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ロストテクノロジーは誰のためにあるのか  作者: 維岡 真
第1章 ”零を探せ” 第10節 使徒再生

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白塔の残響

戦場の喧騒が、そこだけ薄れていた。

剣戟も、悲鳴も、半屍人のうめきも、遠く膜を隔てた向こう側の音みたいに鈍っていく。

白塔を満たす濁った霊気の流れの中で、その一角だけが別の水脈に触れたように静かだった。


志乃は息を呑んだまま、目の前の淡い影を見つめる。


長い髪。

白く透ける輪郭。

どこか哀しげで、それでいて静かな眼差し。

戸塚ひばり。

白塔に囚われ、俵屋と魔泉道の執着の中心にいた少女。

そのはずだった。


「……ひばり、さん……?」


呼びかける声は、かすれた。

淡い影はすぐには答えない。

ただそこに立っている。

いや、立っているという表現すら正しくないのかもしれない。

足元は曖昧で、輪郭も時おりかすかに揺れる。

吹けば散る灯火のように、存在そのものが不安定だった。


やがて、ひばりの唇がわずかに動いた。


「志乃……さん」


その声は小さい。

けれど確かに届いた。

耳ではなく、白塔の残響そのものが志乃の内側へ触れてくるみたいな響きだった。


志乃はコウを抱えたまま、思わず身を乗り出す。


「ひばりさんなの……? 本当に……?」


「完全な私では、ありません」


ひばりは静かに答える。

声のたびに、その輪郭が微かに明滅した。


「白塔に残った意識の残り火……そういうものです。もう、長くは保てません」


その言葉に、志乃の胸が強く縮んだ。

目の前にいるのは、生き返ったひばりではない。

かつてここにいた少女の最後の残響。

白塔の奥底に沈み、それでも消えきれずに残った、ほんのわずかな意志だけだ。


「でも、来てくれた……」


志乃の声は、祈るように震えていた。


「コウを……助ける方法があるの?」


ひばりの視線が、志乃の腕の中のコウへ向く。

その瞬間だけ、彼女の表情に微かな痛みがよぎった。


「このままでは……コウさんの霊気構造は閉じていきます。命は尽きません。でも、深く沈んだまま……戻れなくなる」


白神教授の言葉と同じだった。

けれど、ひばりの口から聞かされることで、その現実はもっと冷たく、もっと具体的なものとして志乃の胸に落ちた。


志乃はコウの手を握り直す。

まだ温かい。

まだ生きている。

けれど、その温度が遠ざかっていくような恐怖があった。


「嫌……」


思わず漏れた声は、自分でも情けないほど弱かった。


「そんなの、嫌だよ……。やっとここまで来たのに……。こんなところで、コウが戻れなくなるなんて……」


ひばりはしばらく黙っていた。

その沈黙は迷いというより、残り少ない自分の存在をどう使うかを見極めているような静けさだった。

やがて彼女は、ゆっくりと言う。


「ひとつだけ、方法があります」


志乃は顔を上げた。

喉が詰まり、すぐには声が出ない。

それでも目だけで続きを促す。


ひばりは白塔の奥を透かすように見つめた。

その視線の先には、崩れた通路も、うごめく半屍人も、戦う仲間たちもあるはずなのに、彼女はもっと別の場所――白塔の記憶の底を見ているようだった。


「俵屋の霊気です」


その名前に、志乃は息を止めた。


俵屋。

ひばりへ執着し、白塔に取り込まれ、最後には歪み切った果てに消えていった男。

罪は重い。

許されるものではない。

それでも最期の瞬間、あの男の中に確かに残っていたものを、志乃は見てしまっていた。


「俵屋の……霊気……?」


「はい」


ひばりは頷く。

その動きも、今にも崩れそうなほど淡い。


「彼は長いあいだ、白塔の中枢へ食い込んでいました。私へ届こうとして、届かないまま、ずっと……。その執着と痕跡が、まだ白塔のあちこちに残っています」


白塔に沈んだ残留霊気。

ただの力ではない。

ひばりに向け続けた想いと、塔へ絡みついた年月そのもの。

それを志乃はぼんやりと理解する。


「それをコウさんへ流せば……閉じかけた霊気構造を、もう一度だけ開けることができるかもしれません」


かもしれない。

確実ではない。

それでも、初めて示された具体的な方法だった。


志乃の心臓が強く打つ。


「本当に……? それでコウが目を覚ます可能性があるの?」


「あります」


ひばりは短く答えた。

だがすぐに、その視線が静かに沈む。


「でも、それは……俵屋の残響を使い切るということです」


志乃は言葉を失った。


ひばりは続ける。


「そして、私も」


その一言が、戦場のどんな悲鳴よりも強く志乃の胸を打った。


「私の残り火は、俵屋の痕跡をコウさんへ繋ぐための媒介にしかなれません。その役目を果たしたら、もう……残れないと思います」


志乃の指先が強張る。

分かってしまった。

これは単なる救済じゃない。

誰かの残された最後のすべてを使って、ようやく届くかもしれない希望なのだ。


「そんな……」


口から出たのは、それだけだった。


ひばりは静かだった。

怖がっているようには見えない。

むしろ、ようやく終わりに向かえる者の落ち着きに近い。

けれどそれが余計に、志乃には苦しかった。


「あなたは、もう十分に苦しんだのに……」


