5.魔法或いは戯れ
朝食を終えると、ミレーユは食器を片づけ、静かに部屋を後にした。
その背中を見送りながら、僕は胸の内で小さく息をつく。
――今だ。
ミレーユが不在のわずかな隙。
誰にも見られていないこの瞬間こそ、僕の「魔法の特訓」の時間だ。
とはいえ、参考にできるものはこの部屋にはほとんどない。
棚に並んでいるのは絵本ばかり。その中で僕が目をつけたのは――『大魔法使いミルナの冒険』。
昨日の夜、読み聞かせてもらったばかりの絵本だ。
その挿絵には、少女が小さな掌から火の玉を繰り出している場面が描かれていた。
鮮やかなオレンジ色の炎が闇を照らし、彼女は勇ましく仲間たちを守っていた。
――あれが、魔法。
もちろん、子供向けの物語にすぎない。
実際にそんなものが存在するのかもわからない。
だが、ここは異世界。猫耳のメイドがいて、魔王代理の姉がいて――ならば魔法があったって不思議ではないだろう。
「……よし」
ベッドから上半身を起こし、ゆっくりと右手を前に突き出す。
手のひらの先に、燃える球体を思い描く。
頭の中で「火」のイメージを膨らませ、集中する。
――掌の中に熱が集まり、赤い光が渦巻いて……やがて火球となって飛び出す。
妄想の中では、完璧な光景が浮かんでいた。
「うぉぉ……いける……」
妙な高揚感に胸が震える。
まるで子供の頃に秘密基地で遊んでいたような、そんな昂ぶり。
「ふぁい、やー!」
気合を込めて叫んだ。
しかし――
……シーン。
当然、何も起こらなかった。
掌はただの掌で、熱のかけらも感じない。
静かな部屋の中に、間の抜けた自分の声だけが虚しく響いた。
「…………」
しばし呆然とし、それから顔を真っ赤にして布団に倒れ込む。
ベッドの上で右手を握りしめたり開いたり、こそこそと何度も試してしまう。
「ひ、ひのたま……でろ〜……」
言葉を変えてみても、結果は同じ。何も出ない。
ただ自分の幼い声がどんどん恥ずかしく響いてくるだけだった。
火球の特訓は当然ながら成果ゼロに終わり、布団に顔を埋めて小さく丸まっていた。
「失礼いたします」
軽やかな声とともに、ミレーユが戻ってきた。
手には掃除道具を抱え、ためらうことなく部屋へ入ってくる。
「朝の食器を片づけましたので、このまま部屋の掃除をいたします」
そう言うと、断りを入れてから淡々と動き始めた。
床を磨き、カーテンを整え、机の上を拭き取る。
その所作はいつものように淀みなく、まるで舞踏の一部を見ているようだった。
そんな姿を眺めながら、胸の奥でためらいが生まれる。
……聞いてみても、いいだろうか。
どうせ笑われるに違いない。だけど、確認したい気持ちは抑えられなかった。
意を決して、枕元の絵本を掴んだ。
『大魔法使いミルナの冒険』。
絵本の表紙をミレーユに示しながら、おそるおそる口を開く。
「……あ、あの……ミレーユさん……」
言葉が幼くつっかえ、頬が熱くなる。
「この……えっと……まほうって……つかえる?」
ミレーユの動きが一瞬止まった。
振り返ったその瞳は、いつもの氷のように澄んでいて――だけど、どこか意外そうに小さく瞬いた。
「……リリス様。見たこと、ありませんでしたか?」
「……えっ」
思わず声が漏れる。
――あるのか!?
心臓が跳ねた。てっきり「ただの作り話です」と返ってくると思っていたのに、まさかの逆。
見たことがないのは、自分だけ……?
