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ロストテクノロジーは誰のためにあるのか  作者: 維岡 真
第2章 絵札戦 第1節 西風のバットマン

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夜警

黒い噂が、ただの噂では済まされなくなってから数日。

東都の夜は、目に見えない形で少しずつ張り詰め始めていた。

表向き、街はいつも通りだった。 ネオンは光り。 高架を走る車列は途切れず。 駅前では人の流れが夜更けまで絶えない。 けれどその裏側で、霊気力者を狙った連続襲撃事件は確かに増えていた。

学連はすでに、夜間警備の強化へ本格的に動いていた。


「第三区北側の巡回班、定刻報告を入れろ」

「異常なしならそれでいい」

「不審霊波の反応があれば、単独で追うな」


学連本部の指令室では、緊張を押し殺した声が飛び交っていた。 壁一面のモニターには、東都各所の地図と監視映像、霊気反応の簡易波形が並んでいる。 複数の班がすでに夜警へ出ていた。 吾妻もその一人だった。


夜の第三区。 高層建築の谷間に風が抜ける。 雑居ビルと倉庫街が入り混じる一角は、昼とは違う薄暗さを帯びていた。 霊気灯の白い照明が路面を照らしてはいる。 だが、光が届くことと、安全であることは別の話だった。


「総長、南側通路に異常なしです」


通信越しに鷹取シズクの声が入る。

吾妻は狭い路地の入口に立ったまま、短く返す。


「了解。鷹取はそのまま二班と合流しろ」


「はい。総長の方は?」


「こっちはまだ動く。反応が薄い」


通信を切る。

吾妻は視線を上げた。 ビル壁面に反射する淡い光。 その向こうに重なる夜の色。

今回の件は気味が悪かった。 相手が明確に見えている喧嘩ならまだいい。

組織同士の衝突ならなおさらだ。 力の向け先がはっきりしている。

だが今回の相手は違う。 姿が曖昧で。 痕跡が薄く。

しかも狙われるのが霊気力者ばかり。 意図があるのに輪郭がない。

それが吾妻にはひどく気に食わなかった。


「黒い霧、か」


誰に言うでもなく呟く。

馬鹿げた呼び名だと思う。

だが、今のところそれ以上に像を結ぶ言葉もなかった。


吾妻の後方から、別班の隊員が駆け寄ってくる。


「総長。西ブロック側、感応持ちの通報ありです」


「場所は?」


「第三区外縁の旧連絡通路です。被害者本人からではなく、通行人経由でして」


「近いな」


吾妻は即座に踵を返した。

迷う理由はない。

通路の先へ向かって走る。 隊員たちもそれに続いた。


夜風が頬を打つ。 足音がコンクリートを叩く。 第三区の裏通路は入り組んでいる。 高低差もある。

だからこそ、不意打ちには向いている。 逃走にも。

そう考えた瞬間、吾妻の苛立ちはさらに強くなった。

逃げる前提の相手。 正面から出てこない相手。 それ自体が、彼にはどうしようもなく不快だった。


旧連絡通路に着いたとき、現場にはすでに通報者らしい男が震えた顔で立っていた。

その足元には、一人の青年が倒れている。 意識はある。

だが荒い呼吸と痙攣まじりの震えが止まっていない。


「学連だ。下がってろ」


吾妻が言うと、男は何度も頷いて後退した。 倒れている青年の傍らへ膝をつく。

目立つ外傷は少ない。 だが顔色が悪い。

体内の流れを無理に掻き回されたみたいな、不自然な霊気の乱れがある。


「……ちっ」


吾妻は舌打ちした。 この感じ。 報告に上がっていた被害者の状態と近い。

間に合ったとは言い難い。 生きてはいる。 だが、襲われたあとだ。


「何を見た」


吾妻が通報者へ問う。 男は喉を鳴らしながら答えた。


「人、でした。いや……最初は。でも途中で、なんか黒い煙みたいに」


「はっきり見たのか」


「見た、と思います。でも、輪郭が。人みたいだったのに、崩れて」


要領を得ない。 だが、これまでと同じだ。 証言の方向性だけは一致している。


そのときだった。 通路の奥。 光の届かない曲がり角の向こうで、何かが揺れた。


吾妻は反射的に立ち上がる。


「そこか」


低く言った瞬間、足が出ていた。 隊員が制止の声を上げるより早く、吾妻は通路の奥へ踏み込む。

逃がすか。 そんなものを胸の中で噛み殺すことすらしなかった。


暗がりの向こう。 たしかに何かがいた。 人影。 そう見えた。

だが次の瞬間、その輪郭がぶれる。 黒い。 霧のような。 煙のような。

何かが人の形を保ちきれずに揺らいでいる。


「止まれッ!」


吾妻が踏み込む。 一閃。 抜き放たれた刃が、通路の闇ごと断ち割るように走った。 直撃した。

そう思った。 だが手応えが浅い。 斬った感触ではなく、濃い霧を裂いたような鈍い抵抗だけが腕に返る。


黒いものがぶわりと散る。

散ったまま消えるかと思った次の瞬間、それは数歩先でまた人影の形へ寄り集まった。


