第8話 商人の世界
リケーザ領の領都へ着いたのは、前日の夕方だった。
フィルネ村を出てから、馬車に揺られること半日あまり。
村の周囲に広がっていた畑や森は、領都へ近づくにつれて少しずつ姿を変えていった。
街道を行き交う馬車の数が増え、荷台に積まれている品物の種類も多くなる。
穀物を詰めた麻袋。
切り出した木材。
樽に入れられた酒。
布で覆われた陶器。
家畜を乗せた荷車まであった。
フィルネ村の近くで見かける馬車は、王都へ向かうか、周辺の村々へ品物を届けるものが多かった。
だが、領都へ向かう街道では、さまざまな方向から物が集まっている。
レオンは馬車の中から荷物の種類や積み方を眺めながら、領都がこの一帯の流通の中心であることを実感していた。
石造りの壁に囲まれた領都は、王都ほど大きくはない。
それでもフィルネ村と比べれば、まるで別の世界だった。
門の前には入場を待つ馬車の列ができており、兵士が荷物や身分を確認している。
門をくぐれば、石を敷き詰めた道の両脇に二階建て、三階建ての建物が並び、大勢の人々が忙しなく行き交っていた。
店先から響く呼び込みの声。
馬車の車輪が石畳を叩く音。
商品を運ぶ人夫たちの掛け声。
食堂から漂う肉と香辛料の匂い。
懐かしい、とレオンは思った。
王都とは規模が違う。
前世の街とも、もちろん異なる。
それでも、人と物が絶え間なく動く場所には、共通する空気があった。
到着した日は、宿を探すだけに留めた。
日が暮れかけてから市場へ入っても、十分な調査はできない。
疲れた状態で商人と話をしても、判断を誤る可能性がある。
宿屋の主人から市場の場所と開く時間を聞き、簡単な食事を取る。
その後は明日の予定を頭の中で整理し、早めに寝台へ入った。
そして翌朝。
空が明るくなり始める頃、レオンは目を覚ました。
宿屋の外からは、すでに馬車の音が聞こえている。
市場へ商品を運び込む商人たちが動き始めているのだろう。
レオンは顔を洗い、旅装を整えた。
鞄の中には筆記具と、これまでフィルネ村で集めた情報をまとめた紙が入っている。
工具。
農具。
釘や金具。
木材。
丈夫な縄。
針や糸。
村人が必要としていた品物は、すでに一覧にしてあった。
ただし、今日は仕入れるために来たのではない。
まず、市場を知る。
どのような商品が流通しているのか。
価格はいくらか。
どの店に客が集まり、どの店の商品が残っているのか。
商人同士がどのような関係を築いているのか。
実際に歩き、自分の目で確かめる。
「最初から買うことを考えるな。まずは市場を知る」
鏡代わりの磨かれた金属板へ向かい、レオンは自分に言い聞かせた。
前世で新しい地域を担当したときも、最初に行ったのは現地調査だった。
資料に書かれた数字は重要だ。
だが、数字だけでは分からないことも多い。
店員の態度。
客の表情。
商品を手に取ってから戻す者の数。
何度も補充される棚。
長く売れ残っている商品。
商人同士が交わす何気ない会話。
現場には、帳面には載らない情報がある。
宿屋で簡単な朝食を済ませると、レオンは市場へ向かった。
領都の市場は、中央広場を中心に広がっていた。
広場には常設の店舗が並び、その外側には布や木板で作られた露店が軒を連ねている。
野菜や果物。
干し肉。
魚。
香辛料。
衣服。
革製品。
陶器。
工具。
家具。
家畜。
目に入るだけでも、フィルネ村では見かけない商品がいくつもあった。
「さあ、朝採れの野菜だ!」
「北の村から届いた上質な毛皮だよ!」
「丈夫な革靴だ! 旅人なら見ていきな!」
商人たちが声を張り上げる。
市場へ入る客も多い。
町で暮らす住民だけでなく、周辺の村から来た農民や、旅装をした者、商人らしい身なりの者も歩いている。
レオンは人の流れに逆らわず、まず市場を一周した。
品物の値札だけを見るのではない。
棚に並ぶ量。
商品の状態。
客がどこで足を止めるのか。
店主が誰に声をかけ、誰には声をかけないのか。
そうした部分まで観察する。
野菜を扱う店では、朝早くから客が集まっていた。
葉物は傷みやすいため、その日のうちに売り切りたいのだろう。
