33.声の行方
目を覚ました瞬間、最初に感じたのは冷たさだった。
肌に触れている空気が、魔王城の室内とはまるで違う。あちらの冷気は整えられたものだった。石造りの城に満ちる、静かで澄んだ冷たさ。けれど、今リリスの頬を撫でているそれは、もっと湿っていて、重くて、どこか淀んでいる。長いあいだ陽の差さない場所に澱んだ空気。地下か、あるいは崩れかけた古い建物の奥にでもいるような、そんな息苦しい冷たさだった。
「……ん……」
喉から漏れた声は、ひどく掠れていた。
頭が重い。
身体も重い。
瞼の裏にまだ白い靄が残っているみたいで、視界がうまく定まらない。
ゆっくりと目を開ける。
薄暗かった。
天井は低く、石で組まれている。ところどころに亀裂が走り、隙間には黒ずんだ苔のようなものがこびりついていた。壁に取り付けられた燭台には、青とも紫ともつかない弱い火が灯っていて、その頼りない光が部屋の輪郭だけをぼんやり浮かび上がらせている。
寝かされているのは、簡素なベッドだった。
魔王城のものとは比べものにならない。軋んだ木枠に、薄い敷布を重ねただけの粗末な寝台。寝返りを打てばすぐにきしみそうで、包まれるようなやさしさはどこにもない。
鼻をくすぐるのは、湿った土と古い石の匂い。
その下に、ごく薄く、何か鉄っぽい匂いが混じっている。
どこだろう。
そう考えた瞬間、こめかみの奥で鈍い痛みが脈打った。
「っ……」
思わず目を閉じる。
頭痛。
ただでさえ重かった頭が、思考しようとしただけでずきりと痛む。体の芯も熱っぽいような、逆に寒気がするような、妙に気持ちの悪い感覚だった。指先には力が入りきらず、腕を少し持ち上げるだけでも疲れる。
体調が悪い。
それは、はっきり分かった。
けれど、ただの不調じゃない。
意識がぼやける。
眠りから覚めたばかりだからというだけではなく、もっと根本のところで身体がうまく噛み合っていない感じがする。胸の奥に、冷たい泥みたいなものが溜まっていて、そこからじわじわと全身へ重さを流し込んでくるような感覚。
それでも、頭の奥で何かが引っかかっていた。
どうしてここにいるんだっけ。
そこから先を辿ろうとして、記憶が少しずつ繋がり始める。
誕生日。
特別なドレス。
姉さまのペンダント。
フィオ。
ケーキ。
キャロルが飛び込んできたこと。
騒がしい廊下。
黒衣の綺麗なお姉さん。
リリセア。
父のこと。
母のこと。
呪いのこと。
僕は、呪われた子だと聞かされたこと。
そして――
血を流した姉さま。
黒い鎖。
きらきらした石。
広がる魔法陣。
白く滲んでいく視界。
「……あ……」
そこで、ようやく理解が追いついた。
僕、連れ去られたんだ。
ぞわりと背筋が粟立つ。
寒いわけじゃない。怖さが遅れて押し寄せてきたんだと思う。
リリセア。
不老不死で、生きるのに疲れていて、僕の中の呪いを欲しがっている人。
人間側と手を組んでいて、僕に死んでほしいと言った人。
その人に、僕は魔法で連れ去られた。
ここはたぶん、その人の拠点だ。
「……っ、ぁ……」
呼吸が浅くなる。
落ち着け。
落ち着いて、考えないと。
姉さまは来てくれるかもしれない。
でも、それを待つだけでいいのか。
待っている間に何かされるかもしれない。
だったら今のうちに逃げないと。
そう思った瞬間、リリスは反射的に身体を起こそうとした。
「……ぅ、ぁ……っ」
視界がぐらりと揺れる。
頭の中で鐘でも鳴ったみたいに、痛みが強くなる。思わず片手でこめかみを押さえ、もう片方でベッドの縁を掴んだ。呼吸を忘れかけるくらいの眩暈。少し遅れて吐き気までこみ上げてくる。