「……っ」


さすがに吾妻も目を見開く。 その隙に、黒い影は壁沿いへ滑るように動いた。 速い。

脚で走るというより、地を這う霧が縮んで伸びるような動きだった。


「総長!」


背後から隊員たちが追いつく。 吾妻は振り向かない。


「囲え! 逃がすな!」


隊員たちが通路の出口側へ散る。

だが黒い影は、その前に高架下の支柱の陰へ回り込み、再び輪郭を崩した。

霧散。 そう表現するしかない消え方だった。


「ふざけんな……!」


吾妻が追う。 支柱の陰を回る。 しかしそこにはもう何もいない。

霊気の残滓だけがわずかに漂い、それもすぐ夜気に薄れていった。


遅れて鷹取が合流した。 息は乱れていない。 だが目は鋭い。


「総長、今のは」


「見た通りだ。人かどうかも怪しい」


鷹取は周囲に目を走らせる。 それから静かに言った。


「霊気の残り方が妙です。術式の移動とも違う。隠形の類にしては、崩れ方が粗い」


「分かってる」


吾妻は苛立ちを隠さなかった。 斬った。 当てた。

それでも逃げられた。

この事実が何より腹立たしい。


隊員の一人が近づいてくる。


「総長、負傷者はひとまず命に別状ありません。ただ、霊気の循環が大きく乱れていて……」


「搬送しろ。保護対象として記録も回せ」


「はい」


指示を飛ばしながら、吾妻は通路の先を睨み続けていた。

あれは何だ。 ただの霊体ではない。 ただの人間でもない。

斬撃は通った。 だが致命には届かなかった。

形を保ったかと思えば散る。 散ったかと思えば、また集まる。

まともじゃない。 だからこそ、余計に気に食わない。


「総長」


鷹取が少し声を潜める。


「どう見ますか」


吾妻は即答しなかった。 苛立ちを整理するように一度息を吐く。


「何かが霊気力者を狙ってる。そこまでは確かだ。問題は、それが人間の手品なのか、人じゃない何かなのかって話だ」


「はい」


「だが、どっちでもいい」


吾妻の声が低く落ちる。


「次は捕まえる」


鷹取は短く頷いた。 それ以上の言葉は不要だった。


現場処理が進む中、通路の上を無人車両の光が通り過ぎる。

東都の夜景は相変わらず綺麗だった。 そのくせその下では、こんな得体の知れないものが動いている。

表の都市と、裏の都市。 その境目みたいな場所に、今の東都はあった。


その頃、白神研究所でも同じ報が届いていた。 夜間の簡易連絡端末。 学連経由の共有情報。

第三区外縁で新たな襲撃。 被害者一名生存。 犯人らしき存在は逃走。 黒い霧状の目撃証言あり。


白神教授は画面を見たまま眉間を押さえる。


「またか」


冷花もその横で端末を覗き込んでいた。 夜の研究所は昼より静かだ。 だからこそ、こういう短い言葉が妙に響く。


「学連でも取り逃がしたのね」


「吾妻君が現場にいたようだな」


「それでも、か」


冷花の声は平坦だった。 だがその奥にはわずかな緊張がある。

吾妻が届かなかった。 その事実は軽くない。

力で押し切れる相手なら、彼がここまで空振りすることは少ない。


研究所の別室では、コウもその情報を見ていた。

画面をスクロールする手が止まる。 志乃がその横から覗き込んだ。


「また出たんだ」


「ああ。しかも吾妻が追って取り逃がしてる」


「そんなことある?」


「あるから報告に上がってる」


志乃は口を閉ざす。

第三区。 黒い霧。 霊気力者狙い。

情報の断片が少しずつ輪郭を持ち始めている。 それでも、まだ正体は見えない。


コウは画面の末尾に残っていた目撃証言をもう一度読む。

人影。 黒い煙。 輪郭の崩壊。 再形成。

文字にすればあまりにも曖昧だ。 だが逆に、その曖昧さが不気味だった。

一つの嘘ならもっと整う。 実際に見た人間が、うまく言葉にできずに書いたような歪みがそこにある。


「……ほんとに霧みたいなもんなのか」


小さく漏らす。 志乃がそちらを見る。


「コウ?」


「いや。まだ分からないけど」


コウはそこで言葉を切った。 頭の奥に引っかかるものがある。

黒い霧。 能力者狙い。

東都の夜に紛れて現れる何か。 まだヤスと直結する理由はない。

ないはずだ。 けれど、胸のざらつきが少しだけ深くなる。


夜警は続く。 学連は警戒を解かない。

研究所もまた、帰路の管理と夜間外出の自粛を徹底し始める。

黒い噂は、今や東都の夜そのものに染み込み始めていた。


そしてその夜のどこかで、また黒いものが形を成す。

見えそうで見えず。 触れられそうで触れられないものとして。

人の目の端にだけ残る、不吉な残像として。


東都の夜は、まだ静かだった。 だがその静けさはもう、安全の証ではなかった。 次に何が起きてもおかしくない。 そう思わせるだけの不穏が、確かに街の底へ沈み始めていた。

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