37.戻れない場所で
最初に感じたのは、あの地下に満ちていた湿った石の匂いではなかった。もっと乾いていて、薄くて、どこか古い布と埃の匂いがする。身体を包んでいるのは魔王城の寝具のような絹のなめらかさではなく、使い慣れた安物のシーツのざらつきで、背中に触れるマットレスも、リリスの身体を丁寧に支えてくれる高級な寝台とは違い、少し沈みすぎるような頼りなさがあった。
ゆっくりと目を開けた。
白い天井があった。
低い天井。何の装飾もなく、魔法陣も、王家の紋様も、天蓋もない。ただ、少し黄ばんだ照明が一つついているだけの、見慣れすぎていて、だからこそ妙に現実感の薄い天井。
「……え……?」
喉から漏れた声は、小さく掠れていた。
起き上がろうとして、身体が少し重いことに気づく。頭痛もある。眩暈もある。だが、それよりも強いのは混乱だった。
ここは、どこだろう。
そう考えるより早く、記憶が答えを出した。
悠斗の部屋だ。
前世で、鳴海悠斗として暮らしていた部屋。
狭い一Kのマンション。玄関を入ってすぐの短い廊下。小さなキッチン。ユニットバス。部屋には低いテーブルとベッド、古い本棚、脱ぎっぱなしの上着をかけるための安いハンガーラック。生活に必要なものはあるけれど、それ以上のものはほとんどない。趣味らしい趣味も、飾りも、誰かを招くための余裕もなかった、ただ眠るためだけに帰っていた部屋。
記憶の中のままの場所だった。
窓の外は暗い。カーテンの隙間から、街灯の淡い光が差し込んでいる。遠くで車の走る音が聞こえた気がした。魔王城の外に広がる長い夜とは違う、街の生活音を含んだ夜の気配。
夢だったのか?
リリセアに攫われ、地下の研究室のような場所で目を覚まし、声に導かれて瓶の中の光る球体を助けた。そのあと足音がして、リリセアが戻ってきて、たしか――。
そこまで思い出しかけて、胸がきゅっと縮んだ。
そう思いながら、ゆっくりとベッドから降りた。足の裏に触れる床は、冷たい石畳ではなく、硬いフローリングだった。
部屋の隅に、姿見があった。
悠斗の部屋に、こんな鏡はなかったはずだと思った。いや、あっただろうか。記憶が曖昧だ。忙しさに潰されるように生きていた頃の部屋の細部なんて、もうあまり自信がない。
鏡の前に立った。そこには―――
「……な、にこれぇ……」
そこに映っていたのは、鳴海悠斗ではなかった。
銀の髪。赤と紫のオッドアイ。華奢で小さな身体。幼い顔立ち。誕生日に着せられた特別なドレスは、ところどころ乱れているものの、間違いなくリリスのものだった。首元にはセレヴィアから贈られたペンダントがあり、青い宝石が街灯の光を受けて微かに揺れている。
ここが悠斗の部屋でも。
自分は、リリスだった。
「……夢、じゃ……ない……?」
そう呟いてから、自分でも分からなくなる。
夢ではないのか。けれど現実でもない。少なくとも、普通の現実ではない。だって、ここは前世の部屋で、今の自分はリリスで、そんなものが同時に存在しているはずがない。
リリスは両手で頭を押さえた。
思い出さないと。
ここに来る前、何があった。
地下の部屋。散らばった本。読めない文字。そのあと、頭の中に直接響く声があった。
無機質で、でもどこか必死な助けを求める声。
瓶の中には淡く光る液体と、その中に浮かぶ白く青い球体。自分はそれを瓶から出した。
その後。
扉の外で足音がした。
リリセアが来た。
あの貼りついた笑顔で、何かを言った。たぶん、自分に向かって手を伸ばした。その瞬間、身体が動かなくなって、視界が暗くなって――。
意識が、そこで途切れた。
リリスは唇を噛む。
今、自分は意識を失っているのだろうか。
ここは、夢の中なのだろうか。
それとも――。
「りりす」
声がした。
