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34.旧封鎖砦《グラーヴェン》跡地


旧封鎖砦グラーヴェン跡地は、夜の闇の中で、まるで巨大な墓標のように沈んでいた。


 かつては王都ノクタリアの外縁を守る防衛拠点の一つだったと記録には残っている。だが、いま目の前に広がるそれは砦というより、崩れた石材とひび割れた外壁、折れた見張り塔の残骸が寄り集まった廃墟に近かった。風が瓦礫の隙間を抜けるたび、砕けた石片がかすかに転がり、乾いた音が夜気に溶けていく。その音は、生きた者の気配ではなく、ずっと以前に役目を終えた場所が、まだ崩れきれずに残っているだけなのだと告げているようだった。


 その正面、崩れ落ちた大門の奥には、無数のアンデッド兵が蠢いていた。


 骨だけのもの。腐肉をまとったもの。鎧の残骸を引きずるもの。半ば崩れた顔を空へ向け、意味のない呻きのような音を漏らしているもの。どれも生者の軍勢ではない。痛みも、恐怖も、疲労も知らず、ただ術者の命令に従って動く死の兵たちだった。


 正面から突入すれば、道は開けるかもしれない。


 だが、その代償として時間を奪われる。


 セレヴィアにとって、今もっとも失ってはならないものは兵でも魔力でもなく、時間だった。リリスがどこかで目を覚ましているかもしれない。リリセアが何らかの儀式、あるいは呪いの抽出の準備を進めているかもしれない。その可能性を考えるだけで、胸の奥に冷たい刃を差し込まれるような感覚が走る。


 だからこそ、正面は避けた。


 シオンが割り出した地下坑道の搬入口。崩落によって半ば塞がれているが、数人単位であれば侵入できる可能性があるとされた経路。セレヴィアたちは正面の軍勢から距離を取り、砦の外周を回り込むように進み、崩れた外壁の影を伝ってその入口へと向かっていた。


 瓦礫の陰を抜けるたび、冷たい風が頬を撫でる。胸の傷はまだ塞がりきっておらず、歩くたびに包帯の奥で鈍く痛んだ。けれど、その痛みはむしろ都合がよかった。自分が何を失い、何を取り戻しに来たのかを忘れずに済むからだ。


 やがて、地面が不自然に沈み込んだ場所が見えた。


 崩れた石材と枯れた草に半ば隠されるようにして、地下へ続く暗い穴が口を開けている。湿った風がそこから漏れ出し、地上の乾いた冷気とは違う、古い水と土の匂いが鼻先をかすめた。


 だが、その入口の前にも影があった。


 複数のアンデッド兵が、坑道の入口を守るように立っている。


 数は多くない。正面の軍勢に比べれば、わずかなものだ。けれどその配置は偶然ではなかった。彷徨っているのではない。明確に入口を塞ぐために、そこへ置かれている。


 その事実を認識した瞬間、セレヴィアの思考がわずかに乱れた。


(……読みが甘かったか)


 地下坑道という経路をこちらが選ぶことを、リリセアは読んでいたのかもしれない。いや、読まれていたと判断すべきだ。正面を避けるなら、少数精鋭が地下から侵入を試みるのは自然な選択であり、敵がそれを警戒しない理由はない。


 ならば、ここを突破するべきか。


 それとも別の侵入経路を探すべきか。


 けれど、別経路を探すには時間がいる。時間をかければ、リリスが危険に晒される可能性はさらに高まる。だが、このまま入口を突破すれば、敵にこちらの侵入を知らせることになる。もし内部に罠が仕掛けられているなら、こちらの行動は誘導されていることになる。正面を避けたはずが、結局はリリセアの掌の上を歩かされているだけではないのか。


 思考が、同じ場所を巡る。


 突破する。

 迂回する。

 時間を失う。

 敵に読まれる。

 リリスが危ない。

 だが焦れば判断を誤る。

 しかし、迷えば遅れる。


 ぐるぐると、冷たい水底に沈むように、考えがまとまらない。


 自分は冷静でいるつもりだった。


 会議室で命令を下した時も、出発の準備を整えた時も、ここまでの道中も、魔王代理として振る舞っていた。誰よりも揺らいではならない立場であることは分かっている。自分が動揺すれば、それはそのまま作戦全体の揺らぎになる。だから表情を崩さず、言葉を選び、視線を前へ向け続けた。


