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35.血の祭壇


廊下の奥にある扉の前で、セレヴィアは足を止めた。


 見た目だけなら、そこにあるのは何の変哲もない古びた扉だった。黒ずんだ木材に鉄の補強が打たれ、表面には長い年月の中で刻まれた細かな傷が無数に走っている。だが、その隙間から漏れ出している魔力の気配だけは、決して見過ごせるものではなかった。


 微かに、リリスの魔力が残っている。


 とても弱い。あまりにも細く、今にも途切れそうなほど頼りない残滓。だが、セレヴィアが間違えるはずもなかった。何度も抱きしめ、何度も眠る横顔を見守り、体調のわずかな変化にさえ心を揺らしてきた妹の魔力である。たとえ呪いに蝕まれ、安定せず、かすかな揺らぎしか残していなくとも、それは確かにリリスのものだった。


 ここにいる。


 そう思った瞬間、胸の奥で押し殺していた焦燥が一気に熱を持った。


 けれど、同時に分かっていた。


 この扉の先にリリスがいるのなら、リリセアもまたいる可能性が高い。あの女が何の備えもなく、目的そのものであるリリスを放置しておくはずがない。ここは終点であり、同時に罠の中心でもある。


 セレヴィアは息を整え、扉へ手をかけた。


 冷たい感触が掌に伝わる。ほんのわずかに力を込めると、扉は重く、しかし抵抗なく開いた。


 その向こうに広がっていた光景を見た瞬間、セレヴィアは静かに目を細めた。


 そこは、地下ではなかった。


 いや、地下にあるはずの場所であることは分かっている。自分たちは旧封鎖砦の坑道を下り、空間を歪められた領域を抜け、今この扉へ辿り着いたのだ。だが、目の前にある空間は、どう見ても地中の構造物ではない。


 広い。


 高い天井は闇の中へ消え、上部には吹き抜けのような巨大な空間が広がっている。左右には折れかけた柱が並び、壁面にはかつて何かの聖堂であったことを思わせる装飾が、歪んだ形で残されていた。ステンドグラスめいたものが高所に嵌め込まれているが、そこから差し込む光は外の月光ではなく、赤黒い魔力の揺らぎだった。床は白い石で造られているはずなのに、長年染みついた血のような色が筋となって残り、祭壇へ向かって細い流れを描いている。


 教会。


 その言葉が脳裏に浮かぶ。


 だが、ここは祈りの場ではない。神聖さを模して造られた、死と呪いのための舞台だ。空間そのものがねじれ、地下の奥にありながらあり得ない広さと高さを備えている。先ほどの闘技場と同じく、空間魔法によって強引に拡張された異常領域なのだろう。


 そして、その最奥。


 赤黒い光に照らされた祭壇の上に、リリスが横たわっていた。


 セレヴィアの呼吸が、一瞬だけ止まる。


 白い肌。銀の髪。細い手足。特別な誕生日の装いは乱れ、胸元のペンダントが弱い光を反射している。目は閉じられていて、意識はないようだったが、遠目にも胸が微かに上下しているのが分かった。


 生きている。


 無事だ。


 その事実が胸に落ちた瞬間、膝から力が抜けそうになるほどの安堵が押し寄せた。


 よかった。


 間に合った。


 まだ、取り返せる。


 そう思った、その直後だった。


 前方の空間が、微かに鳴った。


 殺気ではない。視線でもない。もっと直接的な、魔力の変化。空気の層が一枚だけ鋭く裂けるような感覚に、セレヴィアの身体は思考より先に反応した。


 ノクターンを握る左手とは逆の手を前へ出し、瞬時に魔力障壁を展開する。


 透明な氷晶を何層にも重ねたような障壁が、リリスへ向かおうとしていた視線と身体の間に現れた直後、赤黒い血の刃が空間を裂いて飛来した。


 甲高い音が響く。


 血で形作られた刃は障壁へ衝突し、表面にひびを走らせながら弾かれた。勢いを失ったそれは、床へ落ち、からん、と金属めいた音を立てる。血でできているはずなのに、まるで研ぎ澄まされた短剣のような硬質な音だった。


