終焉と始発
白塔を出たとき、東都の空にはようやく朝の気配が差し始めていた。
長い夜だった。
白塔の異常は収束した。
魔泉道は滅びた。
半屍人も消え、塔を侵していた歪みももう残っていない。
それでも、胸の内に残ったものまで綺麗に消えたわけではなかった。
誰もが満身創痍だった。
服は裂け、肌には傷が走り、霊気も体力もほとんど底をついている。
足を止めれば、そのまま座り込みたくなるほど消耗していた。
けれど、そこにいる全員が生きていた。
その事実だけが、今は何より重かった。
志乃は白塔を振り返る。
あれほど禍々しく見えていた塔は、今はただの白い巨大建造物に戻っていた。
ところどころに損壊の跡はある。
だが、もうあの底知れない悪意も、絡みつくような霊気の濁りも感じない。
本当に終わったのだと、遅れて実感が押し寄せてくる。
隣ではコウが静かに塔を見上げていた。
顔色はまだ万全には遠い。
それでも、その目はもう虚ろではない。
戻ってきた。
そのことに志乃はあらためて胸の奥を熱くした。
「……戻ってきたんだね」
思わず漏れた声に、コウがこちらを見る。
「ああ」
短い返事だった。
けれど、それだけで十分だった。
志乃は小さく笑って、それから少しだけ目を伏せる。
ひばりのことが脳裏をよぎる。
最後まで、自分たちを先へ進ませてくれた残響。
もうここにはいない。
俵屋も同じだ。
二人が完全に戻ってくることはない。
その現実は変わらない。
けれど、消えたわけではなかった。
託されたものは、確かに残っている。
志乃はそっと息を吐く。
「ひばりも、俵屋も……ちゃんと繋いでくれたんだね」
コウもまた、静かに頷いた。
「俺がここにいるのは、二人のおかげだ」
その声には、前みたいな迷いはなかった。
失ったものの大きさを知ったうえで、それでも前を向こうとしている声音だった。
少し離れた場所で、白神教授が壁にもたれながら眼鏡を外す。
「まったく……年寄りにあの戦場は堪える」
「年寄り扱いしてほしくないなら、その口ぶりやめたらどうです」
水島が淡々と返す。
白神教授は鼻を鳴らした。
「君は昔から可愛げがないな」
「教授にだけは言われたくありません」
そのやり取りに、志乃は少しだけ肩の力を抜いた。
極限の戦いを終えた直後だというのに、こういう応酬があるだけで現実に戻ってこられる気がした。
吾妻は近くの瓦礫に腰を下ろし、深く息を吐く。
「……最悪の後味だな」
「勝ったのに?」
志乃が聞くと、吾妻は顔をしかめる。
「勝ちは勝ちだ。だが、最後に出てきた連中が全部持っていきやがった」
「それはそう」
志乃も否定できなかった。
相模。
MC。
キョウカ。
白塔での決着は確かについた。
なのに、それで全部片付いた感じがしない。
むしろようやく、もっと嫌な何かの輪郭だけ見せつけられた気分だった。
冷花は少し離れた場所で黙って立っていた。
その横顔はいつも以上に硬い。
姉と再会した衝撃が、簡単に整理できるはずもない。
声をかけるべきか迷っていると、冷花は先に小さく口を開いた。
「……今は、まだいい」
志乃は足を止める。
冷花は白塔ではなく、もっと遠くを見ていた。
「考えるのは後にする。じゃないと、たぶん……」
短い言葉だった。
けれど、その奥にあるものは重い。
志乃は何も軽い慰めを言えなかった。
ただ、「うん」とだけ返す。
それで十分だと思った。
月砂の戦闘員たちもそれぞれ傷を抱えながら、負傷者の確認や周辺警戒に動いていた。
副長だった相模はもういない。
その不在は重いはずなのに、今は誰もそれを口にしなかった。
クリス・レイシアは少し離れた場所で短銃を分解し、慣れた手つきで汚れを拭っていた。
顔はいつも通り落ち着いている。
呼吸も乱れていない。