 けれど、それは“冷静である”こととは違ったのだと、いま思い知らされる。


 リリスを攫われた。


 その事実は、思った以上に深く自分の内側へ食い込んでいた。あの子の小さな手が白い光の中で遠ざかっていく光景が、まぶたの裏に焼きついて離れない。助けられなかった。守れなかった。あれほど大切だと、何より守ると決めていたのに、目の前で奪われた。


 その痛みが、判断の隙間に入り込んでいる。


(……私は、冷静ではない)


 そう認めた瞬間、胸の奥がひどく重くなった。


 足元が崩れたわけでもないのに、自分の立つ場所が不確かになったような感覚がした。魔王代理としての自分、姉としての自分、そのどちらもが同じ方向を向いているはずなのに、焦燥だけが先に走り、思考を乱している。


 そのとき、ぽん、と軽く肩を叩かれた。


「セレヴィア」


 振り返ると、フィリシアがすぐそばに立っていた。


 淡い水色の髪は夜風を受けてふわりと揺れ、青いリボンが小さく光を弾いている。いつものような軽い笑みはある。だが、金色の瞳の奥には、舞台に立つ歌姫ではなく、戦場に立つ六魔柱の光が宿っていた。


「大将は、ドーンと構えてて」


 その言葉は軽い。けれど、軽薄ではなかった。


「迷うのは、わたしたちがやる。道を開くのも、わたしたちがやる。だからセレヴィアは、ちゃんと前だけ見てて」


 セレヴィアは一瞬だけ言葉を失った。


 前だけ。


 それが今の自分に必要な言葉だと、分かってしまったからだ。


 フィリシアはそれ以上何も言わず、腰のホルダーから魔導マイク《アクア・ミューズ》を取り出した。青い宝石が埋め込まれたそれは、彼女の指先に触れた瞬間、淡く水光を帯びる。魔力が流れ込み、マイクの表面に刻まれた細い魔導回路が、波紋のように光を広げていった。


「道、切り開くから」


 フィリシアはそう言って、帽子のつばを軽く押さえる。


 その仕草は、ステージに立つ前の定番のようでもあり、戦場で自分自身を奮い立たせる儀式のようでもあった。


 次の瞬間、彼女は息を吸った。


 空気が変わる。


 歌声が放たれた。


「一曲目行くよー♪

『恋は盲目♡ 私だけを見て』」


 その一節は、言葉だけなら甘く、軽やかで、まるで舞台上の観客へ投げる冗談のようだった。だが、響いた瞬間、その声は魔力の構文へと変わる。音程、リズム、発声、そのすべてが緻密な魔術式として組み上がり、目に見える波紋となって夜気へ広がっていった。


 魔導歌唱。


 フィリシアの歌はただの音ではない。声の振動を魔導マイク《アクア・ミューズ》が増幅し、魔力波へと変換する。淡い水色の音波が幾重にも重なりながら坑道入口へ流れ込み、アンデッド兵たちの意識を強制的に引き寄せていく。


 死者に恋などない。


 感情も意思もない。


 けれど、術式で動く存在である以上、命令系統を揺さぶることはできる。フィリシアの歌は敵意の焦点を歪め、認識を塗り替え、そこにいるすべての亡者へ“彼女だけを追え”という魔力的な誘惑を刻み込んでいった。


 アンデッド兵たちの空洞の眼窩が、一斉にフィリシアへ向く。


 その瞬間、彼女は笑った。


 華やかで、明るくて、それでいて痛ましいほどに戦場慣れした笑みだった。


「ほら、こっちだよ。ちゃんとわたしだけ見てね」


 彼女が一歩下がると、アンデッド兵たちがぎこちなく動き出す。坑道入口から離れ、歌声に引かれるように進路を変える。さらに砦正面側にいた一部の死兵までもが、かすかに反応し、濁った波のように動きを乱し始めた。


