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36.尽きない


リリセア・グリムという存在を相手に、ただ刃を振るい続けることは、自ら敗北へ歩み寄ることと同じだった。


 それは一度剣を交えた時点で、セレヴィアにもはっきりと理解できている。あの女は死なない。斬れば裂け、凍らせれば砕け、首を落とせば崩れるだろう。だが、どれほど肉体を損壊させても、それは終わりには繋がらない。腕を失えば新しい腕が生え、首を貫けば傷は塞がり、血を流せばその血さえ武器へと変える。生き物としての常識を外れたその特異体質は、敵にとっては悪夢であり、味方であった頃でさえ、どこか扱い難い奇跡のようなものだった。


 先代魔王ヴァルザードですら、彼女の“終わり”を見つけることはできなかった。


 父ほどの力と知略を持つ者が、長い時間をかけても成し得なかったことを、自分がこの場で容易く見つけられるなどとは思っていない。傲慢になるつもりはなかった。怒りに任せて斬り刻み続けても、それはリリセアの望む持久戦に引きずり込まれるだけだ。


 だからこそ、考えなければならない。


 セレヴィアはノクターンを構えたまま、祭壇前に立つリリセアを見据えていた。


 足元には先ほどの《氷月輪舞》によって生まれた氷の層がまだ残っている。砕けたアンデッドの残骸は氷片と混ざり合い、白く曇った床の上に無数の黒い破片となって散らばっていた。吹き抜けの高い天井からは赤黒い魔力の光が落ち、歪んだ教会めいた空間を不気味に照らしている。


 リリセアは不老不死であり、肉体の再生に魔力を必要としない。即ち彼女の不死性そのものは魔力量に依存しない。だから単純に魔力を枯渇させても、彼女が死ぬことはないだろう。あれは呪いか、体質か、もっと別の概念的な何かに近い。


 だが、戦い方は違う。


 血液操作魔法《Crimson Arsenal》。己の血を刃へ、槍へ、鎌へと変える異常な術。さらに死霊術によるアンデッド召喚。先ほど床から這い出てきた死者たちも、途中で足止めとして用意されていた合成獣も、すべてリリセアの闇属性魔法によって生成されたものだ。


 不死は尽きなくとも、魔力は尽きる。


 その一点だけが、この戦場に残された現実的な勝機だった。


 リリセア本人の身体能力は、決して高いわけではない。グロズのような圧倒的な前線維持力も、カノーネのような爆発的な破壊力も、シオンのような攪乱性能も、フィリシアのような支援制御能力も持たない。彼女の強さは、尽きない肉体と、尽きないように見える武器リソース、そして死霊術による数の暴力にある。


 斬っても死なない。

 流した血が武器になる。

 倒しても次の死者を呼び出す。


 だから戦う者は、やがて疲弊する。傷つき、焦り、消耗し、いつか判断を誤る。リリセアはその瞬間を待つ。どれほど優勢に見えても、最後まで立っているのは自分だと知っているからだ。


 持久戦。


 それが彼女の戦い方の本質だった。


 ならば、その持久戦を逆に利用する。


 セレヴィアは静かに息を吐いた。


 地上には、少なく見積もっても千に近いアンデッドが配置されていた。そこに至るまでの坑道には合成獣がいた。さらにこの場でも死霊術によるアンデッドを大量に呼び出している。空間歪曲された闘技場、そしてこの教会めいた異常空間。すべてをリリセア一人の魔力で維持しているわけではないにせよ、彼女が魔術の中核を担っている可能性は高い。


 この短時間で、かなりの魔力を消費しているはずだ。


 見た目には余裕がある。


 声も、笑みも、いつものままだ。


 だが、リリセアは不死であっても無限の魔力炉ではない。魔力が尽きれば、《Crimson Arsenal》の形成速度は鈍る。死霊術による追加召喚もできなくなる。そうなれば、彼女を終わらせることはできずとも、拘束することは可能になる。


 氷による封印。

 闇属性の鎖。

 ノクターンを媒体にした空間捕縛。


 方法はいくつかある。


 問題は、そこまでリリセアを消耗させられるか。


 ―――――――――――――――――――――――――――


 戦いは、終わらなかった。


 どれほど斬っても、どれほど凍らせても、リリセアの周囲には新たな死が湧き続けていた。床に刻まれた魔法陣が脈打つたび、氷の隙間から黒い腕が伸び、砕けた柱の陰から骨の兵が這い出し、祭壇の下に溜まっていた血のような影が形を取って立ち上がる。セレヴィアはそれらを一体ずつ見極め、ノクターンの刃に氷を纏わせながら、必要以上の魔力を使わぬように切り伏せ続けていた。


