6.広がる世界は
今日も、体が重い。
目を開けると、見慣れた天蓋の布が揺れていた。
薄い朝の光がレースの隙間を抜け、淡く白い光が部屋に溶け込んでいる。
今日も曇りがちで、灰色の雲が重く垂れこめていた。
けれど、この静かな薄明かりにも、もうすっかり慣れてしまった。
枕元には香草の小瓶。
ミレーユが毎朝取り替えてくれるもので、微かに甘く、すっきりとした香りが鼻をくすぐる。
喉は少し痛いし、胸の奥にかすかな重みがある。
「……ん」
ミレーユが部屋の隅で静かに掃除をしていた。
手際よく机の上を拭き、ベッド脇の水差しを新しいものに取り替える。
その仕草はいつも通り整っていて、見ているだけで安心する。
「おはようございます、リリス様。お加減はいかがですか?」
「……だいじょうぶ、です。きょうも、ちょっと……ねむいだけ、です」
自分でも聞き慣れた答え。
ミレーユは小さく頷き、ほとんど音を立てずに窓を開けた。
冷たい外気が少しだけ入り、室内の空気を入れ替える。
それでも、胸の奥に沈んでいるもやのような気持ちは晴れなかった。
――姉様。
最近、あまり会えていない。
ミレーユの話では、魔王代理としての執務が立て込んでいるらしい。
きっと、無理をしている。
「……あの、ミレーユさん」
「はい、リリス様」
「ねえ……さま、きょうも、おしごと……ですか?」
ミレーユの動きがわずかに止まる。
顔を上げた彼女の表情は、いつも通り穏やか……けれど、その瞳の奥にはかすかな憂いが宿っていた。
「はい。今朝も早くから執務に入られております。――ですが、必ずお顔を見せてくださいますよ」
「……うん」
返事をしながらも、胸の奥が少しきゅっとなる。
そう言ってくれるのが優しいのはわかっている。
けれど、“必ず”という言葉は、どうしても遠く感じた。
少しの間、何も言わずに僕を見つめている。
その視線には冷たさはなく、むしろ静かな温度があった。
そう言いながら、布団を握る。
けれど、心の奥の寂しさはそう簡単に消えてくれなかった。
ミレーユはそれを見て、小さく息をつく。
そして、ベッドの端にそっと手を置き、撫でるように布を整える。
「……リリス様」
「……はい?」
「少し、外の空気を吸ってみませんか?」
思いがけない提案に、目を瞬かせる。
「……おそと、ですか?」
「ええ。廊下を少し歩くだけでも構いません。気分が変わるかもしれません」
静かな声だったが、その響きの奥には心配が混じってい流ように感じた。
今の僕の顔がよほど寂しそうに見えたのだろか?
「……いって、みたいです」
言ってから、ほんの少しだけ胸が高鳴った。
ミレーユは小さく微笑み、手を差し出した。
「では、失礼いたします」
その声とともに、身体がふわりと浮く。
抱きかかえられた瞬間、体温の差がはっきりとわかった。
彼女の腕は驚くほどしっかりしていて、けれど動きは驚くほど静かだった。
メイドにお姫様抱っこされているこの状況――どう考えても耐え難く恥ずかしい。
その間にも、ミレーユの腕の中で体が軽く揺れた。
彼女の胸元に近い位置に顔があり、視界の端に白く整った襟が映る。
リリスは、まっかになって俯いていた。
「……は、はずかしいです……」
小さな手で自分の顔を隠し、そっとミレーユの服の裾をぎゅっと握る。
小鳥みたいな声が漏れるたびに、ミレーユの瞳がやわらかく揺れた。
「お気になさらず。お体が冷えては困りますので」
淡々とした声。けれど、その響きはどこか優しく包み込むようだった。
彼女にとってはただの仕事――でも、その安定した抱き方と呼吸の静けさが、かえって心臓に悪い。
「……ミレーユさん。こういうときって……くるまいすとか……」
なんとなく聞いてみると、彼女は少しだけ首を傾げた。
「車……いす?」
「あ、えっと……すわれるやつ、で、ころころ……」
