43. 交渉
俺の叫びは、朝の冷気に震える平原へと吸い込まれていった。城壁の上に立つ俺の視界の先、一万五千の軍勢を背景に、ジェクトが優雅に、そしてひどく不気味な足取りで前に進み出てくるのが見えた。
「お前と交渉か? 面白い。よかろう、混血の若造よ。我らベルモンド家の慈悲をその身で受けるがいい。」
風の魔法で増幅されたジェクトの声が、挑発的に響く。俺は横に立つオウゼンさんに視線を向けた。彼は無言で頷き、俺の肩に手を置いた。
「いいですか、ユウトさん。焦りは禁物です。あなたは今、この里で最も強力な力を持っている。それを自覚し、毅然とした態度で臨みなさい。」
「……分かっています。行ってきます。」
俺は里から支給された刀を腰に差し、城壁の階段を一気に駆け下りた。砦の重厚な門が、軋んだ音を立ててゆっくりと開く。その向こう側には、完全なる敵地が広がっていた。
俺は一歩、また一歩と白い砂を踏みしめて進んだ。
背後には、オウゼンさんの号令でいつでも矢を放てるよう構えた蕉風流の門下生たちが控えている。前方には、鋼の甲冑に身を包んだ王国軍の兵士たちが、槍を林立させて俺を睨みつけていた。
平原の中央。砦と軍勢のちょうど中間地点に、簡素なテーブルと二脚の椅子が運び込まれた。ジェクトの用意周到さに、俺は背筋が寒くなるのを感じた。
テーブルの傍らには、二人の兵士に左右から抱えられるようにして、マーヤが立たされていた。
「マーヤ!」
俺が声を上げると、猿ぐつわをされたマーヤの体がびくりと揺れた。彼女のピンク色の髪は汚れ、道着もあちこちが破れている。だが、こちらを見据えるその瞳には、恐怖に屈しない強い光が宿っていた。
「おっと、そこまでだ、ユウト君。」
ジェクトが椅子にどっかりと腰掛け、足を組んで俺を制した。彼は隣に立つ部下から受け取ったお猪口を弄んでいる。この戦場という極限状態において、その余裕は狂気すら感じさせた。
俺はマーヤから数メートルの距離で足を止め、ジェクトの正面にある椅子に座った。
「マーヤを放せ。話はそれからだ。」
「ははは、相変わらず短気だね。まずは再会を祝して乾杯でもしたいところだが、君はそんな気分じゃないようだ」
ジェクトはお猪口を地面に捨てた。パキン、と乾いた音が響き、透明な液体が砂に染み込む。
「条件は伝えたはずだ。マーヤ君の命と、君の身柄。これを交換する。王国の平和を乱す『君』という不安定な要素を、我々は看過できないのだよ。」
「不安定な要素だって……? 俺はただ、静かに暮らしたいだけだ。それを邪魔しているのはあんたたちだろうが。」
「君が何を望もうと関係ない。君が持っている複数の属性を操る力。それ自体が罪なのだよ。この世界にはルールがある。そのルールを壊す存在は、排除されなければならない」
ジェクトの目は、笑っていなかった。冷徹な事務作業をこなすような、感情の欠落した瞳。
俺はオウゼンさんからのレクチャーを思い出し、喉の奥に魔力を凝縮させた。
「ルール、か。あんたたちの言うルールってのは、数で押し潰して気に入らない奴を消すことか? だとしたら、そのルールは今、この場で崩壊しているぞ。」
「ほう、どういう意味かな?」
俺は城壁の上を指差した。
「あんたらの軍勢は一万五千だと聞いている。だが、今ここに見えているのは五千程度だ。残りの一万……左右の山から回り込もうとした部隊は、今頃どうなっていると思う?」
ジェクトの眉が、わずかにピクリと動いた。
「わが里の精鋭……セイチョウ様率いる斬刃流と、シュハク様率いる水鏡流が、山の中で待ち構えている。地の利は完全にこちらにあるんだ。魔法が使えない山中で、剣術を極めた彼らに、あんたたちの素人兵士が勝てると思っているのか?」
これは、半分は事実で、半分はハッタリだった。各戦線で神後流が圧勝しているという報告は受けていたが、全滅させたわけではない。だが、今の俺には圧倒的な優位を演じる必要があった。
「現在、あんたたちの迂回部隊は各個撃破されている。このまま時間が経てば、あんたらはここで袋の鼠だ。人質なんていう絡め手を使わなきゃいけないほど、あんたたちは追い詰められているんじゃないのか?」
「……フフ、口の減らない若造だ」
ジェクトは鼻で笑ったが、その声には先ほどまでの余裕が消えていた。
「だが、それがどうした? 軍の損害など、ベルモンド家にとっては些細な問題だ。それよりも、目の前のこの娘の命の方が、君にとっては重いのではないかな?」
ジェクトは傍らのマーヤの首筋に、鋭い短刀を突きつけた。
「さあ、選べ。大人しく拘束されるか、この娘の喉が裂けるのを見るか。三つ数えるうちに答えろ……」
「……待て。」
俺は静かに、しかし地を這うような低い声で言った。 その瞬間、俺の周囲の空気がピリピリと震え始めた。火、水、風、土……四つの属性の魔法の種を、両手にじりじりと集めていく。
「ジェクト。あんたは一つ、大きな勘違いをしている。」
俺は椅子から立ち上がった。全身から溢れ出す魔力が、目に見える光の歪みとなって俺の体を包む。
「あんたは、俺を『捕らえられる』と思っているようだけど……。俺がその気になれば、この距離なら、あんたが指を動かすよりも速く、その頭を吹き飛ばせる。」
俺は右手をジェクトの足元に向けた。
ドォォォォォォン!!
