32.伸ばした手は血に濡れて
夢の中にいるみたいだった。悪い夢の中で、ただ一つだけはっきりしている悪意が、にこにこと笑いながら僕に手を伸ばしてくる。
「私のために死んで、リリス・ヴァル=ネメシア」
その言葉は、まだ耳の奥に残っていた。
この人が終わるために。
僕は死んでほしいと言われた。
頭の中が真っ白で、でも胸の奥だけがぐちゃぐちゃだった。
母の命と引き換えに生まれたこと。
自分の身体が呪いでできているみたいなものだということ。
魔力が身体を蝕むこと。
父が死んでいること。
姉さまたちがその事実を隠していたこと。
何もかもがいっぺんに流れ込んできて、理解なんて追いついていない。
なのに、その中で一番強く浮かぶのは、とても単純な感情だった。
死にたくない。
前世で死んだ時は、きっと抵抗する余裕なんてなかった。
毎日がしんどくて、疲れて、気づいたら終わっていた。
でも今は違う。
怖い。
ちゃんと怖い。
生きたいと思ってしまっている。
姉さまがいて、ミレーユがいて、キャロルがいて、フィオがいて。
この世界で、僕はもう一度、人に優しくされてしまった。
祝われてしまった。
守られてしまった。
そんなものを知ってしまったあとで、ただ死ねと言われても、はいとは言えない。
言えるわけがなかった。
僕は震える唇を開こうとした。
嫌だ、せめてそれだけでも言わないといけない気がした。
でも、喉がうまく動かない。
「……ぁ……」
情けないくらい小さな音しか出ない。
リリセアはそんな僕を見て、少しだけ困ったように眉を下げた。
「そんな顔しないでくださいよぉ。痛くないように――」
その時だった。
扉の向こう側で、何かが大きくぶつかる音がした。
リリセアがぴたりと口を閉じる。
扉の外から、今度ははっきりとした異音が近づいてくる。何かを引きずるような、石を擦るような、重く不穏な音。
次の瞬間。
扉が、勢いよく開いた。
冷たい空気と、濃い血の匂いが一気に流れ込んでくる。
「――ねえさま!」
考えるより先に叫んでいた。
そこに立っていたのは、セレヴィアだった。
でも、いつもの姉さまじゃない。
黒を基調とした正装は、胸元のあたりが深く裂けていた。そこから血が流れている。赤黒い染みが布を重く濡らし、床へとぽたり、ぽたりと落ちていく。銀髪も乱れていて、頬には掠れた血の跡がついていた。何より目を引いたのは、その身体に巻きついているものだった。
黒い鎖。
まるで影が形を持ったみたいな、鈍く不気味な黒。
それが姉さまの腕、胴、脚へと何重にも絡みついている。食い込むように。縛り上げるように。見ただけで嫌なものだと分かる。生き物みたいにじわじわと締まり、姉さまの動きを奪おうとしている。
血を流している。
拘束されている。
明らかに無事じゃない。
それでも、立っている。
扉の前に。
叫びたかった。
どうしてそんな体で、と。
大丈夫なのか、と。
でも僕が次の言葉を出すより先に、リリセアが呟いた。
「あらぁ……」
その声音には、さっきまでとは違う色が混じっていた。
驚き。
そして、ほんの少しだけ苛立ち。
「もう動いてきましたかぁ」
柔らかい口調のまま、けれど目は笑っていない。
「おかしいですねぇ。数時間は動けないはずの拘束魔法だったのにぃ」
数時間。
その言葉が頭の中で引っかかる。
つまり姉さまは、本来なら動けないくらいの状態だったのに、それでもここまで来たということだ。
どうして。
そんなの、決まっている。
僕のところに来るためだ。
その事実が胸に刺さって、息が苦しくなる。
セレヴィアは答えない。
ただ、赤と紫の双眸でまっすぐリリセアを見据えていた。傷のせいか、呼吸は浅く見える。黒い鎖はまだ身体に絡みついたままだし、胸元から血も止まっていない。それでもその目だけは、驚くくらい強かった。
