第2話 新たな村、新たな一歩
王都を出てから、数日が過ぎた。
石造りの建物が並ぶ街並みはとうに見えなくなり、レオンの前には緩やかに続く街道と、どこまでも広がる草原がある。
街道とはいっても、前世で見慣れていた舗装された道路とはまるで違う。
土を踏み固めただけの道には、馬車の車輪が刻んだ二本の深い轍が伸びている。雨が降れば泥に変わり、乾けば細かな砂埃が舞い上がる。
ところどころに大きな石が転がり、道の端には雑草が伸びていた。
歩きやすい道とは言い難い。
それでも、王都と各地を結ぶ主要な街道の一つだけあって、人の往来は途切れなかった。
商品を積んだ荷馬車。
荷物を背負った旅人。
武器を腰に下げた冒険者らしき一団。
野菜や果物を荷台に並べ、王都へ向かう農民たち。
さまざまな人々が、それぞれの目的地を目指して進んでいく。
レオンは道の端へ寄り、後ろから来た荷馬車に道を譲った。
「悪いな、坊主!」
御者台に座る男が片手を上げる。
「いえ、お気をつけて」
短く答えると、荷馬車は車輪を軋ませながらレオンの横を通り過ぎていった。
荷台には、木箱と麻袋が隙間なく積み上げられている。
木箱は下に、麻袋は上に。
重い物を下へ置くという基本は守られているようだが、荷崩れを防ぐための縄は十分とは言えない。
道の状態が悪い場所で大きく揺れれば、上に積まれた荷物が落ちる可能性がある。
レオンは遠ざかっていく荷馬車を眺めながら、無意識に積み荷の量と配置を確認していた。
あの木箱の中身が割れ物なら、もう少し緩衝材が必要だ。
麻袋はおそらく穀物だろう。
荷台の右側に重さが偏っているため、曲がる際には注意した方がいい。
そんなことを考えた後で、レオンは小さく苦笑した。
「結局、見てしまうんだよな」
前世で商社に勤めていた頃、商品を無事に目的地へ届けることは何より重要だった。
どれほど優れた商品を仕入れても、必要とする相手のもとへ届かなければ意味がない。
輸送中に壊れてしまえば損失になる。
到着が遅れれば、取引先からの信用を失う。
保管方法を誤れば、売る前に商品価値が落ちる。
仕入れ、保管、運搬、販売。
そのすべてがつながって、初めて商売は成立する。
世界が変わっても、その本質まで変わるわけではないらしい。
「この世界でも、物流は商売の要か」
むしろ、前世よりも重要かもしれない。
この世界には自動車も鉄道もない。
荷物を大量に運ぶ手段は馬車が中心であり、道も整備されているとは言い難い。
一度に運べる量は限られ、天候や魔物の存在によって、予定どおりに荷物が届かないこともある。
だからこそ、何を、どれだけ、どのように運ぶのか。
その判断一つで、利益も損失も大きく変わる。
レオンは街道を歩きながら、すれ違う荷馬車を観察した。
穀物を運ぶ馬車。
陶器を積んだ馬車。
王都で売るためなのか、毛皮を何枚も重ねて運ぶ行商人。
馬車の種類も、荷物の積み方も、人によって大きく異なる。
荷物を丁寧に縄で固定している者もいれば、とにかく積めるだけ積んだような者もいた。
商人らしき男が御者を急かし、その隣で若い奉公人が崩れかけた木箱を必死に押さえている。
別の馬車では、荷台の一部が布で覆われ、中身が見えないように工夫されていた。
盗難を警戒しているのだろう。
前世の常識をそのまま当てはめることはできない。
だが、人が物を売り買いし、必要な場所へ運ぶ以上、商売の根本は同じだ。
そう考えると、見知らぬ世界の街道が少しだけ身近に思えた。
旅の途中、レオンは乗合馬車を利用することもあった。
だが、道の状態が悪い場所や、次の馬車を待つより歩いた方が早い区間では、自分の足で進んだ。
前世では一日中机に座るか、取引先を訪ねて歩き回る生活だった。
長距離を旅する経験などほとんどない。
