役者
空間の歪みは、白塔の霊脈とは明らかに別の理屈で生じていた。
霊気の流れに沿って裂けているわけではない。
中枢の構造に干渉しているのでもない。
まるでそこだけが、別の座標から無理やり重ねられているみたいに、空気の層が薄く捩れていく。
白塔の正常化が進みつつあるこの場で、その歪みだけが異物だった。
白神教授の声が低く落ちる。
「転移系統か……」
水島はその揺らぎを見つめたまま、皮肉の薄い笑みを消した。
「相変わらず手際がいいね。嫌になるくらいに」
相模は答えない。
ただその歪みを見ている。
待っていたものが予定通り届くのを確認するような目だった。
志乃はコウの隣で、無意識に肩へ力を入れる。
戦いは終わったはずだ。
魔泉道はひれ伏し、半屍人は消え、白塔は戻り始めている。
それなのに、空気はまた別の意味で冷たくなっていく。
この場に現れるものが、味方であるはずがないと、本能が先に告げていた。
コウもまた、歪みの中心を見据える。
使徒再生の反動がまだ奥底に残っていて、霊気の揺れに神経が刺さるように痛む。
それでも分かる。
この現象は白塔の流れではない。
誰かが意図して開いている“門”だ。
歪みが、さらに深くなる。
空間の縁が音もなく裂けた。
そこから現れたのは、長身の人影だった。
黒を基調とした衣服。
どこか芝居がかった立ち姿。
白塔中枢という凄惨な現場に似つかわしくないほど、足取りには迷いがない。
いや、迷いがないどころか、まるで整えられた舞台へ降り立つような所作だった。
人影は一歩、白塔の床へ降り立つ。
そして周囲を見回し、軽く肩をすくめる。
「あらぁ。思ったよりずいぶん片付いてるじゃない」
その声に、志乃は一瞬だけ面食らった。
柔らかい。
だが軽いわけではない。
語尾や抑揚に、わずかにおかまじみた調子がある。
けれどそれがふざけた印象になる寸前で、妙な鋭さが芯に残る。
気を抜けば、すぐに喉元を切られそうな声だった。
「ご苦労さま、相模。ちゃんと終盤までは持っていったみたいねぇ」
相模はその言葉に、ようやく小さく頷く。
「予定通りだ」
「予定通り、ね」
現れた人物――MCは、床にひれ伏す魔泉道を見下ろす。
次に白塔の中枢、白神教授、水島、吾妻、冷花、志乃、コウへと順番に視線を滑らせた。
その目は笑っていない。
何を見てもまず価値と配置を量る、そういう種類の目だった。
「まあでも、ここまで綺麗に盤面が整理されるとは思わなかったわ。鍵ちゃんもちゃんと戻ってきてるし」
“鍵ちゃん”という呼び方に、コウの眉がわずかに動く。
相手はこちらを知っている。
しかも、情報としてではなく、既に盤上の駒として認識している声音だった。
吾妻が一歩前へ出る。
刀は下ろさない。
「誰だ、てめえ」
MCはそちらを向き、ほんの少し口元を上げた。
「名乗るほど親切でもないんだけどぉ、もう知ってる人もいるかしら。MCよ」
その名を聞いた瞬間、白神教授の表情がわずかに険しくなる。
水島の目も細まった。
やはりただの新顔ではない。
「移転能力者か」
教授が低く言う。
MCは楽しげに片手を広げた。
「ご名答。こういう“片づいた頃”に呼ばれることが多いのよねぇ、あたし」
「趣味の悪い登場だな」
水島が吐き捨てるように言う。
MCはそれを笑って受け流した。
「褒め言葉として受け取っとくわ」
クリスは少し離れた位置で銃を構え直すでもなく、ただMCを見ていた。
無干渉なまま観察している。
虺竜文もまた得物を肩に預けたまま、品定めみたいにその姿を眺めている。
二人とも飛び出さない。
相手の出方を見ているのではなく、まだ“斬る価値があるか”を測っているような距離感だった。
冷花は明確に警戒を強めていた。
すでに霊気はかなり削れている。
それでも、次に何かが起これば即応するつもりで姿勢を保っている。
「相模。あんた、どこまで仕込んでたの」
問いは冷たい。
相模は振り返らずに答える。
「必要な分だけだ」
「そういう答えが一番嫌いなのよ」
「知っている」
その短いやり取りすら、二人のあいだに共有されているものの薄気味悪さを強めた。
志乃はMCと相模を見ながら、胸の奥にじわじわと嫌なものが広がるのを感じていた。
白塔の戦いは、自分たちにとっては死ぬか生きるかの極限だった。
ひばりも、俵屋も、コウも、全部そこに懸かっていた。
なのにこの二人は、そのすべてを“盤面”とか“終盤”とかいう言葉で扱っている。
それがたまらなく腹立たしかった。
「何しに来たの」
志乃がはっきり言う。
声は疲れている。
けれど、引いてはいない。
