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38.終わりの痛み


凍てついた教会の空間に、淡い光が舞っていた。


 それは雪に似ていた。


 けれど、グラティオルに降る雪とも違う。もっと柔らかく、もっと儚い。空気の中に溶けるように漂う白銀の粒子が、冷え切った空間へ静かな輝きを落としている。


 セレヴィアは、目の前の光景を理解できずにいた。


 祭壇の上で眠っていたはずのリリスが、ゆっくりと立ち上がっている。


 光の粒子を纏いながら。


 虚ろな瞳のまま。


 ふらつくでもなく、しかし生気に満ちているわけでもなく、どこか夢遊病者のような危うい足取りで、こちらへ歩いてくる。


「……リリス……?」


 思わずその名が零れた。


 返事はない。


 リリスはただ静かに歩いている。


 その姿を見た瞬間、セレヴィアの胸の奥に込み上げたのは、安堵ではなかった。


 恐怖に近い何かだった。


 リリスが起きた。


 それ自体は喜ぶべきことのはずなのに、今の彼女は明らかにおかしい。表情が薄い。瞳の焦点が曖昧だ。普段のリリスなら、こんな場所で目を覚ませば怯えてこちらを探すはずだった。弱々しくても、必死に名前を呼んでくれるはずだった。


 なのに。


 今のリリスは静かすぎた。


 リリセアもまた、僅かに目を細めていた。


「……あらぁ?」


 張り付いたような笑みを浮かべたまま、興味深そうに首を傾げる。


「もう少し、おねんねしててくださいねぇ」


 その言葉と共に、彼女の周囲に闇色の魔力が滲んだ。


 死霊術。


 空間の床から黒い泥のようなものが染み出し、そこから骸骨兵たちが這い出してくる。剣を持つもの、槍を持つもの、歪んだ頭蓋を鳴らしながら立ち上がる死兵たちが、リリスへ向けて一斉に身体を向けた。


 セレヴィアの血の気が引く。


「危ない――!」


 叫ぶより早く、身体が動いていた。


 ノクターンを握り、床を蹴る。


 リリスの前へ出なければ。


 守らなければ。


 リリスが、ぽつりと呟いた。


「……くずれて」


 小さな声だった。


 幼い声。


 けれど、その言葉が空気へ溶けた瞬間、世界が軋んだ。


 ガラガラ、と。


 死兵たちの身体が崩れ落ちた。


 まるで糸を切られた操り人形のように、骸骨兵たちは武器を取り落とし、頭蓋を砕き、床へ崩壊していく。黒い闇魔力も維持できなくなったように霧散し、ただの骨片だけが凍った床へ散らばった。


 セレヴィアは急停止した。


 呼吸を忘れる。


 今、何が起きた。


 死霊術を――解除した?


 いや、違う。


 あれは解除ではない。


 命令だ。


 もっと根源的な、“存在そのもの”へ向けられた拒絶。


 リリセアも初めて目を見開いていた。


 張り付いた笑みが、ほんの一瞬だけ揺らぐ。


「……へぇ?」


 けれど次の瞬間には、また笑みを浮かべている。


 今度は興味を隠そうともしなかった。


「これはこれは……面白いですねぇ」


 リリセア・グリムは、“痛み”という感覚をとうの昔に置き去りにしていた。


 それがいつからだったのか、もう思い出すことすらできない。


 首を斬り落とされたこともある。胸を貫かれたこともある。身体を灼熱の業火に焼かれ、骨だけになったことすらあった。戦争の中で、彼女は何度も“致命傷”というものを受けてきた。普通の生き物なら一度で終わるような傷を、数え切れないほど経験してきた。


 だが、そのどれもが、彼女にとっては“現象”でしかなかった。


 肉が裂ける。

 骨が砕ける。

 血が流れる。


 そして、再生する。


 ただ、それだけ。


 そこに苦痛は存在しなかった。恐怖もなかった。死の予感もなかった。彼女の肉体は壊れても戻る。どれほど破壊されても、時間さえあれば元通りになる。傷は塞がり、欠損は再生し、血は再び身体を巡る。


 その絶対性が、いつしか彼女から“命”という感覚そのものを奪っていた。


 だからこそ、長い年月の果てに、彼女は“終わり”を望むようになった。


 永遠は甘美ではない。


 少なくとも、リリセアにとってはそうだった。


 終わらないということは、変わらないということだ。周囲の景色だけが移り変わり、共に笑った者たちは老いて死に、自分だけがそこへ取り残される。最初のうちはそれでもよかった。長命種である魔族の中にあっても、彼女の異常性は群を抜いていたが、それでもまだ、“生”に執着していた時代があった。


