怪物退治
鍵は、深く沈み始めていた。
その現実が、志乃の胸の奥に鉛のように沈んでいた。
腕の中のコウはまだ温かい。
呼吸もある。
鼓動も消えていない。
それなのに、どれだけ名を呼んでも、意識だけが遠い場所へ落ちてしまったように戻ってこない。
白塔の地下は、休むことなく軋み続けていた。
床下を走る霊脈は不規則に明滅し、壁面の紋様は赤黒く脈打ちながらひび割れている。
崩れた通路の奥からは半屍人たちのうめきが途切れず響き、そのたびに空気の温度まで下がっていくようだった。
防衛機構の誤作動も止まらない。
どこかで隔壁が閉じ、どこかで術式が爆ぜ、白塔そのものが自分の内部を制御しきれず暴れている。
「右からも来る!」
冷花の鋭い声と同時に、氷色の霊気が通路の曲がり角を走った。
這い出してきた半屍人の足元がまとめて凍りつき、その直後に吾妻の斬撃が閃く。
首が飛ぶ。
腕が裂ける。
胴が断たれる。
だが、それでも数が減ったようには見えなかった。
「ちっ……本気でキリがない」
吾妻が吐き捨てる。
返す刃で次の一体を両断しながらも、その声には焦りが混じっていた。
倒した先から別の通路で物音がする。
床の裂け目から白く濁った腕が覗く。
壁際に積もった血と霊気の染みが膨れ、また別の半屍人が形を取り始める。
白神教授は志乃とコウの周囲に展開した防壁を維持しながら、険しい顔で中枢方向を見ていた。
術式光が眼鏡のレンズに反射し、その表情をいっそう冷たく見せている。
だが実際には、その額にははっきりと汗が浮いていた。
「教授!」
志乃が声を上げる。
「分かっている」
白神教授は短く答え、結界の位相を切り替えた。
志乃たちを覆う薄青い防壁が一段濃くなり、飛び込もうとした半屍人の腕が弾かれる。
しかし完全ではない。
何度も衝突を受けた面には細かな亀裂が走り、術式そのものが軋んでいた。
「このままでは保たん。半屍人の発生と流入が増え続けている。防ぐだけでは、いずれ押し潰される」
「じゃあ……下がるしか……」
言いかけた志乃の声を、教授は首を振って断った。
「下がれればそうしている。だが無理だ」
その声音には、希望的観測の入る余地がなかった。
外周通路は霊気逆流で死んでいる。
中継区画も半屍人に食われ始めている。
塔の構造そのものが魔泉道の霊気に引きずられている以上、コウを抱えての撤退など現実的ではない。
分かっていた。
頭では、とっくに。
逃げ道があるなら、もう誰かがそうしている。
それでも口にせずにはいられなかったのは、コウをこの場所に置いたまま戦うことが、あまりにも怖かったからだ。
そのときだった。
通路の奥の空気が、ひどく重く沈んだ。
半屍人たちの動きが、わずかに止まる。
統率されたわけではない。
だが猛獣が上位個体の気配を感じ取ったときのように、群れ全体が一瞬だけ萎縮した。
志乃は顔を上げる。
崩れた柱の向こう。
濁った霊気の靄を押し分けるように、魔泉道がゆっくりと歩いてきた。
その姿は、つい先ほどよりもさらに人から遠ざかっていた。
胸元では白い核が露出し、その周囲を何本もの霊脈が脈打ちながら巡っている。
肩口から背へかけては、腕とも触手ともつかない白い突起が揺らぎ、足元から滲む濁った霊気が床へ染み込むたび、そこから新しい半屍人が這い出していた。
見れば分かる。
あれが中心だ。
あれがいま、白塔を病巣に変えている本体なのだ。
「……なるほど」
魔泉道はコウを見下ろし、静かに言った。
「本格的に沈んだか」
「見るな!」
志乃の声は反射だった。
叫んでから、自分でも喉が焼けるように痛んでいることに気づく。
魔泉道は、その声にわずかに目を細めただけだった。
「まだ吠える力は残っているらしいな」
「コウから離れて」
「なぜだ」
その問いには、本当に分からないという響きしかなかった。
挑発ですらない。
人の感情というものを、最初から計算の外に置いている声音だった。
「彼は鍵だ。沈もうが壊れようが、その価値は消えない」
「価値って言うな!」
志乃はコウを庇うように一歩前へ出る。
「人を壊して、使って、捨てることのどこに価値があるの!」
「壊れるなら、その程度だったというだけだ」
