28. 剣術の稽古
私は部屋の隅に敷かれた布団の上で目を覚ました。
昨夜、道場に到着して寝床をどうするかという話になった際、私はこの個室をあてがわれた。 前に女性の門下生が使っていたらしいその部屋は、簡素ながらも清潔で、一人で過ごすには十分な広さがあった。
他の門下生たちは十人一間というむさ苦しい部屋で寝泊まりしているらしいが、男だらけの中に女の子を一人入れるのは流石にまずいという判断だったようだ。
「……ふぅ。」
起き上がって大きく伸びをする。体は重い。慣れない逃亡生活と、昨夜の緊迫した会議の疲れが、鉛のように全身にのしかかっていた。
昨日の尋問の場では、セイチョウ様を恐ろしい人だと思っていた。 言葉の端々に棘があり、暴力的な威圧感で私やサリアンさんを圧倒していたからだ。
けれど、到着が夜遅くなってしまった私に対し、「明日の朝の稽古は免除する」と言ってくれたのも彼だった。 他の門下生たちが「ええーっ」と不満の声を上げる中、セイチョウ様の一喝でその場が静まり返った光景を思い出す。 案外、情けのある人なのかもしれない。
私は押し入れから用意されていた道着を取り出した。 これは斬刃流の門下生だけが着ることを許される特別なもので、他の派閥とは色や模様が違うらしい。 稽古の時はもちろん、それ以外の時間も着用を推奨されているという。
ピンク色の髪に、キリリとした道着。鏡はないけれど、自分が少しだけ強くなったような、不思議な感覚に包まれる。
身支度を整えて外に出ようとしたその時、部屋の襖が控えめにトントンと叩かれた。
「マーヤさん。入ってもよろしいでしょうか?」
若い男の人の声だ。 私が「どうぞ」と返事をすると、スッと襖が開いて一人の男子が入ってきた。
「おはようございます。体調はいかがですか?」
入ってきたのはコルンさんという、私と同い年の少年だった。 彼は昨日、セイチョウ様から私の「教示役」に指名された人だ。 道場の中の案内や規則を教える係だというけれど、実質的には私を逃がさないための監視役なのだろうと私は察していた。
「おはようございます、コルンさん。おかげさまで、よく眠れました。」
「それは良かったです。……では、朝ご飯を食べに行きましょう。」
コルンさんはそう言うと、やや視線を落として歩き出した。 その少しぎこちない反応には見覚えがあった。ユウトも、初めての人や慣れない相手と話す時は、決まってこんな風に下を向くのだ。 意外な共通点に、ほんの少しだけ緊張が解けるのを感じた。
食堂へと向かう道すがら、コルンさんは淡々とした口調で道場の決まりを説明してくれた。
「食事の時間は、我々門下生とセイチョウ様が全員集まって、一斉に食べる決まりになっています。 その方が門下生同士の絆が深まり、一致団結できると、セイチョウ様がおっしゃって決められたそうです。」
全員で一斉に食事。それは大家族のようで、少しだけ楽しそうな響きがあった。
食堂に入ると、そこにはすでに大勢の門下生が集まっており、熱気と活気に溢れていた。 一番奥の上座には、昨日とは打って変わって穏やかな笑みを浮かべたセイチョウ様の姿もある。
「コルン、マーヤ、遅いぞ。飯が冷めてしまうではないか。」
セイチョウ様にそう声をかけられ、私たちは「すみません!」と謝りながら、急いで席へと走った。 私が案内されたのは、十人ほどが座れる長い机の端の方だった。 隣にはコルンさんが座り、向かい側には五、六歳くらいの幼い少年が二人、行儀よく座っている。
見渡すと、この道場には幅広い年齢層の人々がいた。 四十代くらいの屈強なおじさんもいれば、目の前の子供たちのように、まだ剣など握れそうにない小さな子もいる。 どうやらここは、ただの剣術道場としてだけでなく、子供たちを預かる寺子屋のような役割も果たしているようだった。
目の前に置かれた朝ご飯を見て、私は思わず目を見張った。 炊き立ての白いご飯が山盛りに盛られ、焼き魚、煮物、お浸しと、朝から驚くほど品数が多い。
すごい……。逃亡生活では粟や芋ばっかりだったのに。
あまりの豪華さに、すぐさま箸を伸ばそうとしたその時、隣からコルンさんの手が伸びてきて制止された。
「ちょっと待ってください。まだ食べ始めてはいけません。」
「えっ、あ、すみません。」
何事かと思っていると、上座のセイチョウ様が朗々と声を上げた。
「よし、全員揃ったな! では、皆、手を合わせて!」
「「いただきます!!」」
地響きのような大音声が食堂に響き渡った。 私がその迫力に呆然としていると、コルンさんが小声で教えてくれた。
「この里の人たちは、食事の前に必ずこう言うんです。 初代宗家の方が大切にされていた習わしで、二百年も三百年も前からずっと続いているんですよ。」
「いただきます……。」
その言葉を、私は知っていた。異世界から来たユウトが、ご飯を食べる時に必ず手を合わせ、口にしていた言葉と同じだったからだ。
二百年前……。もしかして、初代宗家の人とユウトは、同じ故郷だったりするのかな?