リリスはびくりと肩を震わせた。
その声は、部屋の中から聞こえた。けれど、耳で聞いたというより、やはり頭の中へ直接届いたような、不思議な響きだった。
「りりす」
もう一度呼ばれる。
ゆっくり振り返る。
そこに、リリスがいた。
同じ姿の少女が、部屋の中央に立っている。
銀の髪。赤と紫の瞳。小さな角。特別なドレス。首元のペンダントまで同じ。鏡の中に映った自分が、いつの間にか外へ出てきたかのような光景だった。けれど、その瞳はどこか虚ろで、表情は薄く、瞬きの間隔も妙に少ない。
リリスは一瞬、呼吸を忘れた。
「うわっ……!?」
思わず後ずさる。
足がもつれかけ、ベッドの縁にぶつかりそうになって慌てて体勢を整えた。心臓がどくどくと鳴っている。地下でリリセアに出会った時ほどではないにしても、自分と同じ姿の何かがそこにいるというのは、かなり怖い。
その“もう一人のリリス”は、そんなリリスの反応を気にした様子もなく、近づいてきた。
そして、小さな手でリリスのドレスの裾をくい、くい、と引っ張った。
「……え、えっと……だれ……?」
リリスは恐る恐る尋ねる。
すると、もう一人のリリスは、少しだけ顔を上げた。
「シエル・アルファリオン・ゼルミクス・ノルヴァティア・エルディシオン・クレヴァリス・トリシュメリア・ヴァルディノクス・セリュアント・ミレクシア・073219」
先ほどと同じ、長い名前。
今度も淀みなく、一息で流れるように告げられた。
リリスは数秒ほど固まった。
そして、ようやく理解が追いついた。
「……あの、瓶の……光る、やつ……?」
もう一人のリリス――シエルは、こくりと頷いた。
「ひかる やつ」
その返答に、少しだけ緊張が抜ける。
たしかに、あの声だ。
姿は自分と同じなのに、話し方はあの球体の時と同じだった。単語を区切るような、助詞の少ない、不思議な言葉。表情は乏しいけれど、敵意は感じられない。
リリスは胸に手を当て、深呼吸をした。
「……シエル・アルファ……えっと……」
途中まで言いかけて、すぐに諦めた。
無理だ。
覚えられない。
「……シエル、でいい?」
リリスがそう言うと、目の前のシエルはわずかに眉を寄せた。
むっ、としたような顔だった。
同じリリスの顔で、無表情に近いまま、ほんの少し不満そうにする。その様子が妙に子どもっぽくて、リリスはこんな状況なのに一瞬だけ戸惑いを忘れそうになった。
シエルはしばらく黙っていた。
それから、小さく頷く。
「……いいよ」
「よ、よかった……」
思わず息が漏れる。
変なところで怒らせてしまったらどうしようと思ったが、どうやら許してくれたらしい。
しかし、安心したのも束の間、リリスは改めて部屋を見回した。
六畳ほどの狭い部屋。ベッド。低い机。本棚。窓。くたびれたカーテン。見慣れたはずなのに、もう遠い場所になってしまった部屋。
「……ここ、なに……?」
問いかけると、シエルは部屋の中央に立ったまま、首を少し傾げた。
「りりす きおく」
「……記憶?」
「おちつける ばしょ つくった」
リリスは言葉を失った。
落ち着ける場所。
そう言われて、もう一度部屋を見る。
この部屋が、落ち着ける場所。
その言葉は、すぐには飲み込めなかった。
確かにここは、悠斗として暮らしていた場所だ。誰にも気を使わず、誰にも見られず、一人でいられる場所だった。仕事でどれだけ疲れても、最後にはここへ帰ってきた。布団に倒れ込み、眠り、また朝になれば会社へ向かう。何かを楽しむ場所ではなく、ただ生き延びるために最低限の休息を取る場所。
落ち着けると言えば、そうだったのかもしれない。
けれど、温かい場所ではなかった。
誰かが待っているわけでもない。食卓に湯気の立つ料理があるわけでもない。おかえりと言う声も、心配して覗き込む誰かの顔もなかった。
