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ロストテクノロジーは誰のためにあるのか  作者: 維岡 真
第2章 絵札戦 第1節 西風のバットマン

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馴染む者

鑢谷朋大が白神研究所に顔を出すようになってから、さらに数日が過ぎた。

最初はあくまで見学という扱いだったはずなのに、ヤスは気づけば研究所の風景の中へずいぶん自然に入り込んでいた。

もともと狭い空間ではない。

だが、ここにはここ特有の空気がある。 白神教授の癖。 冷花の間合い。研究員たちの暗黙の動き方。

そういうものに外から来た人間が馴染むには、普通ならもう少し時間がかかる。

それなのにヤスは、妙なくらいそこへ溶け込んでいた。


「ヤス。 その記録紙、分類ちがう」


冷花が顔も上げずに言う。


「え、こっちじゃない?」


「それは呪術式の補助記録。 いままとめてるのは霊気応答波形」


「見た目ほとんど同じなんだけど」


「それを見分けるのが仕事なの」


「はいはい」


軽く返しながら、ヤスはすぐに紙束を持ち直す。文句を言うわりに手は止まらない。

反発するでもなく、へつらうでもなく。そのちょうどいい返し方が、やはり妙に板についていた。


志乃は向かいの席で資料をホチキス留めしながら、その様子をちらりと見た。

研究所の人間は良くも悪くも癖がある。だから、新顔に対して必要以上に歓迎もしないし、敵視もしない。 それぞれがそれぞれの距離で見ている。だがヤスは、そのどの距離にも自然に入り込んでいく。


「志乃。 そこ、ずれてる」


「え」


「三枚ずつ斜めになってる」


「ほんとだ」


「雑」


「今それ言う?」


冷花は「言う」とだけ返して、また自分の作業へ戻った。 その短いやり取りの横で、ヤスが小さく笑う。


「冷花さん、やっぱ容赦ないね」


「平常運転だよ」


「研究所ってみんなこう?」


「みんなではない。でもだいたい面倒くさい」


「なるほど」


そう言ってヤスは納得したように頷く。その反応があまりにも自然で、志乃はつい少し気を緩めてしまう。 初日こそ変なやつだと思った。だがこうして数日見ていると、少なくとも表向きには扱いやすい。

働くし。 気が利くし。 空気も読む。

志乃からすれば、警戒する理由より助かる理由の方が多く見えてしまう。


実際、研究員たちの間でもヤスの評判は悪くなかった。


「ヤス君、そっちの箱運べるか」


「いけます」


「思ったより力あるな」


「見た目よりあるってよく言われます」


「野球やってたって言ってたか」


「やってました。 今も一応」


「そのバット、飾りじゃないのか」


「いやさすがに振れますよ」


そんな会話があちこちで生まれる。 もともと研究所は、閉じた空間のわりに雑談の少ない場所ではない。 ただ、その雑談の輪に新しく入る人間には独特の壁がある。 ヤスはその壁を、妙にするりと越えていく。


白神教授も、それを黙って見ていた。

何か特別に評価するでもなく、制するでもなく。 ただ観察している。

それが志乃には分かった。

教授は人を見る時、露骨には出さない。 だが視線の置き方が変わる。 ヤスに対しても、そうだった。


「ヤス君」


ある日の午後、白神教授が端末から顔を上げずに声をかけた。


「はい」


「そこにある青いファイルを取ってくれ」


「これですか」


「そうだ。 違う、右だ」


「あ、こっちか」


「そうだ。君、物の位置はもうだいたい覚えたのか」


何気ない口調だった。

だが志乃は、その問いがただの確認ではないと感じた。

ヤスはファイルを差し出しながら笑う。


「なんとなくです。 出入りしてると、嫌でも目に入るんで」


「なんとなく、で把握できる方か」


「たぶん」


「便利だな」


「どうでしょう」


その返答にも、妙な濁し方があった。

白神教授はそれ以上は言わなかった。

だが、その短いやり取りを少し離れた場所で聞いていたコウの表情は、やはり硬いままだった。


コウは最初からヤスを歓迎していなかった。 理由をうまく説明できるわけではない。 けれど、見れば見るほど違和感が積もる。 笑い方。 受け答え。 周囲への馴染み方。 そのどれもが不自然というほどではない。 ただ、自然すぎた。