だめだ。
立てるかな、これ。
けれど、ここで寝たままでいるわけにはいかなかった。
リリスは息を整えながら、ゆっくり足を床へ下ろした。
裸足の裏に触れたのは、冷えきった石だった。
「ひゃ……」
小さく声が漏れる。
石畳。
隙間に埃と湿気が溜まっていて、ひやりとした感触が足の裏から這い上がってくる。魔王城の廊下にも石床はあったけれど、あちらは磨き上げられていて、もっと整った冷たさだった。これは違う。荒れていて、古くて、長いあいだ誰にも温められていない冷たさ。
立ち上がると、膝が少し笑った。
身体が軽いどころか、逆に中身の詰まった鉛みたいに重たい。頭もぼんやりする。前なら、トイレまで歩くだけで息が上がることもあったけれど、それとはまた別のしんどさだった。今は「弱い身体」だけじゃなくて、何か余計なものが中に入り込んでいるみたいな、そんな気持ち悪さがある。
けれど、部屋の中にいても仕方がない。
部屋は狭かった。
簡素な寝台が一つ、木箱が一つ、あとは古びた机が壁際にあるくらい。窓はない。分厚い石壁に囲まれていて、外の気配は何も感じられない。唯一の出口は、正面の木扉だけだった。
鍵は――少なくとも内側にはついていないように見える。
罠とか、そういうのは分からない。
でも、開けてみるしかない。
リリスはふらつきながら扉へ近づいた。歩くたびに頭がずきずきする。喉も渇いていた。息も上がる。けれど立ち止まる方が、かえって怖かった。
取っ手に手をかける。
冷たい。
手のひらから熱を奪っていくみたいな冷たさ。
少しだけ躊躇して、それから意を決して押す。
ぎ、と鈍い音を立てて扉が開いた。
その向こうには、長い廊下が続いていた。
思わず息を呑む。
左右に伸びる石造りの廊下。壁はひび割れ、天井の一部は崩れかけている。ところどころに燭台があるけれど、どれも弱い光しか放っておらず、明るいとは到底言えない。むしろ薄暗さが強調されていて、先へ行くほど闇が濃くなっているように見えた。
床も石畳だった。
長い年月を経たせいか、ところどころ摩耗していて、端の方には染みみたいな黒ずみも残っている。湿っぽくて、空気は重い。足音を立てるたび、それがやけに大きく響くのが嫌だった。
ここ、ほんとにどこなんだろう。
地下牢、という言葉がふと頭をよぎる。
あるいは古い砦の地下区画。
前世の知識と、この世界で見たものがごちゃまぜになって、そんな想像しかできなかった。
でも、今は場所を考えている場合じゃない。
今のうちに逃げないと。
リリスは唇を引き結び、廊下へ一歩踏み出した。
冷たい石の感触が足の裏へ伝わる。
ぞくりと震えが走るけれど、止まらない。止まりたくない。
リリセアは僕を欲しがっていた。
僕の中にある呪いを。
だったら、あの人にとって僕はただの子どもじゃない。目的そのものだ。
そんな相手のところで、大人しく待っているなんてできなかった。
廊下を歩く。
一歩。
また一歩。
頭痛は治まらない。
むしろ意識してしまうと余計に痛い。こめかみだけじゃなく、頭の芯がじくじくしているみたいだった。足元も少しおぼつかなくて、壁に手をつきながらじゃないとうまく進めない。
湿った石壁はひどく冷たかった。
手をつくたびに、そこに誰のぬくもりもないことが分かる。
魔王城の壁は冷たくても、あそこには人がいた。メイドさんたちがいて、兵士さんがいて、ミレーユがいて、キャロルがいて、姉さまがいた。だから冷たくても、怖くはなかった。
でもここは違う。
人の気配がない。
静かすぎる。
それが、逆に怖かった。
どこまで続いてるんだろう。
