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39.目覚めの朝


リリス・ヴァル=ネメシアの部屋は、静かだった。


 それは、ただ音がないという意味ではない。魔王城の奥深く、厳重な結界と幾重もの警備に守られたその一室には、いつもどこか柔らかな気配があった。高級ホテルのスイートルームか、あるいは映画の中に出てくる王族の寝室のように広く、豪奢で、けれど不思議と冷たさを感じさせない空間だった。


 天蓋付きの大きな寝台には白と淡い紫を基調とした布が幾重にも重ねられ、壁には魔王家の紋章を意匠化した銀細工が控えめに飾られている。床には厚い絨毯が敷かれ、歩く者の足音を柔らかく吸い込んでいた。棚には薬草を調合した小瓶や魔導式の体調計が並び、窓辺には淡い光を受ける花が置かれている。


 鼻腔をくすぐるのは、仄かに甘く湿った香りだった。


 焚き染められた香草のような、不思議な匂い。強すぎず、薄すぎず、眠る者の呼吸を妨げないように調整されたそれは、リリスの体調を整えるためにミレーユが選んだものだった。部屋の隅で静かに揺れる香炉から、白い煙が糸のように立ち上り、朝の光の中へ溶けていく。


 その日は、珍しく晴れていた。


 グラティオルの空は、いつも薄暗い。昼であっても雲が厚く、魔力の霧が光を鈍らせ、世界全体が夜の余韻を引きずっているように見える。それがこの大陸の日常であり、そこに暮らす魔族たちは誰も疑問に思わない。


 けれど、その朝だけは違った。


 雲の切れ間から麗らかな日差しが差し込み、窓辺の薄いカーテンを通して、部屋の中へ柔らかな金色を運んでいた。光は寝台の白い布を照らし、銀色の髪を淡く輝かせ、眠るリリスの頬にほんのりとした温度を与えている。


 そのベッドの傍らに、セレヴィアは座っていた。


 黒を基調とした簡素な室内用のドレスを身にまとい、長い銀髪をゆるく背へ流した姿は、いつもの魔王としての威厳をいくらか薄めていた。けれど、それでも背筋は伸び、膝の上に置かれた片手には自然と品位が宿っている。幼い頃から王として立つことを求められた少女は、どれほど疲弊していても、姿勢だけで自らを保つ術を知っていた。


 ただ、そのもう片方の手は、リリスの小さな手を握っていた。


 細く、冷えやすい指。


 少しでも力を込めれば壊れてしまいそうなほど華奢な手。


 五日前、旧封鎖砦グラーヴェン跡地から連れ帰って以来、リリスは一度も目を覚ましていなかった。


 事件は終わった。


 リリセア・グリムは倒れた。六年前から失踪していた六魔柱第三席《幽葬》は、もはやこの世にはいない。リリスを攫い、クラリス聖教会と手を結び、魔王城を襲撃し、死霊の軍勢を差し向けた者は、セレヴィアの手によって断罪された。


 城の被害は大きかった。負傷者も多い。ミレーユも深い傷を負ったが、白竜の血と治療魔法によって命に別状はなかった。キャロルは泣きながら自分は役に立てたのかと何度も尋ね、フィリシアはいつもの明るさを保とうとしながらも、数日間は歌の調子がわずかに沈んでいた。シオンは軽口を取り戻したが、その目の奥はしばらく冷えたままだった。グロズとカノーネも負傷しながら帰還し、それでもリリスが連れ戻されたと聞いた時だけは、ほんの少し表情を緩めた。


 すべてが元通りになったわけではない。


 それでも、リリスは帰ってきた。


 帰ってきたはずだった。


 けれど、目を覚まさない。


 医師たちは言った。


 眠っているだけです、と。


 体に新たな異常は見つかりません、と。


 魔力の乱れはむしろ事件前よりも落ち着いています、と。


 ただ、深く眠っているのだろうと。肉体と魔力、そして精神が大きな負荷を受けた結果、自らを守るために眠りについているのだろうと。


 理屈は分かる。


 セレヴィアは王であり、魔法にも医術にも一定の理解がある。医師たちの診断が根拠のない慰めではないことも分かっていた。実際、リリスの呼吸は安定している。脈もある。熱も落ち着いている。苦しそうな様子はなく、ただ穏やかに眠っているように見える。