そのため、最初の二日ほどは足の裏が痛み、肩にかけた鞄がひどく重く感じられた。
それでも、荷物を最小限に抑えていたおかげで、歩けないほどではなかった。
無理をしない。
日が落ちる前に休む場所を決める。
食料と水の残量を確認する。
体調に違和感があれば、すぐに休憩する。
前世でできなかったことを、レオンは一つずつ実行していた。
休むことは怠けることではない。
無理をして倒れれば、かえって多くを失う。
当たり前のことなのに、一度目の人生では最後まで理解できなかった。
だからこそ、今度は同じ失敗を繰り返すつもりはない。
昼を少し過ぎた頃、街道は深い森の中へ入った。
左右に立ち並ぶ木々は高く、枝葉が空を覆っている。
日差しは柔らかく遮られ、森の中にはひんやりとした空気が漂っていた。
鳥の鳴き声。
風に揺れる葉の音。
どこか遠くで流れる水の音。
王都の喧騒とはまるで違う静けさに、レオンは自然と歩調を緩めた。
もっとも、静かだからといって気を抜くことはできない。
この世界には魔物がいる。
街道周辺は定期的に討伐が行われているらしいが、それでも絶対に安全というわけではない。
レオンは周囲へ目を配りながら、先を急いだ。
幸い、魔物に出会うことはなかった。
森に入ってからしばらく歩くと、木々の隙間から明るい光が差し込んでくる。
やがて視界が開け、レオンは思わず足を止めた。
「おお……」
森の向こうには、広大な畑が広がっていた。
整然と並んだ畝には、青々とした作物が育っている。
畑の間には細い道が伸び、その先には木造の家々が集まっていた。
屋根の上から何本もの煙突が突き出し、白い煙が穏やかに空へ昇っている。
大きな壁もなければ、立派な門もない。
遠くから見れば、畑の中に家々が寄り添うように建っている、小さな村だった。
「あれがフィルネ村か」
レオンは王都を出る前に見た地図を思い出した。
王都から馬車でおよそ二日。
リケーザ領の街道沿いに位置する、小さな開拓村。
それがフィルネ村である。
旅を始める際、最初からここを目的地と決めていたわけではない。
王都から離れすぎず、それでいて静かに暮らせそうな場所。
まずはその条件に合う村をいくつか見て回るつもりだった。
フィルネ村は、その候補の一つにすぎなかった。
だが、森を抜けた先に広がる景色を見た瞬間、レオンの胸には素直な期待が湧いた。
広い畑。
小さな家々。
煙突から立ち上る煙。
道を行き交う人の姿も、王都に比べればずっと少ない。
「ここなら、静かに暮らせそうだ」
誰に聞かせるでもなく、レオンはつぶやいた。
前世で思い描きながら、叶えられなかった生活。
朝はゆっくりと起き、必要な分だけ働く。
自然の近くで暮らし、疲れた日は早めに休む。
そんな穏やかな日々を、この村なら手に入れられるかもしれない。
もっとも、景色がよいからといって、生活しやすいとは限らない。
仕事がなければ、どれほど静かでも暮らしてはいけない。
必要な物を買える店がなければ、不便さの方が勝る。
外から来た人間を受け入れない村である可能性もある。
期待だけで判断するのは危険だ。
「まずは、見てからだな」
レオンは再び歩き出した。
畑の間を通る道を進むにつれて、村の様子がはっきりと見えてくる。
村の入口には、簡素な木の看板が立てられていた。
そこには少し不揃いな文字で、フィルネ村と書かれている。
王都の門のような検問所はなく、見張りをする兵士の姿もない。
門番すら置かれていないらしい。
村の周囲には低い柵があるだけで、出入りを制限するものは何もなかった。
「本当に小さな村なんだな」
開拓村と聞いていたが、まだ村としての形が整ってから、それほど長い年月は経っていないのだろう。
村へ入ると、近くの畑で作業をしていた老人が顔を上げた。
