消えていく二人
異質な光は、白塔の傷口みたいに壁一面へ広がっていた。
床を這い、天井へ滲み、ひとつの場所に留まりきれずに細い糸となって脈打っている。
先ほどの痕跡より濃い。
もっと古く、もっと深く、俵屋がこの塔へ食い込んでいた時間そのものが染みついているようだった。
志乃はその前で足を止める。
腕の中のコウは相変わらず静かだ。
呼吸はある。
温度もある。
それでも、急がなければ本当に届かなくなる。
そんな焦りが、胸の内側をひっきりなしに叩いていた。
「これだけあれば……」
志乃が呟くと、ひばりは静かに頷いた。
「足りるかもしれません。ここに残っているのは、俵屋が最後まで白塔へ絡みついていた痕跡です。あの人の執着も、後悔も、届かなかった時間も……たぶん、いちばん濃く残っています」
ひばりが俵屋の名を口にするとき、そこに熱はない。
憎しみも、情も、もう振り切った先の静けさだった。
けれど完全に無関心でもない。
その声音の底にだけ、長い時間をかけて沈殿したものがわずかに残っている。
志乃にはそう聞こえた。
「集めるね」
志乃はコウをそっと壁際へ横たえる。
頭を守るように自分の上着を折って敷き、その胸元へ手を当てた。
まだ、温かい。
その確かさだけを支えに、もう一度痕跡へ向き直る。
ひばりが一歩前へ出る。
輪郭が薄い。
光の端はすでにほつれ始めている。
それでも彼女は迷わなかった。
「志乃さん。私が道を作ります。あなたは、流れ込んでくるものを受け止めてください。拒まないで。怖くても、手を離さないで」
「……うん」
志乃は深く息を吸う。
そして両手を、壁と床に走る異質な光へそっと触れた。
瞬間、世界がひっくり返った。
白塔の崩壊した回廊が消える。
代わりに流れ込んできたのは、もっと古い景色だった。
まだ塔が穏やかに息づいていた頃の白。
冷たいけれど清潔な石壁。
整然と走る術式の線。
淡く揺れる霊灯。
その中を、俵屋が一人で歩いている。
今より若い。
だが、すでに眼の奥は疲れていた。
何かを掴みかけて、何度も取り落としてきた人間の目だった。
俵屋は立ち止まり、白塔の中枢へ続く封鎖扉へ手を当てる。
その向こうにいる誰かを思うように。
届かない場所へ、届かせようとするように。
――ひばり。
また、その名だった。
言葉としては聞こえない。
けれど感情だけが直接、志乃の胸へ叩きつけられる。
会いたい。
届きたい。
手放したくない。
奪ってでも。
繋ぎ止めてでも。
それが醜いことだと知りながら、止められない執着。
志乃は息を詰めた。
苦しい。
胸の奥に他人の感情が流れ込みすぎて、自分の輪郭が薄くなる。
それでも手を離さない。
ここで拒めば終わる。
ひばりの声が、遠く近く響いた。
「そのままです。俵屋の残響を、あなたの霊気で包んで」
志乃は歯を食いしばり、自分の霊気を流し込む。
優しく、けれど逃がさないように。
すると壁に染み込んでいた光が震え、糸のように解けて志乃の両手へ集まってきた。
掌の中に、熱でも冷たさでもない奇妙な重みが積もっていく。
それは力というより、長年終われなかった想いそのものだった。
だが、今度の痕跡はそれだけでは終わらなかった。
俵屋の断片が、さらに深いところを見せる。
白塔の一室。
俵屋は机に肘をつき、ひとりで何かの記録を睨んでいる。
顔は険しい。
だがその苛立ちの底にあるのは怒りではなく、どうしようもない空虚さだった。
求めても届かない。
待っても戻らない。
それでも諦めきれない。
だから研究に沈み、白塔に縋り、不死に手を伸ばした。
歪みの始まりが、そこに見えた気がした。
そして、もっと後の断片。
俵屋の手が震えている。
その向こうに、ぼやけたひばりの輪郭。
