不死を継ぐ者
志乃が現実へ引き戻された瞬間、白塔の地下は再び轟音に呑まれた。
記憶の中では遠かった崩壊の音が、今はすぐ耳元で唸っている。
床下の儀式装置は軋み、壁面の紋様は赤黒く明滅し、空間のあちこちに生まれた裂け目から白い光と黒い靄が交互に噴き出していた。
息が苦しい。
肺の奥まで、濃すぎる霊気が入り込んでくる。
けれど志乃は、そんなことに意識を割けなかった。
目の前で、俵屋が崩れていたからだ。
腹を貫かれた傷口を中心に走っていた白い亀裂は、いまや全身へ達している。肩から腕へ、頬から首へ、胸から脚へ。ひび割れた器が限界を超えて砕け始めるように、彼の身体は光の粒子を零しながら少しずつ輪郭を失っていった。
それでも俵屋は、まだ立っていた。
奇跡のような執念だった。
膝は震え、呼吸は途切れ途切れで、もはや自分の意思で肉体を繋ぎ止めているのか、不死の力に無理やり立たされているのかさえ分からない。
それでも彼は倒れきれない。
「……俵屋」
志乃が掠れた声で呼ぶ。
その声が届いたのかは分からない。
俵屋の目は焦点を失いかけている。だが、その奥にはまだ消えきらない何かが残っていた。
執着。
悔恨。
あるいは、最後まで手放せなかった名前。
魔泉道はそんな彼を見下ろしていた。
胸を刺し貫かれたはずの傷は、先ほどまでの不格好な再生とは明らかに様子が違っていた。
人工不死によって歪につなぎ止められていた肉体へ、俵屋が奪い損ねた本物の不死の力が、いま再び流れ込み始めている。
血はまだついている。
衣服の裂け目も残っている。
だが、その内側――傷口の奥で、肉と霊気の構造そのものが組み替わり始めていた。
「やはり、お前には過ぎた力だったな」
魔泉道が静かに言う。
その声に、先ほどまでの苛立ちはない。
あるのは、失いかけた成果をついに取り戻しつつある者の冷たい確信だけだった。
俵屋がかすかに顔を上げる。
「……まだ、終わっていない」
血の混じった、ひどく掠れた声だった。
だがその一言に、今の俵屋のすべてが詰まっていた。
終われない。
ひばりを取り戻せていない。
白塔の悲劇も、魔泉道も、何一つ止められていない。
ここで終わるわけにはいかない。
その執念だけで、彼はまだ立っている。
魔泉道は、わずかに首を傾けた。
「終わっているさ」
そして一歩、俵屋へ近づく。
「お前は奪うことしかできなかった。私は違う。私は最初から、失敗も裏切りも、崩壊すら織り込んでここまで来た」
その言葉は傲慢でありながら、同時に事実でもあった。
俵屋は魔泉道を出し抜いたつもりだった。
だが魔泉道は、俵屋に奪わせることまで含めて想定していた。
人工不死という不完全な保険を自らの肉体へ施し、一度殺されてもなお立ち上がる準備を整えていた。
志乃はその異様さに、改めて戦慄する。
俵屋は狂っていた。
だが魔泉道は、それ以上だ。
他人の執着も裏切りも、自分が死ぬことさえも、すべて研究の工程へ組み込んでいる。
白神教授が低く吐き捨てる。
「最悪の相手に、最悪の力が戻る……」
冷花も歯を食いしばる。
「止めないと……!」
だが誰も、すぐには踏み込めない。
俵屋と魔泉道のあいだには、まだ不死の力の流れが絡みついていた。
下手に断てば、中枢ごと暴発しかねない。
白塔は依然として暴走中で、空間のあちこちから防衛機構の光刃が飛び、床も壁も安全ではない。
虚西コウは膝をついたまま、その流れを見ていた。
彼の瞳には、表面の戦いではなく、その奥で組み替わっていく霊気構造そのものが映っている。
「……戻ってる」
「コウ、何が見える!」
志乃が叫ぶ。
虚西は苦しげに息をつきながら、それでも答えた。
「俵屋の中で暴れてた流れが、魔泉道のほうへ……吸われてる。今度は、無理やりじゃない。あいつ、自分の人工不死の回路を土台にして、本物の不死を噛み合わせてる」
白神教授の顔色が変わる。
「土台に……!」
「俵屋みたいに、一気に全部を飲み込んだんじゃない。最初から“受ける場所”を自分の中に作ってたんだ……!」
その説明に、場の空気がさらに重くなる。
俵屋は完成した力を奪った。
だから器が追いつかなかった。
だが魔泉道は違う。
粗悪でも、不完全でも、あらかじめ人工不死を自分へ施していた。
死の境界を曖昧にし、再生に近い現象を受け入れる土台だけは準備していたのだ。
それはまだ完成体ではない。
だが、俵屋よりはるかに“馴染む”。
「そんなの……」
志乃の喉が詰まる。
「最初から、自分が受け取るつもりで……」
「当然だ」
魔泉道が彼女へ顔を向けた。
「成果とは、最終的にもっとも理解している者の手にあるべきだ」
その言葉に、志乃の中で怒りが沸騰する。
「理解してるって……!」
「しているとも」
魔泉道は平然と言った。
「白塔を、戸塚ひばりを、不老不死の理論を、誰よりもだ」
その名が出た瞬間、俵屋の身体がぴくりと震えた。
「……その名を」
「何だ」
「その名を……お前が使うな」