店主は時間が経つにつれて、少しずつ値段を下げる可能性がある。
一方、乾物や塩を扱う店は、朝から慌てて売る必要がない。
店主も落ち着いた様子で、まとめ買いをする客と長く話している。
刃物を扱う露店では、安価な小刀がよく売れていた。
だが、近くの常設店に並ぶ高価な刃物を手に取る客も少なくない。
価格だけを見れば、露店の方が安い。
それでも常設店へ客が集まるのは、品質や修理対応への信頼があるからだろう。
レオンは小さな紙へ、気づいたことを書き込んでいった。
塩――需要安定。店ごとの価格差は小さい。
針――小売価格は高め。まとめ売りあり。
縄――太さと素材で価格差が大きい。
農具――安価な物と職人製で明確に客層が違う。
木材――長物は運搬費が問題。
書くだけではなく、気になった店では実際に話を聞いた。
「この針は、まとめて買うと値段は変わりますか?」
「十本からなら少し下げられるよ。二十本ならもっとだ」
「折れやすさは、隣の品と違いますか?」
「そっちは安い代わりに細い。厚い布を縫うなら、こっちを選んだ方がいい」
「村まで運ぶ場合、錆びないように包んでもらえますか?」
「油紙代は別だが、できるよ」
すぐに買うとは言わない。
価格。
品質。
保管方法。
まとめ買いの条件。
必要な情報だけを聞き、店主の反応も見る。
質問へ丁寧に答える者。
買わないと分かると露骨に態度を変える者。
品質の違いを具体的に説明できる者。
ただ高い品を勧めるだけの者。
商品を見ると同時に、売る人間も見ていた。
前世でも、取引先を選ぶ際に価格だけで決めることはなかった。
安い商品を提示されても、納期を守らない。
不良品が出ても責任を取らない。
都合が悪くなれば連絡がつかなくなる。
そんな相手と長く取引すれば、最後に損をするのはこちらだった。
フィルネ村へ商品を運ぶ商売も同じである。
一度だけ安く買えればよいのではない。
必要な商品を、継続して仕入れられる相手が必要だった。
市場の中央では、客を呼び込む声がひときわ大きい。
目立つ場所ほど人通りが多く、店構えも派手だった。
だが、レオンは中央だけを見るつもりはなかった。
市場の端。
人通りの少ない路地。
大通りから一本外れた場所。
そこにも商売はある。
むしろ、宣伝や立地ではなく、品物だけで客をつかんでいる店が見つかることもある。
市場を抜け、鍛冶屋や木工職人の工房が集まる一角へ足を向ける。
大きな鍛冶屋の前には、農具や刃物が派手に並べられていた。
店員が何人もおり、客へ次々と声をかけている。
品揃えは豊富だった。
同じ形の鍬や鎌がいくつも並び、大量に作っていることが分かる。
価格も比較的安い。
フィルネ村で販売する商品としては魅力的に見える。
だが、レオンはすぐに決めず、そのまま周囲を歩いた。
大通りから外れた細い道の先で、小さな鍛冶屋を見つけた。
看板は古く、店の名も煤で黒ずんでいる。
客を呼び込む声はない。
入口の横には、鍬や鎌、斧が数本ずつ並べられていた。
品数だけを見れば、先ほどの大きな店とは比べものにならない。
それでも、レオンは足を止めた。
並べられた農具の形が、どれもわずかに違っていたからだ。
同じ鍬でも、柄の長さや刃の角度が少しずつ異なる。
大量生産ではなく、使う者の体格や用途を考えて作ったのかもしれない。
レオンは店先に置かれた一本の鍬を手に取った。
見た目は地味だった。
刃に装飾はなく、柄にも目立つ彫刻はない。
だが、持ち上げた瞬間、重さの偏りが少ないことに気づく。
刃の重さに対して柄が軽すぎず、振り下ろしたときに力が自然に先端へ伝わりそうだった。
柄の表面も滑らかだ。
握る部分だけ、わずかに太さが調整されている。
刃と柄をつなぐ金具も、隙間なく取り付けられていた。
「勝手に持つなとは言わんが、落とすなよ」
奥から低い声が聞こえた。
姿を現したのは、四十代半ばほどの男だった。
太い腕。
短く切った髪。
煤で黒く汚れた革の前掛け。
愛想はない。
カイとは違う種類の寡黙さだが、職人らしい雰囲気を持っていた。
「すみません。手に取っても大丈夫ですか?」
「もう持ってるだろ」
「確かに」