 だが、五日だった。


 五日間、リリスは一度も目を開けていない。


 セレヴィアは毎日この部屋を訪れた。


 政務の合間などではない。むしろ政務の方を合間へ追いやり、彼女は時間を見つけてはリリスの傍に座っていた。報告書はこの部屋で読んだ。各地の被害状況も、クラリス聖教会の動向も、六魔柱からの追加報告も、すべてミレーユや側近を通してこの部屋へ運ばせた。


 王として動かなければならない。


 けれど、姉として離れられなかった。


 セレヴィアは、眠るリリスの手をそっと撫でる。


「今日は、珍しく晴れているわ」


 穏やかな声だった。


 まるで眠る妹に話しかけることが、日課の一部になっているかのように。


「グラティオルでこんなに日差しが入るのは、本当に珍しいの。あなたが起きていたら、きっと眩しそうに目を細めていたでしょうね」


 リリスは答えない。


 規則正しい寝息だけが、薄く聞こえている。


「フィリシアがね、あなたが起きたら歌ってあげると言っていたわ。今回は静かな歌にするって。……本人は静かにしているつもりでも、どうせ少し賑やかになるでしょうけれど」


 セレヴィアはほんの少しだけ笑った。


 けれど、その笑みはすぐに消える。


「キャロルも毎日来たがっているのよ。ミレーユに止められているけれど。あなたが起きた時に最初に転ぶのは自分だって、よく分からないことを言っていたわ」


 何気ない話。


 何でもない報告。


 リリスが起きていたなら、少し困ったように笑ってくれたかもしれない。キャロルさんらしいですね、と小さな声で言ったかもしれない。あるいは、フィリシアの歌を楽しみにして、少しだけ目を輝かせたかもしれない。


 けれど、今は何も返ってこない。


 沈黙が、部屋に満ちる。


 晴れた光があるのに、部屋はどこか寒かった。


 セレヴィアは、リリスの手を握る力を少しだけ強めた。


「フィオレッタも……心配しているわ。あなたが目を覚ましたら、また会いに来ると言っていた。人形のアイリスも、ちゃんとベッドの近くに置いてあるわよ」


 視線を移すと、枕元の近くに小さな人形が座っていた。


 銀髪と赤紫の瞳を持つ、リリスによく似た人形。


 フィオレッタから贈られ、リリス自身がアイリスと名付けたもの。


 その人形は何も語らない。ただ静かに、眠る主を見守るようにそこにいた。


「あなたが描いてくれた絵も、ちゃんと飾ってあるわ」


 リリスが震える手で描いたセレヴィアの似顔絵。上手い下手ではなく、そこに込められた想いそのものが、セレヴィアにとって何より大切な贈り物だった。線はたどたどしく、形も不安定で、それでもその絵を見るたび、リリスが自分のために何かをしようとしてくれた事実が胸を温めた。


「……あなたは、本当に」


 そこで、言葉が止まった。


 何を言おうとしたのか、自分でも分からなかった。


 本当に優しい子。


 本当に無茶をする子。


 本当に大切な子。


 どれも正しくて、どれも足りない。


 セレヴィアは唇を噛む。


 目の奥が熱くなるのを感じた。


 王としてなら、泣いてはいけない。


 魔王としてなら、揺らいではいけない。


 けれど今、この部屋にいるのは誰なのか。


 第十代目魔王セレヴィア・ヴァル=ネメシア。


 確かにそう名乗った。


 父の影を斬り、リリセアを断罪し、魔王代理ではなく魔王として立つことを選んだ。


 だが、それでも。


 リリスの前では、彼女はただの姉だった。


 妹の手を握り、目覚めを待つことしかできない、十五歳の少女だった。


「リリス……」


 名前を呼ぶ。


 声が震えた。


 もう一度。


「リリス……お願い」


 そこで、とうとう涙が溢れた。


 一粒だけ。


 それを堪えようとするより早く、頬を伝って落ちる。


「目を、開けて……」


 かすれた声だった。


 リリスは答えない。


 セレヴィアは顔を伏せ、握った手に額を近づける。


「私は……あなたを守ると決めたのに……また、あなたに無理をさせた。あなたが何をしたのか、まだ分からない。あの光が何だったのかも、あの魔法が何だったのかも……でも、あなたが私を助けてくれたことだけは分かる」