声をかけられれば、たぶん普段通りの温度で返すだろう。
だが志乃には、その静けさが逆に不自然に見えた。
感情を抑えているというより、抑え込んでいる。
相模の正体も、月砂の内側に混ざっていた異物も、何も思っていないはずがない。
そのくせ彼女は怒りを表に出さない。
出したところで意味がないと切り捨てているのか、それとも今ここで崩すべきではないと分かっているのか。
どちらにせよ、その横顔は妙に冷えていた。
志乃が視線を向けると、レイシアは手を止めずに言った。
「終わったなら、ひとまずそれでいい」
いつも通りの、乾いた言い方だった。
けれどその声には、かすかに硬いものが混じっていた。
「じゃあ」
短い一言だった。
それ以上は言わない。
誰を責めるでもなく、感情を荒げるでもなく、ただ事実だけを置くように。
その抑えた怒りの方が、むしろ志乃には強く伝わった。
虺竜文は壁際に寄りかかりながら、欠けた刃をつまらなそうに見ていた。
「終わりか」
誰に向けるでもなく呟く。
それから本当に興味を失った子供みたいに、ふっと熱が引いた顔になる。
「……飽きたわ」
それだけ言うと、彼は能力を解除し、刃が瓦礫と化した。
未練も、余韻もない。
さっきまであれだけ血と殺気の只中にいた男が、急に遊びに飽きたみたいな足取りで歩き出す。
「おい、どこ行くんだ」
吾妻が声を飛ばすと、虺竜文は振り返りもしない。
「帰る。もうしめーだろ」
あまりにも身も蓋もない返答だった。
だがそれがいかにも彼らしかった。
誰かと勝利を分かち合うでもなく、傷を舐め合うでもなく、ただ自分の興味が尽きたから去る。
その背中はひどく勝手で、ひどく孤独だった。
やがて彼は、本当に子供が路地の角を曲がるみたいに、気配を薄くして消えていった。
白神教授がコウと志乃を呼んだ。
「二人とも、少しいいか」
志乃とコウは顔を見合わせてから、教授の方へ歩み寄る。
水島もその近くにいた。
教授と水島が並んでいる光景は、それだけで妙な説得力がある。
白神教授は疲労をにじませながらも、いつもの調子で二人を見た。
「まず言っておく。今回、よく生き残った」
真正面からそう言われて、志乃は少しだけ目を見開いた。
教授は続ける。
「運だけではない。覚悟も判断もあった。コウ君、君はもう使徒再生を持つ者として無視できない段階に入っている」
コウは黙って聞いている。
「志乃君もだ。今回の件で、君は完全に当事者になった。適性も、精神も、巻き込まれ方も含めてな」
「……嬉しくない言い方ですね」
志乃が言うと、教授は少しだけ口元を緩めた。
「事実はえてして可愛げがない」
「教授が言うと腹立ちます」
「そうかもしれん」
わずかに空気が和らぐ。
だが次の言葉には、はっきり重さがあった。
「単刀直入に言おう。私の研究所に来ないか」
志乃は瞬きをした。
「研究所……」
「そうだ」
白神教授は頷く。
「今回の件を整理する必要がある。TEBES。アルカディア。東都研究都市。ロストテクノロジー。そして使徒再生。断片的に知るだけでは、この先は危うい」
水島も静かに口を開く。
「教授の言う通りです。あなたたちはもう、知る前の場所には戻れない」
その言い方は冷たいのに、不思議と突き放してはいなかった。
「白塔は終わりました。ですが、相模が残した言葉通りなら、ここから先の方が本番です」
志乃は思わずコウを見る。
コウもまた、こちらを見ていた。
ただの学生ではいられない。
その言葉の意味は、とっくに分かっている。
白塔に入った時点で。
ひばりと俵屋の想いを受け取った時点で。
コウが戻ってきた時点で。
もう、以前と同じ場所には戻れない。
それでも、不思議と怖さだけではなかった。
隣にコウがいる。
それが今の志乃には、何より大きかった。
「……どうする?」