MCは志乃へ顔を向けた。
その視線には一瞬だけ、軽い面白がりが混じる。
「あら、元気ねぇ。いいことじゃない」
「答えて」
MCは肩をすくめる。
「回収と確認、ってところかしら。魔泉道の件はひとまず収束。白塔は正常化。鍵ちゃんは新しい力を獲得。ここまでは上々」
その言い方に、コウの奥で何かが冷たくなる。
やはり見られていた。
どこまでかは分からない。
だが少なくとも、自分が使徒再生を得たことまで把握されている。
「上々、だと?」
今度はコウが低く返す。
「ひばりも俵屋も、ここでたくさんの人が傷ついた。そういうのも全部込みで、上々って言うのか」
MCはその視線を真正面から受けて、少しだけ目を細めた。
笑ってはいない。
「嫌いじゃないわ、その顔。でもそういうのって、視点が変われば評価も変わるものなのよ」
「ふざけるな」
志乃が噛みつくように言う。
MCは軽く片手を振った。
「怖い怖い。今のあたし、戦うために来たわけじゃないのよぉ」
「信用できると思う?」
「思わなくていいわよ。別に」
その返しは軽い。
だが内容はまるで譲っていなかった。
白神教授が前へ出る。
消耗しきっていても、その声だけはまだ鋭い。
「お前たちは何を回収しに来た。魔泉道か。それとも成果か」
MCは教授を見て、わずかに感心したように眉を上げる。
「さすが白神先生。話が早いわねぇ」
「答えろ」
「両方、と言いたいところだけど」
そこでMCは相模へ視線を流す。
相模もまた静かに応じる。
「今は後者の比重が大きい」
“後者”。
成果。
その言い回しが、白塔で起きたことすべてを実験結果みたいに扱っていて、志乃には吐き気がした。
水島がそこで口を挟む。
「相変わらず気味が悪いね、君たちは」
その声には、もはや皮肉では済まない冷たさがあった。
「世界の歪みを片づけに来た顔じゃない。歪みの形を測りに来た顔だ」
MCはわざとらしく片手を胸へ当てる。
「あらぁ、ひどい。昔からほんと、あたしには手厳しいわね」
「褒める理由が一つもないからね」
その間にも、空間の歪みは完全には閉じていなかった。
MC一人が来ただけではない。
志乃は直感する。
まだ何か来る。
そしてその予感は、すぐに現実になった。
MCがふっと笑う。
それは今までで初めて、少しだけ本題へ触れる顔だった。
「それでねぇ。今日はもう一人、連れてきてるのよ」
その言葉に、場の空気がまた変わる。
冷花が目を細める。
クリスの視線が歪みの残る空間へ向く。
相模は何も言わない。
水島だけが、ごくわずかに嫌そうな顔をした。
「……やっぱり、それも込みか」
MCは答えず、歪みの中心へ向けて軽く指を鳴らすような仕草をした。
すると空間の裂け目がもう一段深く開く。
白塔の白い床へ、静かな影が落ちた。
そこから現れたのは、女だった。
背は高い。
立ち姿に無駄がない。
だが何より、空気が違った。
静かすぎる。
気配を殺しているのではない。
最初から余計なものを持ち込まないまま、そこに存在しているような静けさだった。
彼女は一歩、こちらへ出る。
長い髪が揺れる。
表情は薄い。
目だけが静かに前を見ている。
そして何も言わない。
その姿を見た瞬間、冷花の呼吸が止まった。
「……え」
あまりにも短い声。
けれど、その一音に凍りつくような衝撃が詰まっていた。
女は冷花を見ても、特に表情を変えない。
ただそこに立っている。
沈黙したまま。
まるで再会の感傷なんて、自分の領分ではないとでも言うように。
冷花の唇が震える。
いつもの鋭さも、冷静さも、その一瞬だけ綺麗に抜け落ちた。
「……姉さん……?」
その言葉が白塔中枢へ落ちた瞬間、誰もすぐには動けなかった。
キョウカ。
その存在が何を意味するのかを理解するより先に、まず冷花の表情がそれを物語っていた。
ここにいるはずがない人間。
現れてはいけない人間。
その衝撃だけで十分すぎた。
MCはそんな空気をどこか楽しむみたいに、けれど声だけは軽く言う。
「はい、お届けもの。ご対面の時間ってやつよぉ」
キョウカは何も言わない。
ほんのわずかに視線を動かしただけだった。
冷花へ。
それだけ。
そこに感情があるのかどうかすら、判然としない。
志乃は息を呑む。
コウもまた、無言でその女を見ていた。
白塔の戦いが終わった直後に投げ込まれた新たな火種。
しかも、それは単なる敵ではない。
誰かにとって、取り返しのつかない過去そのものだ。
相模がその場を見渡し、静かに言った。
「これで役者は揃った」
その一言が、不吉なほど自然に響いた。