レオンは苦笑した。
男はそれ以上何も言わず、鍬を見る。
「これは、どんな畑向けですか?」
「硬い土だ。刃を少し厚くしてる」
「その分、重くなっていますね」
「軽すぎれば、土へ入らん」
「柄の長さが隣の物と違うのは?」
「使う奴が違う」
予想どおり、注文に合わせて作っているらしい。
「完成品として売っているんですか?」
「注文が流れた物だ。受け取りに来なかった」
「品質に問題があったわけではない?」
「ない」
店主の答えは短い。
だが、質問にはきちんと答えている。
レオンは鍬を元の位置へ戻し、今度は隣の鎌を見る。
刃の厚み。
柄との接合。
表面の仕上げ。
どれも丁寧だった。
「長く使えそうですね」
「使い方が悪ければ壊れる」
「普通に使えば?」
「安物よりは持つ」
誇張しない。
自分の品を必要以上によく見せようともしない。
その態度も、レオンには好ましく感じられた。
「名前を聞いてもいいですか?」
「バルドだ」
「僕はレオンです」
「客か?」
「今は市場を調べています」
「買わないのか」
「今日は」
レオンは正直に答えた。
「村で扱う農具を探しています。ただ、価格だけで決めるつもりはありません」
バルドは少しだけ目を細めた。
「どこの村だ」
「フィルネ村です」
「遠いな」
「だから、壊れにくい物を探しています。簡単に買い替えへ来られませんから」
バルドは何も言わず、並んだ農具へ視線を向けた。
レオンは鍬の価格だけを確認した。
安くはない。
市場中央で売られていた大量生産品より、明らかに高かった。
だが、長く使えるのであれば、結果的には安くなる可能性がある。
特にフィルネ村では、買い替えるための時間と運搬費も考えなければならない。
「また来ます」
レオンはそう告げた。
「買う気があるならな」
「取引するかどうかも含めて、もう一度話を聞きに来ます」
「好きにしろ」
返事までカイに似ている。
レオンは心の中で少し笑いながら、鍛冶屋を後にした。
まだ取引はしない。
品質はよい。
店主の態度も悪くない。
だが、継続して仕入れられる量があるのか。
納期は守れるのか。
価格交渉の余地はあるのか。
修理用の部品だけでも売ってもらえるのか。
確認すべきことは残っている。
それでも、将来の仕入れ先候補として、バルドの名をノートへ書き加えた。
市場へ戻る途中、ひときわ大きな建物が目に入った。
正面には秤と硬貨を組み合わせた紋章が掲げられている。
出入りする者の多くが、帳面や荷札を手にしていた。
「商業ギルドか」
領都へ来た目的の一つだった。
商品を仕入れるだけなら、市場の店と話をまとめればよい。
だが、フィルネ村で継続して販売し、領都との間で商品を運ぶなら、領内の制度を理解しておく必要がある。
知らなかった。
聞いていなかった。
そんな言い訳は、商売では通用しない。
レオンは迷わず建物へ入った。
中は市場とは違い、落ち着いた空気が流れていた。
正面に長い受付台があり、その奥では何人もの職員が帳面を確認している。
壁際には商人たちが座るための椅子や机が並び、依頼書らしい紙を読んでいる者もいた。
「本日はどのようなご用件でしょうか?」
空いている窓口へ近づくと、女性職員が丁寧に声をかけてきた。
「フィルネ村で商売を始めたいと考えています。必要な手続きについて教えてください」
「どのような商売でしょう?」
「領都で工具や農具、日用品を仕入れ、村で販売する予定です。いずれは近隣の村へ運ぶことも考えています」
「店舗を構える予定ですか?」
「最初は既存の修理工房の一部を使うつもりです。行商も行う可能性があります」
職員は内容を確認し、いくつかの書類を取り出した。
「その場合、まず商人登録が必要になります」
レオンはすぐに紙と筆記具を取り出した。
職員の説明を、一つずつ書き留める。
商人登録。
領内で継続的に商品を売買する者は、基本的に登録を行う。
登録には本人確認と、商売の内容についての申告が必要となる。
登録した商人には記録証が発行され、取引の際に身元を示すことができる。
行商許可。
固定店舗以外の場所で商品を売る場合は、別途許可が必要となる。