鍬を持ったまま、見慣れないレオンの姿を眺めている。
少し離れた井戸のそばでは、桶を持った女性たちが小声で何かを話していた。
道端で遊んでいた子供たちは、隠れる様子もなく、興味深そうにレオンを見つめている。
外から来た人間が珍しいのだろう。
もっとも、その視線に強い警戒心は感じられなかった。
武器を向けられることもなければ、村へ入るなと止められることもない。
単純に、見知らぬ若者が気になるだけらしい。
「こんにちは」
レオンが老人へ声をかけると、老人は少し驚いた後、ゆっくりとうなずいた。
「ああ、こんにちは。旅の人かい?」
「はい。しばらく泊まれる場所を探しています。この村に宿屋はありますか?」
「宿なら、この道をまっすぐ行けばあるよ。食堂と一緒になってるから、看板を見れば分かる」
「ありがとうございます」
レオンが頭を下げると、老人は手にした鍬で村の奥を示した。
「小さな村だから、迷うほど道もないけどな」
老人の言葉どおり、村の道は単純だった。
中央を一本の広い道が通り、その両側に家や店が並んでいる。
王都のように複雑な路地はなく、初めて訪れた者でも迷うことはなさそうだ。
レオンは周囲を見ながら、教えられた道を進んだ。
家々の多くは木造で、土台だけが石で組まれている。
建物の大きさや形は少しずつ違い、増築した跡が残っている家も多い。
村が成長するにつれて、必要な部屋を付け足していったのだろう。
道の脇には鶏が歩き、家の前では女性が洗濯物を干している。
木材を運ぶ男たち。
野菜を入れた籠を抱える子供。
荷車の車輪を確認している老人。
誰もが何かしらの仕事をしていたが、王都の商業区ほど慌ただしくはない。
時間の流れそのものが、少しゆっくりしているように感じられた。
やがて、鍋と麦の穂が描かれた木の看板が見えてきた。
周囲の家より一回り大きな二階建ての建物で、入口の横には数頭の馬を繋げられる場所もある。
老人が教えてくれた宿屋に違いない。
扉を開けると、焼いた肉と煮込み料理の匂いが鼻をくすぐった。
一階は食堂になっており、木製の机と椅子がいくつか並んでいる。
昼時を少し過ぎていたため、客の姿はまばらだった。
奥の机で帳面を見ていた中年の男が、扉の音に気づいて顔を上げる。
「いらっしゃい。食事か? 泊まりか?」
「泊まりたいんですが、部屋は空いていますか?」
「ああ、空いてるよ。一人なら二階の小部屋だな」
男はレオンの鞄と旅装を見て、宿泊客だと判断したらしい。
「何泊する?」
「まだ決めていません。まずは三日ほどお願いできますか?」
「構わない。気に入ったら延ばせばいい」
宿屋の主人は気さくな様子で答えた。
レオンは宿代を確認し、三日分を先に支払う。
王都の宿よりもずっと安い。
食事代を加えても、当面の資金には十分な余裕があった。
もちろん、金貨五枚があるからといって無駄遣いをするつもりはない。
兄から受け取った大切な資金だ。
使うなら、生活の基盤を築くために役立てたい。
「ずいぶん若いな。見たところ一人旅か?」
支払いを終えると、宿屋の主人が尋ねてきた。
「はい。王都から来ました」
「王都から?」
主人は目を丸くし、改めてレオンの姿を見た。
「こんな何もない村に、何の用だ?」
「暮らせる場所を探しているんです。ここがどんな村なのか、しばらく見てみようと思っています」
「なるほどな」
主人は納得したような、していないような顔で腕を組んだ。
十四歳の少年が王都から一人で移り住もうとしているのだから、不思議に思うのも当然だろう。
しかし、詳しい事情を聞き出そうとはしなかった。
宿屋を営んでいれば、さまざまな事情を抱えた旅人を見ることになる。
客が話したがらないことへ、無理に踏み込まないようにしているのかもしれない。
