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うちの村に異世界から無能がやってきました  作者: 投降の旗印
第三章 逃走編

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22. 立て直し

 朝霧が深く立ち込め、視界を白く染める山道を、私たちは黙々と歩き続けていた。 深夜に実家を飛び出してから、もうどれほどの時間が経っただろうか。足の感覚はとうに麻痺し、一歩踏み出すごとに鉛のような重さが全身にのしかかる。けれど、私の心の中にある焦燥感だけが、動かなくなった足を無理やり前へと進ませていた。


「マーヤ、大丈夫? 少しペースを落とそうか?」


 背後からユウトが気遣わしげに声をかけてくる。その声はどこか落ち着いていて、一晩中歩き通した疲れをあまり感じさせない。それどころか、道中で遭遇した魔物たちを、彼はすべて魔法で鮮やかに撃退してくれた。 かつては私の後ろを頼りなくついてくるだけだった彼が、今は先頭に立って私を守っている。その事実に救われながらも、私の心はトゲトゲとした棘を抱えたままだった。


「……大丈夫です。急ぎましょう。」


 私は振り返りもせず、短く答えた。 脳裏には、襖越しに聞いたお母さんの冷たい声がリフレインしている。 『あなたがマーヤを騙しているのではないかと』 『混血ではないという証拠を持ってきなさい』


 信じて欲しかった。私の選んだ人を、私の決意を、お母さんには信じて欲しかった。でも、お母さんはユウトを疑い、まるで彼を排除するかのような無理難題を突きつけた。それが何よりも悲しくて、悔しくて、私は家を捨てるようにして逃げ出してきたのだ。


 小一時間ほど歩くと、どこからかさらさらと水が流れる音が聞こえてきた。その音に導かれるように茂みを抜けると、そこには澄んだ水が流れる小さな小川があった。


 いや、よく見るとそれは自然の川ではない。規則正しく護岸が整えられ、村の田んぼへと水を引くための用水路だった。私の家の周りでは地面に埋設されていることが多いけれど、このあたりではまだ地上を流れているらしい。


 用水路の向こう岸には平坦な土地が広がり、青々とした田んぼの真ん中を一本の道が走っている。あの道を行けば、西の村へと辿り着けるはずだ。 私は対岸へ渡るための橋を探して、用水路に沿って歩き始めた。


 ここまで、二人ともほとんど口を利いていなかった。魔物が現れた際に「あそこにいるぞ」とか「下がって」とか、必要最低限の言葉を交わすだけ。それ以上の会話をする余裕も、気力も、今の私にはなかった。


 一晩中、険しい山道を歩き続けた足はもうパンパンに腫れ上がっている。それでも、私は止まれなかった。一刻も早くこの町を、お母さんの手の届く範囲から離れたかった。


「ねぇマーヤ、そろそろ休憩しない? 一晩中歩いたんだし、このままだと持たないよ。」


 ユウトが再び提案してくる。彼の声は優しかったが、今の私にはその優しささえも重荷だった。


「…………」


 私は無視して歩き続ける。草をかき分け、泥に足を滑らせながら、ただ前だけを見つめた。


 ようやく小さな石橋を見つけ、私たちは向こう岸へと渡った。田んぼの真ん中の道に出る分岐点が少し先にある。遠くにはいくつかの建物が見えてきた。


「ねぇ、左側に建物がいっぱいあるよ。あの中に宿があるんじゃないかなぁ。」


 ユウトが私の耳元でささやくように言った。彼が指差した方向は、町のある中心地に近い。西の村を目指すなら、そこは通らずに右へ曲がるべきだった。


「ねぇ、聞いてる? マーヤ。」


「…………」


「無視しないでよ。さすがに限界だって。あっちの町へ行って、ちゃんと休もうよ。」


 ユウトが私の肩を掴んで立ち止まらせようとした。その瞬間、私の中で張り詰めていた何かが、音を立てて弾けた。


「うるさいですよ!」


 自分でも驚くほどの怒鳴り声が口から飛び出した。ユウトは驚きに目を見開き、掴んでいた手を離した。


「ずっと……ずっと様子がおかしいよ、マーヤ。怒ってるのは分かるし、急いでるのも分かるけど……でも、休憩はちゃんと取らなきゃ。」


 ユウトの声は、怒りよりも悲しみに満ちていた。 足を止めると、抑え込んでいた疲れが濁流のように押し寄せてきた。視界がぐらりと揺れる。心臓の鼓動が耳元でうるさく打ち鳴らされ、冷や汗が背中を伝った。 確かに、このままの足取りでは次の宿場町まで辿り着けるはずがない。