領都内での露店販売と、村々を巡る行商では条件が異なる。
特に領境を越える場合は、別の手続きが求められることもある。
領内での販売方法。
自分の店や工房で売る場合。
定期市へ参加する場合。
注文を受けて商品を届ける場合。
それぞれで届け出や場所代の扱いが違う。
税金。
仕入れや販売にかかる税。
領都へ商品を持ち込む際に課されるもの。
利益に応じて納めるもの。
品目によって異なるものもある。
定期市への参加条件。
商人登録を済ませ、出店場所を申請する。
人気の高い場所は抽選や紹介が必要になることもある。
扱ってはいけない商品や、販売数量に制限がある品も存在する。
「修理工房で、仕入れた農具や日用品を販売することはできますか?」
「工房の所有者が同意し、商人登録を行っていれば問題ありません。ただし、鍛冶屋の製品を扱う場合、製作者や仕入れ先を記録しておくことを勧めます」
「品質に問題があった場合のためですか?」
「それもあります。盗品や不正に流通した商品を扱ったと疑われないためでもあります」
レオンの筆が止まった。
「仕入れの記録が重要ということですね」
「はい。誰から、いつ、何を、いくつ買ったのか。可能な限り残してください」
前世では当たり前に行っていたことだった。
請求書。
納品書。
仕入れ記録。
在庫表。
この世界では紙が高価で、すべてを同じように管理することは難しい。
それでも、最低限の記録は必要になる。
「商人登録をしていない者から仕入れることはできますか?」
「個人の職人から直接買い付けること自体は可能です。ただし、品物の出所が不明確な場合は注意してください」
「問題が起きれば、買った側にも責任がある?」
「事情によりますが、知らなかっただけでは済まない場合もあります」
レオンは小さくうなずいた。
商売を始めるなら、利益だけではなく責任も負わなければならない。
安いから。
便利だから。
誰にも知られないから。
そんな理由で規則を無視すれば、失うものは金だけではない。
「登録は今日できますか?」
「申請はできます。ですが、正式な確認には少し時間がかかります」
「必要なものを教えてください」
レオンは申請に必要な情報を確認し、用紙を受け取った。
フィルネ村へ戻る前に、提出できる部分は済ませておいた方がよい。
カイとの共同事業について、工房の使用許可を示す必要があれば、後日改めて用意する。
「丁寧に教えていただき、ありがとうございます」
「商売を始める前に確認へ来る方ばかりではありませんから」
職員は少しだけ表情を和らげた。
「分からないことがあれば、勝手に判断せず相談してください」
「そうします」
レオンは深く頭を下げ、受付を離れた。
建物の壁際には、何人かの商人が腰を下ろしていた。
荷物の到着を待っているのか。
職員との面談を待っているのか。
机の上へ帳面を広げ、互いに話をしている。
年齢も扱っている商品も違いそうだが、会話の内容は市場の価格や街道の状態についてだった。
「南の街道は、雨で一部がぬかるんでるらしい」
「なら、陶器は西回りにした方がいいな」
「ただ、西は通行料が高いぞ」
「割るよりましだ」
物流の話だ。
レオンは少し迷った後、自分から近づいた。
「お話し中、失礼します」
三人の商人が顔を上げる。
「何だ、坊主」
「商売を始めたばかりのレオンと申します。差し支えなければ、少しお話を聞かせていただけませんか?」
一人が眉を上げた。
「商売を始めたばかり?」
「正確には、これから始めます。フィルネ村で工具や日用品を扱う予定です」
「フィルネ村か。聞いたことはあるが、小さい村だろ」
「百人を少し超えるくらいです」
「そんな場所で商売になるのか?」
「調べた限りでは、需要があります」
レオンは素直に頭を下げた。
「まだ経験が足りません。領都の市場や仕入れについて、先輩方のお話を聞かせていただきたいんです」
三人は顔を見合わせた。
いきなり金を貸してほしいと言ったわけではない。
取引先を紹介しろと迫ったわけでもない。
若い少年が真面目に教えを求めていることへ、少し興味を持ったらしい。
「ただで情報をもらおうってのか?」
