新入り
鑢谷朋大。 それが、白神研究所に新しく出入りすることになった青年の名前だった。 もっとも本人の希望もあって、研究所ではすぐに「ヤス」と呼ばれるようになった。 長い名前よりそちらの方が似合っていると、志乃は思った。
新都から来たというその青年は、研究所の空気に妙なくらい早く馴染んだ。 もともとの人当たりの良さもあるのだろう。 研究員相手にも物怖じせず。 かといって図々しいわけでもなく。 頼まれたことには素直に応じる。 分からないことはきちんと聞く。 そういう一つ一つが自然だった。
「ヤス君。 その器具はそっちじゃない。 棚の下段だ」
「あ、すみません。 こっちでしたか」
「そうだ。 落とすなよ」
「気をつけます」
そんなやり取りも、初日から妙に板についていた。 研究員の一人が苦笑しながら言う。
「順応が早いな、君」
「よく言われます」
ヤスはそう言って笑う。 変に媚びるでもなく。 かといって照れるでもなく。 ただ自然体でそう返す。 その軽さが、研究所の人間たちにはかえって扱いやすかった。
志乃も、最初に感じた構えづらさは少しずつ薄れていた。 研究所に新しい人間が来るというだけで、もっと空気がぎこちなくなるかと思っていた。 だがヤスは、そういう気詰まりをあまり作らない。 会話の間合いの取り方がうまいのだ。 踏み込みすぎず。 引きすぎず。 ちょうどいい位置に立つ。
「志乃先輩」
「先輩?」
思わず聞き返すと、ヤスはきょとんとした顔をした。
「え、違いました? なんか研究所だともう先に馴染んでる感じだったんで」
「いや、別に先輩ではないけど」
「じゃあ志乃さん?」
「それもなんかくすぐったいな」
「難しいですね」
そう言って笑う顔には、やはり悪意らしいものがない。 志乃はつい肩の力を抜く。
「もう普通に志乃でいいよ」
「了解。 じゃあ志乃」
一拍置かずにそう呼ばれて、逆に少し面食らった。 距離の詰め方が早い。 だが不快ではない。 たぶんそれが、ヤスの一番厄介なところだった。
冷花は相変わらず必要以上には構わなかったが、露骨に拒むこともしなかった。 術式資料を整理している横でヤスがのぞき込めば、最低限の説明くらいは返す。 それが冷花なりの許容なのだろう。
「これ、全部同じに見えるんですけど」
「見えなくていいの。 読める人間だけ読めばいい」
「容赦ないですね」
「事実よ」
「でも、ちょっと面白いな。 これ、式ごとに癖が違うんですね」
その一言に、冷花がわずかにヤスを見る。 本当にわずかだった。 だが志乃には分かった。 今の一言で、冷花は少しだけ認識を変えたのだ。 ただの門外漢ではないかもしれない。 少なくとも、見るべきものを見ようとはしている。 その程度には。
白神教授もまた、ヤスを完全には信用していないまでも、露骨に遠ざける様子はなかった。 むしろ観察している。 志乃にはそう見えた。 何を知っていて。 何を知らず。 どこで目を止めるのか。 そんなところを測っているようだった。
「ヤス君。 君は新都で何をやっていた」
ある日、教授が何気ない調子でそう訊ねた。 ヤスは端末の箱を運ぶ手を止めずに答える。
「いろいろです」
「いろいろ、では情報にならんな」
「ですよね」
笑ってから、ヤスは少しだけ考える。
「でもほんとに、いろいろなんです。 長く一つの場所にいたって感じでもなくて」
「学徒か。 研究員か。 それとも別の所属か」
「……どれも、半分当たりで半分外れです」
その答えに、教授はそれ以上踏み込まなかった。 ただ「なるほど」とだけ返す。 志乃には、その会話が妙に引っかかった。 はぐらかしているようにも見える。 けれど完全な嘘には聞こえない。 ヤスという人間は、そういう話し方をする。
研究所に出入りするようになって数日。 彼はすっかり風景の中に混ざり始めていた。 コーヒーの予備を切らした研究員に気づいて補充を手伝い。 重い資料箱を黙って運び。 教授に呼ばれれば素直に返事をする。 その振る舞いにわざとらしさは薄い。 だからこそ、余計に自然に見える。
だがコウだけは、最初からその自然さを受け入れきれていなかった。
「……また見てる」
昼過ぎ。 志乃が小声で言うと、コウはわずかに眉を寄せた。
「見てない」
「いや見てるでしょ」
「観察してるだけ」
「それを見てるって言うんだよ」
コウは返さなかった。 視線の先では、ヤスが研究員と何か話しながら棚の整理を手伝っている。 笑っている。 よく動く。 空気を読んでいる。 それが全部、できすぎて見えた。
「そんなに変?」
志乃が訊ねる。 コウは少し黙ってから答えた。
「変っていうか……馴染みすぎてる」
「それ、悪いこと?」
「悪いっていうか、早すぎる」
志乃はヤスの背中を見る。 たしかに、早いとは思う。 だが人懐っこい人間ならこれくらいある気もした。 そう思う一方で、コウがここまで引っかかっているのも珍しい。 白塔の件以降、コウは人を見る目に以前より敏感になっていた。 使徒再生の影響だけではないだろう。 一度、目の前のものを見誤った。 その記憶が、彼の中に残っている。