もう生者ではない。
白塔に残された意識の残滓。
それでも俵屋は、そこへ手を伸ばし続ける。
届かないと知りながら。
それでも、何かだけは残したいと足掻くみたいに。
志乃の頬を汗が伝う。
頭の奥が軋む。
これは記憶ではない。
けれど記憶に近い。
人ひとりが積み上げた執着と失敗の痕が、感情の化石みたいに白塔へ染みついている。
それを今、自分は剥がしているのだ。
「ひばりさん……!」
ひばりの光が、志乃の前で強く明滅する。
彼女は両手を重ねるようにして、俵屋の残響の流れを整えていた。
けれどその姿は、さっきより明らかに薄い。
輪郭の向こうが透けて見える。
肩先から光が零れ、霧みたいに空気へ溶けていく。
「大丈夫です。続けてください」
声もまた、遠くなっている。
けれどひばりは、まっすぐ志乃を見ていた。
「今なら、まだ繋げられます」
志乃は頷く。
涙が出そうになるのを必死に抑えた。
今はまだ、泣くときじゃない。
掌に集まった残響は、最初のものと呼応して脈打っていた。
ひとつ、またひとつ。
俵屋が遺した断片が形を取り、志乃の霊気の中でかろうじて保たれていく。
これをコウへ流せばいい。
そのはずだ。
その先に、目を覚ます可能性がある。
だが、それを繋ぐ最後の橋が、ひばりだった。
志乃はその事実を嫌でも思い知る。
俵屋の残響は重い。
歪んでいる。
このままコウへ流せば、閉じかけた霊気構造を開くどころか、逆に深く傷つけかねない。
だから、ひばりが要る。
俵屋の痕跡を、ひばりだけが受け止め、ほどき、コウへ届く形に変えられる。
その代わりに、ひばり自身の残火が削られていく。
「もう、十分集まったはずだよ……!」
志乃は思わず叫んでいた。
「これ以上やったら、ひばりさんが……!」
ひばりは静かに首を振る。
「まだです。あと少しだけ。俵屋の最後の核が残っています」
その言葉と同時に、床の奥底からひときわ濃い光が浮かび上がった。
今までの断片とは違う。
もっと強く、もっと痛々しい。
まるで白塔の根へ深く食い込んだ棘みたいに、黒ずんだ光が脈打っている。
志乃は直感する。
あれが最後だ。
触れた瞬間、息が止まりそうになった。
押し寄せてきたのは、今まででいちばん強い感情だった。
激しい執着。
焦燥。
喪失。
そして――諦めきれなかった末の、ひどく静かな願い。
奪いたかった。
手放したくなかった。
自分のものにしたかった。
なのに最後には、ただ一度でいい、届いてほしかった。
せめて消える前に、どこかへ残ってほしかった。
その感情の向かう先は、ひばりだった。
けれどもう、かつてみたいに縛るためではない。
届かなかったものへ、せめて痕跡だけでも残したい。
そんな、遅すぎる願いへ変わっていた。
志乃の喉が詰まる。
俵屋の罪は消えない。
許されるわけでもない。
それでも、最後の最後に残したこの断片だけは、確かに誰かへ託そうとするものだった。
「俵屋……」
名前が、自然に零れた。
ひばりがその横で目を閉じる。
淡い睫毛が震えた。
その表情にあるのは、怒りではなかった。
深い哀しみと、長い時間の果てにようやく手放すことを選んだ静けさだった。
「志乃さん。それを、こちらへ」
志乃は掌に集めた残響を、ひばりの前へ差し出す。
ひばりは両手を重ねるようにして、それを受け取った。
触れた瞬間、白い光と黒ずんだ残響が混ざり合う。
不純物をほどくみたいに、ひばりの輪郭がふるえた。
肩が、腕が、指先が、光の粒になって崩れていく。
「ひばりさん!」
「大丈夫です」
そう答える声は、もうほとんど囁きだった。
なのに不思議と、よく聞こえた。
「これで、やっと……終われます」
その言葉は、自分の消滅を嘆くものではなかった。
