第3話 修理屋との出会い
翌朝、レオンは宿屋の一階にある食堂で朝食を取っていた。
窓から差し込む朝日はまだ柔らかく、村の中央を通る道には、畑へ向かう村人たちの姿が見える。
食堂にいる客はレオンを含めて三人だけだった。
一人は畑仕事へ向かう途中らしい年配の男で、もう一人は大きな籠を足元に置いた女性だ。二人とも手早く食事を済ませると、宿屋の主人へ短く声をかけて外へ出ていった。
王都の朝とは、まるで違う。
大勢の人間が押し合うように道を進むこともなければ、商人たちが声を張り上げて客を呼び込むこともない。
それでも、村には村の動きがある。
畑へ向かう者。
家畜へ餌を与える者。
井戸から水を汲む者。
誰もが自分の役割を知り、一日を始めていた。
「どうだ。よく眠れたか?」
木の盆を抱えた宿屋の主人が、レオンの机へ近づいてきた。
「はい。静かだったので、よく眠れました」
「そりゃよかった。王都から来た人間には、静かすぎて落ち着かないって言われることもあるがな」
主人は笑いながら、焼いた薄切り肉の皿を机へ置いた。
朝食は、昨日の夕食と同じく質素なものだった。
少し硬いパン。
豆と野菜のスープ。
塩気の強い薄切り肉。
それに、香りの弱い温かな茶が付いている。
豪華ではないが、朝から歩き回ることを考えれば十分な量だった。
レオンは主人へ礼を述べると、パンをちぎってスープに浸した。
柔らかくなったパンを口へ運びながら、昨日書き留めた内容を頭の中で整理する。
フィルネ村の人口は百人を少し超える程度。
主要な産業は農業。
麦、豆、野菜を中心に栽培しており、少数ながら家畜を飼っている家もある。
村には鍛冶屋、雑貨屋、食堂、宿屋、修理屋がある。
最低限の生活には困らない。
一方で、外から運ばれる商品は品数が少なく、王都よりも高い。
村の中央を通る道は、王都から地方へ続く街道につながっている。
頻繁ではないものの、行商人や旅人も通る。
完全に閉ざされた村ではない。
人口だけを見れば、大きな商売には向かないだろう。
大量の商品を仕入れ、大量に販売するようなやり方は難しい。
だが、人の暮らしがある以上、必要とされる物や仕事は必ずある。
重要なのは、自分が何を売りたいかではない。
村人が何を求めているかだ。
前世の商社マン時代にも、売り手の都合だけで用意された商品が、倉庫の中で埃をかぶる光景を何度も見てきた。
性能が優れている。
価格が安い。
見た目が新しい。
それだけでは商品は売れない。
買う側が必要としていなければ、どれほど優れた物でも価値を持たないのだ。
「まずは、信頼か」
レオンは小さな声でつぶやいた。
村人から見れば、自分は昨日突然現れた正体の知れない若者にすぎない。
王都から来た商家の次男だと名乗ったところで、それだけで信用されるはずがない。
むしろ、王都から何をしに来たのかと警戒されても不思議ではなかった。
何か仕事を始めるにしても、商売をするにしても、先に村人との関係を築かなければならない。
顔を覚えてもらう。
挨拶を交わす。
困りごとがあれば力を貸す。
約束したことは守る。
そうした小さな積み重ねが、やがて信用になる。
前世でも、取引は契約書だけで成立していたわけではない。
最後にものを言うのは、人と人との関係だった。
「何か言ったか?」
宿屋の主人が首を傾げる。
「いえ。この村で暮らすなら、まず何をしたらいいか考えていたんです」
「もう住む気になったのか?」
「候補としては、かなり気に入っています」
レオンが答えると、主人は少し意外そうな顔をした。
「王都から来たなら、もっと大きな町の方が便利だろうに」
「便利すぎる場所には、少し疲れました」
それは、この世界で暮らした十四年間だけを指した言葉ではない。
前世で過ごした街は、何でも揃っていた。
夜になっても店は明るく、人も車も途切れない。
欲しい物はすぐに手に入り、遠くの相手とも簡単に連絡が取れた。
確かに便利だった。
だが、その便利さと同じ速さで、仕事も人も動いていた。
常に誰かから連絡が入り、次の予定に追われ、立ち止まる暇がなかった。
フィルネ村には、前世にあった便利な物の大半がない。
それでも、昨日一日歩いただけで、息苦しさを感じることはなかった。
「変わった若者だな」
主人はそう言って笑った。
レオンも曖昧に笑い返し、残っていたスープを飲もうとした。
そのときだった。
「おい! どうするんだ!」
宿屋の外から、大きな怒鳴り声が響いた。
食堂の窓が、かすかに震えたように感じられるほどの声だった。
「商品が台なしじゃないか!」
