崩壊の塔
白塔は、内側から壊れ始めていた。
半屍人が生まれたことで混乱が広がっている――そんな生易しい段階では、もうない。
塔そのものの構造が、不死の暴走と中枢の歪みに耐えきれず、少しずつ“本来の役割”を忘れ始めているのだ。
志乃は気を失ったコウを支えながら、その異常を肌で感じていた。
床が揺れる。
だがただの振動ではない。
一瞬前までそこにあった段差が消え、逆に何もなかったところから光の壁が立ち上がる。
通路の奥行きが歪み、広かったはずの空間が急に狭く感じられ、次の瞬間には遠くなる。
「空間が……おかしい」
冷花が半屍人を蹴り飛ばしながら叫ぶ。
「さっきから構造が変わってる!」
「変わっているんじゃない」
白神教授が、術式の陣を展開しながら低く答えた。
「保てなくなっているんだ。白塔の内的構造そのものが、魔泉道の力と中枢の歪みに引きずられて不安定化している」
教授の声にも余裕はなかった。
半屍人の波を捌くだけでなく、常に変化する白塔の構造を観測し、仲間たちへ指示を飛ばし続けている。明らかに酷使だった。
吾妻が刀を振るい、飛びかかってきた半屍人の首と胴を同時に断つ。
切断面から再生の光が伸びるより早く、返す刃でその霊気核を貫き、ようやく動きを止めた。
「数が減らん!」
その怒声の直後、地下通路の奥でまた別の咆哮が上がる。
増えている。
間違いなく。
魔泉道の足元から直接生まれているものもあれば、白塔に蓄積された霊気と、過去の実験で残された“何か”が反応し、各所で勝手に変質しているものもある。
死体があった場所だけではない。瀕死の術者、砕けた霊気回路、断絶した防衛機構、そのすべてが半屍人の発生源になりかけていた。
「こんなの、塔の中全部が培養槽じゃない……!」
冷花の吐き捨てるような言葉に、誰も反論できない。
クリス・レイシアがレイピアで半屍人の胸を貫き、背後の影がそれを喰らう。
だが彼女も眉を寄せたまま、低く言う。
「このままだとジリ貧だな」
その言葉に月砂の副長・相模が反応する。
「ええ、この場を離れるべきですが――」
「離れられない」
少し離れたところで白神教授が否定する。
その声音があまりにも断定的で、志乃は顔を上げた。
「先生……」
白神教授は地下空間を見渡す。
浮かび上がる光の壁。
閉じていく通路。
不規則に噛み合い始めた防衛機構。
中枢に近いほど濃くなる魔泉道の霊気。
「脱出経路はほぼ死んだ」
教授は短く言った。
「通常ルートは構造変異で閉じられている。非常用導線も、中枢側の主導権が魔泉道へ寄ったことで機能保証が消えた。運よく上へ出られても、途中で塔ごと折り畳まれる可能性がある」
その言葉が、場に重く落ちる。
脱出できない。
それは誰もが薄々感じていたことだった。
だが、白神教授の口から明言されたことで、現実として突きつけられる。
吾妻が低く問う。
「つまり」
「魔泉道を止めない限り、ここから生きて出る道はない」
志乃の背筋を冷たいものが走る。
目の前の半屍人。
崩壊し続ける白塔。
気を失ったコウ。
そして、白塔の主であるかのように立つ魔泉道。
逃げるという選択肢が、本当に消えたのだ。
魔泉道はその会話を聞いていたのか、わずかに笑った。
「ようやく理解したか」
彼の周囲ではなお、白い器と白塔中枢、不死の力が混ざり合い、不気味な循環を生み出している。
安定しきっているわけではない。
だが、その不安定さごと支配下へ置こうとしているのが、何より恐ろしかった。
「この塔はもはや建造物ではない」
魔泉道は静かに告げる。
「私の霊気と中枢が繋がった以上、白塔そのものが私の延長となる。通路も、壁も、防衛機構も、集積系も、すべて私の意思の影響下へ入る」
「ふざけないで」
志乃はコウを支えたまま、鋭く睨む。
「白塔は、あんたのものじゃない」
「今はそうなりつつある」
魔泉道の返答はあまりにも落ち着いていた。
それが、逆に現実味を持ってしまう。
白塔の変異は、偶然の崩壊ではない。
中枢の主導権が再編され、塔の各機能が魔泉道の霊気構造へ同期し始めている。
このまま進めば、塔全体が本当に“魔泉道の身体の延長”のようなものになるかもしれない。
白神教授も、それを理解していたのだろう。
「まずいな……」
その呟きに、志乃は反応する。
「何がですか」
「魔泉道が強くなっている、というだけならまだ対処の余地はある」
教授は険しい目で中枢と壁面の紋様を見比べながら続けた。
「だが、白塔そのものが“彼の霊気の器官”へ変わり始めているなら話は別だ。そうなれば、我々は塔の中で魔泉道一人を相手にしているのではなく、塔全体を相手にすることになる」
塔全体。
志乃は思わず周囲を見る。
歪む壁。