姉さまの視線が一瞬だけ僕へ向く。
ほんの一瞬。
それだけなのに、分かった。
大丈夫。
そう言いたかったんだと思う。
でも全然大丈夫じゃない。
そんなの見たら分かる。
分かるのに、姉さまはたぶん本気で、まず僕を安心させようとしている。
胸が痛い。
リリセアはそんな二人の間に立つみたいに、くるりと身体を回した。
「さすがセレヴィアちゃんですねぇ。根性論で呪縛をちぎってくるなんて、ちょっと想定外でしたぁ」
軽く言うな、と思った。
姉さまは血を流してるのに。
こんな鎖に縛られてるのに。
でもリリセアにとっては、たぶん本当に“想定外”でしかないんだろう。目の前で誰がどれだけ傷ついていても、その人の事情や痛みを想像することがない。全部、自分の目的の途中にある障害としか見ていない。
セレヴィアが一歩、足を踏み出す。
黒い鎖がぎちりと軋み、床へ血が落ちる。
それでも剣先はぶれない。
「リリスから離れなさい」
声は低く、静かだった。
怒鳴っているわけじゃない。
でも、その一言だけで部屋の空気が張り詰める。
リリセアは困ったように眉を下げた。
「ここでまたあなたとやり合うのは、ちょっと面倒ですねぇ」
そう言いながら、彼女は懐から何かを取り出した。
小さな石だった。
手のひらに収まるくらいの大きさで、薄暗い部屋の中でも、それだけが妙にきらきらと光って見える。宝石みたいに綺麗なのに、見た瞬間に嫌な感じがした。たぶん、ただ綺麗なだけのものじゃない。
空気が震えた。
石の光が一気に強くなり、彼女の足元から複雑な紋様が広がっていく。魔法陣。円と線と文字が幾重にも重なり合うように浮かび上がり、淡い光を放ちながら床を這っていく。綺麗だった。綺麗なのに、見ているだけで背筋が寒くなる。そこに描かれているものの意味なんて分からないのに、絶対に近づいてはいけないものだと本能が分かる。
姉さまが、目を見開く。
「――リリス!」
その声が聞こえた瞬間、僕の身体がびくりと反応した。
手を伸ばしかける。
でも足が動かない。
リリセアは振り向きざまに笑う。
「セレヴィアちゃんと最後にお話ができて楽しかったですよぉ」
魔法陣の光が強くなりすぎて、視界の端が白く染まり始める。
セレヴィアが動く。
黒い鎖を引きちぎるように前へ出ようとしているのが分かる。
でも、間に合わない。
視界がちかちかする。
部屋の輪郭が揺れる。
ペンダントを握っていた指先から感覚が遠くなっていく。
息が苦しい。
胸の奥がぎゅうっと掴まれたみたいに痛い。
だめだ。
頭が、うまく回らない。
さっきリリセアに聞かされたことが、遅れて一気にのしかかってくる。
父は死んでいる。
母は、僕を産んで死んだ。
僕は呪われた子。
この身体は、生まれた時から壊れている。
僕の中には“終わり”がある。
それを欲しがっている人がいる。
何ひとつ整理できない。
でも、全部が重い。
重すぎる。
視界の中央で、セレヴィアの姿だけがまだはっきりしていた。
血を流しながら、黒い鎖に縛られながら、それでも剣を握って、僕のほうへ来ようとしている。あんなに苦しそうなのに、止まらない。たぶん、本当に無理をしている。数時間動けないはずだって言われるような状態だったのに、それでも来た。
その理由が僕なのが、つらかった。
うれしいとか安心するとか、そういうのとは違う。
もちろん、来てくれてうれしい。
助けてほしい。
怖いからそばにいてほしい。
でも同時に、僕のせいで、って思ってしまう。
僕がこんなだから。
僕が呪われてるから。
僕が生まれたから。
みんなが傷ついている。
そんな考えが、止まらない。
「……ねぇ、さま……」