続けて、同じ男のものらしい叫び声が聞こえてくる。
宿屋の主人は眉をひそめ、手にしていた布巾を机へ置いた。
「朝から何の騒ぎだ?」
主人が入口へ向かう。
レオンも窓の外へ目を向けた。
村の中央を歩いていた者たちが、一斉に入口の方角を振り返っている。畑へ向かっていた村人の何人かは足を止め、そのまま声のする方へ歩き始めた。
ただの口論ではなさそうだ。
「見に行くぞ」
主人は扉を開けると、外へ出た。
レオンも急いで残っていた茶を飲み、後を追う。
村の入口へ近づくにつれて、人の声が増えていった。
「馬を押さえろ!」
「近づくな、蹴られるぞ!」
「こっちの箱も割れてる!」
何人もの村人が道の上に集まっている。
人垣の隙間から見えた光景に、レオンは足を止めた。
村の入口近くで、一台の荷馬車が横倒しになっていた。
荷台は大きく傾き、片側の車輪が不自然な方向へ外れている。
車輪を支えていた軸が折れたらしい。
荷台に積まれていた木箱や麻袋は、道の上へ散乱していた。
蓋の外れた木箱からは、陶器の皿や小瓶がこぼれ落ちている。
麻袋の一つは破れ、中から乾燥させた豆が土の上へ広がっていた。
別の箱には布が入っていたようで、色とりどりの布地が荷台の下へ垂れ、土埃にまみれている。
荷馬車を引いていた馬は、横倒しになった荷台に引かれる形で身動きを取れなくなっていた。
幸い、馬そのものに大きな怪我はないようだ。
しかし、突然の事故と周囲の騒ぎに怯え、鼻息を荒くしながら何度も頭を振っている。
「どうしてくれるんだ!」
荷馬車のそばに立つ小太りの男が、村人たちへ向かって怒鳴っていた。
派手な色の上着と、腰に下げた大きな革袋。
道の上に散らばっている商品から見ても、行商人だろう。
「この道に穴があったせいだ! 村の近くなんだから、ちゃんと直しておくべきだろう!」
「穴っていっても、街道の管理は村だけの仕事じゃないぞ」
村人の一人が言い返す。
「そんなことは知らん! 俺の商品が壊れたのは事実だ!」
行商人は顔を赤くしながら、散らばった荷物を指した。
自分の財産が壊れたのだから、取り乱す気持ちは理解できる。
だが、怒鳴ったところで荷馬車が直るわけではない。
レオンは人垣から少し離れ、現場全体を見た。
最初に確認すべきは馬だ。
荷台とつながったままでは、怯えた馬が暴れる可能性がある。
馬が暴れれば、人が怪我をするだけでなく、散らばった商品もさらに壊れる。
次に荷馬車。
折れた軸だけを直せば動くのか、それとも別の部分も傷んでいるのか。
そして、荷物。
壊れた物。
無事な物。
汚れた物。
すぐに乾かす必要がある物。
それらが混ざったままでは、被害が広がる。
「親父さん、何があった?」
宿屋の主人が、近くにいた村人へ声をかけた。
「街道から村へ入るところで、急に車輪が外れたらしい。荷物が片側へ崩れて、そのまま横倒しだ」
「直せそうな奴は?」
「誰かがカイを呼びに行った」
その名前を聞き、レオンは昨日見た青年の姿を思い出した。
村外れの古びた工房。
無言で農具を直していた修理屋。
村人が呼びに行ったのであれば、間もなく来るはずだ。
レオンはそれまでの間に何かできないかと、もう一度周囲を確認した。
村人たちは善意から集まっている。
しかし、誰も何をすればよいのか分からず、それぞれが散らばった荷物を覗き込んでいるだけだった。
中には、無事な箱を持ち上げようとしている者もいる。
だが、置き場所が決まっていないため、持ち上げた後で立ち尽くしていた。
「その箱は触るな! 高い商品なんだぞ!」
行商人が怒鳴る。
声をかけられた村人は顔をしかめ、箱から手を離した。
このままでは、誰も手を貸さなくなる。
「馬を先に外した方がいいんじゃないか?」
誰かが言う。
「暴れたら危ないぞ」
「じゃあ、誰がやるんだ?」
「馬を扱える奴を呼んでこい」
「修理屋はまだか?」
声だけが飛び交い、現場は少しも進んでいなかった。
やがて人垣の後ろから、落ち着いた声が聞こえた。
「通してくれ」
村人たちが左右へ分かれる。
現れたのは、昨日工房で見かけた青年だった。
カイは工具の入った革鞄を片手に持ち、足早に荷馬車へ近づいた。
周囲の騒ぎにも、行商人の怒鳴り声にも表情を変えない。
倒れた荷馬車の前で立ち止まると、まず馬へ視線を向けた。
「馬を落ち着かせる。大声を出すな」
短い言葉だった。
だが、その声には迷いがなかった。
行商人が何か言い返そうと口を開いたものの、近くの村人に肩を押さえられ、渋々黙る。
カイは馬の正面へ回り込まず、少し離れた横から静かに近づいた。
