凍つく場
冷花は、しばらく息の仕方すら思い出せなかった。
白塔中枢の静まりかけた空気。
戻りつつある霊脈の白い光。
足元に積もる半屍人の残滓。
その全部が、一瞬だけ遠のく。
視界の中心にいるのは、ただ一人。
空間の歪みの向こうから現れた女だけだった。
キョウカ。
その名を口にした瞬間、自分の声がひどく幼く聞こえた気がした。
それくらい、今目の前にいる存在は、冷花にとって過去そのものだった。
女――キョウカは、何も言わない。
薄い色の瞳でこちらを一度見て、それきり静かに立っている。
姿勢に無駄がない。
感情の起伏も見えない。
再会に揺れる様子もない。
まるで、こうして白塔中枢へ現れること自体に、何の意味も見いだしていないかのような静けさだった。
「……姉さん」
冷花はもう一度、かすれた声で呼ぶ。
今度は最初よりも少しだけ強く。
確かめるように。
だがキョウカはやはり答えない。
目を逸らしもしない。
ただ沈黙したまま、冷花を見ている。
その沈黙が、何より冷花の胸を締めつけた。
死んだと思っていたのか。
失ったと思っていたのか。
少なくとも、こんな形で再び見ることになるとは一度も考えていなかった。
それだけは確かだった。
ここにいるはずがない。
そんなはずがない。
そう思っていた相手が、今、相模とMCの側に立っている。
「どういうこと……」
冷花の声は低い。
先ほどまでの動揺を無理やり押し込め、いつもの冷たさへ戻そうとしているのが分かる。
だが完全には戻りきっていない。
志乃にはそれが痛いほど伝わった。
MCがわずかに肩をすくめる。
「どういうことも何も、見たままよぉ。連れてきたの」
「そういう意味じゃない!」
冷花の声が鋭く跳ねる。
疲労も、怒りも、動揺も、全部がそこに滲んでいた。
「なんで姉さんがあんたたちと一緒にいるの。答えなさい」
MCはその剣幕にも怯まない。
むしろ少しだけ目を細めて、様子を見ている。
感情の爆発そのものを、観察対象みたいに扱っている目だった。
「聞きたいなら本人に聞けばぁ?」
そう言って、顎でキョウカを示す。
だがキョウカは口を開かない。
立ったままだ。
まるで何かを待っているようにも、何も感じていないようにも見える。
冷花は一歩、前へ出かける。
その瞬間、白神教授が低く呼び止めた。
「冷花」
短い一言。
だがそこには制止の意志があった。
冷花の足が止まる。
悔しさに、唇が強く結ばれる。
今ここで感情のままに飛び出すのが最悪だと、自分でも分かっているのだろう。
相手が姉であっても、その背後にいるのが相模とMCである以上、軽率に動くわけにはいかない。
「……分かってる」
絞るような声で言う。
だが視線だけは、片時もキョウカから離れなかった。
志乃は冷花を見て胸が痛んだ。
冷花は強い。
誰よりも感情を抑えて、必要なことを必要なだけやる人だ。
その冷花が今、こんなふうに揺れている。
それだけで、目の前の女が彼女にとってどれだけ大きな存在なのかが分かった。
コウもまた無言でキョウカを見ていた。
使徒再生の感覚は、今も完全には引いていない。
だが相手の霊気へ無遠慮に触れるような真似はしなかった。
それが危険だという直感もある。
何より、今の冷花の前でそれをするべきではないと分かったからだ。
水島が小さく息をつく。
「趣味が悪いにもほどがあるね」
その言葉はMCへ向けられていた。
MCは軽く笑う。
「褒めてくれてありがとう」
「褒めてないよ」
「知ってるわ」
やり取りは軽い。
だがその裏に流れるものは、まるで軽くない。
水島の視線はMCではなく、むしろキョウカのほうを観察しているようだった。
警戒。
確認。
そして、どこかで“何をされているのか”を測ろうとしている目でもある。
相模はその一帯の空気をひととおり眺め、ようやく口を開いた。
「感傷に浸る時間はない」
その言い方が、また場を冷やした。
「冷花、お前にとってどういう相手であれ、今はまだ順番ではない」
冷花の目が相模へ向く。
さっきまで姉に向いていたものとは別種の鋭さだった。
「順番?」
「そうだ」
相模はあくまで平坦に言う。
「まず片づけるべきものがある」
その視線が、床に膝をついたままの魔泉道へ落ちる。
空気が変わる。
志乃は思わず相模を見る。
魔泉道はまだそこにいる。
白い光を零し続け、崩壊した理論の残骸みたいにひれ伏している。
戦いは終わった。
少なくとも、自分たちの中では終わらせたつもりだった。
だが相模の目には、まだ“処理前の危険物”としてしか映っていない。
魔泉道もその視線に気づいたのか、ゆっくりと顔を上げる。
その表情は虚ろだ。