そんな疑問が頭をよぎったが、二百年も昔の話となると、ただの偶然かもしれないと思い直した。
私は食事を食べ進めたが、すぐに限界がやってきた。 医者の修行をしていた頃もそれなりに食べていたつもりだったが、この道場の「一人前」は、私の想像を遥かに超える量だったのだ。 箸が止まっている私を見て、向かいに座っていた少年が目を輝かせて身を乗り出してきた。
「ねぇ、おねえちゃん、それ食べないの? 食べないなら貰っていい?」
少年はそう言うなり、私の皿から素早く魚を一尾取っていった。
「こら! 人のものを勝手に取るんじゃない!」
コルンさんが厳しく叱ったが、私は慌てて言った。
「いいんですよ、コルンさん。本当にもうお腹いっぱいで食べきれないんです。……ほら、これも食べる?」
私は少年に、もう一尾の魚も差し出した。 少年は「わあ、ありがとう!」と満面の笑みで魚を頬張っている。 その姿を見ていると、バークワクトに残してきた弟のトーヤを思い出して、少しだけ胸が温かくなった。
けれど、コルンさんの表情は晴れなかった。
「ダメですよ、マーヤさん。一人分の量は厳格に決まっているんです。一度『頼めば貰える』と思わせてしまったら、規律が乱れてしまいます。」
「でも、子供が食べたいって言っているんだから、少しくらい良いじゃないですか。」
私が反論すると、コルンさんは大きく溜息をついた。
「……これからの稽古を乗り切るには、しっかり食べて体力をつけないといけないんです。まあ、今日は初日ですから仕方ありませんが、次からは頑張って食べてくださいね。」
「はぁ……分かりました。努力します。」
食事を終えた後、私はコルンさんに連れられて、道場の奥にある一室へと案内された。 そこは「初級者用」の部屋らしく、周りは先ほど食堂で見かけた小さな子供たちばかりだった。
部屋の奥では、三十代くらいの体格のいい男性が、子供たちに剣の握り方を熱心に教えていた。
「あの方が、この部屋を担当されている超級剣士のソクリュウ先生です。」
コルンさんが紹介してくれた。 超級。それは冒険者の階級で言えば「梅」ランク以上に相当する、相当な手練れであることを意味している。 そんな凄い人が、こんな小さな子供たちの相手をしているなんて意外だった。 私は緊張しながら、コルンさんに促されて挨拶に向かった。
「今日からお世話になります、マーヤです。よろしくお願いします!」
私が深く頭を下げると、ソクリュウ先生はこちらに気づき、優しく微笑んで応えてくれた。
「ご丁寧にありがとうございます。ソクリュウです。 マーヤさんのことはセイチョウ様から伺っておりますよ。何か分からないことがあれば、遠慮なく聞いてくださいね。」
ずいぶんと物腰が柔らかく、丁寧な方だった。 高い実力を持つ人は傲慢なことが多いと思っていたけれど、ソクリュウ先生は正反対のようだ。 相手が子供だから、優しく接することを心がけているのかもしれない。
「では、私は自分の稽古がありますので失礼します。」
コルンさんはそう言って、中級者用の部屋へと向かっていった。
一人残された私に、ソクリュウ先生は一本の木の剣を渡してくれた。
「これは木刀と言います。本物の刀で稽古をするのは危険ですから、まずはこれで練習しましょう。」
「木刀……。はい、分かりました。」