「……確実に不意を突いたつもりだったんですけどぉ」


 影の中から、声がした。


 柔らかく、間延びした声。


 祭壇の傍ら、倒れた柱の影がゆらりと揺れ、そこから黒衣の女が歩み出てくる。長い黒髪。病的なほど白い肌。黒い口紅を引いた口元には、いつもの穏やかな笑みが貼りついている。


 リリセア・グリム。


 彼女は驚いたというより、少しだけ残念そうに首を傾げていた。


「さすがですねぇ、セレヴィアちゃん。リリスちゃんを見た瞬間なら、少しくらい反応が遅れると思ったんですけどぉ」


 その言葉に、セレヴィアの中で冷たい怒りが静かに燃え上がる。


 確かに、リリスを見た瞬間、安堵した。


 心が緩みかけた。


 だが、それを狙うことくらい、この女なら当然考える。分かっていた。だからこそ、身体は動いた。リリスを取り返すまで、どんな一瞬も油断してはならないと、自分に刻み込んでいた。


 セレヴィアはノクターンの切っ先をリリセアへ向けた。


「リリスから離れなさい」


 声は低く、静かだった。


 リリセアは祭壇の横で足を止め、微笑んだまま両手を軽く広げる。


「怖い顔ですねぇ」


「あなたと話すために来たわけではないわ」


「でも、話してくれるんでしょう?」


 穏やかな声が、広い教会めいた空間に薄く反響する。


 セレヴィアはリリセアの立ち位置、リリスまでの距離、周囲の柱や足元に刻まれた魔法陣らしき紋様を瞬時に確認する。祭壇の周囲には赤黒い線が引かれ、複雑な円を描いている。儀式の準備。あるいは呪いの抽出に関わる術式。リリスの身体を中心に置いた配置であることは明らかだった。


 時間はない。


 だが、この女を斬る前に、一つだけ確かめなければならないことがあった。


「教会側についた理由は、分かっているわ」


 セレヴィアは、視線を逸らさずに告げる。


「リリスの呪い。あなたの不老不死。それを利用すれば、自分を終わらせられると唆されたのでしょう」


 リリセアの笑みが、ほんの少しだけ深くなる。


「うふふ。誰から聞いたんですかぁ?」


「父上から、あなたのことは聞いていた」


 その名を出しても、もう声は揺れなかった。


「不老不死であることも。終わりを望んでいることも。父上にいつか殺してもらうつもりで仕えていたことも」


 リリセアは目を細める。


 懐かしむような、憐れむような、それでいてどこか虚ろな表情だった。


「ヴァルザード君は、余計なことまで娘に話していたんですねぇ」


「ならば、亡き父――先代魔王ヴァルザードに代わって、私があなたを終わらせる」


 セレヴィアは一歩、前へ出る。


 ノクターンの赤い魔紋が脈打つ。


「だから、リリスを返しなさい」


 それは取引ではなかった。


 最後の通告だった。


 リリセアを斬ることに、もう迷いはない。だが、かつて魔王軍に属し、父に仕えていた者である以上、セレヴィアはその終わりを無意味な殺戮にはしたくなかった。少なくとも、リリスを返すならば、彼女の望む“終わり”を与える覚悟はある。


 だが、リリセアはしばらく黙ったあと、ゆっくりと首を横に振った。


「うーん」


 その声は、まるで出来の悪い子どもを諭すようだった。


「甘い。甘いなぁ、セレヴィアちゃん」


 次の瞬間、その笑みから温度が消えた。


「ヴァルザード君を斬って、覚悟を決めたのかと思ったんですけどぉ……やっぱり君は、お父さんに似て臆病ですねぇ」


 セレヴィアの瞳が細くなる。


「臆病?」


「ええ。かつての仲間に剣を向けることを、怖がっているでしょう?」


 リリセアは柔らかく笑う。


「あなたはわたしを終わらせると言いながら、まだ“返して”なんて言う。まだ、話せば何かが変わると思っている。まだ、どこかで救えると思っている。そういうところ、本当にヴァルザード君に似ていますぅ」