「……ほんとうに……あるんだ……」
布団の上で小さく呟く。信じがたいけれど、妙に胸が高鳴っていた。
そのときだった。
「――ふふっ、気になるのね?」
耳元に甘やかな声が降ってきた。
驚いて振り返ると、そこに立っていたのは――セレヴィア。
いつの間にか部屋に入ってきていたらしく、黒いドレスの裾を揺らして立っている。
赤と紫の瞳がきらめき、頬にはいたずらっぽい笑み。
「リリスに見せてあげようか〜? お姉さまの、魔法」
甘い声音が耳を撫でる。
「えっ……み、みたい……です!」
幼い声が、自然と期待に揺れる。
胸の奥の高鳴りが抑えられなかった。
セレヴィアはゆっくりとベッドへ腰を下ろした。
黒いドレスの裾が布団に流れ、そのまま自然に僕のすぐ横に座る。
赤と紫の瞳がちらりとこちらを見て、にやりと笑った。
「よく見ていてね、リリス」
そう囁くと、彼女は右手を上に差し出す。掌を天に向け、瞼を閉じて静かに息を整える。
部屋の空気が、ひんやりと変わっていくのがわかった。
――なにか、来る。
その直感に息を呑む。
次の瞬間、セレヴィアの掌からかすかな音が響きはじめた。
「……パキ、パキ……パキィ……」
それは氷が割れる音だった。
透明な欠片が彼女の手のひらに浮かび、みるみる大きさを増していく。
「……っ」
息が詰まる。
欠片はただの氷ではなく、形を持ち始めていた。
耳のように突き出た長い突起。
つぶらな瞳のくぼみ。
二本足で立ち上がった小さな体。
――だが、前足の代わりに何もなく、背中からは奇妙な翼が生えていた。
この世界のスタンダードの生き物だろうか?
「……う、ウサギ……?」
思わず口にする。
たしかに耳はウサギそのもの。だが腕のない体と、羽ばたきそうな小さな翼。妙にアンバランスで、正直に言えばちょっと不気味ですらある。
けれど、それは確かに「生まれた」ように見えた。氷でできたはずなのに、まるで呼吸しているかのようにきらめいている。
セレヴィアは目を開け、得意げにこちらを見た。
その顔は、まさしく「どう? すごいでしょ?」と語っているようだった。
「……っ、すごい、すごい……!」
感情が先走り、子供のように両手をぱちぱちと合わせてしまった。
頬が熱い。けれど、恥ずかしさよりも驚きと感動が勝っていた。
氷のウサギ(らしきもの)は、翼をぱたぱたと震わせ、やがてひときわ強く輝いたかと思うと、粉雪のように崩れ落ちて消えた。
セレヴィアは小さく肩をすくめ、唇の端を上げる。
ドヤ顔のまま、わざとらしく胸を張っている。
「ほんとうに……すごかったです!」
素直に口から出た言葉に、セレヴィアの表情がさらに緩む。
「……もう、リリスったら。褒めすぎよ」
そう言いながらも、その声音は甘く蕩けていた。
――魔法は、本当にあるんだ。
胸の奥で、さっきまでの疑念が吹き飛んでいく。
絵本の中だけだと思っていた火の玉や氷の魔法が、こうして目の前で形を持って現れた。
この世界の現実を、改めて実感する瞬間だった。
「ふふっ、リリス。さっきの氷像だけで驚いてちゃだめよ」
セレヴィアはすっかり得意気になっていた。
ベッドの脇に立ち、すっと手を掲げる。瞳がかすかに輝いたかと思うと、空気が一気に冷え込んだ。
「……見せてあげるわ。お姉さまの本気を」
その言葉とともに、部屋の中に白い息が流れ込む。
窓から差し込むわずかな光を受けて、氷の粒がきらきらと舞い落ちてきた。
「わぁ……」
思わず声が漏れる。
雪……いや、氷の花びらだ。掌ほどの薄い氷片が空中にふわふわと浮かび、回転しながら形を変えていく。
一枚は蝶となり、ひらひらとベッドの上を飛び回る。
別の一枚は花となり、ぱっと咲いたかと思えば粉雪になって散った。
天蓋の布には細い蔦の模様が描かれるように凍りつき、まるで氷の森に迷い込んだかのようだ。
「すごい……すごいです!」
ぱちぱちと手を叩いてしまう。頬が自然と紅潮し、子供そのものの反応になっている。
セレヴィアはそんな僕の姿に目を細め、さらに張り切った。