 道が、わずかに開いた。


 だが、完全ではない。


 残った数体が入口付近に留まり、なおも坑道を塞いでいる。歌唱魔法で引き寄せきれなかった個体か、あるいは別系統の命令を受けているものか。


 その時、シオンが静かに前へ出た。


「戦闘は苦手なんやけどなぁ」


 いつもの飄々とした声だった。けれど、その姿勢に緩みはない。狐の顔に浮かぶ糸目の笑みは変わらず、和装の裾が夜風に揺れる。


「ま、こういう時に働かんと、後でフィリシアに一生言われそうやしな」


「聞こえてるよ、シオン!」


 遠くからフィリシアの声が返る。


 そのやり取りに、わずかに空気が動いた。


 重く張り詰めていたものが、ほんの少しだけ緩む。だが、それは油断ではない。長年この戦場で生きてきた者たちが、自分たちの役割を果たすために互いを支える呼吸だった。


 シオンは扇子を閉じ、地面へ向けて低く呟く。


「影写・幻影分身」


 その瞬間、彼の足元の影が裂けた。


 まるで黒い水面が波打つように広がり、そこから次々とシオンと同じ姿をした分身が立ち上がる。一体、二体、三体。数は瞬く間に増え、闇の中に狐面のような顔が並ぶ。幻ではない。実体を持った分身だ。足音があり、呼吸があり、短刀を抜く動きにわずかな重みがある。


 分身たちは一斉に散った。


 ある者は正面からアンデッド兵の脚を払う。ある者は背後へ回り込み、首の骨を断つ。ある者は坑道入口の左右へ展開し、敵の注意を分散させる。魔法ではない。術式だ。シオンの体内に刻まれた魔脈を通して発動する、魔族の魔法体系とは異なる異質な技術。その動きは剣士のそれよりも軽く、暗殺者のそれよりも静かで、狐火のように掴みどころがなかった。


 フィリシアの歌が敵を引き寄せ、シオンの分身が残る障害を切り崩す。


 それは力任せの突破ではなく、戦場そのものの流れを変える支援だった。


 坑道入口へ続く道が、はっきりと開く。


 シオン本体がこちらを振り返り、扇子で軽く坑道の奥を示した。


「ほな、先行っとき。ここはボクとフィリシアで遊んどくわ」


 軽い言い方だった。


 だが、そこに込められている意味は重い。


 背後を任せろ。


 必ず追いつく。


 だから前へ行け。


 セレヴィアは、短く息を吸った。


 先ほどまで思考を絡め取っていた焦燥が、ゆっくりとほどけていくのを感じた。すべてを自分一人で判断し、すべてを自分一人で背負い、すべてを自分一人で取り返さなければならないと思い込んでいた。そうではない。ここにいるのは、ただ命令を待つ駒ではない。かつて父を支え、今は自分を支えてくれる柱たちだ。


(……落ち着け)


 セレヴィアは自分に言い聞かせる。


(私は、一人ではない)


 その事実を胸の奥に沈めると、ようやく呼吸が深くなった。


 迷いは消えたわけではない。焦りが完全に消えたわけでもない。リリスを想う気持ちは、いまも胸を締めつけている。だが、それでも前へ進むための形に整った。


 セレヴィアは坑道入口へ向けて歩き出す。


 隣にグロズが並ぶ。巨大な体躯が作る影は、まるで動く城壁のようだった。背後にはカノーネが続き、緊張を押し殺しながらも、竜の鱗を帯びた手に力を込めている。


 地下坑道の入口は、暗く、湿っていた。


 奥から流れてくる空気には、古い土と石、そして薄い死臭が混じっている。


 地下坑道は、あまりにも静かだった。


 耳に入るのは、自分たちの足音だけ。

 硬質な石床を踏みしめるたびに、乾いた反響が長く尾を引いて、どこまでも続く通路の奥へと吸い込まれていく。


 先ほどまで背後で鳴り響いていた戦闘音は、すでに遠い。

 地上では、いまだフィリシアの歌とシオンの術式が、無数のアンデッドを相手に戦い続けているはずだ。


 それなのに――


 ここには、何もいない。


 視線を巡らせる。

 左右の壁は荒削りな岩肌で、ところどころに古い補強材が打ち込まれているだけの粗末な構造だ。湿った空気が肌にまとわりつき、地下特有の冷気がゆっくりと体温を奪っていく。


 だが、そのどこにも――


 敵の気配がない。


 (……ありえない)