出口はあるのかな。
もしこれが迷路みたいになってたらどうしよう。
不安が次々に浮かぶ。
それでも、立ち止まりたくなかった。止まったら、そのまま座り込んでしまいそうだったし、座り込んだらもう立てない気がした。
だから必死に足を動かす。
少し進んだところで、右へ曲がる通路が見えた。
そっちに行くべきか迷う。
いや、待って。
適当に進んで余計に奥へ行ったらどうするんだ。
でも元の部屋に戻るのも違う。
あそこにいても、閉じ込められるだけだ。
頭が回らない。
本当に、回らない。
元々そんなに冷静に判断できるタイプじゃないのに、今はそれに加えて頭痛と眩暈がある。考えようとしても、思考が途中でぐずぐずに崩れてしまう。
それでも何とか前へ進もうとした、その時だった。
「……どこへ行くんですかぁ?」
背後から声がした。
ひゅ、と喉が鳴る。
びくっと身体が跳ねて、思わず振り向いた。
そこに立っていたのは、リリセアだった。
黒い衣。
長い黒髪。
薄暗い廊下の中でも妙に整って見える顔立ち。
そして、あの笑顔。
口元はちゃんと笑っているのに、目の奥がまるで笑っていない、張り付いたみたいな不気味な微笑み。
ぞっとした。
「……っ……」
声が出ない。
気づかなかった。
足音もしなかった。
いつからそこにいたのか分からない。
リリセアは怒っているようには見えなかった。むしろ、勝手に部屋を抜け出してきた僕を咎めるつもりなんて最初からないみたいだった。
ただ、分かっていた、という顔をしている。
どうせ出られないのに。
そう言いたげな、静かな余裕を漂わせながら。
「目が覚めたんですねぇ」
彼女は穏やかな声でそう言った。
返事をしようとしても、喉がうまく動かなかった。怖いのもあるし、息が上がっているのもある。頭痛で言葉をまとめる余裕もない。
リリセアはそんな僕を見ても、少しも困った様子を見せない。
こつ、こつ、とゆっくり近づいてくる。
逃げないと、と思うのに足がすくむ。
たぶん本気で逃げたって、追いつかれる。
それが分かってしまうのが、悔しくて、怖かった。
「ふふ……そんなに警戒しなくて大丈夫ですよぉ」
大丈夫なわけがない。
心の中でだけそう返す。
リリセアは廊下の途中で立ち止まると、ほんの少しだけ首を傾げた。まるで聞き分けのない子どもを見るみたいに。
「でもぉ、勝手にお部屋を抜け出すのは感心しませんねぇ」
叱っているわけじゃない。
ただ事実を確認しているだけみたいな口調。
そこが余計に怖い。
「……かえ、して……」
やっとそれだけ絞り出した。
声は震えていた。
情けないくらい小さい。
リリセアは一瞬だけ目を細める。
「何をですかぁ?」
「……姉さま、の……ところ……」
言いながら、自分でも泣きそうになるのが分かった。
強く言い返したいのに、そんなこと全然できない。
せめて帰りたいと伝えるので精一杯だ。
リリセアはしばらく僕の顔を見つめていた。
それから、ふっと笑みを深くする。
「まだですよぉ」
その一言で、心臓がどくんと鳴った。
「準備があるからぁ。大人しくしててねぇ」
準備。
その言葉が、ものすごく嫌だった。
何の準備なのか、聞かなくても分かる気がした。
僕に関することだ。
僕の中の呪いをどうにかするための、きっとろくでもない準備。
「や……」
思わず一歩下がる。
でも壁がすぐ背に当たった。
リリセアはそれ以上近づいてはこなかった。
ただ、微笑んだままこちらを見ている。
「逃げても、出られませんよぉ」
やっぱり、分かっていたんだ。
僕が出てくることも。
逃げようとすることも。