生まれ続ける半屍人。
通路を封じる光。
足場すら信用できない床。
それはもう十分、敵だった。
そのとき、志乃の腕の中でコウの身体が小さく震えた。
「コウ!」
だが、目は開かない。
呼吸はある。
命はまだつながっている。
それでも明らかに、霊気が薄い。
白塔と深く接続しすぎた反動で、彼自身の“輪郭”が希薄になっているようだった。
白神教授が素早く膝をつき、コウの額へ手を当てる。
その表情がさらに険しくなる。
「……よくない」
「助かるんですよね!?」
志乃の声が震える。
教授は即答しなかった。
そのわずかな沈黙が、何より怖い。
「命の火は残っている」
やがて、白神教授は慎重に言った。
「だが、このままでは霊気構造が閉じる。白塔との接続で開かれすぎた状態から、今度は逆に自己保存のために内側へ閉じてしまうんだ」
「閉じるって……」
「目を覚まさなくなる可能性がある」
志乃の頭が一瞬真っ白になる。
覚まさなくなる。
それがどれほど恐ろしい言葉か、説明されなくても分かる。
死んではいない。
でも戻ってこない。
呼びかけても届かない。
そういう意味だ。
「そんなの……」
志乃はコウの肩を強く抱き寄せた。
「絶対、だめ」
返事はない。
コウはただ静かに目を閉じている。
さっきまで、あんなに苦しそうでも立っていたのに。
志乃の名を呼んでいたのに。
それが今は、白塔の騒音から切り離されたみたいに静かすぎて、余計に不安を煽った。
その瞬間、通路の奥から新たな半屍人の群れがなだれ込んでくる。
「来るぞ!」
吾妻が叫び、前へ出る。
冷花も続き、クリスと虺竜文がそれぞれ別方向の侵入路を潰しに動く。
戦線が押し広げられる。
白神教授は志乃へ低く言った。
「今のコウを連れて無理に移動すれば、かえって危険だ。この場で最低限の防壁を作る」
「でも、ここも危ない!」
「どこへ行っても危ない」
その言葉は残酷だったが、正しかった。
白塔の内部はもう、どこにも安全地帯がない。
逃げた先の通路が次の瞬間に消え、遮断され、半屍人の発生源になる可能性すらある。
つまり、今できることは限られている。
耐えること。
見極めること。
そして、魔泉道を止める方法を探すこと。
冷花が半屍人の頭部を吹き飛ばしながら叫ぶ。
「白神先生! これ、マジでキリがない!」
「分かっている!」
白神教授も術式を放ちながら応じる。
「中枢との接続を断つか、魔泉道の循環を止めるしかない!」
「要するに本人を止めろってことでしょ!」
その通りだった。
脱出は不可能。
防衛だけでは消耗する。
半屍人は増え続ける。
コウは意識を失った。
残る答えは、一つしかない。
志乃はコウの髪に触れながら、ゆっくりと顔を上げた。
魔泉道は、半屍人の向こうでなお静かに立っている。
周囲の混乱すら、彼にとっては実験の延長にすぎないのだろう。
「……倒すしかないんだ」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
白神教授がちらりと志乃を見る。
その目に、わずかな確認の色があった。
「そうだ」
「逃げるんじゃなくて」
「もう、それでは遅い」
志乃は小さく息を吐く。
怖い。
怖くないわけがない。
コウは眠ったまま。
白塔は崩れていく。
仲間たちもいつまで持つか分からない。
それでも、ここで決めるしかない。
「……分かりました」
その一言を口にした瞬間、自分の中で何かが定まるのを感じた。
もう巻き込まれる側ではいられない。
魔泉道が作り出したこの崩壊を止める側に立たなければならない。
そのとき、白塔の奥から、ひばりの声がまた微かに響いた。
「志乃……」
弱い。
今にも消えそうだ。
けれど、その声だけが唯一、今の白塔の中で人間の願いを保っているように感じられた。
「まだ……選べます」
志乃は目を閉じ、短く頷いた。
選ぶ。
逃げるのではなく、止めることを。
守るのではなく、倒すことを。
目を開けたとき、彼女の表情はもう少しだけ硬くなっていた。
「先生」
「何だ」
「コウは、私が守ります」
白神教授は一瞬だけ志乃を見て、それから短く頷く。
「なら私は、魔泉道を止めるための筋道を探る」
吾妻が前線から低く言う。
「話はまとまったか」
「はい」
志乃はコウを抱え直し、魔泉道を見据える。
「ここで、あいつを倒します」
その言葉を聞いた魔泉道が、遠くでかすかに笑った気がした。
嘲りか、歓迎か。
分からない。
ただ、崩壊していく白塔の中で、戦いの意味だけははっきりした。
ここから先は、生きて出るための戦いではない。
魔泉道を止めるための戦いだ。
そしてその決断の代償が、どれほど大きいものになるかを、まだ誰も知らなかった。