髭のある商人が試すように尋ねた。
「僕が持っているフィルネ村の情報でよければ、お話しします」
「何がある」
「農具修理の需要。村で不足している日用品。行商人の訪問頻度。村人が商品へ払える価格の感覚です」
髭の商人の目つきが変わった。
情報は一方的にもらうものではない。
相手にとって有益なものを返す。
それが交換である。
「座れ」
「ありがとうございます」
レオンは空いている椅子へ腰を下ろした。
三人はそれぞれ違う商売をしていた。
一人は乾物と塩を扱う行商人。
一人は布や糸を町や村へ卸している商人。
もう一人は農具や金物の仲介を行っているという。
「フィルネ村じゃ、何が一番足りない?」
「小さな金具や釘、丈夫な縄ですね。農具も新しい物をすぐ買えません」
「食料じゃないのか」
「農業の村なので、日常の食料は村内である程度賄えます。塩や油のように外から必要な物はありますが、雑貨屋も扱っています」
「なら、雑貨屋と競合するぞ」
「同じ物を大量に扱うつもりはありません。まずは、雑貨屋に置いていない物や、修理工房で必要になる部品から考えています」
「店主とは話したのか?」
「まだです」
「先に話せ。小さい村で敵を作ると商売にならん」
最初の助言だった。
レオンはすぐに書き留める。
フィルネ村で商品を売るなら、既存の雑貨屋との関係を考えなければならない。
村人のためになるからといって、同じ商品を無断で扱えば、店主から客を奪うことになる。
協力できる部分。
任せる部分。
競争する部分。
事前に整理する必要がある。
「農具なら、春先と収穫前に動く」
金物商人が言った。
「今の時期は修理用の部品の方が売れやすい。新しい鍬や鎌を仕入れすぎると、次の季節まで残るぞ」
「季節で需要が変わるんですね」
「当たり前だ。冬に農具を山ほど積んでも、誰も買わん」
「木こりや猟師の道具は?」
「冬でも動く。だが、村によって違う。森が近いなら斧や縄は売れるだろう」
布商人も口を開く。
「針や糸は一年中動く。ただし、高い品を持ち込んでも売れん。村の女たちは丈夫さを見るが、日用品へ出せる金には限りがある」
「品質を下げすぎると?」
「安くてもすぐ切れる糸は嫌われる。一度信用を失えば、次から買ってもらえない」
品質と価格の釣り合い。
安い商品だけを揃えればよいわけではない。
村人が求めているのは、払える範囲で長く使える品だった。
「領都と村では、どのくらい価格差をつけるものですか?」
「運賃と手間次第だ」
行商人が答える。
「同じ値段で売ったら、お前の飯代も出ない。だが、倍にすれば嫌われる」
「馬車代、宿代、運搬中の損失を含めて決める?」
「それに売れ残りもだ。全部売れると思うな」
レオンはうなずいた。
仕入れた商品がすべてすぐに売れるとは限らない。
在庫として置いている間にも、資金は寝る。
錆びる品。
傷む品。
流行や季節が過ぎれば売れにくくなる品もある。
「信頼できる問屋を知りたいなら、商業ギルドの掲示を見るといい」
布商人が言った。
「登録している問屋の中でも、長く続いているところを選べ。安すぎる店は理由を聞け」
「理由を説明できない安さは避けるべきですか?」
「盗品か、質が悪いか、すぐに店を畳むかだ」
「全部がそうとは限らんがな」
金物商人が補足する。
「安く仕入れる道を持ってる奴もいる。ただ、新人が見分けるのは難しい」
「最初は少量で試す?」
「それがいい。いきなり大きく買うな」
レオンは自分が考えていた方針と同じだと感じた。
最初は需要の分かっている品だけ。
少量を仕入れる。
売れ方と品質への反応を見る。
問題がなければ少しずつ増やす。
商人たちはほかにも、街道の状況、季節ごとの売れ筋、領都内の問屋について教えてくれた。
レオンもフィルネ村の情報を返した。
「修理屋の技術は高いです。農具だけでなく、荷車や家具も直せます」
「なら、完成品より部品を売った方が利益が出るかもしれん」
「修理できない場合には新品が必要になります」
「修理屋と組んでるのか?」
「はい。僕が仕入れと販売、相手が修理と製作を担当します」
「面白いやり方だな」
金物商人が感心したように言った。