 大きく攻めない。深く踏み込みすぎない。あえて相手に攻撃させ、血を使わせ、死霊術を展開させ、それを潰す。リリセアの魔力を削るために、こちらもまた持久戦へ付き合う。彼女の得意とする土俵へ自ら踏み込み、その上で勝つための戦い方。


 骸骨の兵が、錆びついた槍を構えて突き込んでくる。


 セレヴィアは視線だけでその軌道を読み、半歩だけ身をずらした。槍先は肩のすぐ横を掠め、空を突く。その腕をノクターンの柄で弾き、返す刃で首を落とす。骨が砕ける軽い音が、広い聖堂のような空間に響いた。続けざまに、背後から黒い影兵が迫る。肉を持たない死霊の腕が鎌のように伸び、首筋を狙う。セレヴィアは床の氷を滑るように使って横へ流れ、そのまま回転しながら刃を走らせた。


 闇の霊体が、氷に包まれて砕け散る。


 だが、その欠片が床へ落ちきる前に、今度はリリセアの血が形を変えた。


 赤黒い液体が空中で膨れ上がり、巨大な大槌へと変形する。斧でも鎌でも剣でもない。叩き潰すことだけを目的とした、無骨で巨大な武器。リリセアが軽く手を振ると、それはあり得ない速度でセレヴィアへと振り下ろされた。


 受け止めれば、床ごと砕かれる。


 セレヴィアは瞬時に判断し、ノクターンを斜めに構える。真正面から力を受けるのではなく、刃の腹で軌道を逸らし、衝撃を横へ逃がす。赤黒い大槌はノクターンを擦りながら床へ叩きつけられ、聖堂の石畳を大きく陥没させた。


 その瞬間、セレヴィアは刃を通して氷の魔力を流し込む。


 大槌の表面を白い霜が走り、柄へ、根元へと凍結が広がる。リリセアは即座に血を散らして武器の形を解除しようとするが、セレヴィアの氷はそれよりわずかに速かった。硬直した大槌は砕け、赤黒い破片となって床へ散る。


 血が武器へ戻る前に、さらに薄い氷を重ねて固める。


 それでまた一つ、リリセアに再形成を強いた。


 作戦通りだ。


 そう、作戦通りのはずだった。


 だが、どれほど続けているだろうか。


 時間の感覚が、少しずつ曖昧になっている。ほんの数分のようにも思えるし、もっと長く戦っているようにも感じる。胸の傷はまだ痛み、呼吸のたびに包帯の奥で熱を持つ。足元に展開した氷の維持、ノクターンへの属性付与、血の武器を凍結させるための精密な魔力操作。どれも大技ほどの消費ではないが、積み重なれば確実にこちらの体力と集中力を削っていく。


 にもかかわらず、リリセアの攻撃の手は緩まなかった。


 彼女はいまだ笑っている。


 額に汗もなく、呼吸も乱れず、魔力が尽きかけている兆候も見えない。少なくとも表面上は、最初とほとんど変わらない余裕を保っている。


 何かがおかしい。


 セレヴィアの胸中に、冷たい疑念が生まれる。


 リリセアは確かに大量の魔力を使っているはずだった。地上のアンデッド、坑道の合成獣、この聖堂を模した空間、死霊術、血液操作。すべてを無尽蔵に扱えるわけがない。そんなことはあり得ない。彼女の不老不死は魔力に依存しないとしても、魔法は違う。


 なのに、なぜ。


 セレヴィアが一瞬だけ眉をひそめた、その隙間を見透かしたように、リリセアがふわりと笑った。


「大口を叩いていた割には、仕掛けてきませんねぇ」


 声は甘く、退屈そうだった。


 血の大鎌を肩に担ぐようにして、リリセアは首を傾げる。周囲には死霊が徘徊し、床には砕かれたアンデッドの残骸と凍りついた血の破片が散っている。そんな中で彼女だけが、まるで午後の茶会に飽きた令嬢のような顔をしていた。