「また見てる」


昼休憩の少し前、志乃が小声で言った。 コウは手元の資料から目を外さずに返す。


「見てない」


「それ、昨日も言ってた」


「観察してるだけ」


「同じことだって」


コウは小さく息を吐く。 志乃は責めているわけではない。 ただ、本当に気になっているのだろうと分かる。 それでも、今のところヤスに目立った怪しさはない。 だから志乃も、どう言えばいいか迷っていた。


「そんなに変かな」


「変、って言い切るほどじゃない」


「でも引っかかる」


「ああ」


短い返事だった。 コウはそこでようやく顔を上げ、研究室の向こう側を見る。

ヤスが研究員と並んで棚の中身を確認していた。 メモを取り。 質問し。 すぐ理解して。

余計なことは言わない。 その一つ一つが滑らかすぎる。


「最初からここに入る前提で来たみたいなんだよ」


その言葉に、志乃は少しだけ黙る。 自分でも感じていないわけじゃなかった。

ヤスは研究所を“初めて見る人間”の反応だけではない時がある。 どこに何があるかを覚えるのが早い。

誰が何を決める立場かを見抜くのも早い。 観察力が高いだけだと言われれば、それまでだ。

だがコウは、そこにもっと別のものを見ているらしかった。


「コウの霊気力で何か感じるわけ?」


「霊気とかじゃなくて、もっと手前で」


「手前?」


「人として見た時に、どっか噛み合わない」


その表現は、逆に志乃の中へも少しだけ残った。

霊気の異常でもなく。 術式の違和感でもなく。 もっと人間そのものの輪郭に引っかかる感じ。

そう言われると、たしかにヤスには“綺麗に収まりすぎている”ところがあった。


「でも、悪い人には見えないよ」


「そこが一番嫌なんだよ」


コウは低く言う。 その言葉に、志乃は返せなかった。


午後になると、研究所には少しだけ落ち着いた空気が戻った。 各自が持ち場に散り、機材の駆動音と紙をめくる音だけが静かに重なる。 そんな中で、ヤスは志乃の向かいの席へ座った。 手には雑多なメモ束と、研究員から渡された整理表がある。


