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ロストテクノロジーは誰のためにあるのか  作者: 維岡 真
第1章 ”零を探せ” 第9節 夢

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夢の終わり

記憶の景色が、ゆっくりと崩れ始める。


白塔を遠くに望む夜の窓。

机に手をついた俵屋の背中。

「もう戻れない」と呟いた、あの低い声。


そのすべてが水面に映る像のように揺れ、輪郭を失っていく。


志乃はその場に立ち尽くしていた。

いや、立っているという感覚すら曖昧だった。

俵屋の記憶の中をずっと歩いてきたせいで、自分の身体の境目が薄くなっている。胸の奥に残っているのは、自分の感情だけではない。俵屋の後悔も、焦燥も、怒りも、諦めも、まだべったりと貼りついたままだった。


苦しい。


ただ悲しいだけなら、まだよかった。

哀れだと思えたなら、まだ楽だった。

けれど志乃の中には、それだけでは済まない感情が渦巻いていた。


利用されたことへの怒り。

ひばりを救いたいという俵屋の願いへの理解。

そのために他人を巻き込み、傷つけ、怪物の側へ自分から堕ちていったことへの嫌悪。

それでも最後までひばりを忘れなかった、その執着への痛ましさ。


どれか一つに決められない。

どれか一つだけでは、俵屋という人間を説明できない。


「……最低」


ぽつりと、志乃の口から言葉が漏れた。


誰に向けてでもない。

俵屋へ向けた言葉でもあり、自分の中に芽生えてしまった同情への悪態でもあった。


最低だ。


利用した。

騙した。

巻き込んだ。

ひばりを救うためという理由で、きっと多くの人を見捨てた。


なのに、どうして完全には嫌いになれないのか。


その答えは、もう見てしまったからだった。


白塔の春。

研究に目を輝かせるひばり。

その隣で、少し不器用に彼女を気にかけていた若い俵屋。

あの時間が嘘ではなかったと知ってしまったから、後の冷酷さだけを切り離して憎むことができない。


志乃は目を閉じる。


まぶたの裏に浮かぶのは、ひばりの最後の視線だ。


助けて、ではなかった。

生きて。

見届けて。

忘れないで。


あの願いを真正面から受け取ってしまった人間が、正気のままでいられるだろうか。

そう考えた瞬間、胸の奥がひどく痛んだ。


「……だからって」


志乃は、小さく首を振る。


「だからって、何をしてもいいわけじゃない」


その言葉は、俵屋にも、自分自身にも向けたものだった。


理解できることと、許せることは違う。

痛みを知ったからといって、加害が消えるわけじゃない。

ひばりを取り戻したいという願いが本物でも、そのために巻き込まれた人たちの痛みまで帳消しにはならない。


それでも。


それでも俵屋は、ただの怪物ではなかった。


その事実が、志乃には何より重かった。


記憶の景色がさらに崩れる。


白塔の廊下が溶ける。

会議室の長机が薄れていく。

ひばりの白衣の裾が光の粒になって消える。

俵屋の視界そのものが、限界を迎えていた。


もう終わる。


俵屋の中に押し込められていた過去は、ここまでだ。

この先には、もはや鮮明な記録ではなく、擦り切れた執念と、長い年月の中で歪んだ残滓しか残っていないのだろう。


その最後の淵で、志乃は俵屋の“今”に触れる。


崩れかけた現在の俵屋だ。


腹を貫かれ、不死の力に肉体を蝕まれ、魔泉道に出し抜かれ、なおも倒れきれずにいる男。

その意識の底に、最後まで残っていたのは、結局たった一つの想いだった。


――ひばり。


名を呼ぶだけで、胸が壊れそうになる。

会いたい。

戻したい。

せめて終わらせたい。

いや、終わらせるでは足りない。

あの春を取り戻したい。

そんな、不可能だと分かりきっている願いが、何層にも重なって沈んでいる。


志乃はその感情をまともに受けて、ついに膝をついた。


「っ……」


涙がこぼれる。

自分の涙なのか、俵屋の中に残っていたものなのか、もう分からなかった。


悔しかった。


ひばりが。

俵屋が。

白塔が。

魔泉道が。

何もかもが、あまりにも取り返しのつかないところまで来てしまっていることが。


もっと前に止められたんじゃないか。

もっと違う手があったんじゃないか。

そんなことを、過去の記憶に向かって考えても意味はない。意味はないのに、それでもそう思わずにいられなかった。