 静かな怒りが、胸の底で形を変える。


 言い返すべき言葉はいくつもあった。だが、そのどれもが無意味だと分かっていた。リリセアは救いを求めているのではない。理解されたいのでもない。ただ、終わりたいだけだ。そしてそのために、リリスを奪おうとしている。


 ならば、答えは一つしかない。


 リリセアは、腰のあたりから血で形作った細いナイフを取り出した。


「どちらかが終わるまで、ですよぉ」


 そして、何のためらいもなく、自分の首へそれを突き刺した。


 血が噴き出した。


 白い喉元から赤黒い血が大量に溢れ、胸元を染め、黒いドレスを濡らしていく。普通の生者なら、その時点で声を失い、膝をつき、死へ向かうはずだった。だがリリセアは変わらず笑っていた。


 血が床へ落ちる前に、空中で形を変え始める。


 彼女は血に濡れた唇を動かした。


「Crimson Arsenal」


 呪文のようなその言葉が落ちた瞬間、噴き出した血が一斉に収束した。


 赤黒い液体は渦を巻き、凝固し、細長く伸びていく。刃が生まれる。柄が生まれる。月を刈り取るような巨大な弧を持つ、大型の鎌。血で形成されたとは思えないほど硬質で、刃の縁には黒い光が走っていた。


 同時に、リリセアの首の傷は何事もなかったように塞がっていく。


 裂けた皮膚が繋がり、血の痕だけを残して元通りになる。


 不死。


 超再生。


 その異常性を、セレヴィアは改めて目の当たりにする。


 リリセアは血の大鎌を軽く回し、首を傾げた。


「さあ、始めましょうかぁ」


 その声は、あくまで穏やかだった。


 セレヴィアはノクターンを両手で構え直す。


 セレヴィアは赤紫の瞳でリリセアを見据えた。


「終わらせてあげるわ」


 静かに告げる。


 それを聞いたリリセアは、嬉しそうに笑った。


 次の瞬間、血の鎌が空気を裂き、セレヴィアのノクターンがそれを迎え撃った。


 血の鎌が振り下ろされる。


 空気が裂ける音と共に、圧力そのものが刃となって叩きつけられたかのような一撃だった。リリセアによって形成された大鎌は、ただの武器ではない。あれは“質量”と“呪い”を伴った塊であり、受け損ねればそのまま身体ごと叩き潰されても不思議ではなかった。


 セレヴィアは一歩も退かず、ノクターンを正面に構える。


 衝突。


 轟音にも似た衝撃が腕を通して全身へ駆け抜ける。石造りの床がひび割れ、足元が沈み込む。それでも、剣は折れない。刃は揺らがない。


 セレヴィアは奥歯を噛み締めながら、ノクターンへ魔力を流し込んだ。


 氷。


 それもただの氷では絶対零度に近い魔力の結晶。刃を伝って流れたそれは、大鎌の接触面から一気に広がり、血で形成された武器を内側から凍結させていく。


 ぱきり、と音がした。


 赤黒い刃の表面に白い霜が走る。それは瞬く間に広がり、柄へ、そしてリリセアの手首へと侵食していく。


 冷気は容赦なく肉体へ食い込み、皮膚を凍てつかせ、血流を停止させる。通常の生物なら、その時点で動きを止めるはずだった。


 だが。


「……あらぁ」


 リリセアは、楽しげに目を細めた。


 氷が手首まで到達した、その瞬間だった。


 彼女は何の躊躇もなく、自らの手首を切り落とした。


 凍結した部分ごと、血の鎌と一緒に。


 ぶつり、と肉が断たれる鈍い音が響き、凍りついた手首が床へ落ちる。鎌もまた形を維持できず、そのまま崩れ落ちた。


 リリセアは軽やかに後方へ跳び、距離を取る。


 その断面からは一瞬だけ血が噴き出したが、次の瞬間にはもう変化が始まっていた。肉が盛り上がり、骨が伸び、皮膚が再構築される。ほんの数秒で、そこには何事もなかったかのように新しい手が再生していた。