「新品を売るだけの店より、相談しやすいかもしれん」
「村人も、直すか買うかを選べます」
「ただし、どっちを勧めるかで信用が決まるぞ」
「高い新品ばかり勧めれば、すぐに見抜かれる」
「覚えておきます」
気づけば、かなり長い時間話し込んでいた。
市場の店を歩くだけでは得られない情報が、次々と集まった。
最後に、レオンは三人の名前と扱っている商品を聞いた。
すぐに取引を頼むつもりはない。
それでも、もう一度会った際に名を呼べることは重要だった。
「ありがとうございました」
「礼はいい。フィルネ村で何が売れたか、今度教えろ」
「もちろんです」
「失敗した話もな」
「それも情報になるからですか?」
「成功した話より役に立つことがある」
商人たちは笑った。
レオンも笑いながら頭を下げ、席を立った。
人脈とは、誰かに紹介されて突然手に入るものではない。
自分から声をかけ、相手の話を聞き、こちらの情報も渡す。
その小さなやり取りが、次の会話へつながる。
前世と同じだった。
商業ギルドを出ようとしたところで、横から声をかけられた。
「若いのに、ずいぶん熱心だね」
振り返ると、身なりの整った男が立っていた。
年齢は三十代ほど。
上等な上着を着ており、髪もきれいに撫でつけられている。
見た目だけなら、成功した商人に見えた。
だが、笑顔が妙に馴れ馴れしい。
「先ほどの話を聞いていたんですか?」
「少しだけね。村で商売を始めるんだろう?」
「その予定です」
「領都で普通に仕入れていたら、利益なんてほとんど残らないよ」
男は周囲を確認し、声を落とした。
「もっと安く商品を手に入れる方法がある」
レオンは表情を変えなかった。
「どのような方法ですか?」
「市場価格より、かなり安い。工具も釘も日用品も揃えられる」
「仕入れ先は?」
「それは、取引が決まってから教える」
「商業ギルドへの届け出は?」
「必要ない」
男は笑みを深くした。
「面倒な手続きを通したら、税やら手数料やらで安くならないだろう?」
「商品の出所を示す記録は?」
「そんなものを残したら、安く売れる理由がなくなる」
「品質は保証されますか?」
「売れる品だけ選べばいい。村の連中には細かい違いなんて分からないさ」
都合が良すぎる。
安く仕入れられる。
手続きは不要。
誰にも知られず利益を出せる。
商品の出所は明かさない。
品質の保証もない。
前世でも、似たような話は何度も聞いた。
正式な流通を通さない商品。
検査を受けていない物。
盗品。
横流し品。
代金を先に受け取り、そのまま消える者。
最初の数回だけ正しい品を渡し、信用させてから粗悪品を混ぜる者もいた。
すべてが違法とは限らない。
だが、まともな取引である可能性は低い。
「誰にも知られず利益が出せるのは、魅力的だと思わないか?」
男が尋ねる。
「利益は魅力的ですね」
レオンは否定しなかった。
正面から悪い取引だと責めれば、男が何をするか分からない。
まずは会話を切り上げる。
「ただ、今日は市場を見に来ただけです。仕入れを決める段階ではありません」
「今決めれば、特別に安くできる」
「急いで決める理由は?」
「機会は待ってくれない」
「そうですね」
レオンは穏やかに笑った。
「だからこそ、急いで判断して損をしたくありません」
男の笑顔が少しだけ固まった。
「俺を信用できないと?」
「初めてお会いしたばかりですから」
「商人は決断が大事だ」
「確認も大事です」
「慎重すぎると、儲けを逃すぞ」
「信用を失うよりはましです」
レオンは短く頭を下げた。
「お話は覚えておきます。必要になれば、こちらから探します」
「名前も聞かずに?」
「必要になれば、商業ギルドへ登録されている方から探します」
男の目がわずかに細くなった。
商業ギルドへ登録していない。
あるいは、登録名を知られたくない。
どちらにしても、これ以上話を続ける価値はない。
「それでは」
レオンは相手へ背を向け、人の多い場所へ移動した。
追ってくる気配はない。
市場へ戻ってから、レオンは念のため周囲を確認した。
男の姿は見えなかった。
「うまい話ほど、裏がある」
