白神研究所の日常
東都での動乱から、一か月が過ぎようとしていた。
白塔で起きたあの一連の戦いは、表向きには収束したことになっている。
街は平穏を取り戻した。
少なくとも、そう見える程度には。
損壊した区画の補修も進み、人々の暮らしには以前のざわめきが戻りつつあった。
行き交う車両の音。
遠くで鳴る広告モニターの電子音。
学生たちの笑い声。
東都は相変わらず、何事もなかったかのような顔をして回っている。
だが、その日常の下にあるものを一度でも見てしまった者にとって、それはもう以前と同じ景色ではなかった。
志乃にとっても、それは同じだった。
「……また難しい顔してる」
研究所の窓際で資料を読んでいたコウが、視線だけを上げる。
「してた?」
「してた」
志乃は自分の頬を軽く指で触った。
そんなつもりはなかったが、考え込む時に顔へ出る癖はまだ直っていないらしい。
白神研究所。
白塔の一件以来、志乃は以前よりずっと頻繁にここへ出入りするようになっていた。
最初は単純に、コウの様子が気になって付き添うことが多かった。
だが、今ではそれだけでもない。
白神教授から頼まれる簡単な資料整理。
研究員の雑務の手伝い。
冷花に付き合わされる術式記録の分類。
気づけばこの場所にいる時間が、学校と自宅の次くらいには長くなっていた。
最初は空気の硬い場所だと思っていた。
専門用語ばかりが飛び交い、静かで、少し近寄りがたい場所。
だが通ううちに、それぞれ妙に癖が強いだけで、人間関係そのものは案外ゆるいことも分かってきた。
白神教授は放っておくと何時間でも机にかじりつく。
冷花は研究になると容赦なく他人を使う。
研究員たちは研究員たちで、切羽詰まっているようでいて妙に世話焼きな者も多い。
慣れてしまえば、案外居心地は悪くなかった。
「志乃。それ終わったなら、こっちの束も分けて」
少し離れた机から、冷花が淡々と声をかけてくる。
白神研究所の一員である彼女は、今日も白衣姿のまま術式記録の整理をしていた。
相変わらず表情は薄い。
だが以前より、志乃への物言いはだいぶ柔らかくなっている。
「え、まだあるの?」
「あるわよ。見ればわかるでしょ」
「見なかったことにしたい量なんだけど」
「だめ」
ぴしゃりと言われ、志乃は小さく肩を落とす。
そんなやり取りを横で聞いていたコウが、少しだけ笑った。
「助けてよ」
「今こっちも終わらない半分と戦ってる」
「なにそれ」
「終わりそうで終わらないやつ」
「だめじゃん」
「だめだね」
そう言って、コウは薄い板状端末と紙資料を見比べながらわずかに笑った。
その小さな笑みを見るだけで、志乃の胸の奥は少しだけ軽くなる。
あの時、失いかけたもの。
取り戻せたもの。
その全部が、まだ今の自分たちの中に続いているのだと、そう思えた。
「志乃君、そこに積んであるファイルをこっちへ」
研究室の奥から、白神教授の声が飛ぶ。
「はいはい、今持っていきます」
そう返しながら、志乃は机の上に積まれていた紙束を抱え上げた。
見た目以上に重い。
「これ絶対、紙の量おかしいですよね」
「知識の重みだ」
「重すぎません?」
「そう思うなら筋力をつけたまえ」
「教授が持ってくださいよ」
軽口を返しつつ、志乃はファイルを白神教授の机へ運ぶ。
教授は眼鏡を上げながら、ざっとその背表紙を確認した。
「うむ、抜けはないな」
「そりゃどうも」
「雑に返事をするようになったな、君」
「慣れました」
「それは結構」
本当に結構そうに言うので、志乃は少し笑ってしまう。
研究所の自動扉が開いたのは、その少し後だった。
電子音がひとつ鳴る。
志乃は反射的にそちらを見る。
普段ここへ顔を出す人間なら、もっと勝手知ったる感じで入ってくる。
けれど今、入口に立っていたのは見慣れない青年だった。
年齢は自分たちとそう変わらないように見える。
日焼けした肌。
快活そうな顔立ち。
肩には野球のバットケースのようなものを袈裟懸けにしている。
場違い、とまでは言わない。
だが少なくとも、研究所に真っ先に似合う種類の人間ではなかった。
その青年は中の様子をひと通り見回すと、妙に気後れのない足取りで一歩踏み込んできた。
「あの、ここ白神研究所で合ってます?」
声まで明るい。