むしろ、ようやく辿りついた安堵に近かった。
ひばりは残響を抱いたまま、コウのそばへ歩み寄る。
いや、歩くというより、光が流れていくみたいに近づいていく。
志乃も慌ててコウの傍らへ膝をついた。
「何をすればいい?」
「コウさんを呼んでください。あなたの声で。あなたの霊気で。この人が戻る場所を、はっきり示してあげてください」
志乃は頷く。
涙で滲む視界のまま、コウの手を強く握った。
「コウ……」
呼ぶ。
何度も呼んだ名。
けれど今は、今までと違う。
ただ戻ってきてほしいという願いだけじゃない。
ここへ戻ってこいと、居場所を示す呼びかけだった。
「コウ、帰ってきて。もう沈まないで。私、ここにいるから」
ひばりが目を閉じる。
その胸元で、俵屋の残響がゆっくりほどけていく。
黒ずんだ光は白い粒へ変わり、ひばりの身体を通って細い流れとなり、コウの胸元へ注ぎ込まれていった。
その瞬間、志乃の視界に別の景色が重なった。
白塔の春。
まだ何も壊れていない時代。
柔らかな光の差す窓辺。
ひばりが笑っている。
遠くで俵屋がそれを見ている。
届かない距離のまま。
言葉にできなかった時間。
間違え続けたあとで、ようやく気づいた喪失。
守れなかったもの。
戻らなかった日々。
それでも最後に、誰かへ託せるなら、それだけで少しだけ救われるのだと告げるような、静かな感情。
それは愛だったのかもしれない。
執着と呼ぶには痛々しく、赦しと呼ぶには遅すぎる。
でも確かに、最後の最後で二人が同じ場所を見た一瞬だった。
ひばりがコウの額へそっと触れる。
指先はもう半ば透け、今にも消えそうだった。
「俵屋」
その名を、ひばりはとても静かに呼んだ。
責めるでもなく、許すでもなく。
ただ、長く終われなかった相手へ向ける、最後の呼びかけみたいに。
「もう、行きましょう」
返事はない。
けれど俵屋の残響は、その言葉に応えるようにふっとやわらいだ。
白い粒子となって、さらに深くコウの内側へ沈んでいく。
ひばりの輪郭が、崩れる。
肩から先がほつれ、髪が光となってほどけていく。
もう時間がない。
志乃は思わず手を伸ばした。
「ひばりさん……!」
ひばりは志乃を見た。
その瞳は、今まででいちばん穏やかだった。
「ありがとうございました」
「そんな……!」
「志乃さん」
名前を呼ばれ、志乃は息を呑む。
「コウさんを、お願いします」
その言葉を最後に、ひばりの身体は淡い光の粒へ変わり始めた。
散っていく。
白塔の濁った空気の中へ、静かに、静かに溶けていく。
志乃の頬を涙が伝った。
止められなかった。
止めてはいけないのだとも、分かっていた。
ひばりの残した最後の光が、コウの胸元へ吸い込まれていく。
それで終わりだった。
白塔に残っていたひばりの気配は、もうどこにもない。
俵屋の重い残響もまた、すべて使い果たされた。
静寂が落ちる。
ほんの一瞬だけ、戦場の音すら遠くなる。
志乃は震える手で、コウの指先に触れた。
冷たくはない。
でも、変化はまだ見えない。
早すぎたかもしれない。
失っただけかもしれない。
そんな恐怖が胸を締めつける。
「コウ……」
呼ぶ。
返事はない。
それでも、諦めきれなくて、もう一度その手を握る。
次の瞬間。
ほんのわずかに。
本当にわずかに。
コウの指先が、動いた。
志乃は息を止める。
見間違いじゃない。
今、確かに。
「……コウ?」
声が震える。
涙で滲んだ視界の向こうで、コウの指先がもう一度、微かに震えた。
白塔の崩壊音が、再び現実として押し寄せてくる。
遠くで誰かが叫んでいる。
戦いは終わっていない。
何も解決していない。
けれど、それでも。
失われたはずの先に、確かに小さな灯が戻っていた。