ここから出られないことも。
最初から全部見透かしていたみたいな言い方だった。
悔しくて、怖くて、情けなくて、胸の奥がぐちゃぐちゃになる。
リリセアはそれ以上何も言わなかった。
忠告だけを残すみたいに、くるりと背を向ける。
黒い髪がさらりと揺れる。
その動きだけ見れば、本当に綺麗なお姉さんがちょっと用事を思い出して去っていくみたいに見えるのが、ひどく気味が悪かった。
「変なことしないで待っててくださいねぇ」
そんなことを言いながら、彼女はどこかへ去っていく。
こつ。
こつ。
足音が廊下の奥へ消えていく。
リリスは壁に背をつけたまま、しばらく動けなかった。
膝が震えている。
呼吸も浅い。
頭痛はひどくなるばかりで、こめかみを押さえても少しも楽にならない。
怖くても。
出られないかもしれなくても。
大人しく待っていたら、もっと怖いことになる。
リリスは震える指で壁を押し、足を前へ踏み出した。
足が、もう限界に近かった。
廊下を進んで、いくつもの扉を開けて、また閉めて。
同じような部屋ばかりを見て回って——その繰り返し。
「……はぁ……っ、は……」
呼吸が荒くなる。
胸が上下するたびに、空気がうまく入ってこないような苦しさがあった。
開けた部屋の中は、どれも同じだった。
簡易的なベッド。
簡易的なテーブル。
それだけ。
壁も、床も、天井も、すべて似たような石造り。
人が長く暮らしていた気配はない。使われてはいるけど、生活の温度がない。
足元がふらつく。
壁に手をつきながら、なんとか立っている状態だった。
頭痛は相変わらずで、むしろひどくなっている気さえする。視界の端が少し暗く揺れて、意識が途切れそうになるたびに、必死にまばたきをして繋ぎ止める。
ここで倒れたら終わりだ。
なんとなく、そう思った。
誰も助けてくれない場所。
あのリリセアが戻ってきたら、今度こそ逃げる余地はない。
だから——
あと少しだけ。
もう少しだけ、進まないと。
その時だった。
廊下の先、曲がり角の向こうに——微かに明かりが漏れているのが見えた。
「……あ……」
思わず足を止める。
今まで開けてきた部屋は、どれも暗かった。
燭台はあっても、火は消えていたり、ほとんど灯っていなかったり。
でも、その部屋は違う。
扉の隙間から、はっきりとした光が漏れている。
誰か、いる……?
心臓がどくんと鳴る。
怖い。
正直、すごく怖い。
でも同時に——そこに何かあるかもしれない、という気持ちもあった。
出口の手がかり。
ここがどこなのかを知るヒント。
あるいは——
もっと悪いもの。
「……っ……」
唾を飲み込む。
逃げるべきか。
近づくべきか。
数秒だけ迷って、それからリリスはゆっくりと歩き出した。
足音を立てないように気をつける。
でも完全には無理だった。石の床に触れるたび、かすかな音が廊下に響く。
一歩。
また一歩。
扉の前まで来ると、光がよりはっきりと見えた。
隙間から覗く中は、ぼんやりとした橙色。
ランプの灯りだろうか。
耳を澄ませる。
物音は、ない。
誰かの気配も感じない。
……いない?
それでも完全に安心はできない。
リリセアのことを思い出す。あの人は音もなく背後に立っていた。
リリスはそっと扉に手をかけた。
ぎ、と小さく音が鳴る。
息を止める。
……何も起きない。
ゆっくりと、扉を開く。
中に足を踏み入れた瞬間、今までとは違う空気が肌に触れた。
部屋は、広かった。
そして——散らかっていた。
「……ぇ……」
思わず小さく声が漏れる。
壁一面に並ぶ本棚。
ぎっしりと何かが詰め込まれている。
本……?