 異常。


 理解していても、やはりその光景は理不尽だった。


 セレヴィアは一瞬たりとも視線を逸らさない。


 再生が完了したその直後、リリセアは流れ落ちた血へ視線を向ける。


 床に散った血が、蠢く。


 まるで意思を持つかのように集まり、凝固し、小さな刃の形を成していく。一本ではない。二本、三本――いや、それ以上。無数の血のナイフが、空中に浮かび上がった。


「便利でしょう?」


 軽い口調でそう言うと同時に、それらが一斉に射出された。


 一直線ではない。左右から、上から、死角を突くように軌道を変えながら迫ってくる。回避を前提とした弾幕。防げば別の角度から突き刺さる。


 セレヴィアは踏み込みを変えた。


 身体をひねり、重心を滑らせるように移動しながら、最小限の動きで刃を躱していく。髪をかすめ、頬を掠める風圧。ほんのわずかでも判断が遅れれば、確実に貫かれていた。


 リリセアはその隙を逃さない。


 血のナイフが尽きるよりも早く、彼女はもう次の術式へ移っていた。


 足元に刻まれた魔法陣が淡く光る。


 空気が変わる。


 温度ではない。生気そのものが吸い取られるような、嫌な感覚。


「さあ、起きなさい」


 その一言で、床に染みついていた血の筋が、ぬるりと動いた。


 そこから、手が伸びる。


 腐りかけた腕。骨の露出した指。土と血を纏ったそれらが床を押し上げるように現れ、次々と“這い出てくる”。


 ただ“群れ”としての圧が、空間を埋め尽くしていく。


 祭壇の周囲、柱の陰、ひび割れた床の隙間――あらゆる場所から死者が立ち上がる。空洞の眼窩がこちらを向き、ぎこちない動きで一斉に歩き出す。


 セレヴィアは静かに息を吐いた。


「……氷よ」


 小さく呟く。


 ノクターンの刃が、淡く光る。


 床に触れたその瞬間、魔力が一気に解き放たれた。


氷月輪舞ルナ・フロストロンド


 静かな詠唱と同時に、足元から氷が広がる。


 それは単なる凍結ではなかった。床全体を覆う透明な氷の層が、一瞬で形成され、空間そのものの“摩擦”を奪い去る。


 アンデッドたちの足が止まる。


 いや、止まらない。


 “止まれない”。


 踏み出した瞬間、足は滑り、体勢を崩し、支えることもできずに転倒する。互いにぶつかり合い、絡み合い、動きが制御不能になる。


 その中で――


 ただ一人、セレヴィアだけが滑るように動いた。


 氷の上を舞う。


 足を置くたびに、わずかに角度を変え、力を逃がし、速度へ変換する。まるで氷そのものに選ばれたかのように、彼女だけがこの空間で“自由”だった。


 アンデッドの群れの中へ、躊躇なく踏み込む。


 ノクターンが閃く。


 氷を纏った斬撃が弧を描き、前方の数体をまとめて断ち切る。切断面から広がる冷気が、周囲の死体ごと凍りつかせ、動きを完全に封じる。


 次の一歩。


 滑る。


 回転。


 振り上げる。


「――氷月斬ルナ・ブレイク


 広範囲へ放たれた斬撃が、氷の軌跡を残しながら舞う。


 まるで舞踏。


 だが、それは美しさのための動きではない。


 効率と殺意だけを突き詰めた動きだった。


 斬るたびに、凍る。


 凍るたびに、砕ける。


 アンデッドの群れは、抵抗することすらできないまま、氷の彫像へと変わり、次の瞬間には粉々に砕け散っていく。


 滑り、回り、踏み込み、斬る。


 その一連の動作が、途切れることなく繋がっていく。


 最後の一体を斬り捨てたとき、空間には静寂が戻っていた。


 床一面に広がる氷の上に、砕けた死体の欠片が散らばっている。先ほどまで押し寄せていたはずの群れは、もうどこにも存在しない。


 セレヴィアは呼吸を整えながら、ゆっくりと刃を下ろした。

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