 セレヴィアの思考が、ゆっくりと冷えていく。


 地上にはあれほどの数のアンデッドが展開されていた。

 ならば、その中枢に繋がるであろうこの坑道に、何の防備もないはずがない。


 それが“いない”ということは――


 「……誘われている、わね」


 無意識に漏れた声は、思った以上に低く沈んでいた。


 後ろを歩くグロズは何も言わず、ただわずかに顎を引く。

 カノーネは一瞬だけ肩をびくりと震わせたが、それでも歩みを止めることはなかった。


 (分かっている)


 これは罠だ。


 こちらの侵入経路を読み切った上で、あえて道を空けている。

 警戒を解き、あるいは焦燥に駆られたこちらを、そのまま“奥”へ誘導するための構造。


 頭では理解している。


 理解しているのに――


 足は止まらない。


 リリスが、いる。


 その事実が、すべての判断を塗りつぶしていく。


 (冷静でいなさい)


 そう自分に言い聞かせる。


 だが、胸の奥で何かがざわつく。


 焦り。

 苛立ち。

 そして――


 後悔。


 (あの時、もっと早く……)


 (あの場で、確実に――)


 思考が、わずかに乱れる。


 そのまま、長い通路を進み続けた先。


 やがて、一つの扉が視界に入った。


 分厚い鉄扉。

 しかし、その表面には後付けされたような歪な魔術紋が刻まれている。


 (……リリセア)


 セレヴィアは足を止める。


 この先に、いる。


 直感がそう告げていた。


 だが同時に、この扉の向こうが“ただの部屋ではない”ことも理解している。


 空気が、違う。


 空間そのものが歪んでいるような、嫌な感覚。


 グロズが一歩前へ出た。


 巨大な背が、扉の前に立つだけで視界の半分を覆う。

 その背中が、わずかに傾く。


 言葉はない。


 だが――


 「……ええ」


 セレヴィアは小さく頷いた。


 次の瞬間、鉄扉が押し開かれる。


 重く、鈍い音。


 そして――


 世界が、変わった。


 「……これは……」


 思わず息が止まる。


 目の前に広がっていたのは、地下とは思えない空間だった。


 円形に開けた巨大な広間。

 階段状にせり上がる壁面。


 それはまるで、古代の闘技場――コロシアム。


 だが、あり得ない。


 あの狭い坑道の先に、これほどの空間が存在するはずがない。


 視界の端が、わずかに歪む。


 距離感が狂う。


 壁と床の境界が、ほんの僅かに揺らいでいる。


 (空間歪曲……)


 強引に捻じ曲げられた、異常な領域。


 そして。


 その中心に――


 “それ”は、いた。


 複数の影。


 巨大な異形。


 狼の胴体に、蛇の首が絡みつく。

 鳥の翼が不自然に生え、虫の脚が地面を這う。

 肉と骨が繋ぎ合わされ、血と魔力で無理やり縫い止められた存在。


 生き物の形をしていながら、生命の秩序から完全に外れた何か。


 「……合成獣」


 セレヴィアは静かに呟いた。


 死霊術だけではない。


 あの女は、生命そのものを弄んでいる。


 (やはり……ここに来ることも、見透かされていた)


 異形たちの視線が、一斉にこちらを向く。


 グロズが一歩、前へ出た。


 ただそれだけの動きで、空気が変わる。


 言葉はない。

 振り返ることもない。


 それでも、その背中はあまりにも明確だった。


 ――ここは任せろ。


 ――お前は進め。


 その意志は、戦場で幾度となく背中を預けてきた者にしか分からない、静かな圧としてセレヴィアの胸へと届いた。


 巨大な戦斧、《断界斧ジャガーノート》がゆっくりと肩から滑り落ちる。


 それだけで、空間が軋む。


 力の質が違う。


 あの男は、最初から迷っていない。


 敵が何であろうと、数がどれほどであろうと――

 自分が“壁になる”ことを疑っていない。


 (……本当に、変わらないわね)


