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ロストテクノロジーは誰のためにあるのか  作者: 維岡 真
第2章 絵札戦 第1節 西風のバットマン

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黒い噂

ヤスが白神研究所に出入りするようになってから、さらに幾ばくか経った。

研究所の中での彼の立ち位置は、すでに「見学者」より少し内側へ入り込んでいた。

もちろん正式な所属ではない。触れられる資料にも制限はある。立ち入れる場所も限られている。

それでも、人の輪の中へ入るという意味では、ヤスは驚くほど順調に馴染んでいた。


その一方で、東都の空気には別のざらつきが生まれ始めていた。


最初は、ただの噂だった。学内の掲示板。匿名の地域板。夜間巡回をしている警備ドローンの映像に関する、不確かな書き込み。

霊気力者ばかりを狙った襲撃事件が起きているらしい。

そんな話が、じわじわと広がり始めたのだ。


「……また、その話?」


志乃は研究所の休憩スペースで端末を見ながら呟く。

向かい側ではコウが紙コップを片手に、同じように簡易ニュースの一覧を眺めていた。


「今度は第六区か」


「しかも被害者、霊気力者だったって」


「まだ断定じゃないだろ」


「でも、コメント欄だとほぼそういう流れだよ」


志乃が画面を指で流す。

出所の怪しい情報ばかりだった。被害者は深夜に倒れていた。外傷はある。だがそれ以上に、霊気の流れが乱されていたとか、体内の霊気を何かに持っていかれたようだったとか、そんな話がいくつも並んでいる。 真偽は定かではない。それでも、こういう噂は一度形を持つと早い。


「黒い霧、って何」


志乃が次の投稿を読んで眉を寄せる。


「目撃者の話らしい」


コウが短く返す。


「犯人が?」


「犯人、というか現場にいた何か。人影だったって話と、霧みたいだったって話が混ざってる」


「余計に胡散臭いんだけど」


そう言いながらも、志乃の声は少し硬かった。

白塔の一件を経た今となっては、胡散臭い話をただ笑い飛ばすことも難しい。

東都では、ありえないことが本当に起きる。それをもう知ってしまっている。


その時、休憩スペースの入口から足音が近づいた。

冷花だった。手には薄い端末と、まだ湯気の立つマグカップを持っている。


「あなたたちもその噂見てるの」


「冷花も知ってたんだ」


「研究所にまで話が回ってこないわけないでしょ」


冷花はそう言って、二人の近くの机へ端末を置いた。そこには既に何件かの情報が整理されていた。匿名投稿や、一般には伏せられている通報情報の断片まである。


「え、なにこれ? 教授から?」


「一部はね。残りは研究所経由で拾った情報」


冷花は画面を操作しながら淡々と続ける。


「被害者は今のところ全員、霊気力者か、それに近い感応性を持ってる可能性が高い。場所はばらけてるけど、発生時刻はだいたい深夜帯。外傷だけじゃ説明しづらい症状が共通してる」


「霊気の乱れか」


コウが問う。 冷花は頷いた。


「そう。術式を受けた感じでもないし、単純な暴行とも違う。何か別の干渉を受けてる」


志乃は端末の画面を見る。

箇条書きにされた情報は、逆に生々しかった。

噂話ではなく、現実の事件としてそこに並んでいる。


「学連はどうしてるの?」


「もう動いてる」

冷花が答える。

「夜間警備の強化と、感応持ちの保護要請。でもまだ表向きには“連続事案の可能性あり”くらいで止めてる」


「パニックを避けるためか」


コウが言うと、冷花は「たぶんね」とだけ返した。


その場に、少しだけ沈黙が落ちた。 機材の低い駆動音だけが、研究所の奥から響いてくる。


「黒い霧っていうのはなんなんだろう?」


志乃があらためて訊く。 冷花は眉をひそめた。


「目撃証言の中にあるだけ。でも、それが複数証言ある。人影が急に崩れたみたいだったとか、黒い煙がまとわりついていたとか。証言の精度は低いけど、完全に無視はできない」


「霊的な何か、ってこと?」


「まだ断定できない。ただ、普通の人間が普通に刃物振り回してるだけの事件じゃない可能性は高い」


その言葉に、志乃は無意識に息を呑んだ。

東都では、普通ではないものが普通の顔をして紛れてくる。それが怪異でも。人でも。あるいはその両方でも。


そこへ、明るい声が割って入った。


「なにその重たい空気」


ヤスだった。いつものように肩の力の抜けた顔で、休憩スペースへ入ってくる。片手には缶飲料を二本持っていた。


「差し入れ。教授に頼まれてたやつついでに買ってきた」


「ありがとう」


志乃が受け取る。ヤスはそのまま空いていた席へ腰を下ろし、三人の顔を見回した。


「なんかあった?」


「黒い霧の噂。霊気力者が襲われてるって話」


志乃がそのまま答えると、ヤスは「ああ」と軽く頷いた。


「それ、俺も見た。結構広がってるよね」


その返しは自然だった。自然すぎるほどに。


「新都でもこういうのあったりするの?」


志乃が何気なく聞くと、ヤスは少しだけ視線を上へ向けた。


「新都はまた雰囲気違うからなあ。でも、能力者狙いの事件って意味なら、珍しい話ではないかも」


コウがそこで顔を上げる。


「珍しくない?」


「いや、こういう研究都市ってさ。力のあるやつとか、特殊なやつって、どうしても目立つじゃん。狙う側がいてもおかしくはないかなって」


もっともらしい説明だった。おかしなことは言っていない。けれど、コウにはその言い方が少しだけ引っかかった。事件そのものへの驚きが薄い。まるで、最初からそういうものとして飲み込んでいるみたいだった。