でも、整然と並んでいるわけじゃない。
ところどころ抜けていたり、斜めに傾いていたり、無理やり押し込まれているものもある。
さらに床には——
それらが散乱していた。
紙束。
冊子。
開いたままの本。
足の踏み場に困るほどではないけれど、明らかに整理されていない。
机が一つ。
その上にはランプが置かれていて、部屋の光源はそれだけだった。
炎は揺れていて、影がゆらゆらと壁を這っている。
リリスは慎重に一歩、部屋の中へ進む。
床に散らばった紙を踏まないように気をつけながら、ゆっくりと机の方へ近づいた。
「……これ……」
思わず手を伸ばす。
本、というよりは——記録の束みたいだった。
何枚も重なっていて、表紙らしいものはなく、上にある紙にはびっしりと文字が並んでいる。
読めるかな。
ふと、そう思う。
この世界の文字。
まだ全部は分からない。
でも、少しだけなら読める。
ひらがな、みたいなもの。
簡単な言葉なら、なんとか。
リリスは一番上の紙を、そっとめくった。
文字が並ぶ。
頭が少しくらっとする。
でも、目を凝らす。
「……じっ……けん……?」
かろうじて、一つだけ読めた。
続けて、視線を下へ落とす。
文字が多い。
読めない部分ばかり。
けれど、その中に——
「……49……?」
何が四十九なのかは分からない。
でも、その数だけで胸の奥がざわつく。
ページをめくる。
紙が擦れる音がやけに大きく感じた。
次の行。
「……しょ……り……」
また読めた。
しょり。
処理。
(……処理……?)
頭の中で言葉が転がる。
なにかを“片付ける”。
なにを?
分からない。
分からないのに、嫌な感じだけが残る。
さらに視線を動かす。
読めない文字ばかりの中に、またひとつ。
「……みつ……らぎ……?」
知らない言葉だった。
聞いたことがない。
場所の名前……?
人の名前……?
(……なに……これ……)
指先がわずかに震える。
全部は読めない。
ほとんど読めない。
でも——
読めた言葉だけでも、十分に嫌だった。
それぞれはバラバラなのに、並べると、なぜか胸が締めつけられる。
(……なんか……いや……)
理由は分からない。
でも、この紙は良くないものだと、本能が告げていた。
(……どうしよう……)
心の中でそう呟いた瞬間だった。
「……たすけて」
ふいに、声が響いた。
それは空気を震わせて届くような音ではなかった。耳で聞いたというより、もっと内側、頭の奥に直接落とされるような感覚。ぞくりと背筋を冷たいものが走り、リリスは反射的に顔を上げた。
「……え……?」
思わず周囲を見回す。だが、部屋の中には誰の姿もない。開け放たれた扉の向こう、薄暗い廊下には、誰かが近づいてきている気配がある。今の声はそこからではない。もっと近い。もっと、すぐそばから聞こえたように感じる。
「……たすけて」
再び、同じ声が響いた。
抑揚の少ない、淡々とした響き。感情があるのかどうかさえ分からない。それでも、その一言には確かに“求める”意思が含まれているように思えた。
リリスは無意識のうちに一歩、踏み出していた。理由は分からない。ただ、声の方へ向かわなければならないという衝動に突き動かされるように、ふらつく足で歩き出す。
視線の先にあるのは、本棚だった。壁一面を覆うそれは、無造作に詰め込まれた本や紙束で歪に膨らんでいる。その奥から、声がしている気がする。
(……ここ……?)