低い声で何度か呼びかけ、馬の様子を見ながら手綱を取る。
しばらくすると、荒かった馬の息が少しずつ落ち着いてきた。
「そっちの二人、荷台を少し支えてくれ。急に動かすな」
カイが村人二人を指す。
「馬具を外す。荷台が動いたら馬が驚く」
指示された村人たちは、今度は迷わず荷台へ手をかけた。
カイは馬具の状態を確認し、絡まっていた革紐を一つずつ外していく。
無理に引っ張らず、荷重がかかっている部分を見極めながら順番に外しているようだった。
やがて馬が荷馬車から切り離されると、村人の一人が手綱を引き、少し離れた場所へ連れていった。
「馬は大丈夫そうか?」
宿屋の主人が尋ねる。
「脚に大きな怪我はない。後で念のため歩かせて確認する」
そう答えると、カイはすぐに荷馬車の下へしゃがみ込んだ。
外れた車輪だけでなく、荷台の下や反対側の車輪まで確認している。
手で木材を押し、金具へ触れ、工具の柄で軽く叩いて音を聞く。
しばらく調べた後、カイは顔を上げた。
「車軸が折れてる。だが、それだけじゃない」
「ほかにも壊れてるのか?」
行商人の顔が引きつる。
「荷台の支えが一本割れてる。反対側の車輪も留め金が緩んでる。このまま軸だけ直して走れば、また倒れる」
「直せるのか?」
「直す」
カイはそれだけ答えると、工具鞄を開いた。
迷う様子はなかった。
必要な道具を取り出し、折れた部分の長さを測る。
荷馬車の下へ潜り込み、傷んだ木材の状態を確かめる。
周囲の者へ指示を出し、荷台の傾きを少しずつ戻していく。
大勢の村人がいるにもかかわらず、現場の中心は一瞬でカイに変わっていた。
声を荒らげることはない。
長々と説明することもない。
必要なことだけを伝え、自分の作業へ戻る。
レオンは少し離れた場所から、その動きを観察していた。
昨日、農具を修理する姿を見たときにも腕が良さそうだとは感じた。
だが、今目の前で行われている作業を見て、その評価を改める。
かなり腕がいい。
壊れた部分だけを見ているのではない。
事故が起きた原因と、事故によって新たに傷んだ場所を分けて考えている。
車軸が折れた。
それによって荷台が傾いた。
荷物の重さが片側へ集中し、支えが割れた。
反対側の車輪にも余計な負担がかかり、留め金が緩んだ。
おそらく、そうした一連の流れを現場を見ただけで把握したのだ。
表面的な損傷だけを直せば、荷馬車は一時的には動くだろう。
しかし、道を進むうちに再び壊れる。
カイはそれを防ぐため、事故の影響を受けた箇所まで確認していた。
前世で、設備や機械の修理を依頼したときのことを思い出す。
腕の悪い業者は、壊れた部品だけを交換して帰っていった。
腕の良い技術者は、なぜ壊れたのかまで考え、再発しないように調整した。
カイは明らかに後者だ。
修理の方は、カイに任せれば問題ない。
では、自分にできることは何か。
レオンは散乱した荷物へ目を向けた。
こちらは、まだほとんど手つかずだった。
村人たちはカイの作業を見守っている。
行商人は壊れた荷馬車と商品を交互に見ながら、落ち着きなく歩き回っている。
このまま修理だけが終わっても、荷物を積み直すまでには時間がかかるだろう。
しかも、何も考えずに積めば、再び荷崩れを起こす可能性がある。
「少し、手伝ってもいいですか?」
レオンは行商人へ声をかけた。
「何だ、お前は?」
「昨日この村へ来た旅人です。荷馬車の修理はできませんが、荷物の整理なら手伝えます」
「商品に勝手に触るな。壊したらどうする」
予想どおりの反応だった。
行商人は苛立ち、レオンを追い払うように手を振る。
だが、レオンは引かなかった。
「このまま道に置いておく方が危険です。無事な商品と壊れた商品が混ざっていますし、後から荷馬車に積み直すときにも時間がかかります」
「だからって、お前に何ができる」
「種類と状態ごとに分けます。積み込みやすい順番に並べておけば、荷馬車が直った後すぐに出発できます」
行商人は疑うように目を細めた。
レオンの年齢を見れば、信用できないと思うのも無理はない。
そこでレオンは、散らばった荷物を指しながら説明を続けた。
「あちらの木箱には陶器が入っています。無事な物と割れた物を同じ箱へ戻せば、破片で残った商品まで傷つきます。布は土の上へ置いたままだと汚れが広がるので、先に乾いた場所へ移した方がいい。豆はすべて拾うのは難しいですが、破れていない袋とは分けておくべきです」
「……中身を見ただけで分かるのか?」
「見れば分かることだけです」
実際には、前世の経験から自然と整理の手順が浮かんでいた。