研究所の空気に飲まれず、むしろ少し外の風を持ち込むような調子だった。
白神教授が椅子を回し、入口を見る。
「いかにもそうだが」
「よかった。迷ってなくて」
青年はそう言って笑った。
屈託がない。
だからこそ志乃は少しだけ面食らった。
こういう手合いは、教授みたいに研究第一のタイプとも、冷花みたいに静かで尖ったタイプとも違う。
もっと単純に、陽の側の人間だ。
「失礼します。俺、鑢谷朋大っていいます」
ぺこりと頭を下げる。
それからすぐに顔を上げ、まっすぐ教授を見た。
「新都から来ました。できれば、ここに入れてもらいたくて来たんですけど」
「……新都?」
志乃が思わず復唱する。
第五研究都市。
東都とはまた別系統の研究都市として、名前だけは聞いたことがある。
だが、そこから突然こんなふうに人が来るとは思っていなかった。
白神教授もわずかに眉を上げる。
「ずいぶん急な話だな」
「そうですよね。でも、急がないとだめだと思って」
鑢谷朋大。
彼はそう名乗った。
だが、どこか人懐こいその空気のせいか、長い名前の印象があまり残らない。
「あの、朋大って呼びづらかったらヤスでいいです。昔からそう呼ばれてるんで」
本人がそう言って笑う。
志乃は少しだけ力の抜けた気持ちになった。
「じゃあヤス?」
「はい。そう呼んでもらえると助かります」
受け答えは軽い。
けれど軽薄という感じではない。
言葉の端々に、妙な人当たりの良さがある。
白神教授は椅子にもたれ直した。
「それで、ヤス君。入れてほしい、とは具体的にどういう意味かな」
「言葉のまんまです」
ヤスはあっさり答える。
「白神研究所に出入りさせてほしいんです。できれば学びたいし、できることがあるなら手伝いたい。
俺、霊気力とか研究都市のこととか、ちゃんと知りたいんです」
その言い方には妙な迷いがなかった。
志乃は思う。
ここへ来る人間は、もっといろいろと構えるものではなかったか。
白神教授の名前に気圧されたり。
研究所の空気に飲まれたり。
少なくとも、今まで自分が見てきた“外から来る人”はそんな感じだった。
だがこのヤスという青年は、遠慮はあるのに萎縮がない。
そのバランスが少し不思議だった。
「新都から、わざわざ?」
今度はコウが口を開いた。
ヤスはそちらを見る。
「そう。ちょっと事情があって」
「事情?」
「そこはまだ、うまく話せないです」
そう言って、ヤスは困ったように笑った。
隠し事のある人間の笑い方にも見える。
けれど、隠すことを悪びれていない感じでもなかった。
白神教授はしばらく彼を見ていたが、やがて口を開く。
「少なくとも、研究所は部活動の見学先ではない」
「はい」
「興味本位だけで出入りされても困る」
「それも分かってます」
「ではなぜうちだ」
そこで初めて、ヤスの目の奥に少しだけ強い色が宿った。
「東都の白塔の件、噂くらいは新都にも届いてます」
研究所の空気が、ほんの少し変わる。
志乃も無意識に背筋を伸ばしていた。
「それで思ったんです。たぶん今、一番本物に近いところにいるのはここなんだろうなって」
「本物?」
白神教授が聞き返す。
「はい。やばいものも、危ないものも、助ける方法も、たぶん全部ひっくるめて」
ヤスはまっすぐそう言った。
明るい顔のまま。
けれど今の言葉だけは、軽くなかった。
「だから、知りたいんです。外から聞くだけじゃなくて、自分の目で」
沈黙が落ちる。
研究員の何人かも手を止めて、こちらを見ていた。
白神教授はその沈黙の中で、ヤスを値踏みするように見ている。
対してヤスは、視線を逸らさなかった。
志乃はそのやり取りを見ながら、少し不思議な気分になっていた。
変なやつだとは思う。
でも、嘘ばかりを並べているようにも見えない。
むしろ妙に真っ直ぐだ。
だからこそ、逆に見えない部分が気になった。
そのとき、冷花が書類から顔を上げた。
「教授。いきなり所属を認める必要はないけど、追い返す理由もまだ薄いわ」
白神教授がわずかに目を細める。
「君にしては柔らかいな」
「面倒なだけ。ここで押し問答しても仕事が増える」
「正論だな」
「あと、妙な嘘をついてる感じはしない」
冷花はそこでヤスを見る。
淡々とした視線だった。
値踏みしているのに、感情の温度が乗っていない。