「少し退屈してきましたぁ」


 その言葉に、セレヴィアは刃を構えたまま、呼吸を整える。


「ならば、待っていればいいわ」


「あら?」


「あなたの魔力が尽きるまで、あなたの得意分野である持久戦に付き合ってあげると言っているの」


 静かに告げる。


 しかし。


 リリセアは、数秒だけきょとんとした顔をした。


 それから、ぷっと小さく吹き出した。


 セレヴィアは目を細める。


 リリセアは口元を押さえたが、笑いは止まらなかった。最初は小さく漏れるだけだった声が、すぐに堪えきれないものへと変わり、やがて彼女は腹を抱えるようにして笑い始めた。肩を震わせ、目尻に涙すら浮かべながら、くすくす、ふふふ、と、それでもどこか壊れたような声で笑う。


 その光景は、気味が悪かった。


 リリセアはいつも笑っている。だが、それは貼りついたような笑みであり、感情の起伏を伴わないものだった。痛みを受けても、腕を切られても、血を流しても、彼女は穏やかに微笑むだけだった。そんな彼女が、ここまで明確に感情を露わにしている。


 気味が悪い。


 セレヴィアの内側で、嫌な予感がさらに濃くなる。


「……何がおかしいの」


 問う声は低かった。


 リリセアはまだ笑いを残したまま、近くを彷徨っていた骸骨のアンデッド兵へと手を伸ばした。首が傾き、顎の外れたそれは意味のない呻きを漏らしていたが、リリセアはまるで小さな子どもか愛玩動物でも扱うように、その頭蓋を優しく撫でる。


「いい子ですねぇ。いい子、いい子」


 骨だけの頭を撫でる指先は、驚くほど穏やかだった。


 だが、その慈しみに似た仕草が、かえって底知れない歪みを際立たせていた。命のないものを愛でるように撫でながら、リリセアはセレヴィアへ視線を戻す。


「セレヴィアちゃんは、ほんとうにいい子ですねぇ」


 その言葉には、嘲笑とも憐憫ともつかない響きがあった。


「確かに、魔力が尽きたら魔法は使えなくなりますねぇ」


 リリセアは骸骨の頭から手を離し、ゆっくりと自分の首元へ指を運ぶ。


「本来なら」


 その一言で、セレヴィアの背筋に冷たいものが走った。


 リリセアは長い黒髪を片手でかき分ける。


 白い首筋が露わになる。


 そこに、痕があった。


 聖痕。


 セレヴィアは息を呑んだ。


 それは魔族の魔術ではない。闇属性の魔力紋でもない。淡く金色に光る、歪な文様。神聖魔法特有の輝きを持ちながら、清浄さよりも支配の匂いを強く放つ刻印。皮膚に直接焼きつけられたようなそれは、脈打つたびにリリセアの周囲へ微かな魔力を流し込んでいる。


 クラリス聖教会。


 その名が、自然と脳裏に浮かぶ。


「これはぁ、クラリス聖教会と契約した時に施された聖痕です」


 リリセアは嬉しそうに説明する。


「女神様? の加護があるらしくて、無尽蔵な魔力を得られるんですよぉ」


 ふふ、と笑う。


「ただし、体への負担がとても大きいらしいんですけどぉ……わたしには意味がないですねぇ」


 セレヴィアは、言葉を失った。


 思考が、一瞬だけ完全に止まる。


 無尽蔵な魔力。


 聖痕。


 クラリス聖教会との契約。


 それらの意味が理解できた瞬間、これまで組み立てていた戦術が音を立てて崩れていく。リリセアの魔力を枯渇させる。攻撃を誘い、血を使わせ、死霊術を展開させ、消耗させる。そのための持久戦。


 その前提が、覆された。


 魔力が尽きない。


 少なくとも、この聖痕が機能している限り、リリセアは魔法を使い続けられる。身体への負荷があったとしても、不老不死である彼女にとっては決定的な欠点にならない。普通の術者なら肉体が壊れるほどの魔力供給でも、彼女なら再生しながら扱えてしまう。