破損品と良品を分ける。
種類ごとに分類する。
積み直す順番を考え、重い物と壊れにくい物を先に置く。
割れ物は衝撃を受けにくい位置へ置き、隙間を作らない。
単純なことだが、混乱した現場では、その単純な判断が難しくなる。
「好きにしろ。ただし、これ以上壊すなよ」
行商人は不満そうに言った。
許可を得たレオンは、周囲の村人へ向き直った。
「手を貸していただけますか?」
「俺たちでよければ」
先ほど行商人に怒鳴られた男が答える。
ほかの村人たちも、何かできるならと近づいてきた。
「ありがとうございます。まず、荷物を置く場所を分けます」
レオンは道の脇にある平らな場所を確認した。
「こちらに無事な木箱を置いてください。ただし、中身が割れ物の箱は手前へ。重い箱は奥に置きます」
「分かった」
「布は土へ直接置かず、誰か家から大きな布か板を借りられませんか?」
「あそこの家なら、古い敷物があるはずだ」
「お願いします。それから、割れた陶器は一か所へ集めてください。素手では触らず、厚い布を使ってください」
村人たちが動き始める。
一人が敷物を借りに走り、別の者は散らばった木箱を確認する。
レオンは荷物を一つずつ見ながら、置き場所を指示した。
「その箱は重そうなので、二人で運んでください」
「これはどこだ?」
「瓶が入っていますか?」
「ああ。何本か割れてる」
「では、こちらへ。箱を傾けずに運んでください。液体が漏れているなら、ほかの商品から離します」
「この麻袋は?」
「破れていないものは、あちらへ積んでください。破れている物は中身がこぼれないよう、先に口を上へ向けます」
最初は戸惑っていた村人たちも、指示が具体的だと分かると動きが速くなった。
誰が何をするのか。
どこへ運ぶのか。
次に何をすべきか。
それが決まるだけで、現場の混乱は目に見えて減っていく。
レオンは全体を見ながら、手が止まっている者へ次の仕事を割り振った。
自分でも小さな箱を運び、陶器の状態を確認する。
無事な皿は一枚ずつ布で包み直し、欠けた物とは分ける。
布地は敷物の上へ広げ、汚れの少ない物と、泥が付いた物を分けた。
商品すべてを元の状態へ戻すことはできない。
だが、これ以上の損失は防げる。
「坊主、こっちの箱はどうする?」
村人の一人が尋ねる。
中を見ると、小さな金属製品が無造作に入っていた。
針や留め具、簡単な工具の部品らしい。
「中身が小さいので、蓋を確認してください。外れそうなら縄で縛ります。荷馬車へ積むときは、下に置かない方がいいですね」
「重い物を下にするんじゃないのか?」
「基本はそうです。ただ、この箱は隙間が多いので、上から強い荷重をかけると中身が変形するかもしれません。割れ物の近くを避けて、中段に置きましょう」
「なるほどな」
村人は感心したようにうなずいた。
作業を続けるうちに、道を塞いでいた荷物は少しずつ種類ごとに並べられていった。
無事な商品。
破損した商品。
汚れた商品。
すぐに積み直せる物。
簡単な処置が必要な物。
最初は何がどこにあるのか分からなかった現場が、次第に整理されていく。
カイは荷馬車の下で作業をしながら、ときどきこちらへ目を向けていた。
しかし、何か口を挟むことはない。
レオンも、修理について指示を出すつもりはなかった。
自分が分からない分野へ、知ったふりで口を出すべきではない。
カイにはカイの仕事がある。
レオンにはレオンのできる仕事がある。
互いに邪魔をせず、それぞれが必要な作業を進める。
それだけで、現場は驚くほど順調に動いた。
「そっち、少し持ち上げてくれ」
カイの声がする。
三人の村人が荷台を支え、カイが新しい支え木を取り付ける。
折れた車軸は、完全に新しい物へ取り替えるのではなく、応急用の木材と金具で補強していた。
村にある材料だけで、次の町まで走れる状態へ直すつもりなのだろう。
木材の長さを調整し、金具を打ち込み、何度も回転を確認する。
反対側の車輪も外し、緩んでいた留め金を締め直していた。
派手な作業ではない。
それでも、一つ一つの手順が早く、正確だった。
やがてカイは工具を置き、車輪を手で回した。
滑らかに回転することを確認した後、荷台を何度か強く押す。
軋む音はしたが、不自然な揺れはない。
「立てるぞ」
カイの指示で、村人たちが荷馬車へ縄をかけた。
全員で力を合わせ、ゆっくりと横倒しになった荷台を起こしていく。
車輪が地面へ触れる。
一度大きく揺れたものの、荷馬車はそのまま倒れることなく立ち上がった。
「おお……」
村人たちから声が上がる。