「…………でも、早く、行かなきゃいけないのに……」


 私は再び歩き出そうとした。けれど、足に力が入らない。 視界が急激に暗くなり、頭がクラっとした。 平衡感覚を失った体は、なす術もなくその場に崩れ落ちた。


「マーヤ!?」


 地面に叩きつけられる寸前、ユウトの腕が私を支えた。


「マーヤ、大丈夫!? やっぱり無理してたんだよ。町の方へ行こう。俺が運ぶから。」


「……っ、はやく、いかなきゃ……」


 消え入るような声で繰り返す私を、ユウトは軽々と抱え上げた。 情けない。私は医者の卵で、自分の体調管理くらいできなくてどうするのだ。でも、意識は朦朧とし、抗う力も残っていなかった。


 ユウトに抱えられたまま運ばれ、しばらくして美味しそうな匂いが鼻をくすぐった。 気づくと、私たちは小さな食事処に入っていた。 運ばれてきたのは、炊きたての白米と、香ばしく焼かれた鮭の塩焼き。 そういえば、家を出てから何も食べていなかった。空腹であることさえ忘れるほど、神経が昂っていたのだ。


 私は震える手で箸を持ち、白米を口に運んだ。 お米の甘みが口いっぱいに広がり、胃の奥に温かい灯火が宿るような感覚がした。焼き魚の塩気が、失われていた気力を少しずつ呼び戻してくれる。


「食べられたね。よかった。」


 向かい側でユウトが安堵したように笑っている。私は恥ずかしさで俯きながら、黙々と食事を進めた。


 食後、ユウトが「早めに宿を取ろう」と言って、すぐ近くの安宿を見つけてくれた。 部屋に入ると、彼は私を布団に寝かせた。


「マーヤはここでゆっくり休んで。俺はちょっと外を見てくるから。……」


 ユウトはそう言うと、静かに部屋を出て行った。 私を一人にしてくれたのは彼なりの配慮なのだろう。一人残された部屋で、私は天井を見つめながら、ぐるぐると考えを巡らせていた。


 本当に、これでよかったのだろうか。 お母さんやトーヤに会えたのは、言葉にできないほど嬉しかった。あの家も、お母さんの料理も、温かい布団も、すべてが懐かしくて、本当はもっとゆっくりしていきたかった。


 でも、あのままあそこにいたら、ユウトはお母さんに追い詰められ、私は自分の居場所を失っていたかもしれない。お母さんに嘘をつくのも、ユウトが疑われるのを見ているのも、もう限界だった。


「はぁ……」


 溜息が漏れる。あまり過去のことを考えても仕方がない。これからのことを考えなくては。


 目的地はバークワクトを離れた先にある。 選択肢は二つ。東のジョグリブ王国へ向かうか、西の農村地帯を抜けて山を越えるか。


 東には厳しい検問所があり、今の私たちの身分では捕まるリスクが高い。 西には険しい山々が連なり、魔物の危険も増す。 どちらを選んでも茨の道だ。何より、私にはこの先の土地勘が全くない。それも大きな不安の種だった。


 しばらく考えても答えは出ず、重い眠気が襲ってきた頃、ユウトが帰ってきた。 その顔は、部屋を出た時よりもずっと明るかった。


「マーヤ、起きてる? 面白い話を聞いてきたよ。」


「……何ですか?」


 私は身を起こして彼を見た。ユウトは興奮した様子で私の隣に座り込んだ。


「さっき、町を歩いてたらパキルさんに出会ったんだ。」


「パキルさん? あの、貧民街にいた……?」


「そう! 彼、なんで知ってるのか分かんないんだけど、俺たちが東に行くか西に行くか迷ってるって知っていたんだ。何だか不思議だけど、助言をくれたんだ。」


 どこから私たちの計画が漏れたのか、少し空恐ろしい気もするけれど、パキルさんはこれまでも何度か私たちを助けてくれた恩人だ。ちょっと怪しいけど....


「パキルさんが言うにはね、西の村の奥、そのさらに山を越えた奥深くに『眠る霧の里』っていう場所があるらしいんだ。そこに逃げ込むことができれば、しばらく追っ手から逃れられるって」


「眠る霧の里……?」


 聞いたこともない名前だった。師匠からも、お母さんからも、そんな地名は一度も聞いたことがない。 本当にあるのかさえ怪しい話だ。けれど、今の私たちには縋れる藁がそれしかなかった。


「西に行くにしろ東に行くにしろ、大変なのは変わらないんだ。だったら、賭けてみる価値はあると思わない? その里を目指してみようよ。」


 ユウトの瞳には、かつての自堕落な影はなく、未来を見つめる強い光が宿っていた。 パキルさんは怪しいけれど、これまで私たちを裏切ったことはない。それに、このまま闇雲に逃げ続けるよりは、明確な目的地があった方がいい。


「……分かりました。信じてみましょう、パキルの言葉を。」


 私はゆっくりと立ち上がり、ユウトを見つめた。


「その『眠る霧の里』とやらを目指して、出発しましょう。」

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