24. 見知らぬ天井
私は、見知らぬ天井を見つめていた。
最後に覚えているのは、凍えるような寒さと、鼻をつく湿った土の匂い。そして、遠のいていく意識の中で聞いた激しい雨音だ。そこから先は、深い闇に落ちたような感覚しかなかった。
……私、生きてる?
ゆっくりと指を動かしてみる。感覚はある。体は重いが、あの時の刺すような冷たさは消え、心地よい温もりに包まれていた。どうやら、誰かに助けられたらしい。
視線を横に巡らせると、隣の布団ではユウトがぐっすりと寝息を立てていた。その穏やかな顔を見て、心の底から安堵が込み上げる。
「良かった……ユウトも無事なんだ。」
しかし、彼の姿をよく見て、私は息を呑んだ。雨に洗い流されたのか、ユウトの髪色が元の真っ黒に戻っているのだ。これでは「キンミ族の青年」という指名手配の特徴そのままである。私は慌てて周囲を見回したが、そこは静かな和室で、人の気配はなかった。
部屋は広く、真ん中に私たちの布団が二枚敷かれている。落ち着いた佇まいの部屋だが、どこかピンと張り詰めたような空気を感じる。一体、誰が私たちをあの極限状態の霧山から救い出してくれたのだろうか。
布団に座り、ぼんやりと考えを巡らせていると、静かに襖が開いた。入ってきたのは、青い髪を後ろで結んだ、凛とした佇まいのホルミ族の女性だった。
「お目覚めになられていたんですね。」
彼女は私に気づくと、優しく微笑んで声をかけてくれた。
「あの、私たちを助けてくださって、本当にありがとうございます。」
私は布団の上で居住まいを正し、深く頭を下げた。すると彼女は困ったように手を振った。
「頭を上げてください。助けたのは私ではなく、シュハク様ですから。山での修行中に、偶然お二人を見つけられたのですよ」
シュハク様。誰だろう?
「あの、シュハク様という方は……?」
「シュハク様はこの『神後流』の師範の一人です。ここは剣術の一派、神後流の宗家なのですよ。」
剣術。その言葉を聞いて、私は少し意外な思いがした。この世界では、魔法こそが最強の力であり、剣術などは魔法を持たない貴族の嗜みか、いざという時の護身用という認識が一般的だ。接近戦でしか通用しない剣術より、遠距離や範囲攻撃が可能な魔法の方が優れているというのは、子供でも知っている常識である。だが、そんな偏見を口にするわけにはいかない。
私は彼女に、助けてくれたシュハク様に直接お礼を言いたいと申し出た。
「その前に、会っていただきたい方がおります。ユウト様がお目覚めになってからで構いませんが……」
彼女がそう言うのを聞いて、私は隣で爆睡しているユウトを容赦なく叩き起こした。お世話になった場所の主を待たせるわけにはいかないからだ。
「……ん、マーヤ? ここ、どこ……?」
目をこすりながら起き上がったユウトに、これまでの経緯を手短に説明する。私たちは彼女に軽く自己紹介を済ませ、屋敷の奥へと案内されることになった。
案内された屋敷は、驚くほど広かった。磨き抜かれた廊下、重厚な柱、そしてどこからか漂ってくる香の匂い。バークワクトの領主様の屋敷にも引けを取らないのではないかと思えるほどだ。一度も入ったことはないんだけどね。
すれ違う門下生らしき人々からは、独特の鋭い気配を感じる。
しばらく歩くと、一行はひと際大きな襖の前で足を止めた。
「先生、先日の遭難者がお見えになっております。」
彼女が襖の脇に正座して声をかける。すると、中から地を這うような低い声が響いた。
「入れ。」
襖が開かれ、私たちは中へ入った。そこは広大な大広間で、その奥の一段高くなった場所に、一人の老人が座っていた。深緑の重厚な着物を纏い、顔や手には深い皺が刻まれている。だが、その眼光はカミソリのように鋭く、座っているだけで周囲を圧するような圧倒的な威圧感を放っていた。
「こちらの方がマリーさんとユーベルさんです。」
彼女の紹介に合わせて、私たちは深く頭を下げた。もちろん、名前はギルドで登録した偽名だ。
「マリーとユーベルか……」
老人は噛み締めるようにその名を呼んだ。沈黙が重く部屋にのし掛かる。
「紹介します。こちらにおわす方が、神後流第十三代宗家、鰐淵陣十郎様でございます。」
鰐淵陣十郎。あまりに聞き慣れない、しかし強そうな名前に圧倒されていると、隣でユウトが「カッコいい名前だね」と小声でささやいてきた。私はその脇腹を軽く小突いて黙らせた。
「お前たちは霧山を越えようとしていたと聞く。なぜだ? あの山が危険な場所であることは知っていたはずだ。」
陣十郎様の問いは、答えを急かすような鋭さを持っていた。私は声を震わせながら答えた。
「はい……すみません。どうしても行かなければならなくて……」
反射的に謝ってしまった私に、宗家様はさらに畳み掛ける。
「理由を聞いておるのだ。」