思わずそう言っていた。

ひばりは囚われ、利用され、死んだあとですら白塔に縛られていた。

やっと現れたと思ったら、今度は誰かを救うために消えるしかないなんて、そんなのあまりにも残酷だった。


ひばりは、かすかに微笑んだ。

それは諦めでも、自嘲でもなかった。

とても静かな、穏やかな微笑みだった。


「私は、ずっと残り続けたかったわけじゃありません」


その言葉に、志乃は目を見開く。


「ただ……終われなかったんです。届かなかったものが多すぎて。残されたままだったから」


白塔の奥で、どこか低い唸りが響く。

戦場の揺れが戻り始める。

クリスの銃声。

冷花の術式。

吾妻の怒声。

遠のいていた現実が、再び輪郭を取り戻していく。

時間がない。

そう志乃にも分かった。


ひばりはそれでも、志乃から目を逸らさなかった。


「でも今なら、終わらせられるかもしれない。誰かを起こすために使えるなら、それでいいと……思えます」


志乃は唇を噛む。

胸の奥が熱い。

苦しい。

泣きそうになる。

けれど今は泣いている暇なんてない。


「俵屋は……」


絞り出すように言う。


「俵屋の霊気は、どこにあるの?」


「白塔の各所です。ひとつではありません。中枢へ食い込んでいた痕跡として、散っています」


ひばりの輪郭が揺れた。

薄くなる。

志乃は反射的に叫びそうになるのを堪えた。


「私が導きます。でも、急いでください。私も、白塔も、もう長くは……」


言い切る前に、ひばりの姿が一瞬だけ大きく揺らぐ。

風もないのに、水面に映った月が崩れるみたいに、その輪郭が乱れた。


志乃は思わず手を伸ばす。

もちろん触れられない。

指先はただ、冷たい空気を掻いただけだった。


「ひばりさん!」


「大丈夫です」


その声は、もう先ほどより薄い。

今にも戦場の音に呑まれて消えそうだった。


「私は、ここにいます。まだ少しだけ……」


その間にも、半屍人の咆哮が近づいてくる。

白神教授の怒鳴り声が響く。

前線が押されている。

ぐずぐずしている時間はない。

けれど志乃の足は、すぐには動かなかった。


俵屋の残響を使えば、コウを起こせるかもしれない。

その代わり、ひばりも、俵屋も、完全に消える。

二人の最後の痕跡を、自分の手で使い切ることになる。


重かった。

あまりにも。


「私なんかに……決めていいのかな……」


気づけば、そんな言葉がこぼれていた。


「誰かの終わりを使って、コウを戻すなんて……。そんなの、勝手すぎるよ……」


ひばりはしばらく黙っていた。

そして、本当に小さく首を振る。


「勝手じゃありません」


その言葉は、不思議なくらいはっきりしていた。


「俵屋が最後まで手放せなかったのは、たぶん……奪うことじゃなくて、届くことだった。私は、もう誰かに囚われたくない。でも……誰かに託して終われるなら、それはきっと、悪い終わりではありません」


俵屋の罪は消えない。

ひばりの苦しみも消えない。

けれど、最後に残ったものまで否定することが正しいとは、もう志乃には言い切れなかった。


コウの顔を見る。

静かな寝息。

動かない瞼。

呼べばすぐ目を開けてくれそうなのに、どこまでも遠い。


ここで迷っているあいだにも、みんなは戦っている。

削られている。

時間はもう、ほとんど残っていない。


志乃は、強く息を吸った。

肺の奥に濁った霊気の臭いが入り込み、むせそうになる。

それでも、はっきりと顔を上げた。


「……やる」


ひばりの目が、静かに志乃を見つめる。


「俵屋の霊気を集める。

ひばりさんの力も借りる。

コウを起こすためなら、私は全部やる」


言葉にした瞬間、不思議と迷いが消えた。

怖くないわけじゃない。

苦しくないわけでもない。

でも、立ち止まっていられない。

それだけは確かだった。


「お願いします、ひばりさん」


志乃は頭を下げる。

コウを抱えたまま、それでもできる限り深く。


「力を貸してください」


ひばりは、ほんの少しだけ微笑んだ。

その表情は、最初に見たときよりずっと人らしかった。

少女としての彼女が、ようやくそこに戻ってきたみたいに見えた。


「はい」


答えは、穏やかだった。


その直後、白塔全体を揺らすような轟音が響く。

天井の一部が崩れ、霊気の濁流が吹き抜ける。

戦場の音が一気に押し戻ってきた。

吾妻の怒声。

冷花の詠唱。

誰かの断末魔。

半屍人のうめき。

現実が、容赦なく志乃を掴み直す。


ひばりの姿が、砕ける光の中でさらに薄くなる。


「まずは……この近くにある痕跡から」


彼女は白く透ける指先を、崩れた通路の奥へ向けた。


「あちらです。俵屋の残留霊気が、まだ……」


言葉の途中で、彼女の輪郭がまた揺らぐ。

けれど消えない。

まだ、導ける。

まだ間に合う。

そう信じるしかない。


志乃はコウを抱き直した。

重い。

けれどその重さが、今は支えだった。


「待ってて、コウ」


囁く。

返事はない。

それでも、今までより少しだけ近くに感じた。


「絶対に、戻すから」


ひばりの淡い光を追うように、志乃は立ち上がる。

崩れゆく白塔の中。

死と濁流と絶望が渦巻く戦場のただ中で。

それでも確かに、次の一歩だけは見えていた。

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