「申し訳ありません、そのような器具は聞いたことがございませんね」
そう言って、少し考えるように視線を落とす。
「もし必要であれば、魔導浮遊台を使うこともできますが……揺れますし、温度の変化に弱いので……」
「……だっこ、のほうが……いいです」
恥ずかしさをごまかすように、小さな声でそう答えると、ミレーユの口元にわずかな笑みが浮かんだ。
「承知いたしました。では、このまま」
そのまま、抱き抱えられて扉に手をかける。
扉が開かれると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。
ミレーユの腕の中で、僕は小さく息をのんだ。
扉の向こう――部屋の外の世界が、ゆっくりと目の前に広がっていく。
カシャン、と金具の外れる音。
重厚な扉が左右に開かれた瞬間、冷たい空気が頬を撫でた。
思わず肩をすくめる。
けれど、そのひんやりとした感覚が、なぜか心地よかった。
廊下の入り口には、全身を鎧で包んだ兵士が二人。
表情は見えないが、ミレーユを見るなり無言で敬礼をした。
その仕草は静かで、まるで儀式のように正確だった。
「通ります」
ミレーユが淡々と告げる。
兵士たちは音も立てず、背筋を伸ばしたまま道を開けた。
その動作の美しさに、思わず息を呑む。
ミレーユの足音が、コツ、コツと規則正しく響く。
廊下の石床は黒曜石のように滑らかで、磨き込まれた表面が青白く光を返していた。
足元には深紅の絨毯。金糸で織られた模様が果てしなく続いている。
左右の壁には、金色の燭台が等間隔に並び、青白い炎を揺らめかせていた。
果てが見えないほど、廊下はまっすぐに伸びていた。
まるで城そのものが、夜の中に続いているように感じられる。
小さな頃からずっとこの部屋にいた。
病弱な体のせいで、自由に動けることはほとんどなかった。
それなのに、今こうしてミレーユの腕に抱かれながら歩いている。
世界が広がっていく感覚に、胸が高鳴る。
廊下の空気はひんやりとして、少しだけ金属の匂いがした。
それでも、不思議と冷たさは感じなかった。
ミレーユの腕の中があたたかいからだ。
――本当なら、恥ずかしいはずなのに。
お姫様抱っこで廊下を進むなんて、羞恥の極みだ。
けれど、今は不思議とそれを感じない。
むしろ胸の奥が弾んでいる。
目の前に広がる世界が、新鮮でたまらない。
絨毯の端を縁取る金糸の模様、壁に刻まれた古代文字のような彫刻、そして遠くに見える大扉――その一つ一つが、胸を躍らせた。
ミレーユはそんな僕の様子に気づいたのか、そっと視線を落とす。
反射的に顔を上げると、彼女の瞳がやわらかく笑っていた。
「いつもより、お顔の色が明るいです」
「……そ、そんなこと……ないです」
否定しながらも、頬が熱くなるのを感じた。
外の空気が冷たいせいか、恥ずかしいせいか、わからない。
ミレーユは頷きながら、静かに歩みを進めた。
「王城の中央回廊です。リリス様のお部屋は最奥にありますから、普段は滅多に人も来ません」
「……そうなんですか」
「……ねえさまも、ここを、あるきますか?」
「はい。毎朝この道を通って執務室へ向かわれます」
その言葉を聞くだけで、胸の奥がふわりと温かくなる。
――姉様も、この廊下を。
そう思うと、ほんの少しだけ距離が近く感じられた。
廊下の果てには、金色の光がわずかに見えた。
そこに何があるのか、わからない。
けれど、今はただこの景色を目に焼きつけたかった。
「……ミレーユさん」
「はい、リリス様」
「もうちょっとだけ……おそと、みてたいです」
「……かしこまりました」
ミレーユの声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
抱きかかえられたまま、僕はそっと目を細めた。
どれほど歩いたのだろうか。
廊下は途切れることなく続いていて、曲がり角をいくつか過ぎたあたりで、ミレーユが立ち止まった。