 最悪の組み合わせだった。


 不死の肉体。


 無尽蔵の魔力。


 持久戦の化け物が、本当に持久戦で尽きなくなっている。


 セレヴィアの顔から、血の気が引いていくのを自分でも感じた。


 リリセアはそれを見て、心底愉快そうに目を細める。


「いい表情ですねぇ」


 にこにこと、貼りついたような笑みが戻る。


「絶望的で。計画、崩れちゃいましたぁ?」


 その声は甘く、幼子をからかうようで、それでいて刃よりも深く心を抉る。


 セレヴィアは答えない。


 答えられなかったのではない。答えるべき言葉を、必死に探していた。何か。まだ残っている手段。聖痕を破壊する方法。神聖魔法の供給を断つ手段。リリスを巻き込まずに、リリセアの首元へ届く道。


 だが、考えがまとまる前に、リリセアは楽しそうに両手を広げた。


「証拠に、もっと魔力を使ってあげますねぇ」


 床の魔法陣が、赤黒く輝いた。


 先ほどまでとは比べものにならない濃度の魔力が空間を満たしていく。聖痕から供給される金色の光が、リリセアの闇属性魔力と混じり合い、気味の悪い色となって床へ流れ込む。


 床が、盛り上がる。


 氷が割れる。


 石畳の下から、巨大な骨が突き出した。


 一本ではない。何本もの骨が絡み合い、腐肉の塊がそれを覆い、複数の獣の頭蓋が無理やり接合されていく。狼の顎、牛の角、蛇の胴、鳥の翼、魔獣の脚。それらが死霊術によって縫い合わされ、さらに血液操作によって赤黒い筋肉めいた繊維が巻きついていく。


 巨大な合成獣。


 先ほど坑道でグロズとカノーネが相手取ったものとは、比べものにならない密度だった。


 頭部が三つ、いや、五つ。


 背には歪な翼が生え、腹部からは無数の腕がぶら下がっている。全身から瘴気が噴き出し、腐った肉の匂いと血の鉄臭さが一気に聖堂を満たした。床に残っていたアンデッドの欠片さえ吸い込まれ、その巨体の一部へと組み込まれ


 巨大な合成獣が、歪んだ聖堂の中央で咆哮した。


 複数の喉から重なり合って吐き出されるその音は、獣の声というより、壊れた楽器を無理やり鳴らしたような不協和音だった。狼の顎が開き、蛇の首がのたうち、鳥の翼と虫の脚が不自然に擦れ合うたび、腐肉と血と魔力が混ざり合った臭気が空間を満たしていく。床に残っていた氷片が、瘴気に触れて黒ずみ、ぱきぱきと嫌な音を立てて砕けた。


 セレヴィアは、ノクターンを構えたまま、その異形を見上げていた。


 ただ巨大というだけではない。あれは複数の生き物の死骸を無理やり縫い合わせ、死霊術と血液操作で動かしている“兵器”だ。骨格の継ぎ目は理に適っておらず、筋肉の流れも破綻している。にもかかわらず、リリセアの魔力がそのすべてを無理やり結びつけているせいで、常識外れの質量と耐久を持ったまま動いている。


 セレヴィアは、視界の奥に横たわるリリスを見た。


 祭壇の上で、銀の髪が赤黒い魔力の光を受けて微かに揺れている。小さな胸は、かすかに上下している。


 先ほどまで組み立てていた持久戦の策は崩れた。


 胸の傷も、拘束魔法の残滓も、すでに体力を奪っている。だが、躊躇している余裕はなかった。リリスを守るためには、この場の脅威を一つでも早く排除しなければならない。


 セレヴィアは、左手をわずかに開いた。


 足元の影が、ゆっくりと濃くなる。


深淵侵食アビス・イロージョン


 低く紡いだ瞬間、黒い霧が床から滲み出した。


 それは煙のように軽く漂うものではなかった。もっと重く、粘りつき、対象へまとわりつくために生まれた闇だった。黒い霧は聖堂の床を這い、合成獣の足元へと集まっていく。巨大な脚に絡みつき、腐った肉の隙間へ入り込み、骨と骨の接合部へ染み込んでいく。


 合成獣の動きが、わずかに鈍った。


 頭部の一つが吠え、別の首が身体を振り払おうと暴れる。だが闇の霧は剥がれない。攻撃の力を削り、防御の硬度を落とし、素早さを奪い、魔法耐性さえ侵食する。リリセアの魔力によって組み上げられた異形であっても、構造を維持している以上、そこには“隙”がある。