自分でも聞こえるかどうか分からない声だった。
セレヴィアが何か言う。
たぶん僕の名前を呼んだ。
けれどもう、その音がうまく届かない。
光が強い。
白い。
眩しい。
視界がぼやけて、にじんでいく。
セレヴィアの輪郭が揺れる。
リリセアの笑みも、魔法陣も、倒れたフィオも、全部が水の中に沈んでいくみたいに遠くなる。
身体から力が抜けていく。
手が冷たい。
指先が動かない。
怖い。
まだ、終わりたくない。
姉さまと話したいことがある。
ミレーユにも会いたい。
キャロルにも。
フィオが起きたら、無事でいてほしい。
まだ、やりたいことがある。
死にたくない。
いなくなりたくない。
そう思っているのに、意識が沈んでいく。
最後に見えたのは、こちらへ手を伸ばすセレヴィアの姿だった。
血に濡れた指先。
ほどけきらない黒い鎖。
それでもまっすぐ僕へ届こうとする手。
その手を、取りたかった。
けれど僕の視界はそこで完全に白く滲み、
次の瞬間には、何も見えなくなった。
―――――――――――――――――――――――――――
最初に戻ってきたのは、痛みだった。
胸の奥を抉るような鈍い熱と、全身の節々に食い込んだまま残る重苦しい痺れ。まるで身体の内側に黒い棘でも残されているような、不快で冷たい感覚が、意識の浮上とともにじわじわと広がっていく。
セレヴィアは浅く息を吸い、そこでようやく自分が横たわっていることに気づいた。
視界に入ったのは、見慣れた自室の天井だった。
黒曜石を思わせる深い色合いの天蓋。そこに刻まれた古い王家の紋様。重たいカーテンの隙間からは、グラティオルの夜とも朝ともつかぬ薄い光が差し込んでいる。魔王城の最奥にあるこの部屋は、常に静謐で、外界から切り離されたような気配を持っていた。
けれど今、その静けさは安らぎではなかった。
目を覚ました瞬間に胸を満たしたのは、休息の感覚ではなく、置き去りにされた現実の重さだった。
「……っ」
起き上がろうとした瞬間、胸元に鋭い痛みが走る。
セレヴィアは思わず眉を寄せた。包帯の巻かれた箇所が引きつり、血と呪詛の痕を思い出させる。リリセアに突き立てられた血のナイフ。黒い鎖の拘束。無理やり引きちぎるようにして動いた代償は、想像以上に深いらしい。肩も腕も鈍く重く、魔力の流れもまだどこか濁っている。
夢ではなかった。
そう理解するまでに、ほんの数秒もかからなかった。
あの血の匂いも。
リリセアの笑みも。
リリスが白く滲む視界の向こうで気を失っていく姿も。
すべて現実だ。
「……リリス」
かすれた声で名を呼ぶ。
その響きが、自分でも驚くほど弱かった。
「セレヴィア様」
すぐそばから、静かな声が返ってきた。
視線を向けると、寝台の脇に椅子を置き、そこへ腰かけていたミレーユがいた。いつものように姿勢は正しく、顔色も極端に崩してはいない。だが、白い肌には失血の色が残り、腹部には厚い包帯が巻かれている。その上からでも、傷の深さは隠せていなかった。
彼女もまた、傷だらけだった。
セレヴィアは一瞬だけ目を伏せ、息を整える。
「……あなたも、目を覚ましていたのね」
「少し前に。医務室での処置を断り、こちらへ参りました」
「無茶をするわ」
「それはお互い様かと」
いつも通りの平坦な口調。
だが、その奥に微かな疲労が滲んでいるのを、セレヴィアは聞き逃さなかった。
ほんの少しの沈黙。
セレヴィアは喉の渇きを覚えながら、最も聞かねばならないことを口にする。
「……状況を」
短く、それだけ。
ミレーユは一瞬だけ瞼を伏せた。
それが、答えの重さを物語っていた。
「リリス様は……リリセア・グリムにより、転移魔法で連れ去られました」
胸の奥で、何かが静かに沈む。
セレヴィアの手が、シーツの上でわずかに握られる。