 しかし、百年が過ぎ、二百年が過ぎ、やがて彼女は理解してしまった。


 自分には、終わりが訪れない。


 世界から拒絶されることすら許されない。


 死にたいと思っても、死ねない。


 その絶望は、ゆっくりと、しかし確実に彼女の内側を摩耗させていった。


 だから、リリス・ヴァル=ネメシアという存在を知った時、リリセアの心は久方ぶりに揺れた。


 呪いを宿した子。

 命を蝕む魔力。

 生まれながらに死を抱えた存在。


 その話を聞いた時、彼女の胸の奥に浮かんだ感情は、哀れみではなかった。


 歓喜だった。


 ああ、もしかしたら。


 もしかしたら、この子なら。


 この“終焉”を抱えた少女なら、自分を終わらせてくれるのではないかと。


 だから教会の誘いにも乗った。クラリス聖教会など本来どうでもよかった。人間も、魔族も、国家も、戦争も、彼女にとっては遠い昔に色褪せたものだった。だが、“終われる可能性”だけは別だった。


 そのためなら何でも利用した。


 研究もした。

 観察もした。

 リリスを攫った。


 それは執着だった。


 長い長い空虚の果てにようやく見つけた、たった一つの希望だった。

 彼女は血のナイフを生成しながら、ゆっくりとリリスへ歩み寄る。


 血のナイフが赤黒く脈打つ。


 リリセアの視線はリリスから逸れない。


 セレヴィアは再び身体を動かそうとした。


 だが、その前に。


 リリスがまた呟いた。


「……とまって」


 その一言で、空気が凍りついた。


「……え?」


 困惑。


「な……ん、ですかぁ……これ……?」


その声を聞いた瞬間、リリセアの背筋を、得体の知れない悪寒が駆け抜けた。


 小さな声だった。


 弱々しく、幼く、か細い少女の声。


 だが、その響きは異様だった。


 まるで世界の理そのものへ触れているような、不自然な静けさを孕んでいる。言葉というより、“概念”が直接空間へ刻み込まれていくような感覚。リリセアはその瞬間、自分という存在の輪郭を何かに掴まれたような錯覚を覚えた。


 動けない。


 いや、身体は動くはずだった。


 意識はある。

 魔力も巡っている。

 死霊術も維持されている。


 それなのに、身体だけが命令を聞かない。


 足が前へ出ない。

 腕が上がらない。

 指先すら動かせない。


 まるで、“世界そのもの”から停止を命じられているようだった。


 その瞬間、リリセアは初めて、自分の内側に恐怖が芽生えるのを感じていた。


 怖い。


 何が起きているのか分からない。


 理解不能なものは、この長い年月の中でいくつも見てきた。未知の魔法も、古代遺物も、神秘も怪異も見てきた。けれど、それらのどれもが彼女自身を脅かすことはなかった。


 だが今、目の前にいる小さな少女は違う。


 リリスはただそこに立っているだけなのに、リリセアの“不死”そのものへ触れてきている気がした。

 