「まあ、小さい村だが、暮らしに必要なものは一通り揃ってる」
「どんな店がありますか?」
レオンが尋ねると、主人は指を折りながら説明を始めた。
「鍛冶屋、雑貨屋、ここみたいな食堂。それから村長の家だな」
「村長の家も分かりやすい場所に?」
「村の中央にある、少し大きな家だ。何か困ったら、そこへ行けばいい」
「ほかには?」
「修理屋が一軒ある。村外れだから、初めてだと少し分かりにくいかもしれんがな」
「修理屋ですか」
「ああ。農具でも荷車でも、壊れた物なら大抵は見てくれる」
農業を中心とした村なら、修理屋の存在は重要だ。
鍬や鎌、荷車といった道具は、日々の仕事に欠かせない。
壊れるたびに新しい物を買う余裕がある家ばかりではないだろう。
直して使えるなら、その方が安く済む。
鍛冶屋と修理屋が別に存在することも興味深かった。
鍛冶屋が金属製品の製造や大きな加工を担い、修理屋が細かな補修や道具全体の調整を行っているのかもしれない。
「その修理屋は、どなたが?」
「カイっていう若い男だ。口数は少ないが、腕は悪くない」
カイ。
レオンはその名前を頭の中に記憶した。
「村は農業が中心ですか?」
「そうだな。麦と豆、それから季節ごとの野菜が多い。少し離れた場所じゃ家畜を飼ってる家もある」
「人口はどれくらいでしょう」
「正確な数は村長に聞かないと分からんが、百人を少し超えるくらいじゃないか?」
百人余り。
やはり、かなり小さな村だ。
商売をするなら、大量の商品を売る市場ではない。
だが、住民の生活に密着した需要ならある。
食料、日用品、農具、衣服、修理。
人口が少ないからこそ、一人一人が必要としているものを把握しやすいという利点もある。
もっとも、まだ数字だけで判断する段階ではない。
レオンは主人へ礼を告げ、二階の部屋へ荷物を置いた。
部屋は狭く、置かれているのは寝台と小さな机、それに椅子が一脚だけだった。
窓からは村の中央を通る道が見える。
豪華さはないが、掃除は行き届いている。
一人で寝泊まりするには十分だった。
レオンは鞄から必要な物だけを出すと、すぐに一階へ戻った。
疲れがないわけではない。
だが、まだ日が高い。
村の様子を知るには、実際に歩いて見るのが一番早い。
前世で新しい取引先や市場を調べる際も、資料だけを見て判断することはなかった。
現地へ行き、人の流れを見る。
店の場所を確認する。
どのような商品が、どのくらいの価格で売られているのかを調べる。
そこで暮らす人々が、何に困っているのかを知る。
商売を始めるなら、まず市場を知らなければならない。
自分が売りたい物を押しつけても、必要とされなければ意味がない。
「まずは情報収集だな」
レオンは宿屋を出た。
最初に向かったのは、村の中央だった。
中央には井戸があり、その周囲にいくつかの店が集まっている。
宿屋の主人から聞いた雑貨屋も、その一つだった。
店先には木桶、縄、布、油、塩、簡単な食器などが並んでいる。
品揃えは多くない。
だが、村人が普段の生活で必要とする物は一通り揃えているようだ。
レオンは商品を眺めながら、価格を頭の中で記憶していった。
王都より安い物もあれば、高い物もある。
村で作れる木製品や簡単な食器は安い。
一方、塩や油、上質な布のように外から運ばなければならない物は、王都より割高だった。
輸送費が価格に上乗せされているのだろう。
品物が届く頻度も、それほど高くない可能性がある。
店の奥では、店主らしき女性が棚の在庫を確認していた。
客は多くないが、村人が一人、縄と針を購入している。
必要なときに必要な物だけを買う。
まとめ買いをする者は少ないようだ。
次に鍛冶屋の前を通る。
建物の奥から、金属を打つ甲高い音が一定の間隔で響いていた。
入口の横には鍬や鎌、斧の刃が並べられている。