それでも、シエルはここを作った。
自分の記憶の中から、落ち着ける場所として。
リリスは胸の奥が少しだけ苦しくなるのを感じた。
「……どうして、姿は……ぼくなの?」
そう尋ねると、シエルは自分の身体を見下ろした。
同じドレスの裾を軽くつまみ、少しだけ揺らす。
「こっち しあわせ でしょ?」
その言葉に、リリスは何も言えなくなった。
喉の奥で言葉が詰まる。
幸せ。
どちらが幸せか。
そんなことを、真正面から考えたことはなかった。
前世に未練がないわけではない。鳴海悠斗として生きた時間が全部無意味だったとは思いたくない。家族のことも、もう曖昧になっているけれど、完全に消えたわけではない。仕事に追われて疲れていただけの人生でも、それでも自分の人生だった。あの世界に残してきたものが、本当に一つもないとは言い切れない。
けれど。
リリスとして生きる今の世界には、確かに苦しさがある。
身体は弱い。少し歩けば息が上がる。魔法を使えば命を削る。呪われた子だと知らされた。母の命と引き換えに生まれたと聞かされた。リリセアに狙われ、死んでほしいと告げられた。
それでも。
姉さまがいる。
ミレーユがいる。
キャロルがいて、フィオがいて、フィリシアがいて。
誕生日を祝ってくれる人がいた。絵を喜んでくれる人がいた。小さな成長を見守ってくれる人がいた。歩けたことを、笑ってくれる人がいた。自分がただそこにいるだけで、安心したように名前を呼んでくれる人がいた。
前世の部屋は、一人で落ち着くための場所だった。
でも、リリスの部屋は、誰かの温度がある場所だった。
病弱でも。
情けなくても。
何もできなくても。
それでも、今の方が幸せだった。
その事実を認めるのが、少し怖かった。
「……そう、かも……」
リリスは小さく呟いた。
シエルはじっとこちらを見ている。
虚ろな瞳なのに、どこかこちらの奥まで覗き込んでいるようだった。
「りりす こっち すき」
「……うん」
否定できなかった。
リリスはゆっくりとベッドへ腰を下ろした。柔らかく沈む感覚が、妙に懐かしい。けれどその懐かしさは、帰りたいという気持ちとは少し違う。昔読んだ本を久しぶりに開いた時のような、戻れない過去を触っているような感覚だった。
机の上で、軽い通知音が鳴った。
ぴこん、と。
あまりにも場違いな音だった。
リリスは反射的にそちらを見る。低いテーブルの上に、スマホが置かれていた。黒い画面に光が入り、通知の表示が浮かんでいる。鳴海悠斗として暮らしていた頃、何度も見た、あの小さな端末。仕事の連絡、上司からの催促、意味のない広告、疲れ切った夜に見落としていたメッセージ。そういうものと結びついた、どこか嫌な記憶を伴う機械。
この場所が自分の記憶から作られたものなら、そこにスマホがあること自体は不自然ではない。
けれど、今鳴る理由が分からなかった。
「……なに……?」
リリスは恐る恐る近づき、スマホへ手を伸ばした。小さな指には少し大きすぎるそれを持ち上げると、画面が勝手に明るくなった。
そこに映っていたのは、通知ではなかった。
映像だった。
リリスは息を呑んだ。
画面の中で、セレヴィアが戦っていた。
歪んだ教会のような空間。赤黒い光に照らされた石の床。その中央で、セレヴィアが剣を構え、巨大な鎌を振るうリリセアと刃を交えている。
スマホの小さな画面の中なのに、その光景は妙に生々しかった。
セレヴィアの剣が赤黒い鎌を受け止めるたび、火花のような魔力が散る。セレヴィアの動きは美しく、鋭く、迷いがないように見える。けれど、リリスには分かった。姉さまは無理をしている。踏み込みのたびにほんのわずか身体が遅れ、胸元の傷を庇うような動きが混じっている。
血が、見えた。