「……なんか感じるの?」
その問いに、コウはすぐには答えなかった。
「感じるっていうほど、はっきりじゃない」
「でも何かある」
「ざらつく」
短い返答だった。 志乃は少しだけ表情を引き締める。 その言い方は、コウが本当に説明できない違和感を抱えた時のものだった。
「使徒再生で?」
「わからない。 たぶん、それだけじゃない」
コウは低く言う。
「見た時に、なんか引っかかったんだよ。 理由はまだ言えないけど」
志乃は返事に迷った。 信じたくないわけではない。 だが現時点で、ヤスに明確な不審点があるとも言い切れなかった。 むしろ目に見える範囲では、よく働く好青年だ。 疑う理由より、受け入れる理由の方が多い。
「まあ、気をつけて見るくらいはした方がいいかもね」
そう返すと、コウは小さく頷いた。 それ以上は何も言わなかった。 言えないのだろう。 自分でもまだ、違和感の輪郭を掴めていない。
その日の夕方。 研究所の一角で、志乃はヤスと二人きりになる場面があった。 といっても、特別な状況ではない。 資料の搬入を手伝ってもらっていただけだ。
「これ、どこ置けばいい?」
「その棚の横でいいよ」
「了解」
箱を置きながら、ヤスがふっと笑う。
「こういう場所、なんか落ち着きますね」
「研究所が?」
「うん。 静かだし、みんなそれぞれ勝手に忙しそうで」
「褒めてる?」
「褒めてるつもり」
志乃は苦笑する。
「新都って、どんなとこなの?」
何気なく訊ねると、ヤスは一瞬だけ視線を泳がせた。 ほんの一瞬。 気づかなければ流してしまう程度の揺れだった。
「東都とは、またちょっと違うかな」
「どう違うの?」
「もっと新しいですよ、たぶん。 そのぶん落ち着かない」
「へえ」
「東都って、でかいのに古いですよね。 積み重なってる感じがする」
その言い方は妙に的確だった。 東都には古さがある。 最先端の研究都市でありながら、何層もの歴史と利害が沈殿している。 白塔の件を経た今ならなおさら、その感覚は分かる。
「ヤスって、なんでそんなにここに来たかったの?」
志乃が改めて訊ねる。 ヤスは少しだけ首を傾げた。
「知りたかったから」
「それだけ?」
「それだけじゃ、弱い?」
「弱いっていうか、ふわっとしてる」
「そっか」
ヤスは笑う。 その笑い方は柔らかい。 でも、どこかだけ曖昧だった。
「じゃあ、半分だけ本音を言うと」
「半分なんだ」
「全部はまだ言えないから」
さらっとそう断ってから、ヤスは言った。
「ここにいると、何かが動き出す気がしたんです」
志乃は瞬きをした。
「何かって?」
「それは、まだわからない」
そう言って、彼は箱の上に軽く腰を預ける。 明るい表情は変わらない。 けれどその瞬間だけ、志乃にはヤスが少し遠く見えた。 目の前にいるのに、手の届かない場所を見ているような。 そんな感覚だった。
「変な言い方だね」
「自分でもそう思う」
ヤスは笑ってごまかす。 それで会話は流れた。 流れたはずだった。
だがその言葉は、あとで妙に残った。
研究所に顔を出すたび、ヤスは少しずつ中へ入り込んでいく。 人間関係にも。 空気にも。 動線にも。 どこに何があるかを把握するのが早い。 誰が何をしているかを見る目も早い。 それは単なる順応性の高さとも言える。 だがコウには、それがどうしても別の何かに見えた。
夜。 研究所を出る前、コウは一人で窓際に立っていた。 東都の灯りが、ガラス越しに淡く広がっている。 その背後で、ヤスの笑い声が聞こえた。 研究員の誰かと話しているらしい。
「……何なんだよ」
小さく漏れた声は、自分に向けたものだった。 疑うには薄い。 見逃すには重い。 そんなざらつきだけが胸の底に残る。
相模の件があったからこそ、余計にそうなのかもしれなかった。 表に見えていた顔と、裏に潜んでいた正体。 その落差を、もう知ってしまっている。 だから今度は、少しの違和感でも流したくなかった。
研究所の扉が開き、ヤスがこちらへ顔を出す。
「あれ、コウ。 まだ帰らないの?」
「……帰るよ」
「なら一緒にどう?」
何気ない誘いだった。 コウは一瞬だけ迷ってから、首を横に振る。
「先に行ってて」
「そっか。 じゃあまた明日」
ヤスはあっさり引いた。 そこにも押しつけがましさはない。 だからこそ、余計に不気味だった。
また明日。 その言葉がやけに自然に聞こえる。 まるでもう最初からここにいた人間みたいに。
コウは閉まっていく扉を見つめる。
研究所に新しく現れた好青年。 明るくて。 素直で。 人当たりが良くて。 妙に空気を読む。 誰とでも自然に話せる。 場に馴染むのが早い。
そのどれもが、単体なら何もおかしくない。 だが全部が揃うと、逆に何かが薄気味悪く見える。
白神研究所は、今のところ穏やかだった。 白塔を越えたあとに手にした、束の間の平穏。 けれど、その平穏の中心に新しく入り込んできた青年を、コウはまだ信じきれない。
鑢谷朋大。 ヤス。 その名前だけが、静かに頭の中へ残っていた。
笑っている。 馴染んでいる。 けれど、その奥が見えない。
それがコウには、何より引っかかった。