目の前にあるのは、重厚な鉄製の扉だった。
古い紋章が刻まれており、長い年月の重みを感じる。
それでも埃ひとつついていないのは、日々の手入れが行き届いている証だろう。
ミレーユは片手を伸ばし、扉の取っ手を静かに押し下げた。
ギィ、と低い音を立てて扉が開く。
その瞬間――
冷たい風が頬を撫で、視界が一気に広がった。
「わぁ……」
息を呑んだ。
そこにあったのは、空中庭園のような場所だった。
石造りの回廊の先には、広々とした庭が広がっている。
空は深い群青色で、薄く雪が降っていた。
けれど、不思議なことに寒くない。
風は穏やかで、肌に触れる雪片はまるで光の粒のように柔らかだった。
「ここは、城の上層にある中庭です」
ミレーユが静かに説明する。
「空の魔力の流れを利用しており、気温は常に一定に保たれています。……少し不思議な場所ですが、癒しの魔法が満ちているのですよ」
言われてみれば、確かに体が軽く感じる。
空気が澄んでいて、胸の奥まで透明になるようだった。
庭の中央には、銀色の噴水があり、細い糸のような水が静かに流れている。
その周囲を囲むように、色とりどりの花々が咲き誇っていた。
「……すごい。きれいです」
思わずこぼれた声に、ミレーユが小さく微笑む。
「この庭は、先代の魔王陛下――つまり、リリス様のご両親が造られた場所です。癒しと安寧を願って、城の中心に据えられました」
「……おとうさまと、おかあさまが……」
自分にはほとんど記憶のない存在。
けれど、目の前の景色を見ていると、どこか懐かしい気がした。
ミレーユは噴水の前までゆっくり歩み寄ると、僕をそっと下ろした。
両腕を解かれると同時に、足の裏に石畳の感触が伝わる。
――久しぶりに自分の足で立つ感覚。
「……立てますか?」
「だいじょうぶ……です」
身体はまだ少しふらついたけれど、それでも立てた。
ふと見上げれば、雪が降ってくる。
白い粒が髪に触れた瞬間、淡く光って消えた。
「……これ、ゆき……ですか?」
「ええ。ただの雪ではありません。空の魔力が結晶化したものです。触れれば心を鎮め、心を穏やかにすると言われています」
「……きれい……」
言葉にするのも惜しいほど、美しかった。
空は高く、雪の光が反射して一面が淡く輝いている。
花々はその中でも色褪せず、むしろ雪の光に溶けるように咲いていた。
風が吹く。
花の香りが混ざり合い、胸の奥がくすぐったくなる。
――こんな場所が、城の中にあったなんて。
少し遠くに、白い手すりが見える。
その向こうは空だ。
下を覗けば、王都の明かりがかすかに見える。
まさしく“空に浮かぶ庭”。
ミレーユは静かに隣に立ち、僕の肩に手を添えた。
「この場所は、セレヴィア様もよくいらっしゃいます。……考えごとをされる時に」
「ねえさまも……」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなった。
彼女も、この景色を見ていたのだ。
同じ雪を、同じ花を。
雪が頬に触れた。冷たくない。
むしろ、懐かしいぬくもりのように感じた。
僕はそっと手を伸ばし、一枚の花弁を指先でなぞる。
透き通るような質感が指に残る。
――まるで夢の中の世界みたいだ。
現実なのに、あまりに静かで、美しくて。
胸の奥にあった重さが、少しずつ溶けていくのを感じた。
「……ありがと、ミレーユさん」
「いえ。リリス様の笑顔が見られただけで、充分です」
彼女の言葉に、胸がじんわりと熱くなる。
雪の舞う庭の中で、僕は小さく息を吐いた。
そんなことを考えていた、その時だった。
ギィ……。
静寂を裂くように、鉄の扉がゆっくりと開く音が響いた。
風が一瞬、庭の花々を揺らす。
振り返ると、開いた扉の向こう――白い光の中に、人影がひとつ。
誰かが、そこに立っていた。