「……追跡は」
「転移座標は撹乱されています。発動直後に複数の偽装痕が散らされており、現時点では確定に至っておりません」
リリセアが単独でここまで計算していたのか、それとも外から手引きがあったのか。どちらにせよ、状況はひどい。
「城内は」
「負傷者多数です。特に中央回廊周辺と、リリス様の御部屋前に配置されていた者たちに被害が集中しました。即死は避けられた者もおりますが……重傷者は少なくありません」
セレヴィアは上体を起こそうとし、胸の痛みに再び顔をしかめた。ミレーユがすぐ手を伸ばすが、セレヴィアはそれを制し、自力でゆっくりと身を起こす。
寝台の背へ身体を預けると、頭の奥で鈍い痛みが鳴った。
リリスはいない。
攫われた。
自分の目の前で。
この手が届く場所から、奪われた。
胸の傷よりも、その事実の方が深く痛んだ。
その時だった。
ミレーユが、珍しく視線を落としたまま口を開く。
「……私が、もう少し早くお伝えできていれば」
セレヴィアは顔を上げた。
ミレーユの両手は膝の上で静かに重ねられている。だがその指先が、ほんのわずかに強く食い込んでいた。
「私が中央回廊で遭遇した時点で、より早く異常を城全体へ伝達できていれば。あるいは、あの場で時間を稼ぐことに固執せず、最初から別経路で報せを優先していれば……」
彼女の声は落ち着いていた。
けれど、それは抑え込んでいるからこその静けさだった。
「私がいながら、リリス様を奪われました」
最後の一言で、ほんの僅かに声が掠れる。
ミレーユが、ここまで露骨に感情を滲ませるのを、セレヴィアはほとんど見たことがなかった。
いつも完璧で、いつも静かで、どんな血や死を見てもその表情を乱さない彼女が、今は自責に揺れている。
「……ミレーユ」
「申し訳ございません」
「やめなさい」
セレヴィアの声は、思いのほか鋭く出た。
自分でも驚くほど、強い声音だった。
ミレーユが顔を上げる。
「あなたが謝ることではない」
「ですが」
「あなたは生きて戻った。そして伝えた。他の者たちも、あなたの警告があったから動けたのよ。あの場で誰一人、最善を尽くさなかった者はいない」
言いながら、セレヴィア自身の胸の奥がずきりと痛む。
最善。
本当にそう言い切れるのか。
自分はどうだった。
父の幻影を前に、一瞬でも迷った。
氷月斬を当てられる場面で、躊躇した。
あの一瞬がなければ、もっと違う展開があったのではないか。
思考はすぐに、自分へ返ってくる。
ミレーユに言い聞かせた言葉が、そのまま刃のように自分へ刺さる。
――最善を尽くした。
そう言えるのか、私は。
セレヴィアは無意識のうちに視線を横へ逸らしていた。
その先、部屋の壁際。
落ち着いた色合いの調度品の並ぶ一角に、小さな額が飾られている。
それは、何の変哲もない紙を収めたものだった。
だがセレヴィアにとっては、何より大切なもののひとつだ。
リリスが描いてくれた、似顔絵。
線はたどたどしく、幼い手が一生懸命に動いた跡がそのまま残っている。髪も、瞳も、輪郭も、整っているとは言えない。けれどそこには、確かにリリスの「姉さまのために描きたい」という想いが宿っていた。
夜、眠るあの子の部屋でそれを見つけた時のことを思い出す。
机の上に残された紙。
渡すかどうか迷ったまま、眠ってしまったのだとミレーユに聞かされた時の胸の熱。
そっと胸に抱いた時の、言葉にできない喜び。
あの絵は、上手く描かれた肖像ではない。
けれど、セレヴィアにとってはどんな宝石よりも重かった。
今、壁に飾られたそれを見つめていると、不思議と胸の内のざわめきが少しずつ形を変えていく。
父の幻影。
リリセアが作り出した、ヴァルザードの影。
あれは確かに自分を揺らした。