「……精霊魔法」


 一拍。


「第四階梯――」


 空間が静まり返る。


「《リバイブ》」


 その言葉が落ちた瞬間。


 青白い光が視界を覆う。


 まるで夢だったかのように。


 リリスの身体から力が抜けた。


「……リリス!」


 セレヴィアが駆け出す。


 リリスはゆっくりと目を閉じ、そのまま糸の切れた人形のように床へ倒れ込んだ。


「リリス……リリス……!」


 何が起きたのか分からない。


「あ……?」


 後方で、声がした。


 リリセアが動けるようになっていた。


 リリセアはすぐに、いつもの笑みを貼り付けた。


 そうしなければならなかった。


 余裕を崩せば、自分が壊れてしまいそうだったから。


 けれど、その時だった。


 左手首に、違和感があった。


 ほんの小さな裂傷。


 普段なら視認するより早く再生している程度の傷。


 なのに、治っていない。


 血が流れている。


 赤黒い液体が、自分の肌を伝って滴り落ちる。


 リリセアは呆然とそれを見つめた。


 理解が追いつかない。


 どうして。


 なぜ再生しない。


 彼女は恐る恐る傷口へ触れた。


 その瞬間だった。


 激痛が走る。


「――っ!!」


 身体がびくりと跳ねた。


 熱い。


 痛い。


 裂けた皮膚を指先がなぞっただけなのに、神経を直接焼かれたような痛みが脳へ突き刺さる。


 痛覚。


 そんなもの、自分にはもう存在しないと思っていた。


 何百年も前に置き去りにしたはずの感覚だった。


 なのに、今、確かに痛い。


 リリセアの呼吸が乱れる。


 笑みが崩れそうになる。


 慌てて血を操り、剣を形成する。


 大丈夫。


 落ち着け。


 これは異常だ。

 一時的なものだ。


 そう自分へ言い聞かせる。


 だが、血の剣を握り込んだ瞬間、再び痛みが走った。


 皮膚が引き攣る感覚。

 筋肉が動く感覚。

 血管が脈打つ感覚。


 裂けた肉が。


 流れる血が。


 神経を焼くように痛む。


「な……に、これ……?」


 リリセアの呼吸が乱れる。


 笑みが崩れる。


 目が見開かれる。


 困惑。


 恐怖。


 理解不能への動揺。


 その全てが滲んでいた。


 彼女は違和感を振り払うように、血の剣を握りしめる。


 自分は不死だ。


 終わらない存在だ。


 それだけが、長い年月の中で唯一変わらなかった絶対だった。


 なのに。


 今、その絶対が崩れようとしている。


 その事実を理解した瞬間、本能が叫んだ。


 傷つくな。


 斬られるな。


 避けろ。


 死ぬ。


 その恐怖を振り払うように、リリセアはセレヴィアへ駆け出した。


 半ば悲鳴のような声を上げながら。


 壊したかった。


 この空気を。

 この恐怖を。

 この“終わり”の予感を。

 

 ノクターンが閃いた。


 一撃。


 黒き刃が、リリセアの左腕を斬り飛ばす。


 宙を舞う腕。


 血飛沫。


「あぁぁぁぁぁああああぁぁぁっ!!?」


 絶叫。


 今まで一度も聞いたことのない、リリセアの悲鳴だった。


 床へ転がった腕から血が噴き出す。


 リリセアはその断面を押さえ、震えていた。


 再生しない。


 肉が盛り上がらない。


 骨も、筋も、血管も、戻らない。


リリセアは断面を押さえながら、初めて“死”を現実として感じていた。


 ああ。


 これが。


 これこそが。


 ずっと求めていた“終わり”なのか。


 そのはずなのに。


 胸の奥から湧き上がってくるのは歓喜ではなかった。


 恐怖だった。


 終われる。


 終わってしまう。


 その事実が、どうしようもなく怖かった。


 リリセア・グリムは、左腕の切断面を押さえたまま俯いていた。


 先ほどまで張り付いたように浮かべていた笑みは、もうそこにはない。黒い髪が頬へかかり、その奥にある表情は見えない。けれど、失われた腕の断面を押さえ、そこからなお止まらずに流れ続ける血が、凍りついた床へぽたり、ぽたりと落ちていく音だけが、歪んだ教会の中にやけに鮮明に響いていた。


 不老不死。


 超再生。


 痛みを知らず、死を知らず、終わりだけを求め続けてきた女。


 そのリリセアが、いま、ただ一人の“傷ついた者”としてそこにいた。


 セレヴィアは、ノクターンの柄を握りしめる。


 黒い刀身には、まだ微かな氷の魔力が残っていた。赤い魔紋が静かに脈打ち、まるでこの瞬間を見届けようとしているかのように、重く冷たい気配を放っている。腕には痛みがあった。胸の傷も疼いている。魔力は底に近く、立っているだけでも体の奥が軋むようだった。


 それでも、足は止まらなかった。


 一歩、前へ進む。


 こつ、と硬い足音が響く。


 リリセアは動かない。


 もう血の刃も飛ばさない。死霊術も展開しない。聖痕から流れ込む魔力はまだ彼女の首元で淡く脈打っていたが、その魔力を操る彼女自身の意志が、どこか遠くへ抜け落ちてしまったようだった。


 セレヴィアはさらに歩く。


 凍った床の上には、砕けたアンデッドの骨片、合成獣の残骸だった氷の粉、血で作られた武器の破片が散らばっている。ここまでに積み重なった戦いの痕跡が、足元に無数に残っていた。