 涙が、止まらなかった。


 ぽたり、とリリスの手の甲へ落ちる。


「助けに行ったのは、私なのに……」


 部屋の空気が、静かに揺れた。


 窓から差し込む光が、わずかに強くなる。


 香炉の煙がゆるく流れ、白い筋となって寝台の上へ漂った。


 そのとき。


 リリスの指が、微かに動いた。


 最初、セレヴィアは気づかなかった。


 自分の涙で視界が滲んでいたから。


 けれど、次に小さな声が聞こえた。


「……ねぇ……さま……」


 セレヴィアの時間が止まった。


 ゆっくり顔を上げる。


 寝台の上で、リリスのまつ毛が震えていた。


 薄く開いた瞳。


 赤と紫のオッドアイが、まだ焦点の合わないまま、ぼんやりとこちらを見ている。


 その表情は眠りから覚めたばかりの幼子そのもので、少し不安そうで、少しぼんやりしていて、それでも確かに生きていた。


「リリス……?」


 セレヴィアの声は、ほとんど息だった。


 リリスは何度か瞬きをし、かすれた声で呟く。


「……ねえさま……ないて、る……?」


 その瞬間、セレヴィアの中で何かが壊れた。


 張り詰めていた糸が切れたように。


 王としての顔も、魔王としての威厳も、すべてが剥がれ落ちる。


「リリス……!」


 セレヴィアはリリスを抱きしめた。


 強くしすぎないように、それでも離さないように、細心の注意を払いながら。小さな身体を胸へ抱き寄せ、その温度を確かめる。リリスはまだ力が入らないのか、ぼんやりしたままセレヴィアの腕の中に収まっていた。


 生きている。


 目を開けた。


 名前を呼んだ。


 ただそれだけのことが、奇跡のようだった。


「よかった……っ」


 セレヴィアの声は震えていた。


「よかった、リリス……本当に……」


 涙はもう止まらなかった。


 リリスの前で、セレヴィアは泣いた。


 それは魔王の姿ではなかった。


 国を統べる王でも、六魔柱へ命を下す統治者でも、敵を断罪した継承者でもない。


 ただ、大切な妹を失いかけ、五日間眠り続けるその手を握り、ようやく目覚めた声を聞いた、年端もいかない少女の姿だった。


 リリスは弱々しく瞬きをし、まだ状況を理解しきれていない様子で、小さな手を動かした。


 その指が、セレヴィアの袖をそっと掴む。


「……ごめん、なさい……」


 かすかな声。


 それを聞いた瞬間、セレヴィアはさらに強く首を振った。


「謝らないで……お願いだから、謝らないで」


 リリスは困ったように目を細める。


「……ぼく……また……めいわく……」


「違う」


 セレヴィアは即座に言った。


 涙に濡れた顔のまま、それでもその言葉だけははっきりと。


「迷惑なんかじゃない。あなたが生きていてくれるだけでいいの。目を覚ましてくれただけで……それだけで、私は」


 言葉が続かなかった。


 胸が詰まり、声にならない。


 リリスはしばらくセレヴィアを見つめていた。


 それから、ほんの少しだけ唇を動かした。


「……ただいま……です……」


 その言葉に、セレヴィアは泣きながら笑った。


 ぐしゃぐしゃの顔で。


 けれど、これ以上ないほど嬉しそうに。


「おかえりなさい、リリス」


 晴れた日差しが、二人を包んでいた。


 グラティオルには珍しい、穏やかな朝だった。


 長く続いた死の影も、血の夜も、裏切りの痛みも、そのすべてが完全に消えたわけではない。リリスの呪いも――


 けれど、この瞬間だけは。


 リリスが目を覚ましたこの部屋だけは。


 確かに救われていた。


 セレヴィアは、もう一度妹を抱きしめる。


 リリスは弱々しくも、その腕の中で小さく息をついた。


 窓の外では、珍しく晴れた空が広がっている。


 魔族の大陸グラティオルに差し込む光は淡く、それでも確かに暖かかった。


 失われたものは多い。


 傷ついた者もいる。


 けれど、守りたかった小さな命は、再び目を開けた。





 第一章 終 呪いの少女と不死の葬送


書き溜めが無くなったので

これから不定期更新になります

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