剣を交えた瞬間、胸の奥のどこかが幼い頃へ引き戻されるような感覚があった。あの声、あの剣筋、あの威圧感。魂はないと知っていても、完全に割り切れるほど、自分は強くなかった。
もし、また相対したら。
今度こそ、斬れるのか。
その疑問は、目覚めてからずっと心の底に沈んでいた。
だが壁の絵が、静かに答えを変えていく。
あれは父ではない。
本当に大切なものは、過去の背中ではなく、今自分が守るべきものの方だ。
この絵を描いた小さな手。
照れながら、それでも何かを贈りたいと頑張ってくれた気持ち。
それを思えば、立ち止まっている暇などない。
セレヴィアはゆっくりと息を吐く。
「……私は」
小さく漏れた声に、ミレーユが反応する。
セレヴィアは壁の絵から目を離さず、続けた。
「父様の影に迷ったわ」
認めることは、思っていたよりも苦くなかった。
むしろ、言葉にしたことで形が定まった気がした。
「もし次に相見えた時、また同じように躊躇したらどうするのか……そう考えていた」
ミレーユは黙って聞いている。
「けれど、違うわね」
セレヴィアはそこでようやく視線を戻した。
赤と紫の瞳に宿る光は、目覚めた直後よりもはっきりしていた。
「斬れるかどうかじゃない。斬らなければならないのよ」
あれは父ではない。
たとえどれほど似ていても。
どれほど、記憶を揺さぶられても。
リリスを取り戻すためなら、何度でも斬る。
その言葉を、今度は心の底から断言できる気がした。
ミレーユが静かに目を伏せる。
その表情に、ほんの僅かな安堵が差したのを、セレヴィアは見逃さなかった。
「……六魔柱は?」
問う声は、もう完全に魔王代理のものへ戻っていた。
ミレーユもまた、一拍で侍女の顔へ戻る。
「既に第零会議室に」
「揃っているのね」
第零会議室。
黒曜棟の最奥、六魔柱会議が開かれる場所。
国家の重みと、戦の決断が下される部屋。
そこに皆がいるということは、もう泣いている時間も、立ち尽くしている時間も終わったということだ。
リリスが連れ去られた。
ならば、奪い返すしかない。
セレヴィアは寝台の縁に手をつき、ゆっくりと立ち上がった。胸元の傷が抗議するように痛む。黒い呪縛の残滓が、筋肉の動きに合わせて内側から軋む。
「セレヴィア様、まだ安静に…」
「無理ね」
言い切る。
即答だった。
「今は一刻でも早く動く」
ミレーユは反論しかけ、だがすぐに口を閉じた。
その代わり、静かに立ち上がり、すぐ傍へ寄る。
「でしたら、せめて上衣だけでも替えを」
「お願い」
簡潔なやり取り。
だがその短さの中に、互いの覚悟があった。
ミレーユがクローゼットから新たな黒衣を取り出してくる間、セレヴィアはもう一度だけ壁の絵を見た。
リリスが描いてくれた自分。
完璧ではない線。
けれど、間違いなくあの子の想いでできている形。
あの子はあの小さな身体で、何かを返したいと願ってくれた。
ならば今度は自分の番だ。
守ると決めたのだ。
誕生日の夜に奪われたまま、終わらせるわけにはいかない。
「……待っていて、リリス」
ごく小さく、誰にも聞こえぬ声で呟く。
それは祈りではなかった。
誓いに近い。
ミレーユが戻り、衣服を整える。
胸の包帯に触れるたび、痛みははっきりと存在を主張した。だが、その痛みさえ今は都合がよかった。自分が失ったものと、取り戻すべきものを忘れずにいられる。
セレヴィアは扉の方へ足を向ける。
部屋を出る直前、もう一度だけ振り返った。
壁に飾られた絵が、薄い光の中で静かにそこにある。
小さく、頼りなく見える紙。
けれどセレヴィアにとって、それはどんな軍旗よりも明確な意味を持っていた。
「行くわよ、ミレーユ」
「はい、セレヴィア様」
二人は扉を開ける。