「ヤス、こういう話平気なんだ」


志乃が言うと、ヤスは缶を開けながら肩をすくめる。


「平気っていうか。びびっても起きてることは変わらないし」


「達観してるね」


「そう見える? 実際ちょっと怖いよ。黒い霧とか言われたら、なおさら」


そう言って笑う。軽い。だが、その軽さが逆に輪郭をぼかす。


冷花がそこで口を開いた。


「一応言っておくけど、しばらくは単独行動を避けて。帰りもなるべく複数で。もし何か見ても、深追いしないこと」


「了解」


ヤスはあっさり頷く。その従順さもまた、妙にそつがなかった。


その日の夕方。

白神教授は研究所の人間をひと通り集め、簡単な注意喚起を行った。といっても大げさなものではない。 帰路の確認。夜間の外出を避けること。学連と連携中であること。そして、異常を見た場合は独断で追わないこと。それだけだ。だが、それだけで研究所の空気は少し変わった。


張っている。表面上は静かでも、皆どこか神経を尖らせている。

白塔の時と同じ種類の緊張ではない。もっと日常のすぐ裏側にある、不確かな不安だった。


その帰り道。志乃はコウと並んで研究所を出た。

冷花も今日は同じ方向らしく、少し後ろを歩いている。

ヤスは研究所の玄関前で研究員と何か話していた。


「なんか、やだね」


志乃がぽつりと言う。


「何が」


「噂の広がり方。まだ何も分かってないのに、もうみんな知ってる感じする」


コウは少し考えてから答えた。


「噂の方が早いんだよ。ほんとのことより」


「そうだけどさ」


志乃は空を見上げる。夕方と夜の境目みたいな色だった。東都の光は明るい。

そのくせ、暗くなる時は唐突だ。ビルの隙間に夜が降り始めると、街の表情が急に変わる。


その背後から足音が近づく。


「待って。 一緒に帰る?」


ヤスだった。 さっきまで研究員と話していたはずなのに、いつの間にか追いついている。

その距離の詰め方の自然さに、コウは一瞬だけ目を細めた。


「うん、別にいいよ」


志乃が答える。

ヤスはそのまま並ぶ。冷花は少し後ろから無言でついてきた。


「黒い霧ねえ。名前だけ聞くと、ちょっと怪談っぽいよね」


ヤスが気楽そうに言う。志乃は苦笑した。


「ほんとに怪談ならいいんだけど」


「よくないでしょ。怪談も怪談で困るって」


「それはそう」


軽い会話だった。だがコウは、横でそれを聞きながらずっと意識をヤスへ向けていた。会話のテンポ。周囲への目配り。歩く速度。不自然なところはない。ないのに、なぜか引っかかる。


「コウ、静かだね」


ふいにヤスが言った。 コウはそちらを見る。


「別に」


「噂、気になる?」


「そりゃな」


「だよね。能力者狙いって、他人事じゃないし」


その言い方が、また少しだけコウの中に残った。言葉としては正しい。だが“能力者狙い”という輪郭を、ヤスはあまりに自然に受け入れている。噂話に対する距離感としては、妙に近い。


やがて分かれ道に差しかかり、冷花が立ち止まった。


「私はこっち。みんな、気をつけて帰って」


「冷花もね」


志乃が返す。

冷花は短く頷き、そのまま別の通りへ消えていった。残った三人は、さらに少しだけ歩く。


遠くでサイレンの音がした。近くはない。だが、確かに聞こえる。東都では珍しくない音だ。それなのに今は、その音にまで意味があるように聞こえてしまう。


「学連、大変そうだな」


ヤスがぽつりと言った。


「吾妻さんたち?」


志乃が返す。


「うん。こういう時、一番先に動くんでしょ」


「まあ、そうだろうね」


コウが答える。

学連は東都の表側を支える組織だ。

こういう噂が実際の事件に繋がるなら、真っ先に駆り出されるのは間違いない。


「捕まるといいね。その黒い霧」


ヤスはそう言って、何でもない顔で前を向いた。


その言葉が、なぜかコウの耳に残る。

捕まるといい。 ただそれだけの、普通の言葉。

なのに、一瞬だけそこに別の意味が混じった気がした。

願望ではなく、確認みたいな響き。

もちろん、気のせいかもしれない。

今のところは、そうとしか言えない。


その夜。

研究所の机に残されていた端末へ、新しい情報が一つ入った。

第三区近辺で、また一件。被害者は感応持ち。生存。だが意識混濁。

現場付近で黒い霧のようなものを見たという証言あり。


白神教授はその報告を見て、静かに眉を寄せた。

冷花も無言で端末を覗き込み、画面を閉じる。


「増えてる」


冷花が短く言う。


「収束する気配は薄いな」


教授が返す。その声は低かった。


黒い噂は、もはやただの噂ではなくなり始めていた。まだ正体は見えない。犯人も見えない。

何が能力者を狙っているのかも分からない。だが確実に、何かが東都の夜に紛れて動いている。


そしてそれは、人の目からぎりぎり逃れるような形で現れる。

黒い霧。そんな曖昧な言葉でしか呼べないものとして。


平穏はまだ崩れていない。 けれど、崩れ始める前の音はもう鳴っていた。

見えないところで。確かに。静かに。

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