そのとき、崩れゆく記憶の向こうで、俵屋が志乃のほうを見た気がした。


もちろん、実際に見ているはずはない。

これはもう終わりかけた記録の残響だ。

けれど確かに、その視線は志乃へ向けられているように感じられた。


ひどく疲れた目だった。

冷たい策士の目ではない。

何年も立ち続けた末に、ようやく自分がどこで壊れたのかを見てしまった人間の目だった。


志乃は涙で滲む視界のまま、その虚像へ言う。


「……遅いよ」


責める声だった。

優しくはなれなかった。


「遅すぎる」


何もかも。

気づくのも。

謝るのも。

止まるのも。

崩れるのも。

全部が遅すぎた。


俵屋は答えない。

だがその沈黙の中に、否定はなかった。


遅かったのだ。

本当に、どうしようもないほど。


記憶の空間が、ついに限界を迎える。


白い光が満ち、過去の景色が音もなく砕けていく。

ひばりの笑い声。

若い俵屋の短い返事。

白塔の春の匂い。

魔泉道の冷たい声。

ひばりを連れ去る足音。

中枢へ接続される瞬間の、あの耐え難い静けさ。


すべてが流れ去っていく。


その最後に、ひとつだけ、はっきりと残るものがあった。


ひばりの声だ。


白塔の奥で聞こえていたあの声と、まったく同じ声が、今度は穏やかに、だが深く志乃へ届く。


「ありがとう」


志乃の目が見開かれる。


これは俵屋の記憶ではない。

ひばり自身の残響だ。

俵屋の中に長く残っていた彼女の痕跡が、最後に志乃へ触れたのだ。


「あなたは、見てくれた」


優しい声だった。

苦しみに歪んだ現在の声ではない。

まだ人として笑えた頃の、戸塚ひばりの声。


志乃は震える唇で答える。


「見たくなんかなかったよ……」


それが本音だった。


こんな悲劇、知りたくなかった。

俵屋の理由なんて、知らないまま憎めたほうが楽だった。

ひばりの過去なんて、知らないまま“助けなきゃいけない人”として思っていたほうがずっと簡単だった。


でも見てしまった。

知ってしまった。


だからもう、後戻りはできない。


ひばりの声は、どこか哀しそうに、それでも少しだけ安堵したように続く。


「それでも、見てくれた」


その言葉に、志乃は涙を拭うことも忘れて俯いた。


見届ける。

それが俵屋に託された言葉だった。

そして今、その一部が志乃にも渡されてしまったのだ。


「私、どうしたらいいの」


思わず漏れた問いに、返事はすぐには来なかった。


ただ、ひばりの気配がふっと近づく。


「選んで」


その一言だけが、はっきりと届く。


「終わらせるのか。つなぐのか。救うのか。……あなたが、選んで」


選ぶ。


その言葉は重かった。

けれど同時に、志乃の中にひとつの芯を落とした。


俵屋は選びきれなかった。

救うために加担し、取り戻すために汚れ、終わらせることも戻すこともできないまま、ここまで来てしまった。


なら、自分は選ばなければならない。


ひばりをどうするのか。

コウをどうするのか。

白塔の悲劇を、どこで断ち切るのか。


その決意が形になると同時に、記憶の世界が完全に崩壊した。


光が弾ける。

床が消える。

声が遠ざかる。


そして志乃の意識は、一気に現実へ引き戻された。


「……っ!」


肺が空気を求めて痛む。

重い霊気。

地下の焦げた匂い。

白塔の暴走音。

床を揺らす振動。


現実だ。


白塔の地下。

崩壊しかけた儀式空間。

目の前では、俵屋の身体が本当に限界を迎えていた。


腹を貫かれたまま立っていたその肉体が、ついに支えを失い始める。

白い亀裂は全身へ広がり、肩口から腕へ、頬から首へと光の粒子になって崩れ落ちていく。


「俵屋……」


志乃はかすれた声でその名を呼んだ。


もう、あの冷たい策士には見えなかった。

そこにいるのは、ひばりを救えなかった過去に何十年も潰され続けた、一人の男だけだった。


俵屋の目が、かすかに動く。


焦点は合っていない。

だが最後の最後で、誰かを探しているようにも見えた。


ひばりを。

あるいは、もう届かない春の続きを。


その姿を見た瞬間、志乃の胸の中で、怒りと哀れみと悔しさが、ぐしゃぐしゃに混ざって溢れた。


夢は終わった。


そして現実では、何ひとつ終わっていなかった。

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