確信に近い感覚があった。
リリスは本棚の前に立つが、その高さは幼い身体にはあまりにも不釣り合いだった。上段には手が届かない。どうすればいいのかと一瞬迷い、視線を下げたとき、足元に積まれた本の山が目に入る。
乱雑に積まれたそれは、踏めば崩れそうな不安定さを孕んでいる。それでも他に手段はない。リリスは恐る恐る足を乗せる。ぐらりと揺れ、体が大きく傾いた。思わず息を呑むが、壁に手をついてなんとか体勢を保つ。
さらに一歩、上へ。
不安定な足場の上で体を伸ばし、ようやく本棚の奥に手が届く位置まで来る。
「……たすけて」
すぐ近くで、声がした。
リリスは本を掴み、ためらいなく引き抜いた。そのまま床へ投げ捨てる。ばさり、と紙の擦れる音が響く。続けて、もう一冊。また一冊。次々と本を払い落としていくたびに、隠されていた奥の空間が少しずつ露わになっていく。
やがて、そこにあったものが姿を現した。
「あ……」
小さく息を呑む。
古びた木箱だった。色はくすみ、表面には細かな傷が刻まれている。本棚の奥に押し込まれるように置かれていたそれは、明らかに意図的に隠されていたものだと分かる。
そして、その箱の中から——
「……たすけて」
声が、確かに聞こえた。
(……ここ……)
リリスは震える手で箱を引き出す。思ったよりも重い。足場の上でバランスを崩しそうになりながらも、なんとかそれを抱え、ゆっくりと床へ降ろす。鈍い音が静かな部屋に響いた。
蓋に手をかける。
ほんの一瞬、ためらいがよぎる。開けてはいけないものかもしれないという直感。しかし、その直感を上回るように、声が背中を押してくる。
「……たすけて」
リリスは小さく息を吸い、蓋を持ち上げた。
ぎしり、と軋む音。
中にあったのは、透明な瓶だった。
「……びん……?」
思わず呟く。
魔導具のような滑らかな表面を持つ容器。その内部には淡く光る液体が満たされている。そして、その中に——
小さな球体が浮かんでいた。
白にも青にも見える、ぼんやりとした光。輪郭は曖昧で、ゆらゆらと揺らいでいる。それが、生きているように見えたのは、きっと錯覚ではない。
「……なに……これ……」
呟いた瞬間。
「……たすけて」
その球体から、声がした。
確信する。これが、声の正体。
リリスはそっと瓶を持ち上げる。ひんやりとした感触が手に伝わる。中の液体がわずかに揺れ、光が揺らぐ。
「……だす……ね……」
自分に言い聞かせるように呟きながら、蓋に手をかける。力を入れると、思いのほかあっさりとそれは回り、封が解けた。
ふ、と。
閉じ込められていた空気が解放されるような感覚がした。
次の瞬間、球体がゆっくりと浮かび上がる。
「あ……」
思わず息を呑む。
それは瓶の口をすり抜け、ふよふよと宙に浮かびながら、リリスの目の前まで近づいてくる。近くで見ると、光は微かに脈打つように明滅しており、まるで呼吸しているかのようだった。
「……ありがと」
声が、また響く。
「……ありがと」
先ほどよりわずかに柔らかい響き。感情があるのかどうかは分からない。それでも、その言葉には確かに“応答”の意味が込められているように感じられた。
リリスは恐る恐る手を差し出す。
触れていいのか分からないまま、それでも自然と手が伸びていた。
球体は拒むことなく近づき、そのまま手のひらの上にふわりと乗る。
軽い。ほとんど重さがない。それなのに、確かに存在している。
そして、ほんのりと温かい。
「……あなた……だれ……?」
かすれた声で問いかける。
「……なまえ……?」
返ってきたのは、問い返すような言葉だった。
「……ぼく……リリス……」
答えた瞬間。
光が、わずかに強く揺れた。
そして——
それまでとはまったく異なる調子で、流れるように、淀みなく。
ただ“記録された通りに”再生するかのように。
長い名前が告げられた。
「魔導生命体人工精霊シエル・アルファリオン・ゼルミクス・ノルヴァティア・エルディシオン・クレヴァリス・トリシュメリア・ヴァルディノクス・セリュアント・ミレクシア・073219」
息継ぎもなく続いたその音の連なりに、リリスはただ呆然とするしかなかった。
「……え……」
意味が分からない。覚えられるはずもない長さ。それでも、その最初の音だけが耳に残る。
「……シエル……?」
そう呟くと、球体はわずかに明るく光った。
「……うん」
短い肯定。
それだけで、ほんの少しだけ胸の緊張が緩む。
だが——
次の瞬間。
廊下から足音が聞こえ、扉のすぐ外で止まった。
空気が張り詰める。
心臓が大きく跳ねた。
逃げ場はない。
リリスの体は凍りついたように動かなくなる。
そのとき。
手のひらの上の光が、わずかに強く脈打った。
「……きけん」
静かに、しかしはっきりと。
その言葉が、リリスの意識の奥へと落ちていった。