爆音と共に、ジェクトの座る椅子のわずか数センチ横の地面が爆発し、巨大な穴が開いた。火と土の複合魔法による、ピンポイントの狙撃だ。
巻き上がった砂煙がジェクトの顔を汚す。彼の部下たちが慌てて剣を抜こうとしたが、俺はさらに左手を広げ、周囲に無数の氷の礫を浮遊させた。
「動くな。次に動いた奴は、心臓を貫く。」
俺の放つ殺気に、屈強な兵士たちがたじろいだ。 俺は一歩、ジェクトに近づいた。
「俺は『混血』だ。あんたたちが忌み嫌い、恐れているバケモノだ。バケモノに常識や交渉が通じると思わない方がいい。もしマーヤに指一本でも触れてみろ。俺は里の守りなんて捨てて、あんたたち一万五千、一人残らずこの平原で灰にしてやる。」
俺の目は、おそらく今の俺の人生で最も凶暴な光を放っていたはずだ。半分は演技だが、半分は本気だった。マーヤを傷つけられるという恐怖が、俺の中の理性を焼き切ろうとしていた。
「……ッ」
ジェクトの頬が、わずかに引きつった。彼は俺の目を見て、自分が相手にしているのが交渉可能な人間ではなく、何をしでかすか分からない爆弾であると認識したようだ。
さらに俺は、周囲を取り囲む王国軍の一般兵士たちに向けて声を張り上げた。
「おい! あんたたちもよく聞け!あんたたちの指揮官は、あんたたちの命を『些細な問題』だと言い切った! このまま戦っても、あんたたちは俺の魔法と、里の剣士たちの餌食になるだけだ! 故郷に待っている家族がいるんだろ? バカな領主の野心のために、ここで犬死にするつもりか!」
兵士たちの間に、動揺が広がるのが分かった。
「黙れ! この卑賊が!」
ジェクトが怒鳴ったが、一度植え付けられた恐怖と不信感は、霧のように兵士たちの心を侵食していった。槍を握る手が震え、列が乱れ始める。
「……計算外だな。これほどまでに扇動の才があるとは....」
ジェクトは苦々しく吐き捨て、短刀をマーヤの喉から離した。
「認めよう、ユウト君。今の君を力ずくで捕らえるのは、少々リスクが高すぎる。……それに、わが軍の士気も、これ以上は持たないようだ。」
ジェクトは周囲の兵士たちの、怯えと絶望に満ちた顔を見渡し、深く溜息をついた。
「今回は、君の勝ちだ。この娘は返そう。……ただし、これで終わったと思うなよ。王国は、君という存在を絶対に許さない。次に会う時は、龍騎士の軍団が君の首を取りに来るだろう。」
「……勝手に言ってろ。マーヤをこっちへ寄こせ」
ジェクトの合図で、兵士たちがマーヤを縛っていた縄を解いた。マーヤはよろけながらも、俺の方へと駆け寄ってくる。俺は彼女をしっかりと受け止め、その肩を抱き寄せた。
「ユウト……ごめん、なさい……」
マーヤの声が、俺の胸元で震えていた。俺は彼女の汚れを払い、優しくささやいた。
「いいんだ、マーヤ。無事でよかった……。本当に、よかった」
俺はマーヤを背負うようにして、ジェクトたちに背を向けた。 「弓部隊、用意!」 城壁の上から、オウゼンさんの鋭い声が響く。いつでも追撃できる構えだ。
ジェクトは椅子から立ち上がり、砂を払いながら冷笑を浮かべた。
「撤退だ! 全軍、川下まで引き上げろ!」
ジェクトの命令により、あれほど巨大だった王国軍が、ゆっくりと、しかし敗残兵のような足取りで撤退を開始した。
俺はマーヤを抱えたまま、砦の門をくぐった。門が閉まる音を聞いた瞬間、俺の足から力が抜け、膝を突いた。
「ユウトさん!」
城壁から下りてきたオウゼンさんたちが、俺たちの元へ駆け寄ってくる。
「……無事、取り戻しました。」
俺は掠れた声でそう言い、隣で泣きじゃくるマーヤの頭を撫でた。 空はいつの間にか高く昇った朝日に照らされ、霧山の霧を黄金色に染め上げていた。
里を賭けた、そして大切な人を守るための戦いは、こうして幕を閉じた。
だが、ジェクトの言った言葉が、不吉な予感となって俺の心に沈殿していた。 王国という巨大な壁。そして、俺の中に眠る「御しきれない力」。 隠れ里の平穏が、本当の意味で戻る日は、まだ遠いのかもしれない。
それでも、今はただ、腕の中にいるマーヤの温もりだけが、俺にとっての唯一の真実だった。