小さくつぶやく。
市場価格より安いこと自体が悪いわけではない。
独自の仕入れ先を持つ商人。
大量に買うことで値引きを受ける商人。
傷のある商品を安く仕入れる商人。
安さには、さまざまな理由がある。
問題は、その理由を説明できるかどうかだ。
説明できない安さ。
記録を残せない取引。
誰にも知られてはいけない利益。
それは、フィルネ村で始める商売には必要ない。
一時的に大きな利益を得たとしても、粗悪品を村人へ売れば信用を失う。
不正な品と判明すれば、商人としての登録や許可まで失うかもしれない。
カイにも迷惑をかける。
工房そのものが信用されなくなる可能性もある。
それだけは避けなければならない。
その後も市場を歩き、いくつかの店で話を聞いた。
午前中に比べると客の流れは変わっている。
食料品の店は少しずつ値引きを始め、乾物や工具を扱う店には商人らしい客が増えていた。
同じ市場でも、時間によって客層と売れ方が変わる。
レオンはその変化も記録した。
日が傾き始める頃、宿へ戻った。
朝から歩き続けたため、足は重い。
それでも、疲労以上の充実感があった。
宿屋の食堂で簡単な夕食を取り、自室へ入る。
机の上へ、今日書いた紙をすべて広げた。
市場で見た商品の価格。
品質。
客の入り。
商人の態度。
先輩商人から聞いた情報。
商業ギルドの制度。
小さな鍛冶屋のこと。
怪しい男の誘い。
頭の中だけで整理しようとすれば、重要な点を見落とす。
レオンは項目ごとに分け、ノートへまとめ直した。
まず、フィルネ村で売れそうな商品。
丈夫な針。
中程度の品質の糸。
太さの違う釘。
簡単な金具。
猟師や木こりが使える縄。
農具の交換用部品。
小刀や鎌。
次に、領都での価格相場。
同じ商品でも、店によって差がある。
品質が違う場合。
立地が違う場合。
まとめ売りを前提としている場合。
単純に高い、安いだけでは判断できない。
信頼できそうな商人。
商業ギルドで話した三人。
市場で丁寧に商品説明をした店主。
仕入れの記録をきちんと残すと言った問屋。
腕の良い鍛冶屋。
市場外れのバルド。
品数は少ないが、農具の品質は高い。
価格は高め。
継続取引が可能か、次回確認する。
商業ギルドの制度。
商人登録。
行商許可。
領内販売の届け出。
税金。
定期市への参加条件。
仕入れ先と商品の記録。
怪しい流通経路。
登録や手続きを避けた取引。
商品の出所を示さない。
品質の保証もない。
安さだけを理由に近づかない。
すべてを書き終え、レオンは筆を置いた。
一日で多くの情報を得た。
だが、まだ商品は一つも仕入れていない。
取引相手も決まっていない。
それでよかった。
初日に急いで買い付ける必要はない。
市場を知る。
制度を知る。
人を知る。
その上で、相手を選ぶ。
商売では、商品そのものだけが財産になるわけではない。
正しい情報。
信頼できる人脈。
約束を守ってきた実績。
それらは、金貨と同じか、それ以上の価値を持つ。
前世でも、困ったときに最後まで助けてくれたのは、長く関係を築いてきた取引先だった。
反対に、目先の利益だけを追い、相手を裏切った者は、短期間で市場から姿を消した。
信用は目に見えない。
帳面へ金額として書くこともできない。
それでも、確かに商売を支えている。
レオンはノートの最後へ、一文を書き加えた。
『信用は一日では築けない。だが、一度失えば一瞬でなくなる』
書かれた文字を、しばらく見つめた。
カイは、レオンを信じて商売を任せると言った。
フィルネ村の人々も、少しずつレオンを信用し始めている。
だからこそ、その信用を安い商品や大きな利益と引き換えにするわけにはいかない。
明日からは、具体的な仕入れ先を選ぶ。
市場で気になった店を再訪する。
価格だけでなく、継続して取引できるかを確認する。
少量での仕入れ条件。
納期。
品質。
不良品が出た場合の対応。
そして、市場外れの鍛冶屋バルドとも、もう一度話をする。
商品を持ち帰るのは、それからだ。
レオンはノートを閉じた。
領都へ着いて、まだ二日目。
卸商としての仕事は、ようやく始まったばかりだった。