農具が中心だが、包丁や簡単な金具も扱っているらしい。
鍛冶屋の前には二人の村人が待っており、順番を待ちながら話をしていた。
仕事は途切れていないように見える。
その向かいには、小さな食堂がある。
宿屋にも食堂はあるため、村の規模を考えれば少し多いように思えた。
だが、こちらは酒を飲む場所として使われているらしい。
入口近くに空の酒樽が置かれ、壁には簡素な料理の札がかけられていた。
昼は畑仕事をする者が食事を取り、夜は村人が集まる場所になるのだろう。
村の中央から少し離れた場所には、周囲より大きな家があった。
宿屋の主人が言っていた村長宅だと思われる。
建物自体はほかの家と同じ木造だが、敷地が広く、入口の前には掲示板のようなものが立っている。
何枚かの紙が貼られていたが、今すぐ村長を訪ねる理由はない。
レオンは場所だけを覚え、そのまま通り過ぎた。
店の配置を確認した後は、村の住宅地を歩いた。
道沿いの家だけでなく、その裏手にも小さな家が点在している。
使われている家の前には薪や農具が置かれ、畑仕事に出ているのか、昼間は戸が閉まっている場所も多かった。
中には、長く人が住んでいないように見える家もある。
屋根の一部が傷み、庭に雑草が伸びている。
完全に崩れてはいないため、修繕すれば住めるかもしれない。
「空き家は、いくつかありそうだな」
宿屋に長く泊まり続ければ、それだけ費用がかかる。
この村を生活拠点にすると決めたなら、住む場所を確保する必要がある。
空き家を借りられるのであれば、新しく家を建てるよりずっと早い。
もちろん、勝手に使うわけにはいかない。
所有者や貸し出しの条件は、いずれ村長へ確認する必要があるだろう。
レオンは村の外側へ向かった。
住宅が少なくなると、再び畑が広がる。
麦畑のほかに、豆や根菜らしき作物を育てている区画がある。
作物の種類は家ごとに少しずつ違っていた。
すべての家が同じ物だけを作っているわけではなく、村の中である程度融通できるようにしているのだろう。
畑の端では、男たちが水路の泥を取り除いていた。
別の場所では、女性と子供が籠に野菜を詰めている。
農作業は家族単位で行われているように見えるが、重い仕事は近隣同士で協力しているらしい。
レオンは畑の広さと、働いている人数を見比べた。
正確な収穫量までは分からない。
それでも、村人の大半が農業に関わっていることは間違いなさそうだ。
農業中心の村では、季節によって人と金の動きが大きく変わる。
種をまく時期。
作物を育てる時期。
収穫の時期。
冬に備える時期。
忙しい季節と、比較的余裕のある季節がはっきりしているはずだ。
商品を売るにも、仕事を頼むにも、その時期を考える必要がある。
収穫前に高価な物を売ろうとしても、手元に金がなければ買ってもらえない。
逆に収穫後なら、道具の買い替えや家の修理に金を使う者が増えるかもしれない。
「まずは、一年の流れも知りたいな」
今すぐ商売を始めると決めたわけではない。
レオンの第一の目的は、前世のように仕事に追われない生活を手に入れることだ。
だが、生きていくためには収入が必要になる。
無理なく続けられる仕事を見つけるためにも、村の生活を知ることは重要だった。
畑を眺めながら歩いていると、道の先に古びた建物が見えた。
村のほかの家々から少し離れた場所に、一軒の小さな工房が建っている。
壁は長年の雨風で色あせ、屋根の端には補修した跡があった。
入口の横には、壊れた木箱や荷車の車輪、柄の折れた農具などが置かれている。
店の看板らしき板もあるが、文字は薄れ、遠くからではほとんど読めない。
建物だけを見れば、使われていない倉庫のようにも見えた。
しかし、中からは小さな金属音が聞こえている。