カイは周囲の反応を気にする様子もなく、もう一度車軸と支え木を確認した。
「次の町までは走れる。ただし、速度は出すな。大きな穴は避けろ。町へ着いたら、車軸は新しい物に替えた方がいい」
「本当に動くんだろうな?」
行商人が疑わしげに尋ねる。
「試せば分かる」
カイは馬を連れてくるよう村人へ頼み、馬具を取り付け直した。
馬にも異常がないか確認した後、荷馬車を少しだけ前へ進める。
修理された車輪は傾くことなく回り、荷台も安定していた。
「大丈夫そうだな」
宿屋の主人が感心したように言う。
「さすがカイだ」
「見ただけで、あそこまで壊れてる場所が分かるんだからな」
周囲の村人たちも口々に褒める。
カイは返事をせず、工具を片付け始めた。
その頃には、荷物の整理もほとんど終わっていた。
「こちらも積み直せます」
レオンは行商人へ声をかけた。
行商人は道の脇へ並べられた商品を見て、目を見開いた。
事故直後には散乱していた荷物が、種類と状態ごとにきれいに分けられている。
壊れていない木箱は積み込みやすい順に並び、破損品は別の場所へまとめられていた。
「いつの間に……」
「先に重い箱から積みます。左右の重さが偏らないようにしてください」
レオンは村人たちへ再び指示を出した。
荷台の奥へ、重く壊れにくい商品を置く。
左右の重量を見ながら、木箱を交互に積む。
麻袋は隙間を埋めるように置き、割れ物の入った箱は揺れにくい位置へ固定する。
布地は汚れないよう包み直し、上の方へ載せた。
「その箱を少し右へ」
「これくらいか?」
「もう少しです。はい、そこで大丈夫です」
「こっちの袋は?」
「左側へ置いてください。先ほどより反対側が重くなっています」
行商人は最初こそ不満そうに見ていたが、整然と積み上がっていく荷物を前に、次第に口を閉ざした。
最後に全体を縄で固定する。
レオンは左右から荷台を確認し、緩んでいる箇所がないかを確かめた。
「これで、先ほどよりは崩れにくいはずです」
「お前、荷運びの経験があるのか?」
行商人が尋ねる。
「似たようなものです」
前世で、自分が荷物を直接積み込む機会は多くなかった。
だが、倉庫や物流現場へ足を運び、積み込み作業を見ることは何度もあった。
事故や破損が起きれば、原因を確認し、再発を防ぐ方法も考えた。
そこで得た知識が、この世界でも役に立ったのだ。
「終わったぞ」
カイが短く告げた。
工具鞄を閉じ、荷馬車から離れる。
行商人は荷台の周囲を一度回り、車輪と積み荷を確認した。
散らばった豆や割れた陶器までは元に戻らない。
それでも、事故直後の状態と比べれば、損害は最小限に抑えられている。
荷馬車も再び走れる。
これなら、予定より遅れたとしても次の町へ向かうことはできるだろう。
「まあ……助かった」
行商人は気まずそうに言った。
深く頭を下げるでもなく、カイと村人たちへ順番に視線を向ける。
「礼は言っておく。お前たちのおかげで、出発できそうだ」
そう言うと、行商人は御者台へ乗り込もうとした。
カイは特に引き止める様子を見せなかった。
村人たちも、事故が片付いたことで帰り始めている。
レオンは一瞬、聞き間違えたのかと思った。
「あの」
御者台へ足をかけた行商人へ声をかける。
「何だ?」
「修理代は支払わないんですか?」
周囲の空気が止まった。
帰りかけていた村人たちが足を止め、レオンと行商人を交互に見る。
カイも工具鞄を持ったまま、わずかに顔を上げた。
「修理代?」
行商人は眉をひそめた。
「困っていたんだ。助けるのは当然だろう」
「助けることと、対価を支払わないことは別です」
レオンは静かに答えた。
「村人たちは善意で荷物を運びました。それについてまで金を払えと言うつもりはありません。でも、カイさんは修理屋です。修理を仕事にして生活しています」
「だが、俺が頼んだわけじゃない。村の連中が勝手に呼んだんだ」
「あなたは修理を断りましたか?」
「それは……」
「荷馬車を直してもらい、その修理のおかげで出発できる。利益を受けているのは、あなたです」
行商人の表情が険しくなる。
「若造が、偉そうに商売を語るな」
周囲の村人が不安そうに顔を見合わせた。
行商人は村へ商品を運んでくる存在でもある。
揉め事になれば、今後この村へ来なくなる可能性もある。
レオンにも、それは分かっていた。
だからこそ、感情的に責めるつもりはない。
必要なのは、相手が支払う理由を理解できる形で示すことだ。
「偉そうに聞こえたなら、すみません」
レオンは一度頭を下げた。
行商人の怒りを真正面から受け止めず、少しだけ逃がす。