冷たい廊下の空気が流れ込んできた。
その先で待つのは、絶望の報告かもしれない。苦い決断かもしれない。さらなる血かもしれない。
それでも、もう迷いはなかった。
魔王代理セレヴィア・ヴァル=ネメシアは、静かに歩き出す。
奪われた妹を取り戻すため。
そして、今度こそ本当の意味で過去を断ち切るために。
―――――――――――――――――――――――――――
第零会議室。
六魔柱会議が開かれる、王都ノクタリアでもっとも重い決断が下される場所。先代魔王ヴァルザードの時代から、戦と国家の行方はいつもこの部屋で定められてきた。
扉の前に立った瞬間、セレヴィアは一度だけ息を整えた。
胸の奥に残るものは、痛みだけではない。
リリスの顔。
白く滲んでいく視界の中、こちらへ手を伸ばしかけたあの小さな手。
連れ去られた瞬間の、あまりに無力な自分。
忘れない。
忘れてはいけない。
その現実を抱えたまま、セレヴィアは扉へ手をかけた。
重い音を立てて、会議室が開く。
内部には、すでに柱たちが揃っていた。
広い円形の室内。中央には古い黒石の卓が据えられ、その周囲を取り囲む席に、見慣れた面々がいる。紫灯の光に照らされた彼らの表情は、誰一人として穏やかではない。
最初に視界へ入ったのは、グロズ=ガンベルクだった。
巨体を沈黙のまま椅子へ収めているだけで、岩壁のような威圧感がある。金髪交じりの髭の下、重く垂れた目はいつも以上に険しかった。軍の要である彼が、ここまで怒りを露わにしているのは珍しい。
その隣にはフィリシア・リュミエール。
いつものような軽やかな笑みはなく、唇はきつく結ばれていた。明るさを纏うことが多い彼女だが、今の眼差しは歌姫ではなく戦の柱そのものだった。机の上で組んだ指先だけが、かすかに震えている。
さらにその先、シオン・イナリガミが細い目を閉じたまま、静かに扇を弄んでいる。外見こそいつも通りの飄々とした狐だが、その空気の張りつめ方は明らかだった。普段の軽口を一つも挟まない時点で、彼がどれほど事態を重く見ているか分かる。
カノーネ・リュドラルは背筋を硬く伸ばしていた。普段から控えめでおどおどとした気配を残す彼女ですら、今は視線を逸らさない。指先が膝の上でぎゅっと握られ、鱗の覗く手の甲に力が入りすぎている。
セレヴィアが入室すると、全員の視線がこちらへ向いた。
誰も「休んでいろ」とは言わない。
誰も「無理をするな」とは言わない。
言っても無駄だと分かっているからだ。
そして、今この場で最も座していられないのが誰なのか、全員が理解しているからでもある。
「……待たせたわ」
セレヴィアは短く告げ、卓の上座へ歩を進める。
身体の奥で痛みが脈を打つ。
けれど視線は揺らさない。
シオンが細い目をわずかに開いた。
「ほな、ボクからいこか」
シオンは机の上へ小さな破片を置いた。
透明感のある石片。内側に複雑な光の筋が走り、見る角度によって色が変わる。
「現場に残っとった残滓から追った結果や。使われた転移は、術者本人が高位の転移魔法を行使したもんやない。媒介を挟んどる」
彼は石片を扇子の先で軽く示した。
「魔晶石いう代物やな。あらかじめ魔法を付与しといて、後から魔力を流し込むことで、習得してへん魔法でも簡易的に使えるようにする媒介石や。便利ではあるけど万能やない。積める術式は限定されるし、精度も本来の術者には及ばん」
セレヴィアは黙って聞きながら、頭の中で整理する。
リリセア自身が高位の転移を完成させたわけではない。
外部から供給された、あるいは準備した術式の媒介。
つまり、即興ではない。
最初から奪取と離脱まで組み込んだ計画だったということだ。
シオンは続ける。