魔泉道は淡々と返した。
「器に足るものだけが次へ進む。研究とは常にそういうものだ」
「ふざけるな」
低く割り込んだのは吾妻だった。
いつの間にか志乃の前へ出て、刀の切っ先を魔泉道へ向けている。
「貴様の理屈は聞いてるだけで反吐が出る」
冷花もまた位置を変え、志乃とコウを背に庇う形で術式を展開した。
氷色の陣が幾つも重なり、半屍人の接近経路を塞いでいく。
「志乃。コウのそばを離れないで」
「でも……」
「今のあんたが前に出ても、できることは少ない」
その言葉は厳しい。
けれど責めてはいなかった。
「だったら、できることをやるのよ」
志乃は息を呑み、拳を握る。
悔しい。
何もできない自分が。
コウを抱えて立っていることしかできない自分が。
でも、それでも今は折れるわけにいかなかった。
白神教授が前へ出る。
その声は鋭く、地下に響いた。
「全員、聞け」
その一言で、この場の意識が集まった。
左右の通路で半屍人を抑えていた相模が振り向く。
その後方では、月砂の戦闘員たちが息を荒げながら陣形を保っていた。
少し離れた瓦礫の上では、クリスが短銃の薬室を確かめながら口の端を上げる。
「我らに指図するというのか?」
さらに別方向では、虺竜文が足元の半屍人の頭蓋を踏み砕き、愉快そうに笑っていた。
「はっ。御託はもういい。斬るか、斬らねえかだろうが」
白神教授は構わず続けた。
「現状を再確認する」
白神は死人をあしらいながら続ける。
「脱出経路は実質消滅した。塔の構造そのものが魔泉道の霊気に侵食されている。半屍人の発生源も、中枢の混線も、すべてあいつを中心に回っている」
教授の指が魔泉道を示す。
「このまま退避を優先しても、逃げ切る前に包囲される可能性が高い。加えて、コウ君は離脱した。鍵としての主戦力も現時点では期待できん」
その一言一言が、現実を容赦なく削り出していく。
志乃は胸の奥が痛むのを感じながらも、目を逸らせなかった。
「結論を言う。方針を切り替える。ここから先の最優先は脱出ではない。魔泉道の討伐だ」
その宣言のあと、一瞬だけ空気が止まった気がした。
逃げるのではなく、倒す。
それはあまりにも明確だった。
そして同時に、退路を捨てることでもあった。
最初に笑ったのは吾妻だった。
「当然そのつもりだ」
冷花は短く息を吐く。
「異論はないわ。もうあれを止めない限り、何も終わらない」
相模も重く頷いた。
「月砂の戦力も動かす。このまま削られるより、核を断つ」
クリスは肩を竦める。
「いいんじゃない。逃げるより早い」
虺竜文は獰猛に笑い、肩に担いだ武器を回した。
「上等だ。あの出来損ない、正面から叩き潰す」
魔泉道は、その反応を前にしても表情をほとんど変えなかった。
「愚かだな」
「愚かで結構」
白神教授は即座に返した。
「少なくとも、お前のように人を素材としか見ない愚行よりはましだ」
魔泉道の胸の核がわずかに脈打つ。
怒りというより、不快なノイズを認識したような反応だった。
教授は続けて指示を飛ばした。
「吾妻は前衛固定。魔泉道本体への圧力を維持してくれ。冷花は半屍人の流入抑制と前衛支援。相模君は月砂の戦力をまとめて左右通路の封鎖を維持。クリス、虺竜文は自由裁量で構わない」
「了解」
相模が即答する。
「ふん。言われるまでもない」
クリスは二挺の銃を構えた。
「おい教授」
虺竜文がにやりと笑う。
「首は獲ったもん勝ちでいいな?」
「それでいい」
そして、白神教授は最後に志乃を見る。
「君はここを動くな」
「……!」
志乃は反射的に顔を上げる。
「でも、私も――」
「駄目だ」
教授ははっきりと言い切った。
「今の君が前へ出れば、コウ君を守る手がなくなる。それに、君には別の役目がある」
「別の、役目……?」
「コウ君を戻す方法を探せ」
その言葉に、志乃は息を止めた。
白神教授はなおも続ける。
「戦況を変える可能性があるとすれば、まだそこだ。我々は魔泉道を削る。君はその間に、わずかでも目を覚まさせる手段を探れ」
「そんなの……」
今すぐ見つかる保証なんてない。
何をどうすればいいのかも、まだ分からない。
それでも。
