夜警
黒い噂が、ただの噂では済まされなくなってから数日。
東都の夜は、目に見えない形で少しずつ張り詰め始めていた。
表向き、街はいつも通りだった。 ネオンは光り。 高架を走る車列は途切れず。 駅前では人の流れが夜更けまで絶えない。 けれどその裏側で、霊気力者を狙った連続襲撃事件は確かに増えていた。
学連はすでに、夜間警備の強化へ本格的に動いていた。
「第三区北側の巡回班、定刻報告を入れろ」
「異常なしならそれでいい」
「不審霊波の反応があれば、単独で追うな」
学連本部の指令室では、緊張を押し殺した声が飛び交っていた。 壁一面のモニターには、東都各所の地図と監視映像、霊気反応の簡易波形が並んでいる。 複数の班がすでに夜警へ出ていた。 吾妻もその一人だった。
夜の第三区。 高層建築の谷間に風が抜ける。 雑居ビルと倉庫街が入り混じる一角は、昼とは違う薄暗さを帯びていた。 霊気灯の白い照明が路面を照らしてはいる。 だが、光が届くことと、安全であることは別の話だった。
「総長、南側通路に異常なしです」
通信越しに鷹取シズクの声が入る。
吾妻は狭い路地の入口に立ったまま、短く返す。
「了解。鷹取はそのまま二班と合流しろ」
「はい。総長の方は?」
「こっちはまだ動く。反応が薄い」
通信を切る。
吾妻は視線を上げた。 ビル壁面に反射する淡い光。 その向こうに重なる夜の色。
今回の件は気味が悪かった。 相手が明確に見えている喧嘩ならまだいい。
組織同士の衝突ならなおさらだ。 力の向け先がはっきりしている。
だが今回の相手は違う。 姿が曖昧で。 痕跡が薄く。
しかも狙われるのが霊気力者ばかり。 意図があるのに輪郭がない。
それが吾妻にはひどく気に食わなかった。
「黒い霧、か」
誰に言うでもなく呟く。
馬鹿げた呼び名だと思う。
だが、今のところそれ以上に像を結ぶ言葉もなかった。
吾妻の後方から、別班の隊員が駆け寄ってくる。
「総長。西ブロック側、感応持ちの通報ありです」
「場所は?」
「第三区外縁の旧連絡通路です。被害者本人からではなく、通行人経由でして」
「近いな」
吾妻は即座に踵を返した。
迷う理由はない。
通路の先へ向かって走る。 隊員たちもそれに続いた。
夜風が頬を打つ。 足音がコンクリートを叩く。 第三区の裏通路は入り組んでいる。 高低差もある。
だからこそ、不意打ちには向いている。 逃走にも。
そう考えた瞬間、吾妻の苛立ちはさらに強くなった。
逃げる前提の相手。 正面から出てこない相手。 それ自体が、彼にはどうしようもなく不快だった。
旧連絡通路に着いたとき、現場にはすでに通報者らしい男が震えた顔で立っていた。
その足元には、一人の青年が倒れている。 意識はある。
だが荒い呼吸と痙攣まじりの震えが止まっていない。
「学連だ。下がってろ」
吾妻が言うと、男は何度も頷いて後退した。 倒れている青年の傍らへ膝をつく。
目立つ外傷は少ない。 だが顔色が悪い。
体内の流れを無理に掻き回されたみたいな、不自然な霊気の乱れがある。
「……ちっ」
吾妻は舌打ちした。 この感じ。 報告に上がっていた被害者の状態と近い。
間に合ったとは言い難い。 生きてはいる。 だが、襲われたあとだ。
「何を見た」
吾妻が通報者へ問う。 男は喉を鳴らしながら答えた。
「人、でした。いや……最初は。でも途中で、なんか黒い煙みたいに」
「はっきり見たのか」
「見た、と思います。でも、輪郭が。人みたいだったのに、崩れて」
要領を得ない。 だが、これまでと同じだ。 証言の方向性だけは一致している。
そのときだった。 通路の奥。 光の届かない曲がり角の向こうで、何かが揺れた。
吾妻は反射的に立ち上がる。
「そこか」
低く言った瞬間、足が出ていた。 隊員が制止の声を上げるより早く、吾妻は通路の奥へ踏み込む。
逃がすか。 そんなものを胸の中で噛み殺すことすらしなかった。
暗がりの向こう。 たしかに何かがいた。 人影。 そう見えた。
だが次の瞬間、その輪郭がぶれる。 黒い。 霧のような。 煙のような。
何かが人の形を保ちきれずに揺らいでいる。
「止まれッ!」
吾妻が踏み込む。 一閃。 抜き放たれた刃が、通路の闇ごと断ち割るように走った。 直撃した。
そう思った。 だが手応えが浅い。 斬った感触ではなく、濃い霧を裂いたような鈍い抵抗だけが腕に返る。
黒いものがぶわりと散る。
散ったまま消えるかと思った次の瞬間、それは数歩先でまた人影の形へ寄り集まった。
「……っ」
さすがに吾妻も目を見開く。 その隙に、黒い影は壁沿いへ滑るように動いた。 速い。