「せやから長距離移動はできへん。少なくとも一発で大陸の端まで飛ぶような真似は無理や。痕跡の散らし方はうまかったけど、それでも限界はある。目的地はここからそう遠ない。まだグラティオル圏内、王都から届く距離におる可能性が高い」
「おおまかには北西寄り。王都から半日圏内、外縁の廃砦群か、旧軍用坑道のどれかやろな。正確な一点特定までは、残滓が複数に裂かれとって時間食うけど……“近い”のは確かや」
近い。
その一言に、セレヴィアの胸の内で何かが強く脈打つ。
リリスは、まだ遠すぎる場所にいるわけではない。
手が届かぬ場所へ消えたわけではない。
ならば取り戻せる。
必ず。
「転移魔法そのものについては、わたしから補足するね」
フィリシアが口を開いた。
普段ならふわりと場を和ませる声なのに、今はよく研がれた刃のようだった。
「転移は神聖魔法の系統に属してる。魔族側にも理論自体はあるけど、広く体系化して使ってるのは人間側、特にクラリス聖教会周辺だよ。向こうの神官や信託官たちが整備してきた魔法の一つ」
彼女は紫の瞳を伏せ、低く続ける。
「つまり、リリセア一人の独断じゃない可能性が高い。っていうか、かなり高い確率で人間側と手を組んでる。媒介石の準備、転移座標の調整、そしてリリスちゃんを狙ったこと――どれも単独犯にしては筋が良すぎる」
室内の空気がさらに重くなる。
セレヴィアは拳を握りしめた。
人間側。
やはりそこへ繋がる。
カノーネが、おそるおそる、それでもはっきりと声を出す。
「そ、その……最近、各地で頻繁に起きていた襲撃の件ですが……」
彼女は一度喉を鳴らし、卓の上へ視線を落とした。
「南方カルネア瘴地、北方砦、周辺集落、補給線……全部、規模としては決定打にならない程度でした。けれど、対応のために六魔柱や主力を何度も分散させるには十分で……」
そこまで言ってから、顔を上げる。
「今回の襲撃は、その“手薄になる時期”を狙っていた可能性が高いです。わたしたちを分断するための、布石だったのかもしれません」
カノーネの声は震えていたが、内容は冷静だった。
セレヴィアも同じ結論に至っていた。
襲撃それ自体が目的ではない。
戦力を削り、配置を乱し、警戒を“各地へ散らす”こと。
そのうえで王都へ切り込む。
リリスを奪うために。
グロズが重い腕を組んだまま口を開く。
「敵の潜伏地点について、既に先行偵察を出した」
短く、それでいて圧のある声。
「シオンの絞り込んだ範囲のうち、有力なのは旧封鎖砦跡地だ。王都から北西、崩落した防壁と地下区画を持つ廃砦。現地周辺にはアンデッドの軍勢が展開している」
その一言で、室内の空気がさらに引き締まる。
「数は」
セレヴィアが問う。
「少なく見積もっても千」
重い沈黙が落ちた。
千。
単なる骸骨兵や雑霊だけではないだろう。リリセアが動かしているなら、質の悪い死兵、再生する屍兵、血を媒介にした異形まで混じっていて不思議ではない。しかも廃砦という地形を使われれば、数の不利以上に厄介だ。
グロズは続ける。
「問題は、こちらの動員だ。城内の軍は今回の襲撃で負傷者が多い。即応可能な兵を掻き集めても、数をぶつける正面戦は難しい」
「……手負いばかりの軍を無理に引っ張れば、到着前に崩れるわね」
セレヴィアが呟く。
グロズが深くうなずく。
「そうだ。加えて、王都の守りを空にするわけにもいかん」
つまり、大軍での包囲殲滅はできない。
ならば道は一つだ。
少数で踏み込み、首を刈る。
アンデッドの軍勢を正面から消耗戦で相手にするのではなく、術者と中枢を叩く。
高い実力を持つ者だけで。
セレヴィアは卓に置いた手をゆっくりと開いた。
指先に力が入っているのが自分でも分かる。
「少数精鋭で行く」
言葉にすると、不思議なほど迷いは消えていた。