 その隙を、闇でこじ開ける。


 リリセアが、少しだけ目を細めた。


「あらぁ」


 その反応を確認するより早く、セレヴィアはノクターンを床へ突き立てた。


 今度は氷。


 だが、先ほどまでのような精密な凍結ではない。


 極大魔法。


 この空間の一部を、完全に奪うための氷。


月下絶氷ルナティック・アブソリュート


 詠唱が落ちると同時に、合成獣を中心として巨大な氷のドームが形成された。


 透明に近い青白い壁が瞬時に立ち上がり、半球状に閉じていく。合成獣の巨体が暴れ、翼や爪で内側から氷壁を叩いたが、それすらも凍結の一部に飲まれていった。外から見えるその内部で、空気そのものが白く停止する。


 絶対零度。


 ただ冷たいのではない。


 熱という概念を一瞬で奪う極限の氷。


 ドーム内部の音が消えた。


 合成獣の咆哮も、肉の軋みも、骨の鳴る音も、すべてが氷の中で止まる。次の瞬間、内側に閉じ込められた異形は形を保てなくなり、腐肉も骨も血の筋も、一斉に白く結晶化した。


 そして、砕けた。


 巨大な合成獣は、悲鳴を上げる暇すらなく、氷の塵となって崩壊した。


 ドームの内側で無数の粒子が舞い、青白い光を受けて一瞬だけ雪のように輝く。だがそれは美しいものではなかった。死を寄せ集めて作られたものが、死ぬことすら許されず、ただ存在を粉砕された結果にすぎない。


 セレヴィアはノクターンを引き抜こうとした。


 視界が揺れた。


「……っ」


 膝が、わずかに折れかける。


 咄嗟にノクターンを支えにして踏みとどまったが、目の奥が暗くなり、耳鳴りが細く響いた。呼吸が浅くなる。指先が冷たい。魔力を一気に引き抜かれた後特有の空洞感が、胸の奥から腹の底へ広がっていく。


 魔力切れの兆候。


 完全に尽きたわけではない。だが、危険域に近い。


 セレヴィアは唇を噛んだ。


 リリセアの魔力切れを狙う作戦は失敗した。相手は聖痕によって無尽蔵に近い魔力供給を得ている。こちらは負傷し、消耗し、極大魔法まで使った。状況は、明らかに悪化している。


 勝機は、薄い。


 いや、正確に言えば、最初に想定していた勝ち筋はほとんど消えた。


 ならば、リリスだけでも奪還して逃げるべきか。


 そう考えた瞬間、セレヴィアは自分の中でその案を即座に否定した。


 リリセアが、それを許すはずがない。


 リリスは祭壇の上にいる。そこへ辿り着くには、リリセアの前を抜けなければならない。仮に一瞬の隙を突いて抱き上げたとしても、撤退経路は限られている。背後ではグロズとカノーネが合成獣を相手取っているはずで、地上ではフィリシアとシオンが外周を抑えている。撤退そのものが戦闘になる。


 その間、リリセアが何もしないはずがない。


 血の刃でリリスを狙われれば、それで終わる。


 セレヴィアはノクターンを握る手に力を込めた。


 目の前では、合成獣を一瞬で粉砕されたにもかかわらず、リリセアはまったく動揺していなかった。


 むしろ、楽しそうだった。


「すごいですねぇ。今の、一体作るのにそこそこ魔力を使ったんですけどぉ」


 リリセアは、ぱちぱちと軽く手を叩く。


「でも、セレヴィアちゃんの方が辛そうですねぇ」


 その一言が、正確に急所を突いていた。


 セレヴィアは答えない。


 答えれば、呼吸の乱れを悟られる。いや、すでに悟られているだろう。それでも、弱さを言葉にする必要はない。


 リリセアは血の大鎌を再び形成した。


 赤黒い刃が、光のない月のように弧を描く。


「じゃあ、今度はわたしからいきますねぇ」


 言葉の終わりと同時に、リリセアが踏み込んだ。


 速い。


 不死身の術者であり、純粋な近接戦闘力は突出していないと分析していたはずなのに、その動きは消耗したセレヴィアには十分すぎるほど鋭かった。鎌の刃が横薙ぎに迫る。セレヴィアはノクターンで受ける。


