蒼き嬢王は群青に伏す
一方、こちらの王はいつになく騒々しかった。
月砂の女王ことクリス・レイシアは、その愛刀であるレイピアで所構わず周囲のものを傷つけていた。
一心不乱に剣を振り回し、見境なく切りつける彼女の姿を見て、近寄るものは誰もいなかった。
「ほほっ、レイシア様、その辺で……」
唯一彼女に声をかける者がいた。
月砂の幹部である練馬京王だった。
もっとも彼もアジトの二階席から、巻き添えを食らわないよう十分に距離を取ったうえで呼びかけているに過ぎない。
しかし、おそらく届いているであろうその声を無視して、レイシアはなおも無数のものを斬りつけていた。
机が裂ける。
壁が断たれる。
飾られていた照明が落ち、乾いた破砕音を響かせる。
青白い斬閃だけが、薄暗い空間を幾度も走っていた。
「これはダメですね……ほほっ」
練馬は早々に諦め、静かにその場から離れようとする。
その瞬間だった。
ぴたりと、レイシアの動きが止まった。
「ほほっ?」
ここ数日、そのような様子を見たのは初めてだった。
練馬は驚いて足を止める。
「レイシア様、ついに……」
「練馬!」
練馬の声を掻き消すほどの怒号だった。
振り向いたレイシアの目には、いつもの乾いた冷静さではなく、底の方で煮えたぎる激情が滲んでいた。
「先日の一件は、なぜ起きた?」
突然の問いかけに、練馬は思わず一歩後ずさる。
「それに関しては、レイシア様は何も悪くないかと……」
そう言いかけた瞬間だった。
レイシアの剣が閃いた。
大理石でできた壁が、まるでかまぼこでも切るかのように滑らかに裂ける。
ずずず、と重い音を立てて、切断された上半分が横へとずれていった。
その光景を見た練馬は、言葉を失った。
「もう一度問う」
レイシアはゆっくりと振り返る。
その目は、錐の先端みたいに鋭く、触れるものすべてを傷つけそうな冷たさを帯びていた。
「先日の一件は、なぜ起きた?」
「ああ、と……」
これがただの質問ではないことを、練馬は即座に理解した。
レイシアの納得する答えを返せなければ死ぬ。
それくらいの緊張が、場を支配していた。
だからこそ、軽々しく口を開くことができない。
答えを探して黙り込む練馬に、レイシアは先に言った。
「それは力だ」
静かな声だった。
だが、先ほどの怒号よりも重かった。
「“力”……ですか」
練馬が恐る恐るなぞるように返す。
「弱かったから、あのような裏切り者を生み出した」
レイシアは言う。
「力がなかったから、やつに舐められた」
先日の一件。
月砂の副長・相模楸棲が、まさか国際テロ組織TEBESの一員だったという事実。
その衝撃は、月砂という組織の根幹そのものを揺らした。
長年、自らの弟のように可愛がってきた相手だった。
組織を背負う副長であり、自分のすぐ隣に立つ者だった。
それだけに、レイシアの怒りも、悲しみも大きいのだろう。
練馬はそう思った。
そこに気づけなかった自分を責める気持ちは理解できる。
だが一方で、あれはある種どうしようもない交通事故のようなものでもある。
相模はあまりにも自然にそこにいて、あまりにも自然に副長をやっていた。
隊員の誰もが、彼を疑うより先に従っていた。
何も言えなかったのは、相模が自分たちより上の立場にいたからでもある。
だが、レイシアだけはそう割り切れない。
組織を束ねる長として。
そして個人的な感情を抱いた一人の人間として。
今回の一件を、ただの事故として飲み込むことはできなかった。
「今ここに、すべての月砂メンバーを連れてこい」
レイシアは短く言い放つ。
「今ですか?」
練馬は冷や汗を流しながら問い返す。
「ああ、今すぐにだ」
レイシアはそう言ってから、わずかに剣先を持ち上げた。
その細身の刀身が、青白い光を鈍く返す。
「もし連れてくることができなければ、その時は直接、私がお前に指導してやる」
脅しではなかった。
事実の確認だった。
練馬は即座にそれを理解する。
「ほほっ、承知しました」
口ではそう答えながら、心の中ではまるで承知していなかった。
だが逆らう選択肢など、最初から存在しない。
練馬は深々と頷くと、そのまま踵を返して駆け出した。
月砂の全隊員を集めるために。
その背を見送りながら、レイシアはゆっくりと剣を下ろす。
壊れた室内には、切断された家具と砕けた灯具が散乱していた。
それでも彼女の胸の内は、少しも静まっていない。
相模が消えたあと、残ったのは裏切られたという事実だけではなかった。
見抜けなかったこと。
止められなかったこと。
隣に立たせ続けたこと。
そのすべてが、鋭い棘になって胸の奥へ刺さっている。
怒りは、相模だけへ向いているわけではない。
その半分は、自分自身へ向いていた。
だからこそ、止まれない。
だからこそ、今は斬るしかない。
考えれば鈍る。
迷えば遅れる。
そして遅れた者から、奪われる。
それが彼女の知る世界だった。
月砂の王は、正義を掲げる者だった。
仲間を守る者だった。
他の誰よりも前に立ち、誰よりも強くあろうとする者だった。
だが今の彼女は、その正義の青さの中で静かに沈みかけている。
群青だった。
怒りとも悔恨ともつかぬ深い色が、彼女の内側に澱のように広がっている。
その色はまだ沈殿しきっていない。
揺れればすぐに荒れる。
触れれば簡単に噴き出す。
蒼き嬢王は今、群青の底に伏していた。
だが伏したままで終わる女ではない。
むしろ沈めば沈むほど、その刃は研ぎ澄まされていく。
相模が消えた今。
月砂が試される時は、もう始まっている。
王が再び顔を上げるとき。
その剣先は、裏切りを越えたもっと先へ向くことになる。