フィリシアが即座に顔を上げる。
シオンは扇を閉じた。
カノーネは喉を鳴らし、それでも視線を逸らさない。
グロズは何も言わず、ただ深くうなずく。
「私と、ここにいる柱たちで攻め込む」
その言葉は、命令であると同時に宣言だった。
「リリセアの狙いはリリス。ならば、時間をかけるほど危険が増す。向こうは儀式か、抽出か、あるいは別の実験準備を進めている可能性が高い。兵を整えてからでは遅い」
シオンが細い目を開く。
「正面から千のアンデッド相手に突っ込むんは、なかなか景気のええ話やけどなぁ」
「正面からは行かないわ」
セレヴィアはすぐに返した。
「シオン」
「砦の地下坑道に崩落しかけの搬入口がある。そこなら数人単位で侵入できる可能性はあるわ。完全に静かには無理やけど、正門よりは百倍ましやな」
「フィリシア」
「歌で広域の撹乱と支援。砦の外周にアンデッドが密集してるなら、わたしが引きつける。あと浄化寄りの音階も混ぜれば、雑兵程度なら削れるはず」
「カノーネ」
「は、はい……! 前衛突破と火力担当で……地下区画なら、通路ごと焼き切ることもできます。」
「グロズ」
「先頭を行く。障害物と前衛は俺が砕く」
短い答え。
それだけで十分だった。
セレヴィアは一度だけ目を閉じる。
この面子なら行ける。
いや、行くしかない。
六魔柱は魔王軍の柱だ。
国家の軍勢を率いる存在であると同時に、魔王の最も近くで戦う者たちでもある。数で押せぬ時、道を切り開くのはいつだってこの面々だった。
そして今、守るべきものは一つだ。
リリス。
セレヴィアが再び目を開くと、室内の全員がこちらを見ていた。
「目標は旧封鎖砦跡地。アンデッドの外周を最小限の戦闘で抜け、中枢へ到達。リリセアを排除し、リリスを奪還する」
その一語一句に、自分の覚悟を込める。
「今回の作戦で最優先するのは、リリスの生存と確保。そのために必要なら、私が前へ出る。異論は?」
沈黙。
そして、誰も首を振らない。
フィリシアがふっと口元だけで笑った。
いつもの明るさはないが、それでも彼女らしい笑みだった。
「異論なんてあるわけないでしょ。むしろ遅いくらい」
シオンも肩をすくめる。
「ま、攫われた姫を取り返しに行くんや。筋書きとしては分かりやすいわなぁ。嫌いやないで」
カノーネは小さく、それでも強くうなずく。
「リリス様を……絶対に、取り戻します」
グロズは卓へ拳をひとつ置いた。
それだけで、岩が打ち鳴らされたような重みがあった。
「命を賭しても」
セレヴィアは、その言葉に静かに首を振る。
「命を投げるのではないわ」
全員がこちらを見る。
「生きて戻る。リリスも、あなたたちも、私も」
言い切る。
それは願望ではなく、命令だ。
「私たちは終わるために行くんじゃない。取り戻すために行くのよ」
その言葉が落ちた瞬間、会議室の空気がわずかに変わった。
死地へ赴く覚悟ではなく、生きて奪還するための殺気。
絶望を抱えた者の沈黙ではなく、目的を定めた者の静けさ。
それで十分だった。
セレヴィアは最後に、空席となったリリセアの席へ目を向ける。
かつては柱だった女。
六魔柱の一角として、同じ王を仰いでいたはずの存在。
けれど、もう違う。
あれは裏切り者であり、妹を奪った敵だ。
そして何より、リリスを“終わりの器”としか見ない者。
ならば斬る理由に迷いはない。
「出発準備を」
セレヴィアの声が、会議室に静かに響く。
椅子が引かれる音が重なる。
柱たちが一斉に立ち上がる。
その姿を見ながら、セレヴィアは胸の奥で小さく誓った。
待っていて、リリス。
今度こそ、必ずこの手で取り戻す。
会議室の紫灯が揺れる中、王都ノクタリアの精鋭たちは静かに動き始めた。
血の夜はまだ終わらない。