それでもコウの手に残る温度が、諦めることだけは許さなかった。
志乃は唇を噛み、強く頷く。
「……分かりました」
コウの手を握り直す。
「私、絶対に見つけます」
「それでいい」
その直後だった。
魔泉道の足元から、白く濁った霊気が爆発するように噴き上がる。
来る。
そう思った瞬間には、吾妻が床を蹴っていた。
「散れ!」
先制の斬撃が、真正面から魔泉道の胸元へ叩き込まれる。
凄まじい踏み込みだった。
だが魔泉道は避けない。
背から伸びた白い触手の一本が前へ出て、刀を正面から受け止める。
耳障りな硬音が弾けた。
「硬ぇな……!」
「不死の器を、鉄と同列に見るな」
「だったら砕けるまで斬るだけだ!」
吾妻が二撃、三撃と畳みかける。
同時に冷花の氷鎖が左右から走り、魔泉道の足元と背の触手を拘束した。
「止まりなさい!」
その隙へ、クリスの霊弾が横合いから炸裂する。
「どけ」
爆炎と白煙が通路いっぱいに膨れ上がった。
相模たちがその間に左右の半屍人を押し返す。
だが、煙の奥で白い核が明滅した次の瞬間、弾けた肉片が逆再生のように集まり、魔泉道の身体を元の形へ引き戻した。
「再生してる……!」
志乃が息を呑む。
しかも早い。
先ほど見たときより、明らかに。
拘束を引き千切り、魔泉道の背から新たな触手が生える。
そのうち二本が床に突き刺さった。
するとその場所から、また半屍人が押し出されるように湧き上がる。
「くそっ、増やしながら戦う気かよ!」
吾妻が舌打ちした、その横を黒い影が突っ切った。
虺竜文だ。
「ならまとめて斬るだけだ」
吼えるような声とともに、虺竜文は真正面から魔泉道へ飛び込んだ。
振り下ろされた一撃が白い触手をまとめて叩き割る。
返しの触手が脇腹を裂き、血が飛ぶ。
それでも虺竜文は笑っていた。
「そうだ。その程度じゃ足りねえ。もっと来い、魔泉道!」
「勝手に前へ出ないで」
クリスが吐き捨てる。
だが次の瞬間には、その突撃で生まれた隙へ正確に銃撃を撃ち込んでいた。
「……でも、その線は使う」
冷花は前衛支援と半屍人の抑制を同時に回している。
相模たちも通路を死守していた。
だが数が多すぎる。
一体倒しても、別の裂け目からまた新しい半屍人が這い出してくる。
月砂の戦闘員の一人が組みつかれ、相模が即座に斬って救い出す。
別の一人は壁から伸びた腕に足を取られ、転倒しかけたところを冷花の氷槍がかろうじて救った。
戦線は保っている。
だが押し切れてはいない。
これは防戦だ。
いつ崩れてもおかしくない綱渡りの上で、どうにか持たせているだけにすぎない。
志乃はコウの傍らで、その現実を噛みしめるしかなかった。
前へ出たい。
自分も戦いたい。
でも、今ここを離れたら。
もし次の瞬間、コウに何か変化が起きても、そのそばにいられない。
それだけは駄目だった。
だから周囲を見る。
必死に。
コウを戻せる手掛かり。
白塔の残響。
ひばりの痕跡。
俵屋が残した何か。
何でもいい。
何かひとつでも。
そのとき、魔泉道が大きく両腕を広げた。
胸の核が、これまでで最も強く脈動する。
嫌な予感が、骨の奥から這い上がった。
「全員、防げ!」
白神教授が叫ぶ。
次の瞬間、床と壁と天井の裂け目という裂け目から、半屍人が一斉に噴き出した。
それはもはや“現れる”という量ではなかった。
白塔そのものが腐った肉を吐き出したとしか思えない勢いで、死に損ないの群れが雪崩れ込んでくる。
「なっ……!」
クリスが目を見開く。
月砂の戦闘員たちが迎撃に移るが、数が違いすぎる。
冷花の氷も、吾妻の斬撃も、虺竜文の突撃も、一瞬で圧殺されかねない量だった。
魔泉道はその中心で、静かに、愉しむように告げる。
「見えるか。これが新しい循環だ」
半屍人たちが、うめきながらにじり寄る。
生者でも死者でもない、失敗したまま動き続ける軍勢。
白塔の歪みそのものが形を持って迫ってくるようだった。
志乃はコウを庇うように立ち上がる。
膝は震えていた。
喉も乾いていた。
怖くて仕方がなかった。
それでも、ここで目を逸らしたら本当に終わる。
魔泉道はそんな志乃を見下ろし、薄く笑った。
「ここで全員、素材になれ」