レオンが足を止めていると、近くを通りかかった村人の男が声をかけてきた。
「修理を頼みに来たのか?」
「いえ。あの建物が何なのか気になって」
「あそこが修理屋だよ」
宿屋の主人が話していた店らしい。
「カイの工房だ。農具でも家具でも、壊れた物を持っていけば直してくれる」
「一人でやっているんですか?」
「ああ。昔から手先が器用でな。愛想はないが、仕事は丁寧だ」
村人はそれだけ教えると、畑の方へ歩いていった。
レオンは礼を告げ、改めて工房へ視線を向けた。
入口の扉は開いている。
外から中を覗くと、一人の青年が作業台へ向かっていた。
年齢は二十歳前後だろうか。
短く切った黒髪。
日に焼けた肌。
大柄ではないが、腕や肩には仕事で鍛えられた筋肉がついている。
身につけている作業着には汚れが染みつき、革の前掛けには細かな傷がいくつも残っていた。
青年――カイは、壊れた鍬を修理しているようだった。
金属部分に大きな問題はないらしく、折れかけた木の柄を取り外し、新しい柄へ付け替えている。
動きに迷いがない。
柄の太さを確認し、道具を使って少しずつ削る。
鍬の金具へ差し込み、角度を確かめる。
わずかにずれていると判断すると、再び外して修正する。
ただ取り付けるだけではない。
実際に使う者の手に馴染むよう、重さと角度を調整しているように見えた。
レオンに農具修理の詳しい知識があるわけではない。
それでも、仕事が雑か丁寧かくらいは分かる。
カイの手元に無駄な動きはなく、一つ一つの作業に確かな理由があるように見えた。
「腕は良さそうだな」
小さくつぶやく。
その声が聞こえたわけではないだろうが、カイがふと顔を上げた。
鋭い目が、工房の外に立つレオンへ向けられる。
一瞬だけ、二人の視線が重なった。
レオンは会釈をするべきか迷った。
だが、カイは特に表情を変えなかった。
見知らぬ若者がいることを確認しただけらしく、すぐに手元へ視線を戻す。
再び木を削る音が響き始めた。
話しかけようと思えば、話しかけられた。
修理の仕事について聞きたいこともある。
だが、カイは作業の途中だ。
今、外から来たばかりの人間が声をかければ、邪魔になるかもしれない。
急ぐ必要はない。
今日は村に着いたばかりなのだ。
「また今度でいいか」
レオンは工房を離れた。
背後では、一定の間隔で道具を使う音が続いている。
それが妙に耳へ残った。
夕方が近づくと、村の雰囲気は少しずつ変わり始めた。
畑へ出ていた者たちが家へ戻り、道を歩く人の数が増える。
家々の煙突からは昼間より濃い煙が立ち上り、食事の支度をする匂いが村中へ漂い始めた。
子供たちは家族に呼ばれ、遊びをやめて帰っていく。
井戸の周りでは、女性たちが夕食に使う水を汲みながら話をしていた。
昼間に静かだと感じた村にも、暮らしの音がある。
畑仕事を終えた者の笑い声。
家畜の鳴き声。
薪を割る音。
鍋や食器が触れ合う音。
王都のような騒がしさはない。
だが、ここではここなりに、一日が確かに動いている。
レオンは宿屋へ戻り、一階の食堂で夕食を頼んだ。
出てきたのは、豆と野菜を煮込んだスープ、少し硬めのパン、それに薄く切った燻製肉だった。
豪華な料理ではない。
しかし、長い距離を歩いた後の体には、温かいスープがありがたかった。
豆と野菜の甘みが溶け込み、見た目以上に味はしっかりしている。
レオンは急がず、ゆっくりと食事を取った。
食堂には数人の村人が集まり、酒を飲みながら話をしていた。
聞き耳を立てるつもりはなかったが、小さな村では自然と会話が耳に入ってくる。
畑の水路について。
誰かの家の屋根が傷んだこと。
雑貨屋へ次の商品が届く日。
壊れた荷車を修理屋へ持っていくという話。
どれも、村人の日常に関わる話題ばかりだった。
レオンは食事を終えると、二階の部屋へ戻った。