 ほんの一瞬、そんな感情が胸をよぎる。


 だが次の瞬間には、それは消えていた。


 甘えてはいけない。


 ここで立ち止まる理由は、どこにもない。


 その時だった。


 風が、鋭く裂けた。


 「ひ、ひぃっ……!」


 耳に届いたのは、情けないほどに怯えた声。


 けれど同時に、空気を押し上げる強い力の流れ。


 振り向くよりも早く、視界の端に赤い影が跳ねる。


 カノーネだった。


 背中から広がる翼が、空間を無理やり押し広げるように展開される。薄く張られた膜が魔力を帯びて震え、その一振りだけで彼女の身体は軽々と宙へ浮かび上がった。


  彼女の腕が、こちらへ伸びる。


 セレヴィアの身体が、ふわりと浮いた。


 驚きに思考が追いつくよりも先に、視界が一瞬だけぶれる。重力が消え、次の瞬間には遥か上空に持ち上げられていた。


 下から、異形の群れが一斉に反応する。


 不快な鳴き声が重なり合い、骨と肉の混ざった身体が跳ね上がる。


 「ご、ごめんなさい……っ、ごめんなさい……っ……!」


 謝罪の言葉を繰り返しながらも、その軌道に迷いはない。


 先程とは反対の扉の前で下される。


 「ここまでです……!」


 カノーネの声が、すぐ目の前で響いた。


 息が荒い。

 肩が上下している。

 明らかに恐怖を抑えきれていない。


 それでも、その瞳は――逃げていなかった。


 「ここから先……お願いします……!」


 言葉の端が震えている。


 だが、それは弱さではない。


 恐怖を抱えたまま、それでも立っている者の震えだった。


 セレヴィアは、ほんの一瞬だけ彼女を見つめる。


 恐怖を抱えたまま、それでも自分の役割を理解している。


 その事実が、静かに胸へ落ちる。


 「……任せるわ」


 短く、それだけを告げた。


 それ以上の言葉は、必要なかった。


 カノーネは小さく頷くと、すぐに踵を返す。


 彼女の腕が変わる。


 皮膚が裂けるようにして、赤い鱗が広がる。骨格が軋み、指先が鋭く伸びていく。人の形を保ちながら、それでも確実に“竜”へと近づいていくその変化は、見慣れているはずのセレヴィアですら、ほんのわずかに息を呑むほどの圧を持っていた。


 「……すぐ、追いつきます……!」


 その言葉を最後に、カノーネは地面を蹴った。


 そのまま、合成獣の群れへと飛び込んでいく。


 轟音が、空間を震わせた。


 グロズの戦斧が振り下ろされる音。

 それに重なるように、カノーネの炎が炸裂する。


 空気が焼け、圧が押し寄せる。


 背後で、戦いが始まった。


 セレヴィアは一度だけ振り返りかけ、すぐにやめた。


 振り返る必要はない。


 彼らは必ず役目を果たす。


 ならば、自分も果たすだけだ。


「行くわ」


 扉は、思っていたよりも静かに開いた。


 軋むような音も、重く引きずるような抵抗もなかった。まるで最初から開かれることを待っていたかのように、鉄の扉はセレヴィアの手の力に従い、ゆっくりと内側へ沈むように動いた。


 その先にあったのは、また廊下だった。


 先ほどまでの地下坑道とは違う。岩肌を削り出した粗い通路ではなく、ここは明らかに人の手で整えられていた。床には黒ずんだ石畳が敷かれ、左右の壁には等間隔で燭台が並んでいる。けれど灯っている炎はひどく弱く、青白い光を頼りなく揺らめかせるばかりで、廊下全体を照らすには足りていなかった。


 奥へ続く闇は深い。


 その闇の中に、人影があった。


 セレヴィアは足を止めた。


 見間違えるはずがなかった。


 広い肩。静かな立ち姿。重厚な外套。そこにいるだけで空間の重心を変えてしまうような、圧倒的な王の気配。たとえそれが魂なき影であろうと、形だけを模した偽物であろうと、その姿はあまりにも鮮明に記憶の奥を揺らしてくる。


 ヴァルザード。


 先代魔王。


 そして、セレヴィアの父。


 やはり、と胸の奥で思った。


 この先に進むなら、リリセアは必ずもう一度これを置く。あの女は、ただ力で塞ぐだけではなく、こちらの心を削る方法を選ぶ。リリスを奪うために、セレヴィアの迷いを利用した。父の姿を見せ、声を聞かせ、剣を交えさせた。あの一瞬の躊躇が、リリスを遠ざけた。