セレヴィアの服に染み込んだ血。
それを見た瞬間、リリスの喉がひゅっと鳴った。
「姉さま……っ」
声が震える。
映像の中でリリセアが笑っている。口元だけは穏やかで、まるで楽しい会話でもしているみたいなのに、その手にした血の鎌は何度もセレヴィアへ振り下ろされている。
危ない。
そう思うのに、画面の中へ手を伸ばしても届かない。スマホの冷たいガラスに指先が触れるだけで、そこにあるはずの姉の姿には何一つ触れられない。
その時、映像が切り替わった。
まるでカメラの視点が変わるように、画面はセレヴィアたちの戦いから離れ、祭壇の上を映し出した。
そこに、リリス自身の身体があった。
白い石の祭壇の上に横たわっている。銀の髪が乱れ、誕生日のドレスはところどころ汚れている。首元にはペンダントがあり、胸は微かに上下している。周囲には凍った床が広がり、青白い氷の上に黒い破片や、異形の頭部らしきものが転がっていた。大きく割れた獣の頭蓋。蛇のような首の一部。鳥の翼の残骸。見ているだけで胃の奥が冷えるようなものが、あたりに散乱している。
リリスはスマホを握ったまま、呆然と画面を見つめた。
「……これ……」
言葉がうまく続かない。
すると、隣に立っていたシエルが、無表情のまま画面を覗き込んだ。
「そと ようす」
淡々とした声が、頭の中に響く。
「そと……」
「りりす からだ そこ」
その短い言葉で、リリスは理解した。
これはただの映像ではない。シエルが見せてくれている、外の状況なのだ。自分が意識を失っている間、身体の周囲で何が起きているのか。姉さまがどんなふうに戦っているのか。リリセアがどれだけ危険な相手なのか。
見せられている。
知ってしまった。
なら、じっとしていられるわけがなかった。
「……助けないと」
リリスは、ほとんど反射のようにそう言った。
自分でも驚くくらい、言葉はすぐに出た。
怖いのに。
戻るのが怖いのに。
それでも、姉さまが傷ついているのを見て、ただ隠れていることはできなかった。
スマホを机の上に置き、リリスは出口を探すように部屋を見回した。けれどここは悠斗の部屋で、扉は玄関へ続いているだけだ。窓の外には前世の街の夜が広がっていて、あの教会めいた空間へ繋がる道など見当たらない。
焦りが胸を締めつける。
「戻らないと……姉さまが……!」
その時、シエルがリリスの手を取った。
同じ小さな手。
同じ体温のはずなのに、触れた感覚はどこか不思議だった。柔らかいのに、光に触れているようでもあり、現実の身体とは少し違う。シエルは無表情のまま、じっとリリスを見上げる。
「いかない ほうが いい」
その声は、淡々としていた。
でも、止めようとしていることは分かった。
「……どうして」
「りりす のろい」
シエルは、握った手に少しだけ力を込める。
「よわい まほう でも からだ こわれる」
その言葉に、リリスは唇を噛んだ。
分かっている。
自分の身体がどれほど弱いかは、自分が一番よく知っている。少し歩くだけで息が切れる。自分にできることなどほとんどなく、助けたいと思っても、結局は守られるだけだった。
それでも。
「……でも、行かないと」
リリスは小さく首を振った。
シエルは瞬きをしないまま、リリスを見ている。
「りりす いたい」
「うん」
「くるしい」
「……うん」
「しぬ かも」
その言葉に、一瞬だけ喉が詰まった。
死ぬ。
自分の中にある呪い。リリセアが欲しがっている“終わり”。その全てが、そこへ繋がっている。リリスはもう一度死ぬことが怖い。前世で死んだ時は、何も分からないまま終わった。けれど今は違う。大切なものを知ってしまった。だから余計に怖い。
それでも、手を引くことはできなかった。
「……それでも、行かないと」
声は震えていた。
