沈む鍵
コウの身体は、驚くほど静かだった。
志乃の腕の中にいるのに、どこか遠くへ行ってしまったような静けさだった。
呼吸はある。
鼓動も、まだ消えていない。
それなのに、名前を呼んでも返事がない。
「……コウ」
もう一度、呼ぶ。
瞼は閉じたまま。
肩を揺らしても、指先に触れても、反応は返ってこない。
ついさっきまで、苦しそうでもちゃんとそこにいたはずなのに。白塔の光に呑まれかけながら、それでも志乃を見て、言葉を返していたはずなのに。
いまのコウは、まるで中身だけが深い水底へ沈んでしまったようだった。
白塔の地下ではなお、半屍人たちの咆哮が響いている。
吾妻の刀が閃く音。
冷花の霊気が炸裂する音。
崩れる石材。
防衛機構の暴走音。
その全部がすぐ近くにあるのに、志乃の意識はどうしてもコウから離れなかった。
「コウ、聞こえるよね……?」
返事はない。
白神教授が防壁の術式を広げながら、鋭く周囲を見渡していた。
半屍人の波を完全に止めることはできない。
だが、志乃とコウのいる一角だけでも押し潰されないよう、最低限の空間は確保している。
その額には、すでに濃い汗が浮いていた。
「志乃」
低い声で呼ばれ、志乃は顔を上げる。
「教授……」
「コウを地面へ寝かせろ。状態をもう一度見る」
志乃は頷き、慎重にコウを床へ横たえる。
だが白塔の床は冷たい。こんなところへ寝かせたくないという感情が、どうしても胸に刺さる。
白神教授はコウの額、胸元、喉元へ順に手を当て、霊気の流れを探るように目を閉じた。
数秒。
その沈黙がひどく長く感じられる。
やがて教授は、険しい顔のまま息を吐いた。
「やはり、閉じ始めている」
「閉じるって……」
志乃の声が掠れる。
白神教授はすぐに説明した。
今の状況では、一秒でも早く理解しなければならないと分かっているからだろう。
「コウは白塔との接続で、霊気構造を開きすぎた。普通の人間ならとっくに崩壊していておかしくないほど深くな」
教授の手元に、薄い術式の図が浮かぶ。
コウの胸元から、幾本もの線が外へ伸び、それが白塔の中枢方向へつながっているように見えた。
「ところが限界を超えた結果、身体が自己保存に入った。これ以上、外から流れ込めば完全に壊れると判断して、今度は逆に“閉じる”方向へ動き始めている」
「それって……守ろうとしてるってことですか」
「そうだ。だが、守ることと戻ってこられることは別だ」
その言葉が、志乃の胸を重く打つ。
コウの身体は今、壊れないために閉じている。
けれどそのまま深く閉じきってしまえば、目覚めるための回路まで塞がれてしまう。
「……起きられなくなる」
志乃が呟くと、白神教授は短く頷いた。
「可能性は高い」
「そんなの……!」
叫びかけた瞬間、前方の防壁が半屍人の群れに叩かれてひび割れる。
吾妻が即座にそこへ飛び込み、二体まとめて首を落とした。
だが倒しきれない。切断された身体の一部がまだ床を這い、再生の糸を伸ばしている。
「白神! 長くは持たん!」
「分かっている!」
白神教授が苛立ちを露わにしながらも、術式を組み替える。
冷花が振り返り、志乃の顔を見る。
いつもより少しだけ荒い呼吸。
それでも、彼女の目にはまだ戦う光があった。
「志乃」
「……うん」
「コウ、絶対戻して」
短い言葉だった。
けれどその一言に、今この場の全てが詰まっていた。
戻す。
それしかない。
志乃はコウの手を握り締める。
冷たいわけじゃない。
ちゃんと生きている温度がある。
だからこそ、失いたくない。
「コウ」
囁くように、もう一度呼ぶ。
「起きて。お願い……」
そのときだった。
コウの身体が、かすかに震えた。
「!」
志乃が息を呑む。
だが、目は開かない。
代わりに、彼の胸元に浮かんでいた白い紋様が、弱く明滅した。
白神教授が鋭く反応する。
「白塔の残留接続がまだ残っている……!」
「残ってるなら、そこから戻せないんですか!」
「下手に触れば逆に深く沈む!」
教授の返答は厳しかった。
「今のコウは、開ききった扉を無理やり閉じようとしている最中だ。外からこじ開ければ、自己保存の反発でさらに内へ落ちる可能性がある」
志乃は言葉を失う。
触れたい。
呼びたい。
引き戻したい。