その上で、言葉を続けた。
「ですが、あなたも商人なら、技術に価値があることは分かるはずです」
「……何が言いたい」
「荷馬車が壊れたままなら、どうなっていましたか?」
行商人は答えない。
「商品をこの村に置き、修理できる者を別の町から呼ぶ必要があったかもしれません。その間の宿代、修理屋を呼ぶ費用、予定が遅れることで失う信用。それに、商品を運べなければ売上も入りません」
レオンは指を折るように、一つずつ挙げていった。
「カイさんは、その損失を防ぎました。壊れた車軸だけでなく、荷台の支えと反対側の車輪まで直しています。もしそこに気づかず出発していたら、街道の途中でもう一度事故を起こしていたかもしれません」
村人たちの視線が、カイへ集まる。
カイ本人は黙ったままだった。
「困っている人を助けるのは当然だと言うなら、その考え自体は立派だと思います。でも、修理屋が毎回ただで仕事をしていたら、どうなりますか?」
「……」
「道具を買う金も、材料を買う金もなくなります。食べていくこともできません。そうなれば修理屋は仕事を続けられない。次に誰かが困ったとき、助けられる者がいなくなります」
行商人は何も言わない。
レオンは声を荒らげず、淡々と続けた。
「技術が必要だったから、カイさんが呼ばれたんです。その技術によって、あなたは再び出発できる。ならば、その価値に対して金を支払うべきです」
「だが、いくら払えばいいんだ。最初に値段も聞いていない」
「それはカイさんと相談すればいいでしょう。少なくとも、何も支払わずに立ち去る理由にはなりません」
村人の一人が、小さくうなずいた。
「そりゃ、そうだな」
「カイだって、材料を使ってるもんな」
「車軸の補強に金具も使ってたぞ」
別の村人たちも声を上げる。
行商人は周囲を見回した。
先ほどまで自分の味方でも敵でもなかった村人たちが、今はレオンの言葉に納得している。
ここで無理に立ち去れば、行商人自身の評判を落とすことになる。
商売を続ける者にとって、悪評は損失だ。
レオンはそのことを口には出さなかった。
相手が自分で理解できる余地を残した方が、話はまとまりやすい。
「……分かった」
行商人は大きく息を吐いた。
御者台から降りると、腰の革袋を開く。
「修理代はいくらだ?」
カイがわずかに眉を寄せた。
突然話を振られ、困っているようにも見える。
「材料分でいい」
「それじゃ駄目です」
レオンがすぐに口を挟む。
カイがこちらを見る。
初めて、はっきりと視線がぶつかった。
「材料費だけでは、作業した時間の分が入っていません」
「直せたから、それでいい」
「あなたがよくても、商売としてはよくありません」
「俺の仕事だ」
「だからこそです」
レオンはため息をこらえた。
技術は確かだ。
しかし、商売については想像していた以上に関心が薄いらしい。
自分の仕事へ値段をつけること自体、苦手なのかもしれない。
行商人が苛立った様子で二人を見比べる。
「結局、いくらなんだ?」
カイがしばらく考えた後、控えめな金額を口にした。
使った木材と金具の代金に、わずかな手間賃を加えただけの額だった。
レオンには安すぎるように思えた。
それでも、最初から料金を決めていなかったことを考えれば、今はそれ以上口を出すべきではない。
行商人も予想より安かったのか、反論せずに硬貨を取り出した。
「これでいいな」
カイへ手渡す。
カイは受け取った硬貨を一度見ただけで、革の小袋へしまった。
「ああ」
「次の町まで壊れないんだろうな?」
「言ったとおり、速度を出さず、大きな穴を避ければ走れる。町へ着いたら車軸を交換しろ」
行商人は不満そうに鼻を鳴らしたが、今度は何も言い返さなかった。
御者台へ乗り込み、手綱を握る。
「世話になった」
先ほどよりも少しだけ素直な声だった。
馬が歩き出し、荷馬車がゆっくりと動く。
修理された車輪は問題なく回り、積み直した荷物も大きく揺れてはいない。
村人たちは道を空け、遠ざかっていく荷馬車を見送った。
姿が小さくなると、張り詰めていた空気がようやく緩んだ。
「朝から大変だったな」
「でも、無事に出ていけてよかった」
「カイの腕は大したもんだ」
「王都から来た坊主も、なかなかやるじゃないか」
村人たちは口々に話しながら、それぞれの仕事へ戻っていく。
レオンへ声をかける者もいた。
「助かったよ。あのままじゃ、いつまでたっても荷物が片付かなかった」
「指示が分かりやすかったな」
「商人の荷物を扱ったことがあるのか?」
レオンは笑って曖昧に答えた。