小さく問うと、コウは少しだけ考えてから答えた。
「ふん、暇だしな」
その声は静かで、はっきりしていた。
「逃げないはしねぇよ。使徒再生のことも、相模のことも、ちゃんと。知らないままじゃいられない」
志乃はその答えに、ふっと笑う。
「そっか」
それから、自分も頷いた。
「じゃあ、私も行く。ここまで来てコウだけ行かせるの、なんか嫌だし」
「なんだそれ」
「本音だけど」
「なんなんだそりゃ」
そのやり取りがあまりにも自然で、志乃は少しだけ嬉しくなった。
戦って、失って、それでもこうして隣で話せている。
それだけで十分だと思えた。
白神教授は二人を見て、静かに頷く。
「よし。なら決まりだ」
水島は眼鏡の位置を直しながら、小さく息を吐いた。
「少なくとも、退屈はしなさそうですね」
「うれしくない保証だな」
コウが言うと、水島はほんの少しだけ口元を和らげた。
そのとき、東の空がさらに白んだ。
夜明けだった。
長い夜が終わり、東都の街並みが薄い光の中で輪郭を取り戻していく。
吸い上げられていた霊気は戻り、街はひとまず平穏を取り戻していた。
守れたのだ。
完全ではない。
失ったものも多い。
傷も、後味の悪さも残っている。
それでも、自分たちはここに立っている。
志乃は朝の光を見つめる。
白塔編は終わった。
ひばりのことも。
俵屋のことも。
魔泉道との決着も。
胸の奥に痛みとして残り続けるだろう。
それでも、そのすべてを抱えたまま進むしかない。
世界の裏側は、もう見えてしまった。
なら、目を逸らさずに行くしかない。
そしてその裏側には、ただ怪異や陰謀が広がっているわけではない。
ロストテクノロジーという、過去から現在へ流れ込み続ける巨大な遺産がある。
誰かを救うはずだったもの。
文明を押し上げるはずだったもの。
人の未来を照らすはずだったもの。
それが、使う者の思想一つで街を喰い、人を駒に変え、命の循環さえ歪める。
白塔は、その一端に過ぎなかった。
魔泉道は、その破綻の一例に過ぎなかった。
相模が見ている“盤面”も、水島が背負ってきた過去も、白神教授が研究し続ける理由も、すべてそこへ繋がっている。
ロストテクノロジーは誰のためにあるのか。
誰が手を伸ばすべきで、誰が管理し、誰が拒まなければならないのか。
その問いはもう、本の中だけのものじゃない。
東都の空の下で、人の生き方そのものを選別する現実になっている。
志乃は隣のコウを見る。
コウもまた、同じ光を見ていた。
彼の中に芽生えた使徒再生もまた、その問いの中心にある。
過去を読み、因果を暴き、歴史そのものに触れてしまう力。
それは希望にもなれる。
同時に、世界を決定的に壊す鍵にもなりうる。
二人は言葉なく頷き合う。
もう後戻りはできない。
白塔の戦いを越えた先で、ようやく本当の入口に立ってしまったのだ。
朝日が東都の輪郭を染めていく。
眠っていた街が、何も知らない顔で目を覚まし始める。
守られた日常の下で、見えない場所ではすでに次の火種が脈打っている。
失われた技術。
封じられた歴史。
救済と支配の境目。
人の手には余るはずの力。
そのすべてが、まだ名もない巨大な奔流になって、これから二人の前に現れる。
白塔編は終わった。
だが終わったのは、ただ一つの箱庭にすぎない。
世界はもっと広く、もっと深く、もっと危うい。
東都の平穏は守られた。
けれどそれは、嵐の外に出たという意味じゃない。
むしろ二人は今、嵐の中心へ続く扉の前に立っている。
これは終幕ではない。
失われた技術と、奪われた歴史と、人の欲望が絡み合う世界の本題へ踏み込むための、最初の一歩だ。
東都の平穏は守られた。
だが、これは全ての始まりに過ぎなかった。
第1章 零を探せ (完)
★次章は6月1日より更新予定