でも、その全部が逆効果になるかもしれない。
どうすればいいのか分からない。
その無力感を突き刺すように、魔泉道の声が地下に響いた。
「鍵が沈んだか」
志乃は反射的に顔を上げる。
魔泉道は、半屍人たちの向こう側で静かに立っていた。
周囲には、彼から流れ出した不死の力の残滓がまだ濁流のように渦巻いている。白い器と中枢へ手を伸ばしながら、それでも同時にこの場全体へ意識を配っているらしかった。
「想定より脆いな、虚西コウ」
その言葉に、志乃の中で何かが切れそうになる。
「黙って……!」
「だが、便利ではあった」
魔泉道は続ける。
「白塔を起こし、戸塚ひばりの残響を揺らし、俵屋の執念を引きずり出した。役目としては十分果たしたと言える」
「やめろ!」
志乃は立ち上がりかける。
だがコウを置いて前へ出ることができない。
その一瞬の躊躇が、余計に自分を苛立たせた。
「コウは道具じゃない!」
「違うのか?」
魔泉道の問いは、相変わらず冷たい。
「少なくとも白塔は、彼を鍵として認識している。使われる価値のある存在は、使われる」
「価値って……!」
「お前も見ただろう」
その言葉に、志乃の胸がきつく締まる。
俵屋の記憶。
ひばりの過去。
白塔の春。
魔泉道はその全部を知ったうえで、なお平然と“使う”と言っている。
「そんなもの、価値じゃない」
志乃は歯を食いしばった。
「壊れるまで使って、使い終わったら捨てるだけの考え方に、価値なんて言葉を使うな!」
魔泉道は、ほんの少しだけ目を細めた。
怒ったわけではない。
むしろ、興味を持ったように見えた。
「なら、お前は彼をどうする」
「助ける」
即答だった。
「戻す。絶対に」
「そうか」
魔泉道はそれ以上何も言わなかった。
だがその沈黙には、明らかな嘲りがあった。
やれるものならやってみろ。
そう言われた気がした。
その直後、さらに多くの半屍人が別の通路から流れ込む。
「右も来た!」
冷花が叫ぶ。
吾妻が前衛を維持しているが、押し返すだけで精一杯だ。
クリスの影も、虺竜文の凶器群も、完全には追いついていない。
白神教授が結界を再構成しながら、低く志乃へ言う。
「ここに留まる以上、コウを守りながら戦うしかない。だが、このままでは持たん」
「……分かってます」
「分かっているなら、決めろ」
教授の声は厳しかった。
「戦うのか、コウを抱えて撤退を試みるのか。どちらにしても中途半端が一番危険だ」
志乃は唇を噛む。
撤退。
できるならしたい。
コウを連れて、少しでも安全な場所へ。
だが白塔の構造は崩れている。脱出経路もない。途中で半屍人に囲まれれば、それこそ終わりだ。
戦う。
でも、コウをこの場に置いたまま?
そんなの怖すぎる。
一瞬目を離しただけで、何が起こるか分からない。
選べない。
そう思ったとき、コウの手がほんの少しだけ、志乃の指の中で動いた気がした。
「……コウ?」
気のせいかもしれない。
本当にごく僅かな反応。
けれど志乃は、それでもその微かな変化にしがみつきたかった。
まだ完全には閉じきっていない。
まだ、どこかで届くかもしれない。
「先生」
志乃は顔を上げた。
「コウを起こせる方法、絶対どこかにありますよね」
白神教授は即答しなかった。
だが、否定もしなかった。
「ゼロとは言わん」
「なら探します」
「志乃」
「このまま諦めるのは嫌です」
その声は震えていた。
怖いからだ。
泣きたくなるくらい怖い。
でも、それでも言わなければならなかった。
「コウは、ここで終わる人じゃない」
その言葉に、自分自身が少しだけ支えられるのを感じた。
白神教授は短く息を吐く。
「……なら、わずかな可能性でも拾うしかないな」
その瞬間、地下全体が再び大きく鳴動した。
魔泉道の不死の力がさらに溢れ、白塔中枢へ流れ込む。
それに呼応して、新たな半屍人の叫びが遠くから幾重にも重なった。
白塔全域が、もはや一つの病巣のようだった。
志乃はコウの手を握りしめたまま、心の中で繰り返す。
起きて。
起きて。
まだ、終わってない。
絶対に、終わらせない。
だが現実は容赦がない。
コウの瞼は閉じたまま。
半屍人は増え続ける。
白塔は崩れ続ける。
魔泉道は強くなり続ける。
鍵は、深く沈み始めていた。