低い。
だが確かな怒気がそこにはあった。
俵屋の目に、最後の火が灯る。
崩れかけた腕を持ち上げる。
ひび割れた指先に黒い霊気が集まり、途切れかけたままなお魔泉道へ伸びようとする。
「まだ……返してもらっていない」
その言葉に、志乃の胸が強く痛む。
返してもらう。
それがこの男の人生をここまで引きずってきたたった一つの執念だった。
魔泉道は、ほんのわずかに目を細めた。
「返す?」
次の瞬間、彼は俵屋の腹を貫いていた刃を、一気に引き抜いた。
「――っ!」
俵屋の身体が大きく仰け反る。
傷口から血とともに白い光が噴き出し、その全身を走っていた不死の残滓が一斉に乱れる。
崩壊が加速する。
「返すも何も、最初からお前のものではない」
魔泉道はそう言って、今度は空いた手を俵屋の胸へ押し当てた。
白く濁った霊気が、そこから深く食い込む。
「やめろ!」
志乃が叫ぶ。
吾妻が踏み込もうとし、冷花も前へ出る。
だが白神教授が叫んだ。
「待て! いま割り込めば流れが弾ける!」
その一瞬の逡巡が、致命的だった。
魔泉道の掌から伸びた霊気は、俵屋の胸の奥に残っていた最後の不死の残滓へ触れる。
そして、まるで根を抜くように、それを自分の内へ引き剥がし始めた。
俵屋の瞳が見開かれる。
「が……っ」
それは、肉体の痛みだけではない。
長い年月をかけて掴もうとし続けたもの、ひばりへ届く最後の可能性だと信じたものを、今まさに奪い返されている痛みだった。
志乃はその感覚まで流れ込んできて、思わずその場で息を呑む。
無理だ。
苦しすぎる。
こんな終わり方は、あまりにも残酷だ。
俵屋の口元が震える。
何かを言おうとしている。
ひばりの名かもしれない。
呪いかもしれない。
謝罪かもしれない。
けれど声になる前に、彼の胸から白い光が引き抜かれる。
その瞬間、魔泉道の傷口が、大きく脈打った。
今までの人工不死の再生とは明らかに違う。
歪な縫合ではない。
肉が、骨が、霊気の流れが、本来そうあるべき構造へ滑らかに戻っていく。
裂けていた胸部の傷がみるみる塞がる。
血に濡れていた皮膚が新しく生まれ変わる。
不自然な濁りが消え、魔泉道の全身を巡る霊気が、初めて安定したひとつの循環を描き始めた。
白神教授の顔から血の気が引く。
「……安定した」
その一言が、地下に落ちる。
終わったのだ。
俵屋が奪い損ねた力。
不完全な人工不死では届かなかった“その先”。
それがいま、魔泉道の中で噛み合ってしまった。
「は、はは……」
魔泉道が、低く笑う。
その笑いはこれまでよりずっと静かだった。
だからこそ恐ろしい。
自分の中で、長年追い求めてきた理論が手応えを持った。
その確信だけが、淡々と声に滲んでいる。
「なるほど……」
彼はゆっくりと手を開き、閉じる。
その掌の動きひとつで、周囲の霊気が従うように揺れる。
「これが、本物か」
志乃の背筋に寒気が走る。
俵屋の身体が、ついに支えを失って崩れ落ちる。
膝から。
次に肩。
そして全身。
倒れたというより、砕けたというほうが近かった。
肉体の輪郭を保てなくなった部分から、白い粒子となって零れ落ちていく。
「俵屋!」
志乃が叫ぶ。
その声に反応したのか、俵屋の顔がほんの少しだけこちらへ向いた。
だがもう焦点はない。
それでも、唇だけがかすかに動く。
志乃には、その形が分かった。
――ひばり。
胸が締めつけられる。
最後まで。
本当に最後の最後まで、この男の中にあったのはその名だけだった。
助けられなかった。
取り戻せなかった。
春へ戻れなかった。
それでも忘れなかった。
その執着だけを残して、俵屋は崩れていく。
志乃の目から、また涙が溢れた。
許せない。
でも、見捨てきれない。
哀れだ。
でも、それだけでは終われない。
この章ずっと自分を振り回し続けた男が、今やただの敗者として消えようとしている。
それがあまりにも空しくて、あまりにも痛かった。
その一方で、魔泉道は完全に立ち上がっていた。
もう、先ほどまでの“死に損ない”ではない。
衣服は血に濡れたままだが、肉体は傷を失い、霊気の流れは途切れず、白塔中枢との干渉力も明らかに増している。
彼は視線を白い器へ向けた。
その目には、再び戸塚ひばりすら素材としてしか見ていない冷たい光が宿っている。
「ようやく、ここからだ」
その声に、白塔の紋様が応えるように明滅する。
志乃は顔を上げた。
最悪だ。
俵屋の悲劇を知った直後に、そのすべてを踏み越えて魔泉道がなお立つ。
ひばりを奪った男が、ひばりを核にした不死の力をさらに手にして前へ進もうとしている。
絶望的だった。
だが、そこで終わるわけにはいかない。
志乃は涙を拭い、崩れ落ちる俵屋から視線を外さず、低く息を吐いた。
ひばりの声。
俵屋の過去。
コウの言葉。
全部がまだ、自分の中に残っている。
そして魔泉道は、いま確かに“不死を継いだ者”としてそこに立っていた。