立派な覚悟なんてない。
自分なら何とかできるという自信もない。
ただ、姉さまを助けたい。
それだけだった。
シエルは、リリスの顔をじっと見つめていた。虚ろな瞳の奥に、何かを考えているような微かな揺れが生まれる。リリスの感情を確かに読み取っているようだった。
「せれゔぃあ たすけたい?」
シエルが問う。
リリスは迷わず頷いた。
「……助けたい」
その一言を口にした瞬間、胸の中にあるものが少しだけ形を持った。
ずっと、何かをしてあげたかった。
セレヴィアの役に立ちたかった。
似顔絵を描いた時も、誕生日に祝われた時も、ただ守られるだけじゃなく、自分も何かを返したいと思っていた。けれど現実には何もできなかった。体が弱くて、魔法も使えなくて、剣も握れなくて、いつも誰かに抱き上げられて、守られてばかりだった。
だから今こそ。
たとえ小さなことでも。
姉さまを助けたい。
シエルはしばらく黙っていた。
それから、ほんの少しだけ顎を引く。
考えている。
そう分かる仕草だった。
同じリリスの顔なのに、表情はほとんど動かない。だが、その無表情の中に、妙に真剣な気配があった。
やがて、シエルは言った。
「からだ かして」
リリスは目を瞬かせた。
「……からだ?」
「しえる せれゔぃあ たすける」
シエルは、無表情のまま胸を張った。
それは、たぶんドヤ顔のつもりだった。
表情はほとんど変わっていないのに、どこか得意そうに見えるのが不思議で、こんな状況なのにリリスは一瞬だけぽかんとしてしまった。
「……シエルが?」
「うん」
「ぼくのからだで……?」
「うん」
シエルは頷く。
「りりす まほう つかう あぶない」
「……うん」
「しえる てつだう」
言葉は短い。
でも、シエルは助けると言った。
リリスは不安げに尋ねる。
「……それ、シエルは……大丈夫なの?」
シエルは首を傾げた。
「だいじょうぶ」
少しだけ不安になる。
けれど、他に方法がないのも分かっていた。
「姉さまを……助けて」
「たすける」
短い返事。
その言葉に、嘘はなかった。
シエルは少しだけリリスへ近づき、無表情のまま言った。
「すこし ねむっちゃう いい?」
その問いかけに、リリスは一瞬だけ目を伏せた。
眠る。
意識を失う。
その間、外で何が起きるのか分からない。自分の身体がどう動くのかも、シエルが何をするのかも分からない。
でも、今は信じるしかない。
リリスはゆっくりと頷いた。
「……いいよ」
シエルの瞳が、少しだけ明るくなった気がした。
「ありがと」
その声が頭の中に響いた瞬間、部屋の中に光が満ち始めた。
最初は、シエルの身体の輪郭から滲み出すような淡い白と青の光だった。それが床へ落ち、壁へ広がり、ベッドや机や本棚の輪郭を柔らかく溶かしていく。スマホの画面も、窓の外の街灯も、古いカーテンも、すべてが光の中へ沈んでいく。
リリスは目を閉じそうになりながら、最後にもう一度だけ部屋を見た。
悠斗の部屋。
かつての自分が生きていた場所。
けれど、もう帰る場所ではない。
今は、帰らなければならない場所がある。
姉さまのところへ。
魔王城へ。
自分を待ってくれる人たちのいる場所へ。
「……お願い、シエル」
声になったかどうか分からないほど小さく呟く。
シエルは、リリスと同じ顔のまま、静かに頷いた。
「まかせて」
その言葉を最後に、光が一気に強くなる。
視界が白く染まり、身体の感覚がふわりと遠のいていく。眠りに落ちる時に似ているけれど、どこか水の中へ沈んでいくようでもあった。怖さはある。けれど、その奥に少しだけ安心もあった。
シエルの手の温度が、最後まで残っていた。
そしてリリスの意識は、淡い光に包まれながら、ゆっくりと深い場所へ沈んでいった。