 金属ではない、血と魔剣の衝突音が聖堂に響く。


 一撃。


 二撃。


 三撃。


 リリセアは間合いを詰め、鎌を振るい続ける。大振りに見えて、その軌道は嫌らしいほど正確だった。首、脇腹、膝、手首。急所だけでなく、動きを奪うための場所を狙ってくる。セレヴィアはノクターンで受け流し、足元の氷を使って体勢を整えようとするが、魔力が重い。


 身体が、わずかに遅れる。


「ほらぁ、どうしましたぁ?」


 リリセアの声が、刃の隙間から響く。


「さっきまであんなに立派なことを言っていたのにぃ」


 鎌が振り下ろされる。


 セレヴィアは正面から受け止める。衝撃が腕に走り、胸の傷が痛んだ。視界が一瞬だけ白くなる。


「あなたは何も守れないんですよぉ」


 次の一撃。


 受ける。


 滑らせる。


 だが、完全には流しきれない。


「ヴァルザード君から任された国も」


 刃が横から迫る。


 ノクターンで弾く。


「国民も」


 足元から血の刃が突き出す。


 セレヴィアは身を捻って避けるが、ドレスの裾が裂ける。


「愛する妹も」


 その言葉だけが、他のどんな攻撃よりも深く刺さった。


 リリス。


 心が揺れる。


 リリセアの大鎌が、再び振り下ろされた。


 セレヴィアはノクターンを掲げて受け止めた。だが、腕が重い。衝撃に押され、足が石床を擦る。氷の制御が乱れ、足元の薄い氷が砕ける。


 思考が、暗く染まっていく。


 父の影は越えたはずだった。


 もう迷わないと決めたはずだった。


 だが現実はどうだ。


 リリスを守れなかった。


 誕生日を、恐怖の記憶に変えてしまった。


 父から託された国も、今この瞬間、戦火と侵略の影に晒されている。


 自分は本当に、何かを守れているのか。


 リリセアの言葉が、血の刃よりも鋭く胸へ入り込んでくる。


 違う。


 そう否定したい。


 だが、否定するだけの余裕が削られていく。


 セレヴィアは歯を食いしばり、ノクターンを押し返そうとした。だがリリセアは笑ったまま、さらに力を込める。血の大鎌が軋み、赤黒い刃がノクターンの上を滑る。


「ねぇ、セレヴィアちゃん」


 リリセアの声が、すぐ近くで囁くように響いた。


「もう疲れたでしょう?」


 その言葉に、セレヴィアは返せなかった。


 呼吸が苦しい。


 魔力が足りない。


 それでも、退けない。


 退いたら、リリスが。


 その時だった。


 周囲に、光が瞬いた。


 最初は、気のせいかと思った。


 赤黒い魔力に満ちた聖堂の中で、ほんの小さな白い粒子が一つ、ふわりと浮かんだ。次に二つ、三つ。雪のようでもあり、蛍のようでもある淡い光が、空間の中にゆっくりと増えていく。


 セレヴィアも、リリセアも、一瞬だけ動きを止めた。


 光は、祭壇の方から溢れていた。


 セレヴィアは息を呑む。


 リリスが、立っていた。


 先ほどまで祭壇の上に横たわっていたはずの小さな身体が、光の粒子に包まれながら、ゆっくりと起き上がり、そして立っている。銀の髪がふわりと浮くように揺れ、赤と紫のオッドアイは開いていた。


 けれど、その目はどこか虚ろだった。


 焦点が合っていない。


 意識が完全に戻っているようには見えない。


 表情も、いつものリリスではなかった。怯えでも、混乱でも、泣きそうな顔でもない。あまりにも静かで、あまりにも空白でどこか透明に見えた。


 淡い白と青の光の粒子が、彼女の周囲を漂っている。


 リリセアが、初めて笑みを薄めた。


「……あらぁ?」


 セレヴィアはリリスから目を離せなかった。


「リリス……?」


 声が漏れる。


 だが、返事はない。


 リリスはゆっくりと顔を上げ、セレヴィアとリリセアの間を見る。


 その瞳の奥に、感情はほとんどない。


 そして、リリスは一言だけ呟いた。


「……やめて」


 その声は、小さかった。


 だが、不思議なほどはっきりと聖堂に響いた。


 絶望に染まりかけていたこの空間に、得体の知れない光が差し込んだ。


 そして、その中心に立っていたのは、他でもないリリスだった。

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