 だから、また来ると分かっていた。


 分かっていても、実際に目の前に立たれると、胸の奥が軋む。


 セレヴィアは、その痛みを否定しなかった。


 痛むのは当然だった。


 父なのだから。


 偽物であっても、魂がなくても、そこに立つ影は父の形をしている。幼い頃に見上げた背中。剣の握り方。王として立つ時の沈黙。厳しく名を呼ぶ声。そのすべてを完全に忘れられるほど、セレヴィアは空っぽではない。


 だが、それでも。


 もう迷わない。


 セレヴィアは右手を開いた。


 空間が、静かに裂ける。


 亜空間の奥から滲み出す魔力は、冷たく、重く、血の記憶を伴っていた。見えない闇の底から、漆黒の刃が形を結んでいく。黒い刀身に赤い魔紋がゆっくりと脈打ち、柄に刻まれたヴァル=ネメシア家の紋章が淡く光を宿す。


 魔剣ノクターン。


 父から受け継いだ剣。


 その柄が掌に収まった瞬間、胸の奥に残っていたざわめきが、わずかに静まった。剣は何も言わない。だが、その重さが伝えてくる。過去から逃げるなと。けれど過去に縛られるなと。


 廊下の奥で、父の影もまた右手を上げた。


 同じように、闇が凝る。


 そこに現れたのは、ノクターンと同じ刀身だった。漆黒の刃。赤い紋様。重く、静かな威圧。だが、セレヴィアはその瞬間、はっきりと理解した。


 違う。


 それは形だけだ。


 強さを模した影ではない。


 父の剣筋をなぞることはできても、父の重さまでは再現できない。魂がない。意思がない。守るべきものを背負って振るう刃ではない。ただ、セレヴィアの心を揺らすために作られた、精巧な幻影にすぎない。


 苦戦する相手ではない。


 本来なら、そうだった。


 苦戦させたのは力ではなく、自分の迷いだ。


 セレヴィアはゆっくりと息を吸った。


 胸の傷が痛む。黒い拘束魔法の残滓も、まだ身体の奥に濁りを残している。だが、その痛みさえ今は必要なものだった。自分が何を間違えたのか、何を取り戻さなければならないのかを、忘れずにいられる。


 父の影が一歩、前へ出る。


 その足音が廊下に響く。


 こつ、と。


 ただそれだけで、記憶が揺れた。


 幼い頃、訓練場で木剣を握っていた自分。まだ腕も細く、剣の重さに振り回されていた自分。その前に立っていた父は、容赦なく厳しかった。転べば立てと言い、泣きそうになれば顔を上げろと言い、剣を落とせば拾えと言った。


 けれど、その厳しさの中に、いつも温かさがあった。


 戦うためだけではなく、守るために強くなれ。


 父はそう教えた。


 なのに自分は、守れなかった。


 リリスを。


 あの小さな手を。


 白い光の中へ消えていく妹を、掴むことができなかった。


 その後悔は消えない。


 きっと、これから先も消えない。


 だが後悔を抱えたまま、進まなければならない。後悔を理由に立ち止まることは、守れなかった事実をさらに無意味にするだけだ。


 セレヴィアはノクターンを構えた。


 影のヴァルザードも、同じように剣を構える。


 廊下の空気が凍る。


 ほんの短い沈黙。


 その中で、セレヴィアは静かに口を開いた。


「父上」


 声は、思ったよりも穏やかだった。


 影は答えない。


 ただ、父と同じ顔でこちらを見ている。


 セレヴィアは、その目をまっすぐ見据えた。


「ありがとうございました」


 その言葉は、偽物に向けたものではなかった。


 自分の中に残る父へ。

 過去の記憶へ。

 剣を教え、王の背を見せ、守ることの意味を刻んでくれた人へ。


「もう、迷いません」


 言葉にした瞬間、胸の奥に残っていた最後の震えが静かに消えた。


 父の影が動く。


 速い。


 だが、見える。


 前回は、その姿に心を乱された。剣筋よりも、顔を見てしまった。声を聞いてしまった。父だと思ってしまった。


 今は違う。


 影の踏み込みは重く見えるが、本物より浅い。剣の振り下ろしは鋭いが、父の持っていた決定的な圧には届かない。足運び、肩の動き、呼吸の間。すべてが似ていて、けれど違う。