天井から下がる氷柱が、シャンデリアのように輝きを放っていた。
青白い光が反射し合い、部屋全体が幻想的な青の世界に変わっていく。
――これは、夢じゃない。
本当に魔法があるのだと、心の底から実感させられる光景だった。
気づけば胸の奥が熱くなっていた。
羨望と憧れが入り混じり、抑えきれない気持ちが口を突いて出る。
「……僕も、まほう……つかえるように、なりたいです!」
自分の声がやけに幼く響き、耳まで熱くなる。
セレヴィアの笑顔がふと止まった。
その瞳に、一瞬だけ影がよぎる。
「……リリス」
名前を呼ぶ声が、少しだけ沈んでいた。
けれど、次の瞬間にはすぐに柔らかな笑みを取り戻す。
「もう少し大きくなったら、ね」
理由はわからない。だが、胸の奥にうっすらと不安が広がっていく。
氷の蝶がリリスの枕元に降り立ち、儚く砕けて消える。
氷の光景はやがて薄れていき、部屋に再び静けさが戻る。
けれど、僕の胸の奥にはまだ消えない憧れが燃えていた。
――いつか、僕も。
魔法を。
気がつくと――いつの間にか、部屋を彩っていた氷の幻想はすべて消えていた。
さっきまで天井から吊るされていた氷柱も、枕元に舞っていた氷の蝶も、粉雪のように散ったはずの花弁も。
どこを見渡しても痕跡はなく、ただいつもの石造りの部屋が広がっているだけだった。
氷が溶けたなら水滴が残っていてもいいはずだ。
けれど床は濡れていない。窓辺のカーテンも、ひとつとして湿っていない。
わずかに感じていた冷気も、跡形もなく消えていた。
――まるで、最初から何もなかったかのように。
「……きえちゃった」
小さく呟いた声が、自分の耳に頼りなく響く。
確かに見たはずなのに、証拠はなにも残っていない。
それでも心臓はまだ速く打ち、胸の奥で興奮が熱を帯びていた。
セレヴィアは、ベッドの脇に腰掛けたまま僕の顔を覗き込んだ。
その眼差しは、先ほどの自慢げなものとは違い、どこか真剣な色を帯びている。
「……リリス。今日はもう安静にしていなさい」
掌がそっと僕の額に触れる。
ひんやりとした感触が、じわりと心地よい。
「魔法を見た興奮で、少し熱が上がっているわ。無理をしゃだめよ」
「……だいじょうぶ、です」
口ではそう言ったが、実際には視界がほんの少し揺れている。
胸の奥で鳴る鼓動が落ち着かず、体がふわふわと宙に浮いているようだった。
セレヴィアは眉をひそめる。
「だめよ。あなたの体は普通じゃない。無理をすれば、その小さな体が悲鳴をあげてしまう」
やわらかい声音なのに、有無を言わせない力があった。
僕は観念して、布団に沈み込む。
「……はい」
その答えに満足したのか、セレヴィアはそっと微笑んだ。
「いい子ね」
その笑顔に、胸の奥がじんわり温まる。
褒められるなんて、前世ではほとんどなかった。
ただ存在を認められることが、こんなにも嬉しいなんて――。
「……じゃあ、また来るわね」
名残惜しそうにそう告げて、セレヴィアは立ち上がった。
黒いドレスの裾が翻り、足音が静かに遠ざかっていく。
「……っ」
声をかけたい衝動に駆られた。
「行かないで」と言いたかった。
けれど、その言葉は喉の奥に引っかかって出てこなかった。
代わりに、小さく手を伸ばす。
届くはずのない背中に向かって、幼い指が空を切った。
扉が閉じられる音が響き、再び部屋には静けさが戻る。
――さっきまでの幻想が夢だったのではないかと錯覚するほどに。
それでも、胸の奥の興奮だけは消えていなかった。
氷の蝶、光る氷柱、咲いた花。
脳裏に焼きついた映像が、まぶたを閉じるたびに鮮やかに甦る。
「……すごかった」
布団の中で呟く。
熱っぽい頬を枕に押しつけながら、思わず笑みが零れた。
クラクラするのは熱のせいか、それとも胸の高鳴りのせいか。
その違いを確かめる余裕もないまま、僕は静かに瞼を閉じた。
――興奮冷めやらぬまま。
セレヴィアの残した温もりだけを胸に、意識はゆっくりと夢へ沈んでいった。