「これ、どう見ればいい?」


「えっと、その番号順で並べればいいよ」


「単純で助かった」


「難しいの振られたら困るでしょ」


「それはそう」


メモを並べ替えながら、ヤスはふと顔を上げた。


「志乃ってさ、もうだいぶここ長いの?」


「長いってほどじゃないけど、前よりは」


「へえ」


「最初はもっと、とっつきにくかった?」


「かなりね」


「今は?」


「今も普通に変な人たちだけど、慣れた」


「それ、褒めてる?」


「半分くらい」


ヤスは笑った。 その笑い方には、やはり壁がない。

人の懐に入り込むのがうまい。 志乃はそれを改めて思う。


「ヤスはさ」


「うん?」


「新都でもこんな感じだったの?」


問うと、ヤスは手を止めた。


「こんな感じ、って?」


「人とすぐ仲良くなる感じ」


「あー」


ヤスは少し視線を上に逃がしてから、曖昧に笑う。


「どうだろ。 場所によるかな」


「ふうん」


「東都は、なんか入りやすい気がする」


「そういうもの?」


「たぶん。いろんなのが混ざってるからじゃない?」


その言い方は、少しだけ東都を知っている人間のものに聞こえた。

来たばかりの人間にしては、妙に核心を突いている。 志乃はその違和感を言葉にしないまま、頷いた。


「まあ、混ざってるのはそうかも」


「でしょ」


そう言ってヤスはまた笑い、何事もなかったように作業へ戻った。 その自然さが、逆に引っかかる。 だが今のところ、それは本当にただの引っかかりでしかない。


夕方。 研究所を出る前に、白神教授がコウを呼び止めた。


「コウ君。 少しいいか」


志乃はその呼び方に気づいたが、あえて口を挟まなかった。 教授に呼ばれたコウは、端末を閉じてそちらへ向かう。 少し離れた机のそばで、白神教授は声を落とした。


「君は、ヤス君をどう見ている」


唐突だった。 だがコウは驚かなかった。 教授も見ているのだ。 当然、そのくらいは察していた。


「……まだ分かりません」


「分からん、か」


「でも、引っかかってます」


教授は眼鏡の位置を直す。


「理由は」


「うまく言えないです」

「ただ、馴染み方が早すぎる」

「何を見ればいいか、最初から分かってるみたいで」


白神教授はしばらく黙っていた。 それから小さく頷く。


「私も似た印象は持っている」


コウはわずかに目を見開く。


「ただし、それが即ち悪意とは限らん」


「……はい」


「だからこそ、急いで切るな。 だが見落とすな」


その言葉は、警戒と制止の両方だった。 コウは静かに頷く。 教授が露骨に疑わないのは、まだ材料が足りないからだ。 だが何も感じていないわけではない。 その事実だけで、コウの胸のざらつきは少しだけ重みを持った。


「あと」


教授がつけ足す。


「その違和感は、軽んじるな」


コウは返事をしなかった。 けれど、その一言は深く残った。


研究所を出るころには、外はもう薄暗くなっていた。 志乃とコウが並んで歩く少し前を、ヤスが研究員の一人と一緒に玄関先まで出てくる。 最後まで自然だった。 最後まで明るかった。 最後まで、“そこにいておかしくない人間”の顔をしていた。


「じゃあ、また明日」


ヤスが軽く手を振る。


「うん。 またね」


志乃も返す。 コウは軽く会釈だけした。


研究所を離れて少し歩いたところで、志乃が口を開く。


「教授、なんか言ってた?」


「ちょっとだけ」


「ヤスのこと?」


「うん」


志乃は少し驚いた。 教授の方からそこへ触れるとは思っていなかった。


「なんて?」


「急いで決めるなって。 でも見落とすなって」


その返答に、志乃はゆっくり息を吐く。

やはりコウだけではないのだ。 明確ではないにせよ、何かしら引っかかっている人間はいる。


「……そっか」


それ以上、二人はしばらく喋らなかった。

夕暮れの東都は、何事もなかったように明るい。

人がいて。 車が走って。 光があって。 生活がある。

その下で、見えないものがどれだけ動いているのか、今の志乃たちはまだ知らない。


白神研究所に入り込んだ新しい青年。 彼はもう、来訪者というより構成員の一人みたいにその場に溶け込み始めていた。 だからこそ不気味だった。 異物はもっと異物らしくある方がまだ分かりやすい。 最初から馴染んでしまう者の方が、よほど見落としやすい。


違和感は、まだ誰の手にも掴めない。

けれど確かにそこにある。

小さく。 薄く。 だが無視するには嫌に残る形で。


そしてその夜、コウはふと研究所でのヤスの動きを思い返していた。

視線。 歩幅。 問いの挟み方。 覚える速度。 笑うタイミング。

一つ一つは小さい。 だが並べると妙に整いすぎている。


馴染む者。 その言葉が、妙に胸の底に沈んだ。


人に溶け込むことは、力だ。

場を読むことも、信じさせることも、また力だ。

もしそれが意図されたものだとしたら。

もしヤスが最初から、この研究所の中へ入ることそのものを目的にしていたとしたら。


コウはそこで思考を止めた。 今はまだ、証拠がない。

ただ疑うだけなら誰にでもできる。 だからこそ見続けるしかなかった。


少なくとも一つだけ、はっきりしていることがある。

鑢谷朋大という青年は、もう研究所の中へ入り込んでいる。

そして一度入り込んだものは、簡単には外へ出せない。


その事実だけが、静かに不穏だった。

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