前世の話をするわけにはいかない。
王都の商家で、少しだけ荷物の扱いを見ていたと説明すれば、不自然には思われないだろう。
やがて、宿屋の主人も店へ戻っていった。
道の上に残ったのは、レオンとカイだけだった。
正確には、少し離れた場所で事故の跡を眺めている村人が数人いる。
それでも、先ほどまでの騒がしさとは比べものにならないほど静かだった。
カイは地面に落ちていた木片や金具を拾い、工具鞄へ入れている。
レオンも、破れた縄の切れ端を拾った。
「昨日来た旅人だったな」
不意に、カイが言った。
レオンは顔を上げる。
「覚えていたんですか?」
「工房の前にいた」
昨日、視線が合ったのは一瞬だけだった。
カイはすぐに作業へ戻ったため、気にも留めていないと思っていた。
「話しかけようかと思ったんですが、仕事の邪魔になりそうだったので」
「用があったのか?」
「昨日は、どんな仕事をしているのか気になっただけです」
レオンは手にしていた縄の切れ端をまとめ、道の端へ置いた。
「改めて名乗ります。レオンです」
少し迷った後、付け加える。
「商人志望のレオンです」
「商人志望?」
「まだ、自分の商売を持っているわけではありませんから」
ハルバート家の息子ではある。
商売の知識も、前世の経験もある。
だが、この世界で自分自身の力で稼いだ実績はない。
今の自分を商人と名乗るのは、少し違うように思えた。
「王都から、商人になるために来たのか?」
「それだけではありません。静かに暮らせる場所を探しています」
カイは理解できないというように眉を寄せた。
「静かに暮らしたいのに、商人になるのか」
「生活するには金が必要ですから。働かずに暮らせるほど、お金は持っていません」
「さっきは、ずいぶん口が回っていた」
「あれは、払うべきものを払ってもらっただけです」
「俺は、材料代だけでよかった」
「それでは困ります」
「なぜ、お前が困る」
もっともな疑問だった。
カイにとっては、今日初めて話す相手である。
その相手が突然、自分の仕事の値段に口を出したのだ。
不快に思われても仕方がない。
「あなたの技術に価値があると思ったからです」
レオンは正直に答えた。
「壊れた車軸だけでなく、荷台の支えや反対側の車輪まで確認していました。あれだけの修理をして材料代だけでは、仕事を続けられません」
「今までも続いてる」
「今後も続けられるとは限りません」
カイは黙った。
怒っているようには見えない。
ただ、レオンの言葉の意味を考えているようだった。
「それに、無料で直してもらえると知られたら、誰も修理代を払わなくなります」
「村の奴らは払う」
「村人以外が払わないなら同じです」
「お前は、変わってるな」
カイがぼそりと言った。
レオンは少し笑った。
「昨日、宿屋の主人にも同じことを言われました」
「そうか」
「僕からすると、あなたも変わっていますけど」
「俺が?」
「技術があるのに、その価値をあまり気にしていないところが」
カイは自分の手を見た。
木屑と油で汚れ、細かな傷がいくつも付いている。
「直せる物を直してるだけだ」
「それができない人が多いから、仕事になるんです」
「よく分からん」
「そのうち分かります」
「なぜ、お前が決める」
カイの声は淡々としていたが、わずかに呆れているようにも聞こえた。
レオン自身も、少し言いすぎたと思った。
「すみません。商売のことになると、つい」
「やっぱり商人なんじゃないか」
「まだ志望です」
「どっちでもいい」
カイは工具鞄を持ち上げた。
「修理屋のカイだ」
短い自己紹介だった。
「はい。昨日、村の人から聞きました」
「なら、知ってるだろ」
「本人から聞くのとは違います」
カイはまた不思議そうな顔をした。
表情の変化は小さい。
それでも、昨日の無関心な視線に比べれば、少しだけこちらへ興味を持っているように見えた。
「荷物の整理は慣れてるのか?」
「得意な方だと思います」
「指示も早かった」
「皆さんが素直に動いてくれたおかげです」
「俺には、ああいうのはできない」
「荷物の整理がですか?」
「人に指示するのが」
レオンは先ほどのカイの姿を思い出した。
馬を落ち着かせ、村人へ荷台を支えるよう指示し、修理を進めていた。
「必要な指示は出していたじゃないですか」
「あれは、修理に必要だったからだ」
「十分だと思いますけど」
「余計な話はしたくない」
なるほど、とレオンは思った。
カイは人と話すこと自体が苦手というより、必要性を感じない会話を避ける性格なのだろう。
修理に必要なら、迷わず指示を出す。