 この女との戦いだけは、ここで終わらせなければならない。


 セレヴィアは、俯くリリセアの数歩手前で止まった。


 六魔柱第三席《幽葬》と呼ばれた女。


 父ヴァルザードに仕えた者。


 そのすべてを思い浮かべても、今さら刃は鈍らなかった。


 彼女は裏切った。


 リリスを攫った。


 魔王城を襲い、ミレーユを傷つけ、兵たちを殺し、民を脅かし、人間側と手を組み、リリスの命を自らの終わりのための道具にしようとした。


 その罪は、あまりにも重い。


 セレヴィアは静かに口を開いた。


「六魔柱第三席、リリセア・グリム」


 声は、教会に低く響いた。


 リリセアは、わずかに肩を揺らしただけで、顔を上げなかった。


「国家反逆、魔王城襲撃、魔王軍兵士および使用人への殺傷行為、ならびに王族リリス・ヴァル=ネメシアの誘拐および監禁の罪により――」


 言葉を紡ぎながら、セレヴィアの胸の奥には奇妙な静けさがあった。


 怒りはある。


 悲しみもある。


 けれど、それらはもう表に溢れ出すものではなかった。すべてを胸の奥へ沈め、王として下すべき言葉だけを選ぶ。リリセアを前にしているのは、姉であるセレヴィアであり、同時に魔族領を背負う統治者でもあった。


 ここで私情だけで斬れば、それは復讐になる。


 だが、これは違う。


 これは断罪だ。


 セレヴィアは一歩、さらに近づく。


 こつ、と足音が鳴る。


 リリセアの血が床へ落ちる音と重なり、その響きはやけに静かだった。


「魔族領グラティオル、王都ノクタリアを統べる魔王代理――」


 そこで、セレヴィアは一瞬だけ言葉を止めた。


 魔王代理。


 父が戻ることはないと知りながら、なお“代理”であり続けた。父の影を背負い、父の名を守り、父の遺した国を繋ぎ止めるために、自分はその座に立ってきた。


 胸の奥で、何かが静かに形を変える。


「……いや」


 その一言は、小さかった。


 だが、自分自身に対する宣言としては、十分だった。


 セレヴィアはノクターンを両手で構える。


 漆黒の刀身が、リリセアの首筋へ向けられる。


「第十代目魔王、セレヴィア・ヴァル=ネメシアの名において」


 その言葉を口にした瞬間、ノクターンの魔紋が赤く脈打った。


 まるで認めるように。


 あるいは、継承を告げるように。


 セレヴィアは揺らがない目で、リリセアを見下ろした。


「あなたを、断罪する」


 静寂が落ちた。


 長い、長い一瞬だった。


 リリセアはゆっくりと顔を上げた。


 そこにあったのは、いつもの張り付いた笑みではなかった。


 黒い口紅の引かれた唇は、わずかに震えていた。頬には血が飛び、目元には涙のようなものが浮かんでいる。それでも彼女は、笑っていた。


 朗らかな笑顔だった。


 どこか、遠い昔の少女のような。


 あるいは、ようやく眠りにつける者のような。


 その笑顔を見た瞬間、セレヴィアの胸が一度だけ強く痛んだ。


 リリセア・グリムは敵だった。


 許されることはない。


 だが、それでも。


 彼女は長い時間、終わりを求めて彷徨っていたのだ。


 その果てに罪を犯し、許されない道へ堕ちた。けれど、その笑顔だけは、ほんの一瞬だけ、救われた者のように見えた。


「……ありがとう、セレヴィアちゃん」


 本当に言葉にしたのか、それともセレヴィアの心がそう受け取っただけなのかは分からない。


 だが、セレヴィアは頷かなかった。


 慰めもしない。


 赦しもしない。


 ただ、王として刃を振るう。


 ノクターンが振り下ろされた。


 黒い刃が、静かにリリセアの首を断つ。


 血が散る。


 だが、もうそれは武器にはならなかった。


 宙を舞った首は、ほんのわずか穏やかな表情を残したまま、凍りついた床へ落ちる。身体はゆっくりと傾き、その場に崩れた。


 再生は起きない。


 黒い死霊術の靄も、血の武器も、聖痕の光も、何も動かなかった。


 ただ、首元に刻まれていた聖痕だけが、最後に一度だけ金色に明滅し、それから硝子が割れるような音を立てて砕け散った。


 長く終わりを求め続けた不死者の物語は、ここで幕を閉じた。


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