「全部本当かどうかは別だけど」
最後の一言で、ヤスは少しだけ苦笑した。
「鋭いですね」
「別に」
冷花はそれだけ言って、また書類へ目を落とした。
白神教授は短く息を吐いた。
「まあいい。いきなり所属を認めるような話ではないが、門前払いにする理由も今のところは薄い」
ヤスの表情が少し明るくなる。
いや、もともと明るかったのだが、その上で明確に安堵が見えた。
「じゃあ……」
「ただし、しばらくは見学だ」
教授は指を一本立てた。
「勝手な行動はするな。触れていい資料にも制限をかける。研究所の人間の許可なく機材にも触るな。
質問には答えるが、こちらにも質問する権利はある」
「はい」
「それでもいいなら、来るといい」
「ありがとうございます!」
ヤスは勢いよく頭を下げた。
本当に嬉しそうだった。
その反応だけ見れば、ただの真っ直ぐな好青年だ。
志乃は少しだけ表情を緩める。
悪い人には見えない。
少なくとも今は。
「よかったね」
ついそう言うと、ヤスは志乃にも笑いかけた。
「はい。ほんとによかったです」
「私は志乃。こっちはコウ。で、あっちは冷花」
「どうも。よろしくお願いします」
「よろしく、ヤス」
志乃がそう返す隣で、コウも軽く会釈した。
「……よろしく」
ただその声は、少しだけ硬かった。
志乃はそれに気づいてコウを見る。
コウはヤスを見ていた。
けれど、その視線はどこか慎重だった。
初対面の相手を見る目としては、わずかに鋭い。
「コウ?」
小さく呼ぶと、コウははっとしたように瞬きをした。
「ん、いや。なんでもない」
そう言って視線を外す。
だが志乃には分かった。
なんでもない、は嘘だ。
コウは何かを引っかけている。
理由は分からない。
ヤスの態度にか。
言葉にか。
それとも、もっと別の何かにか。
白神教授はすでに次の話へ移っていた。
「志乃君。彼に簡単な所内ルールだけ教えてやってくれ」
「え、私ですか?」
「君が一番適任だ」
「その理屈あやしいんですけど」
「気のせいだ」
「絶対違う」
教授の押し切りに近い指示で、結局志乃はヤスを案内することになった。
廊下へ出る。
研究所独特の静けさと、機材の駆動音が背後で混ざり合っている。
「なんか、いきなりすみません」
歩きながらヤスが言う。
「ほんと、急に来て」
「それはほんとにそう」
志乃が返すと、ヤスは苦笑した。
「ですよね」
「でも、変に緊張してないのすごいね」
「してますよ、ちゃんと」
「見えないんだけど」
「見せないようにしてるんで」
さらっと言う。
その返しが妙に自然で、志乃は少しだけ笑った。
「なるほどね」
「そっちこそ、だいぶ馴染んでる感じでしたけど」
「まあ、そこそこ来てるから」
「へえ」
ヤスは興味深そうに周囲を見ていた。
きょろきょろしているわけではない。
けれど目線の動かし方が、ただ物珍しいというだけではない気がした。
何を見ておくべきか知っている人間の視線。
そんな印象が一瞬だけよぎる。
「……どうかしました?」
ヤスがこちらを見る。
「いや、別に」
志乃はごまかした。
その時点では、本当にそれ以上の言葉は持っていなかった。
廊下の角を曲がる直前、ふと後ろを振り返る。
少しだけ開いた研究室の扉の隙間から、コウがまだこちらを見ているのが見えた。
その表情は読めない。
ただ一つだけ分かるのは、コウがあの青年を歓迎しきれていないということだった。
研究所の空気は、表向きにはいつも通りだった。
白塔の一件を越えて、それでも動き続ける日常。
新しい出入り。
新しい会話。
新しい人間関係。
けれど、そういう時ほど何かは静かに入り込む。
違和感はたいてい、最初は輪郭を持たない。
見過ごせる程度に小さい。
笑って流せる程度に曖昧だ。
だから厄介なのだと、まだその時の志乃は知らない。
白神研究所に、新しい風が入ってきた。
それがただの来訪者なのか。
それとも、もっと別の何かなのか。
少なくともコウだけは、その笑顔の奥にまだ言葉にならないざらつきを見ていた。
それは勘と呼ぶには重く。
証拠と呼ぶには薄すぎる。
だからこそ、拭えなかった。
あいつは、本当にただの好青年なのか。
その疑問だけが、ひどく静かに胸の底へ沈んでいった。