だが、自分の技術を説明したり、値段を交渉したりすることには興味がない。
「それじゃ、俺は戻る」
「はい。今日はありがとうございました」
「礼を言うのは、俺じゃない」
「村の入口が塞がれたままだったら、僕も困りましたから」
カイは一瞬だけレオンを見た。
「お前も、手伝ってただろ」
「できることをしただけです」
「そうか」
カイはそれ以上何も言わず、村外れの工房へ向かって歩き始めた。
数歩進んだところで立ち止まり、振り返らないまま言う。
「さっきの件は、助かった」
荷物の整理のことか。
修理代を払わせたことか。
どちらを指しているのかは分からなかった。
「どういたしまして」
レオンが答えると、カイはそのまま歩いていった。
工具鞄を下げた背中が、村の家々の間へ消えていく。
レオンも宿屋へ向かって歩き出した。
村人たちの多くは、すでに畑や仕事場へ戻っている。
先ほどまで荷馬車が倒れていた場所には、車輪が削った跡と、拾いきれなかった豆が少し残っていた。
朝から予想外の騒ぎだった。
だが、そのおかげでフィルネ村について、昨日より多くのことが分かった。
村人たちは、困っている者がいれば自然と集まる。
役割を示せば、互いに協力できる。
そして、村外れの修理屋カイ。
荷馬車の状態を一目で見抜き、限られた材料で走れる状態まで戻した。
技術は間違いなく高い。
農具だけでなく、荷馬車のような複雑な物まで修理できる。
村にとって、非常に重要な存在だろう。
だが――。
「技術はある。でも、商売は苦手そうだな」
レオンは小さくつぶやいた。
自分の仕事へ適切な値段をつけない。
相手が払わずに去ろうとしても、引き止めない。
材料代だけ受け取ればよいと考えている。
カイにとって大切なのは、壊れた物を直すことなのだろう。
その技術によって、いくら稼げるかではない。
職人としては、立派な姿勢かもしれない。
しかし、生活を続けるには金が必要だ。
材料も、工具も、工房の修繕も、すべて無料ではない。
技術があっても、それを商売として成り立たせられなければ、いつか続けられなくなる。
前世では、優れた技術を持ちながら、営業や資金繰りが苦手なために消えていった会社をいくつも見てきた。
良い物を作れることと、商売が上手いことは別の能力なのだ。
宿屋へ戻ると、主人が入口の前を掃いていた。
「ずいぶん目立ったな」
「目立つつもりはなかったんですが」
「村の連中は、しばらくお前の話をするぞ」
「悪い意味でなければいいんですけど」
「荷物を片付けて、払わずに逃げようとした行商人から修理代まで取ったんだ。悪く言う奴はいないだろう」
主人は面白そうに笑った。
「村で信頼を得たいなら、幸先のいい始まりじゃないか?」
朝食のときに話した内容を覚えていたらしい。
「そうだといいんですが」
レオンは苦笑しながら宿へ入った。
一方、その頃。
村外れの工房へ戻ったカイは、工具鞄を作業台へ置いていた。
使った道具を一つずつ取り出し、汚れを拭き取る。
いつもどおりの作業。
だが、その手は途中で一度止まった。
脳裏に浮かんだのは、王都から来たという若い旅人の姿だった。
事故現場で迷うことなく荷物を分け、村人たちへ指示を出していた。
行商人に怒鳴られても怯まず、修理代を支払うべき理由を並べていた。
よくもまあ、あれだけ次々と言葉が出てくるものだと、カイは思う。
自分なら、途中で面倒になっていた。
「商人志望、か」
カイは小さくつぶやいた。
レオンと名乗った少年は、見た目だけなら自分よりずっと幼い。
細身で、力仕事に慣れているようにも見えなかった。
それでも、荷物の整理を始めてからの動きには迷いがなかった。
人を使うことにも慣れている。
何より、カイが受け取る金のことを、本人以上に気にしていた。
理解しにくい相手だった。
「口は達者だが……」
カイは拭き終えた工具を元の位置へ戻した。
「悪い奴じゃなさそうだ」
それだけ言うと、作業台の上に置かれていた壊れた椅子を引き寄せた。
修理を待つ物は、まだいくつもある。
カイはいつものように道具を手に取り、作業へ戻った。
フィルネ村へ来た商人志望の少年。
村外れで一人、壊れた物を直し続ける修理屋。
この日、二人は初めて互いの名を知った。
まだ友人でもなければ、仕事仲間でもない。
ただ、お互いに少し変わった相手だと感じただけだった。
それでも、この小さな出会いが、やがて二人の人生を大きく変えていく。
技術を持つ者と、その価値を見つける者。
修理屋と商人。
二人の物語は、この朝、静かに始まった。