 セレヴィアは半歩だけ身を引き、影の斬撃を受け流した。


 黒い刃同士が擦れ、赤い火花のような魔力片が散る。廊下の壁にその光が瞬き、瞬間的に父の顔を照らした。あまりにも似ている。けれど、もうそれに引かれることはない。


 セレヴィアはノクターンへ魔力を流し込む。


 冷気が刃を覆った。


 漆黒の刀身に、青白い光が重なる。赤い魔紋が脈打ち、その上を霜が走る。周囲の空気が一気に冷え、石畳の隙間から白い氷が広がっていく。壁の燭台に灯っていた弱い炎が揺らぎ、いくつかは音もなく凍りついた。


 影のヴァルザードが再び踏み込む。


 セレヴィアは避けない。


 真正面から、剣を構える。


 前回、届かなかった一撃。


 迷いによって外した刃。


 それを、今度こそ。


「氷月斬」


 声は低く、揺るがない。


「ルナ・ブレイク」


 ノクターンが振り抜かれた。


 半月を描く氷の斬撃が、廊下を裂くように放たれる。青白い刃は空気を凍らせながら広がり、床も壁も天井もまとめて白く染めていく。氷の軌跡は美しいほど静かで、けれど触れたものすべてを容赦なく凍結させる死の弧だった。


 今度は、逸れなかった。


 影のヴァルザードの胴を、氷の刃が正面から切り裂いた。


 漆黒の外套が割れ、胸から肩へかけて深い亀裂が走る。血は出ない。代わりに、黒い靄と死霊術の残滓が噴き出し、それらは瞬く間に凍りついて砕けていった。影の手にあった偽りのノクターンも、刀身の途中から霜に覆われ、硝子のような音を立てて崩れていく。


 影は膝をつきかけた。


 だが、完全に消える直前、その顔がわずかに上がった。


 セレヴィアは目を逸らさなかった。


 父の顔をした影が、こちらを見る。


 その瞳に魂などない。

 意思など宿っていない。

 これはただの術であり、ただの幻影であり、リリセアの作った偽物にすぎない。


 そう分かっている。


 それでも。


「……グラティオルを……」


 声がした気がした。


 低く、遠く、雪の向こうから響いてくるような声。


 影の口が本当に動いたのか、それともノクターンの内に宿る記憶が聞かせたのか、セレヴィアには分からなかった。


「……ノクタリアを、頼む……」


 それは父の声だった。


 少なくとも、セレヴィアにはそう聞こえた。


 胸の奥が、きつく締めつけられる。


 グラティオルは大陸の名。魔族たちが生きる暗く厳しい大地。ノクタリアは国の名。父が守り、セレヴィアが受け継いだ場所。父が最後まで背負ったもの。そして今、自分が背負うもの。


 影は砕けていく。


 黒い靄は氷の粒となって散り、父の形をしていたものは少しずつ輪郭を失っていった。肩が消え、腕が消え、外套がほどけ、最後に顔だけが淡い霧のように揺らめく。


 その表情は、ほんの一瞬だけ、記憶の中の父に似ていた。


 厳しく、静かで、けれどどこか満足そうな。


 次の瞬間、影は完全に消えた。


 廊下には、凍りついた石畳と、砕けた死霊術の残滓だけが残された。


 セレヴィアはしばらくその場に立っていた。


 ノクターンを握る手は、震えていなかった。


 父を悼む時間ではない。


 父に縋る時間でもない。


 父の影を越えたのなら、進まなければならない。


 セレヴィアは静かにノクターンを下ろした。


 刀身に残る氷の魔力が淡くほどけ、赤い魔紋がゆっくりと脈打つ。その光はどこか落ち着いていて、まるで先ほどの言葉を剣自身も聞いていたかのようだった。


「……任されました」


 誰に聞かせるでもなく、セレヴィアは呟いた。


 グラティオルも、ノクタリアも。


 そして、リリスも。


 すべてを一人で背負えるなどとは思わない。もう、そう思い込むこともやめる。自分には柱たちがいる。支えてくれる者がいる。だが、最前で決断する者は自分だ。


 父がいない今、それを担うのは自分なのだ。


 セレヴィアは顔を上げる。


 涙は見せなかった。


 ただ一度だけ、息を整え、傷む胸を無視して歩き出す。


 冷たい廊下に、足音が響く。


 今度の足取りに、迷いはなかった。

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