自分が敗れたことすら、まだ完全には理解しきれていない。
だが相模の目に宿るものだけは、本能的に不吉だと感じたのかもしれない。
白く痩せた指先がわずかに震える。
「……何だ、その目は」
掠れた声。
相模は答えない。
数歩、魔泉道へ近づく。
白い床を踏む足取りに迷いはない。
もはや勝敗を確認する相手を見る目ではなかった。
必要な後始末を前にした、事務的な目だった。
「おい」
吾妻の声が飛ぶ。
低いが、鋭い。
「何する気だ」
相模は足を止めない。
「後始末だ」
「後始末?」
吾妻が刀をわずかに持ち上げる。
冷花も姉から目を離し、相模を見た。
白神教授は無言のまま、だが明確に警戒を強めている。
月砂の戦闘員たちもざわめいた。
自分たちの副長が、勝手に別の工程へ進もうとしている。
そんな違和感が、ようやく全員に現実味を帯びて伝わり始めていた。
「魔泉道はもう終わった」
コウが言う。
その声には疲労が濃い。
だが、止める意思ははっきりしていた。
「白塔の異常も収まってる。これ以上――」
「だからこそだ」
相模は振り返らずに言った。
「終わったものほど、確実に始末しておく必要がある」
その冷たさに、志乃はぞくりとした。
魔泉道が許せるかどうかではない。
敵として終わらせたかどうかでもない。
相模にとっては、それすら関係ないのだ。
必要か不要か。
残す価値があるかないか。
ただそれだけで判断している。
魔泉道は、ようやく自分へ向いた“別の死”を察したのかもしれない。
よろめきながら相模を見上げる。
「お前……何者だ」
問いに、相模はほんのわずかだけ目を細めた。
「もう名乗ったはずだ」
それだけだった。
自分を理解させるつもりはない。
魔泉道にとっても、ただ処理対象でしかない。
その冷淡さは、かつて魔泉道自身が他人へ向けてきたものにどこか似ていた。
だからこそ、余計に不快だった。
水島がそこで口を開く。
「相模」
声音は穏やかだ。
だがその奥にあるものは刃に近い。
「やるなら、せめて説明くらいしたらどうだ。君はそういうところが昔から最低だ」
相模はちらりと水島を見る。
「説明して止まる相手でもないだろう」
「違うよ」
水島は静かに返す。
「説明しないから、ますます君が腐って見えるって話さ」
その言葉にも、相模は反論しなかった。
否定できる段階では、もうないのかもしれない。
MCが二人の間に軽く入るように、でも実際には何も遮らない位置で立つ。
「まあまあ。そんな怖い顔しないでちょうだい。順番ってあるじゃない?」
志乃はその言葉に噛みつくように言う。
「何が順番だよ」
MCはそちらを見た。
一瞬だけ目が細くなる。
柔らかな口調のまま、声だけが少し冷える。
「これ以上余計な火種を残さないための順番よ」
「魔泉道はもう戦えない」
「戦えるかどうかだけが問題じゃないの」
その返しは速かった。
「こういうのってねぇ、きちんと片づけておかないと、あとで別の誰かが拾うのよ。君たちも、そういうのはもう嫌ってほど見たでしょ?」
志乃は言葉に詰まる。
反論したい。
けれど、その論理そのものは完全には間違っていない。
ロストテクノロジー。
白塔。
ひばり。
俵屋。
魔泉道。
終わったはずのもの、遺されたものが、誰かに拾われてまた悲劇を起こす。
そんな連鎖を見てきたばかりだった。
だが、それでも。
それでも、今ここで相模たちの好きな理屈で“片づける”ことを受け入れられるかは別だ。
冷花が、再びキョウカを見る。
姉はまだ何も言わない。
相模が魔泉道へ向かうことにも、MCの言葉にも、表情ひとつ変えない。
その静けさが、冷花には一番堪えているようだった。
「姉さん」
今度の呼びかけは、静かだった。
怒りでも悲鳴でもない。
ただ、確認したい者の声。
「何か言って。あんた、自分の意思でそこにいるの」
キョウカは数秒、黙っていた。
その沈黙だけで、冷花の指先がわずかに震える。
やがて、キョウカの唇がほんの少しだけ動く。
「……いる」
それだけだった。
短い。
感情も薄い。
けれど確かに、自分の声だった。
冷花の目が揺れる。
嬉しいわけではない。
安心でもない。
むしろ、その答えの薄さが逆に苦しかった。
自分の意思でいる。
なのに、どうしてそんな目をしているのか。
どうしてこんな場所に、こんな連中と立っているのか。
聞きたいことは山ほどある。
けれど今の一語だけで、さらに分からなくなる。
「それだけ……?」
思わず漏れた声に、キョウカはもう答えなかった。
また黙る。
沈黙が戻る。
相模がその空気ごと断ち切るように言う。
「……最後の後始末をしよう」