窓の外はすでに暗くなり始めている。
王都と違い、夜を照らす灯りは少ない。
家々の窓から漏れる光と、道の角に置かれたいくつかの灯火だけが、村の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。
レオンは机の上に紙を広げた。
旅の記録や支出を書き留めるために持ってきたものだ。
小さな灯りを近くへ置き、今日見たことを順番に書いていく。
村の人口は百人余り。
主要な産業は農業。
麦、豆、野菜が中心。
店は宿屋兼食堂、別の食堂、雑貨屋、鍛冶屋。
村の中央には村長宅。
村外れに修理屋が一軒。
修理屋の主人はカイという若い青年。
腕は良いという評判。
空き家と思われる建物がいくつかある。
外から運ばれる商品は、王都より価格が高い。
生活に必要な店は一通り揃っているが、品揃えは限られている。
村人は外から来た者に興味を示すものの、強い警戒心はない。
レオンは書き終えた項目を一つずつ見直した。
たった半日歩いただけで分かったことにすぎない。
人口も正確ではなく、村人の暮らしや一年の流れも、まだほとんど理解できていない。
仕事があるのか。
自分が住める家を借りられるのか。
村人が外から来た自分を受け入れてくれるのか。
判断するには情報が足りなかった。
だが、少なくとも最初の印象は悪くない。
王都から適度に離れている。
人が少なく、静かに暮らせそうだ。
生活に必要な最低限の施設もある。
畑が多いため、食料が手に入りにくいということもないだろう。
何より、村全体に流れる空気が穏やかだった。
「生活拠点の候補としては、十分だな」
レオンは椅子の背にもたれた。
前世の自分なら、すぐに次の行動を決めていただろう。
不足している商品を探し、利益が出そうな仕事を考え、翌日の予定を細かく組む。
できるだけ早く結果を出そうとしたはずだ。
だが、今は違う。
焦って仕事を始める必要はない。
金はまだある。
数日調べたところで、生活に困るわけではない。
村をよく知らないまま動けば、見当違いのことをしてしまうかもしれない。
前世の知識があるからこそ、情報の大切さをレオンは理解していた。
まず市場を知る。
人を知る。
この村で何が必要とされているのかを知る。
それから、自分にできることを考えればいい。
「焦る必要はない。まずは、この村を知ろう」
紙を丁寧に折り、鞄へしまう。
寝台へ横になると、歩き続けた疲れが一気に押し寄せてきた。
薄い布団だったが、野宿や馬車の座席に比べれば十分に柔らかい。
窓の外から、虫の鳴き声が聞こえる。
遠くで犬が一度吠え、その後は静かになった。
王都の夜は、遅い時間になっても人や馬車の音が消えなかった。
それに比べて、フィルネ村の夜は驚くほど静かだ。
レオンは暗い天井を見つめた。
新しい村。
新しい部屋。
新しい生活。
まだ何一つ決まっていない。
この村に住むことになるのかも、どのような仕事をするのかも分からない。
それでも、不思議と不安ばかりではなかった。
明日は、今日よりも村のことを知ることができる。
村人と話し、店を見て、必要なら村長を訪ねてもいい。
村外れの修理屋についても、少し気になっていた。
黙々と農具を直していた青年。
カイという名の修理屋。
今日は言葉を交わさなかったが、いずれ話をする機会もあるだろう。
そう考えながら、レオンはゆっくりと目を閉じた。
慣れない旅の疲れもあり、眠りはすぐに訪れた。
フィルネ村で迎える、初めての夜。
このときのレオンは、翌朝、村人たちの慌ただしい呼び声によって目を覚ますことになるとは知らない。
そして、その出来事をきっかけに、村外れの修理屋カイと本当の意味で出会うことになるとも――まだ、知る由はなかった。