脚で走るというより、地を這う霧が縮んで伸びるような動きだった。
「総長!」
背後から隊員たちが追いつく。 吾妻は振り向かない。
「囲え! 逃がすな!」
隊員たちが通路の出口側へ散る。
だが黒い影は、その前に高架下の支柱の陰へ回り込み、再び輪郭を崩した。
霧散。 そう表現するしかない消え方だった。
「ふざけんな……!」
吾妻が追う。 支柱の陰を回る。 しかしそこにはもう何もいない。
霊気の残滓だけがわずかに漂い、それもすぐ夜気に薄れていった。
遅れて鷹取が合流した。 息は乱れていない。 だが目は鋭い。
「総長、今のは」
「見た通りだ。人かどうかも怪しい」
鷹取は周囲に目を走らせる。 それから静かに言った。
「霊気の残り方が妙です。術式の移動とも違う。隠形の類にしては、崩れ方が粗い」
「分かってる」
吾妻は苛立ちを隠さなかった。 斬った。 当てた。
それでも逃げられた。
この事実が何より腹立たしい。
隊員の一人が近づいてくる。
「総長、負傷者はひとまず命に別状ありません。ただ、霊気の循環が大きく乱れていて……」
「搬送しろ。保護対象として記録も回せ」
「はい」
指示を飛ばしながら、吾妻は通路の先を睨み続けていた。
あれは何だ。 ただの霊体ではない。 ただの人間でもない。
斬撃は通った。 だが致命には届かなかった。
形を保ったかと思えば散る。 散ったかと思えば、また集まる。
まともじゃない。 だからこそ、余計に気に食わない。
「総長」
鷹取が少し声を潜める。
「どう見ますか」
吾妻は即答しなかった。 苛立ちを整理するように一度息を吐く。
「何かが霊気力者を狙ってる。そこまでは確かだ。問題は、それが人間の手品なのか、人じゃない何かなのかって話だ」
「はい」
「だが、どっちでもいい」
吾妻の声が低く落ちる。
「次は捕まえる」
鷹取は短く頷いた。 それ以上の言葉は不要だった。
現場処理が進む中、通路の上を無人車両の光が通り過ぎる。
東都の夜景は相変わらず綺麗だった。 そのくせその下では、こんな得体の知れないものが動いている。
表の都市と、裏の都市。 その境目みたいな場所に、今の東都はあった。
その頃、白神研究所でも同じ報が届いていた。 夜間の簡易連絡端末。 学連経由の共有情報。
第三区外縁で新たな襲撃。 被害者一名生存。 犯人らしき存在は逃走。 黒い霧状の目撃証言あり。
白神教授は画面を見たまま眉間を押さえる。
「またか」
冷花もその横で端末を覗き込んでいた。 夜の研究所は昼より静かだ。 だからこそ、こういう短い言葉が妙に響く。
「学連でも取り逃がしたのね」
「吾妻君が現場にいたようだな」
「それでも、か」
冷花の声は平坦だった。 だがその奥にはわずかな緊張がある。
吾妻が届かなかった。 その事実は軽くない。
力で押し切れる相手なら、彼がここまで空振りすることは少ない。
研究所の別室では、コウもその情報を見ていた。
画面をスクロールする手が止まる。 志乃がその横から覗き込んだ。
「また出たんだ」
「ああ。しかも吾妻が追って取り逃がしてる」
「そんなことある?」
「あるから報告に上がってる」
志乃は口を閉ざす。
第三区。 黒い霧。 霊気力者狙い。
情報の断片が少しずつ輪郭を持ち始めている。 それでも、まだ正体は見えない。
コウは画面の末尾に残っていた目撃証言をもう一度読む。
人影。 黒い煙。 輪郭の崩壊。 再形成。
文字にすればあまりにも曖昧だ。 だが逆に、その曖昧さが不気味だった。
一つの嘘ならもっと整う。 実際に見た人間が、うまく言葉にできずに書いたような歪みがそこにある。
「……ほんとに霧みたいなもんなのか」
小さく漏らす。 志乃がそちらを見る。
「コウ?」
「いや。まだ分からないけど」
コウはそこで言葉を切った。 頭の奥に引っかかるものがある。
黒い霧。 能力者狙い。
東都の夜に紛れて現れる何か。 まだヤスと直結する理由はない。
ないはずだ。 けれど、胸のざらつきが少しだけ深くなる。
夜警は続く。 学連は警戒を解かない。
研究所もまた、帰路の管理と夜間外出の自粛を徹底し始める。
黒い噂は、今や東都の夜そのものに染み込み始めていた。
そしてその夜のどこかで、また黒いものが形を成す。
見えそうで見えず。 触れられそうで触れられないものとして。
人の目の端にだけ残る、不吉な残像として。
東都の夜は、まだ静かだった。 だがその静けさはもう、安全の証ではなかった。 次に何が起きてもおかしくない。 そう思わせるだけの不穏が、確かに街の底へ沈み始めていた。




