から持ち帰った簡易記録。 黒い霧の通報時間。 被害者の属性。 発生地点。

断片を並べても、まだ線にはならない。 だが見ているうちに、別のものが重なってくる。

ヤスの反応。 視線。 言葉。 歩き方。 何が問題なのか説明できないまま、違和感だけが先に残る。


「……証拠がない」


小さく呟く。 それが一番厄介だった。 証拠があれば話は早い。 だが今は何もない。

あるのは勘に近いものだけ。 それでも、コウはその勘を捨てきれなかった。


相模の時もそうだった。 違和感はあったのかもしれない。

ただ、自分たちがそれを拾えなかっただけで。

なら今度は、少しでも引っかかったものを見落としたくない。


翌日。 研究所へ向かう途中、コウは校舎脇の通路で立ち止まった。

向こう側からヤスが歩いてくるのが見えた。 いつもの笑顔。

肩に掛けたバットケース。 気楽そうな足取り。


「おはよう、コウ」


先にそう言ってきたのはヤスの方だった。


「……おはよう」


短く返す。 その一瞬、ヤスの視線がほんの少しだけ鋭くなった気がした。

気がしただけかもしれない。 次の瞬間にはもう、いつもの柔らかい笑顔に戻っていた。


「なんか寝不足っぽいね」


「そう見えるか?」


「ちょっとね。考えごと?」


コウは答えなかった。 ヤスも無理には聞かない。

そのまま自然に並んで歩き出す。 何でもない朝の風景。 何でもない会話。

そのはずなのに、コウにはその何でもなさが逆に不気味だった。


疑念は、まだ形を持たない。 形を持たないまま、少しずつ重くなっていく。

黒い霧の正体も。 東都の夜に潜む何かも。 そして、鑢谷朋大という青年の底も。

まだ何一つ見えていない。 だからこそ、見誤るのが一番怖かった。


コウは隣を歩くヤスを見ないまま、ただ静かに思った。

こいつは本当に、何も知らない側の人間なのか。 その疑問だけが、昨日よりも確かに深く沈んでいた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。