ソクリュウ先生は、まず剣の握り方と振り方を丁寧に教えてくれた。 ちなみに、この里では剣のことを「刀」と呼ぶらしい。 先生は刀と剣の違いについても説明してくれたが、私にはイマイチ違いがよく分からなかった。
「では、振ってみてください。」
教わった通りに木刀を構え、大きく振り下ろす。
「ふんぬっ!」
ブンッ、という鈍い音が空を切る。思ったよりも木刀は重く、一度振るだけで腕の筋肉がピリリと疼いた。
「あはは! おねえちゃん、へたっぴー!」
横で素振りをしていた六歳くらいの子供に笑われてしまった。 初日なんだから仕方ないじゃない、と言い返したくなったが、ぐっと飲み込む。
ソクリュウ先生は私の動きをじっと観察した後、困ったように眉を下げた。
「マーヤさん……失礼ですが、剣術に必要な筋肉が全くと言っていいほど付いていませんね。 正直に申し上げて、そこの六歳の子供と同じくらいの筋肉量です。」
「……っ!」
衝撃の診断だった。 確かに私は戦う訓練なんてしたことがないし、医者の修行ばかりしてきたけれど、まさか6才児並みだと言われるなんて……。 さすがに女性として、そして一人の大人として少し傷ついた。
午前の稽古は、基礎的な素振りの反復だけで終わった。 昼食を挟み、午後からも同じ練習が続く。 何百回、何千回と同じ動作を繰り返していると、腕は棒のようになり、肩は悲鳴を上げ始めた。
けれど、周りの子供たちは平気な顔をして木刀をブンブンと振り回している。
子供の体力、恐るべし……。
夕方になり、ようやく午後の稽古が終了した。 終わった瞬間に膝から崩れ落ちそうになったが、そこへコルンさんが迎えに来てくれた。
「お疲れ様です、マーヤさん。 初級と中級はこの時間で終わりですが、上級は夜ご飯まで、超級以上の人は夜通し稽古が続くこともあるんですよ。」
「そ、そんなに長く……!? 気が遠くなりそうです……。」
中級のコルンさんも、上級以上の大変さは想像がつかないという。
私たちは並んで宿舎へと戻った。コルンさんは私の隣の部屋に入っていった。 彼は監視役として、私の隣の部屋に住むよう命令されているらしい。 「何かあった時のため」という言葉が、「逃げ出そうとした時のため」に聞こえてならないが、相部屋にされないだけセイチョウ様の優しさなのだと思うことにした。
そのあと、またみんなで夜ご飯を食べた。やはり量が多く、食べ残してしまった。「食べるのも修行の一貫ですよ。」とコルンさんに言われ、「そうだよ、おねえちゃん。」と残りをあげた5歳の子に言われてしまった。
部屋に戻り、布団に倒れ込む。 全身が脈打つように痛み、指一本動かすのも億劫だった。
サリアンさん、言ってた通り、本当に厳しいよ……。
けれど、不思議と心は沈んでいなかった。 慣れない剣を振り、汗を流したことで、これまでの不安や迷いが少しだけ削ぎ落とされたような気がしたからだ。
「……ユウトも、頑張ってるかな。」
水鏡流の道場に入れられたユウトの姿を思い浮かべる。 彼も今頃、筋肉痛にのたうち回っているに違いない。
明日もまた、筋肉痛と戦いながら刀を振ることになる。 医者への道は遠のいてしまったかもしれないけれど、今はここで、この里の一員として認められるために、精一杯抗ってみよう。
私は心地よい疲れと痛みに包まれながら、泥のように深い眠りへと落ちていった。