本当のことを言うべきか、それとも誤魔化すべきか。逡巡していると、不意に背後の襖が勢いよく開いた。
「先生! お話が!」
「こらシュラ! お声がけしてから襖を開けなさいと言っているでしょう!」
案内してくれた女性が、乱入してきた若い男を叱り飛ばした。
「あ、来客がいたんですね。すいません...後でにします。」
男はしょんぼりとしながら部屋を出ようとした。すると私達を見て、
「あ! お前たち、大丈夫だったのか! 」
と聞いてきた。どうやら彼はシュハクさんの息子らしく、一緒に山へ修行に行っていたらしい。しかも私達を見つけたのは彼らしい。
彼に感謝を伝えると、
「いいよ、いいよ。当然のことをしたまでさ!.....って、待てよ。そっちの男、キンミ族だったのか?しかもファミル族の少女とキンミ族の男....」
ユウトの黒髪を見て、シュラが声を上げた。そして、彼は懐から一枚の紙を取り出した。その紙と私たちの顔を見比べる。
「先生! こいつらです! この前お話しした、重大犯罪者は!」
動悸が止まらない。シュラの手にあるのは、あの宿場町で見た指名手配書の写しだった。「ファミル族の少女とキンミ族の男」。言い逃れのできない特徴がそこには記されているはずだ。
陣十郎様の鋭い視線が、射貫くように私たちに向けられた。
「……本当なのか?」
その声は低く、逃げ場を塞ぐような響きを持っていた。私は逃げることも、嘘をつくこともできないと悟った。ここで偽れば、それこそ自分たちの信念を汚すことになる気がしたのだ。
「……はい。私たちが、その指名手配されている二人です。」
私は震える唇を噛み締めながら、真っ直ぐに宗家様を見つめて答えた。後ろで女性が驚愕の声を上げ、シュラが「やっぱりか!」と叫ぶ。だが、陣十郎様だけは眉一つ動かさなかった。表情が分かりづらい人の心の読み方はガーベラさんから十分学んだ気がしていたが、陣十郎様の表情は全く掴めなかった。
「シュラ、その紙を見せてみよ。」
陣十郎様は手配書を静かに読み通した。
「重大犯罪者とあるが、具体的に何をしたのかは書かれておらぬな。」
「申し訳ありません。高札にはこれしか書いておらず、聞き込みをしても全く情報を得られませんでした。」
シュラがすまなそうに言った。
「……本人たちがいるのだ、直接聞けばよい。お前たち、一体何をしたのだ。」
その問いに、私は覚悟を決めてすべてを話した。ゲリスでの出来事、氷狼の襲撃、そしてユウトが本来使えるはずのない複数の魔法を使ってしまったこと。それによって「混血」というあらぬ疑いをかけられ、国を追われる身になったこと……。
話し終えた時、広間には沈黙が流れた。沈黙を破ったのはシュラだった。
「なんだその突飛な話は! 誰でも複数の魔法を使えるだと? そんなデタラメを信じろと言うのか!」
彼は吐き捨てるように言った。
「姐さんもそう思うよな?」と案内の女性に聞くと、彼女も「ええ、信じられませんね。そんなこと...」と困惑しながらも答えた。
「やはり、信じてもらえませんか……」
私は肩を落とした。やはり、ここで捕まって憲兵に引き渡される運命なのだろうか。それとも、ここで殺されるのか。最悪の結末を覚悟したその時、陣十郎様が静かに口を開いた。
「シュラ。彼らの話を嘘と断じるにはまだ早い。」
「ですが先生! あんな常識外れな話を信じるんですか!?」
「嘘と決めつけるには早いと言ったのだ。見てみよ。そこの娘は、手や唇が震えておる。だが、わしの目から決して逸らさぬ。これは覚悟の現れに見えないか?」
陣十郎様は、射抜くような視線を私に向けたまま続けた。
「待ってください!先生!それくらいのことをするペテン師はいくらでもいます。奴らは態度だけは自信満々なんです!」
シュラはそう言い放つ。
「そうだな。だから彼らの言うことはまだ信じられるものではない。しかし彼らの言い分を嘘と断罪し、拒否するのはわしらの流儀の背くことになるのではないか?」
シュラは言い返せなかった。
「それに、複数の魔法が使えたからといって何だと言うのだ。ここには熟練の剣士が五万といる。暴れたところで簡単に始末するまでよ。」
その力強い言葉に、シュラは返す言葉を失い、黙り込んだ。宗家様は私たちに向き直り、わずかに声を和らげた。
「わしはお前たちの話を、もっと詳しく聞きたい。」
「その前に一つ確認をしても宜しいですか?」
「ああ、何だ?」
声を震わせながら私は言葉を発する。
「私達を憲兵に引き渡したり、いきなり殺したりしないですよね?」
「何を言っているんだ。話を聞いてなかったのか?殺すのはまだしも、あの傲慢な憲兵野郎どもと関わるのはごめんだからな」
その言葉を聞いた瞬間、全身から力が抜けるのを感じた。助かった。助かったのだ。
「ありがとうございます……。ではお話しします、私たちの旅のすべてを。」




